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太平記を歩く。 その94 「楠木正成墓所(湊川神社内)」 神戸市中央区

前稿前々稿で紹介した湊川神社の境内には楠木正成の墓所があります。


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墓所の入口門です。


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墓所です。


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この正成の墓は、正成の死から350年以上経った元禄5年(1692年)に、水戸黄門の呼び名で知られる徳川光圀によって建てられたものです。


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墓碑に刻まれた「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字は、光圀公の揮毫だそうです。

裏面にはの遺臣・朱舜水の作った賛文が刻まれているそうです。

この墓碑建立の実務を担当したのは、あの「助さん」でお馴染みの佐々宗淳だったとか。


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この墓碑の建立によって、正成の名声は大いに宣揚され、180年後の幕末勤王思想の力強い精神的指導力となりました。

西郷隆盛坂本龍馬木戸孝允など幕末の名だたる志士たちのほとんどが、この墓前を訪れ、至誠を誓ったといいます。

そのとき志士たちが詠んだといわれる歌の一端を紹介すると、


「七たびも生き返りつつ夷(えびす)をぞ攘(はらわん)こころ我忘れめや」 吉田松陰

「湊川にてみなと川身を捨ててこそ橘の香しき名は世に流れけん」 久坂玄瑞

「桜井のその別れ路もかかりけむいまのわが身に思ひくらべて」 入江九一

「日頃ながさん私の涙、何故に流るるみなと川」 吉田稔麿

「月と日の昔を偲ぶ湊川流れて清き菊のした水」 坂本龍馬


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上の写真は裏面の賛文の写しです。

幕末、あの吉田松陰はこの拓本を松下村塾に掲げて志士の教育にあたったといいます。


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墓所の側には、光圀公の像があります。

何となく東野英治郎さんに似てるように思うのですが、気のせいでしょうか(笑)?

そうそう、今秋はじまる新しい『水戸黄門』では、武田鉄矢さんが黄門様を演じるそうですね。

武田鉄矢さんといえば、大河ドラマ『太平記』における楠木正成。

こんなところにも繋がりがあろうとは。


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この水戸光圀が作り始めた『大日本史』が、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)や楠木正成を正統化し、正義と認定したせいで、それに反逆した足利尊氏逆賊となりました。

その思想が、幕末の足利三代木像梟首事件を生むわけです。

現代ではその歴史観は見直されつつありますが、それでも、今なお天皇家の正統は南朝とされたままであったり、少なからずその名残は残っているといえます(ちなみに、現在の天皇家につながる血筋は北朝のものです)。


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銅像の横に立つ頌徳碑の文は、徳富蘇峰の文によるものだそうです。

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光圀が墓碑を建てる以前からも、正成の墓所と伝わる塚はあったようで、そこに、同所(坂本村)を領していた尼崎藩主・青山幸利が塚に松梅を植え石塔を安置して墓標としたと伝わり、その後、光圀が墓碑を建てたあとも、尼崎藩主は代々、灯籠を寄進しており、常夜灯の油料も藩が下付していたそうです。


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それが、写真の石灯籠です。


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こちらは尼崎藩桜井松平家5代・松平忠名の寄進。


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こちらは7代・松平忠寶


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こちらは8代・松平忠誨


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こちらは10代にして尼崎藩最後の藩主・松平忠興の寄進です。


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傷まずにすべてきれいに残っているあたり、ちゃんと手入れを怠らずに管理してきたことがわかります。


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『太平記』巻16「正成兄弟討死事」は、最後にこう結びます。


智仁勇の三徳を兼て、死を善道に守るは、古へより今に至る迄、正成程の者は未無りつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失て、逆臣横に威を振ふべき、其前表のしるしなれ。

(「智・仁・勇」の三つの徳を持ち合わせた人間が、死をもって人としての道義を守った例は、いにしえから今に至るまで、正成ほどの者はいない。そんな正成兄弟が共に自害を遂げたことは、今の後醍醐天皇が結果として国を追われ、逆臣が横暴な権威を振りかざすこととなる、その前触れだったのだろう。)


正成が稀代の英雄とされたのは、『大日本史』以前からだったようですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-07-28 00:21 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その93 「楠木正成戦歿地」 神戸市中央区

前稿で紹介した湊川神社の本殿の裏に、何やら特別な場所といった感じの一角があります。

近寄ってみると、「楠木正成公戦歿地」と刻まれています。


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延元元年/建武3年(1336年)5月25日に起きた「湊川の戦い」で、足利尊氏の弟・足利直義軍と戦った楠木正成は、激戦の末、弟の楠木正季と共に自刃して果てますが、ここがその場所だったということでしょう。


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「戦歿地」玉垣に囲われていて、門が閉ざされています。

中を参拝するには社務所への申し出が必要です。

なんとも厳かな雰囲気で、まるで天皇陵のよう。


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説明看板によると、正成はこの地で、一族郎党60余人と共に自刃したとあります(『太平記』では73人全員が自刃したと記されている)。


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『太平記』によると、楠木軍は総勢700余りで、足利尊氏・足利直義両軍に囲まれてからは、前方の直義軍に向かうのが精一杯で、三刻(6時間)ほどの間に16回もの激戦がくりひろげられ、「その勢次第々々に滅びて、後わずかに七十三騎にぞ成たりける」と、楠木方はとうとう73人になってしまったと記されています。

もはやこれまでと観念した正成は、部下を布引方面に逃した後、湊川北の民家に入って小屋に火をかけて自刃したと伝えられます。


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伝承によれば、まず部下たちが念仏を十回唱えて一度に腹を切り、その後、正成、正季兄弟が刺し違えて果てたといいます。

『太平記』によれば、死の間際、「人間は最後の一念で善悪の生を引くが、九界のうちどこに生まれたいか?」という兄・正成の問に対し、弟・正季が「七度生まれ変わっても朝敵を倒したい」と答えたというくだりは有名ですね。


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以下、『太平記』巻16「正成兄弟討死事」原文。


正成座上に居つゝ、舎弟の正季に向て、「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」と問ければ、正季から/\と打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。


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この「七生滅賊」の逸話に、後代に「報国」の意味が加わって「七生報国」となり、先の戦時中のスローガンとなりました。

正成、正季兄弟が本当にこのような会話を交わしたかどうかはわかりませんが、600年後、まさか自分たちの言葉が、国民を死地に送り込むための呪文になろうとは、夢にも思わなかったことでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-27 00:22 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その92 「湊川神社」 神戸市中央区

前稿で紹介した湊川公園から直線距離にして800mほど東にある湊川神社を訪れました。

ここは「湊川の戦い」討死した楠木正成を祀る神社で、境内には正成の墓所があります。


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湊川神社の創建は比較的新しく、明治元年(1868年)、明治天皇(第122代天皇)が正成の忠義を後世に伝えるために神社の創建を命じ、明治5年(1873年)に創建されました。


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全国にある「建武中興十五社」の一社でもあり、「別格官幣社」に定められた第一号神社でもあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) にここ湊川神社が定められたのに始り、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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正門には、楠木氏家紋の菊水が。


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現在の社殿は、第二次世界大戦空襲によって焼失したものを、昭和27年(1952年)に復興新築されたもので、様式は権現造に似た八棟造りとされ、鉄筋コンクリート造で建てられており、戦後の新しい神社建築様式としての代表的な建物と言われています。


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本殿は三つの御扉が見え、三座に分かれ祀られているそうです。

中央の御扉の奥には主神の正成、向かって右には正成夫人、向かって左には嫡男の楠木正行と、正成と刺し違えて自刃した弟の弟の楠木正季以下、一族十六柱と、楠木兄弟と共に自刃した菊池武吉が祀られています。


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社殿内には、「非理法権天」旗印が見えます。

「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という意味の漢詩で、正成が旗印として用いたと言われています。


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境内の参道横には、「大楠公御一代記」と題した大きな紙芝居調の看板があります。


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お時間の許す方は、しばし、ご覧あれ(笑)。


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撮影禁止だったので写真はありませんが、境内にある宝物殿にも、正成ゆかりの品々が多数展示されていました。


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5年に一度行われている「楠公武者行列の巡行」のイベントが、来年(平成30年)5月に行われるそうです。


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かつては皇国史観バリバリ国粋主義に政治利用された神社でしたが、現在は、わたしたち神戸市民のあいだでは「楠公(なんこう)さん」と親しみを込めて呼ばれています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-07-25 22:43 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その91 「湊川公園」 神戸市兵庫区

前稿「楠木正成本陣跡」から直線距離にして約1km弱東にある湊川公園です。

この辺りは、延元元年/建武3年(1336年)5月25日に起きた「湊川の戦い」で、楠木正成軍と足利尊氏の弟・足利直義を司令官とする陸軍が激突した場所です。


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公園内には、巨大な楠木正成の騎馬像が建てられています。

600回目の正成の命日に当たる昭和10年(1935年)5月25日、神戸新聞社の音頭で、楠正成公600年祭に市民の浄財で建設されたそうです。


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精悍な顔をしています。


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説明板です。


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こちらは、『大楠公六百年祭齋行之碑』です。


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公園の片隅には、『旧湊川址』と刻まれた石碑があります。

現在、湊川はここから2kmほど西に「新湊川」と呼び名を変えて流れていますが、当時の湊川は、今の新開地本通りを流れていました。


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『太平記』巻16「正成兄弟討死事」によれば、楠木軍約700に対して、足利軍50万

まあ、これはかなり盛った数字かと思われますが、兵力に大差があったのは事実でしょう。

数の上では圧倒的に不利な楠木軍もよく奮戦し、一時は大将の捕まえんとするところまでいったといいますが、結局は多勢に無勢、約6時間の奮戦のすえ、正成は弟の楠木正季とともに自刃して果てます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-22 21:24 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その90 「楠木正成本陣跡」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区の山の手にある会下山公園を訪れました。

ここは、湊川の戦いにおいて楠木正成が陣を布いたといわれるところです。


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『太平記』には楠木正成軍が陣を置いた地について、「湊川の西の宿にひかえて、陸地の敵に相向う」と記されており、『梅松論』には「湊川の後ろの山より里まで」とあります。

それらの条件を満たす場所といえば、高台になっているこの場所なんですね。

現在は、見晴らしのいい公園になっており、その公園内のいちばん高いところに、「大楠公湊川陣之遺蹟碑」と刻まれた巨大な石碑が建てられています。


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建武2年(1335年)12月11日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に叛いて武家政権の樹立を目指す足利尊氏は、竹之下で新田義貞を破り、翌年の1月、京に攻め上がりましたが、その隙をついて北畠顕家が尊氏不在の鎌倉を占拠すると、そのまま尊氏の後を追い西上、尊氏軍を撃破します。

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さらに豊島河原・打出浜の戦いにも敗れた尊氏は、海路九州へ敗走しますが、その後、多々良浜の戦いに勝利して体制を立て直すと、光厳天皇(北朝初代天皇)を奉じて東上を開始。

これを迎え撃つため、楠木正成は京を発し、5月24日、既に新田義貞が布陣する湊川に着陣し、ここ会下山に本陣を布きます。

楠木勢の総兵力は、わずか700余りだったといわれます。


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石碑の揮毫は東郷平八郎元帥だそうです。


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石碑の建つ場所からは、神戸市の中心部が一望できます。

現在は高いビルに阻まれていますが、かつてはここから海辺が見渡せたはずです。

勝算の薄い戦いを前にしてこの地に着いた正成たちは、この景色を前に何を思っていたのでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-21 18:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その89 「松尾稲荷神社」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある松尾稲荷神社という小さな神社も、『太平記』にかかわりがあると聞いて訪れました。


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現在は「松福さん」とよばれるアメリカ渡来の福神ビリケンが社殿の中の奥に祀られていることで知られています。


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その社伝によると、かつては湊川の堤防上に鎮座していたといい、延元元年/建武3年(1336年)5月25日に足利尊氏軍と激突した「湊川の戦い」に臨む楠木正成が、堤防上に聳える松の大樹を目印に一族郎党の集合を命じ、一同が身につけていた神仏の護符が血に汚れるのをはばかって、その松の木の根元に祀られていた稲荷の祠に納めたといいます。


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つまり、楠木正成軍決起の地というわけですね。

その松の木は、およそ100年前の大正3年(1914年)まで残っていたそうですが、社殿の造営に伴い伐採されたそうです。


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その後、正成ゆかりの松というわけで、これに因んで「松尾稲荷」という社号になったそうです。


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戦前ごろまでは、当時、神戸の繁華街の中心地だった新開地の近くにあることもあって、多くの商売人や劇場の役者、福原の遊郭で働く芸妓たちが参拝して栄えたそうですが、いまは、住宅街の中に隠れるように鎮座しています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-20 20:31 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その88 「南宮宇佐八幡神社」 神戸市中央区

神戸市中央区脇浜にある、南宮宇佐八幡神社を訪れました。

ここは、湊川の戦いに出陣途中の楠木正成が、この付近に馬を留めて武運を祈願したといわれ、のちに村人が八幡社をこの地の建てたと伝わる神社です。


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現地説明板の文をそのまま引用します。


創建は古書によると、「建武3年(1336年)楠木正成、足利尊氏追討の命を奉じ、兵庫に出陣の途次、当脇浜に同志を集め休息せし時遥に八幡宮を拝して湊川に下向し、勝利をおさめた。依って村民等其の跡地南宮川畔に八幡神社を勧請し、脇浜村の鎮守として尊崇怠りなし」と伝えられてる。


ん?・・・なんかおかしくないですか?

「勝利をおさめた」って、勝ってないし!


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言うまでもありませんが、延元元年/建武3年(1336年)5月25日に行われた湊川の戦いにおいて勝利したのは足利尊氏軍で、楠木正成軍は敗走の上自刃して果てます。

正成が勝利をおさめたのは、同じ年の2月10・11日に起きた打出合戦ですが、この戦いは、ここより20km近く東の芦屋市で行われた戦いですから、進軍の途中にこの地を訪れるというのは無理があるでしょう。
古老による言い伝えということですが、伝承なんて、あてにならないものですね。


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なお、「南宮」は「楠」の「きへん」を後世おとしてしまったものであるといわれているそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-19 22:14 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その87 「櫻井驛跡(楠公父子訣別之所)」 大阪府三島郡島本町

大阪府と京都府の府境近くに位置する「櫻井驛跡」を訪れました。

「駅跡」といっても現代でいうところのそれではなく、古代律令制度下の「駅家」の跡です。

ここは、「楠公父子訣別之所」として知られています。


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『太平記』によると、建武3年(1336年)、九州から大軍を率いて上洛してくる足利尊氏を討つべく湊川に向かう楠木正成が、この地で11歳になる嫡子・楠木正行に訓戒を与え、河内国に帰らせたと伝えられています。


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『太平記』巻16「正成下向兵庫事」には、その別れの情景が記されています。


今度の合戦、天下の安否と思う間、今生にて汝が顔を見んこと、これを限りと思うなり。

正成すでに討死すとききなば、天下は必ず将軍(尊氏)の代になりぬと心得べし。

然りといえども、いったん身命を助からんるに、多年の忠烈を失いて隣人に出ずること有るべからず。


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史跡公園内に建ついちばん大きな石碑『楠公父子訣別之所』の碑です。

大正2年(1912年)に建立されたそうです。

揮毫は陸軍大将の乃木希典

でも、乃木は明治天皇崩御の際に殉死していますから、この碑が出来たときには、既にこの世にいなかったことになります。


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こちらは、昭和6年(1931年)に建てられた『明治天皇御製碑』で、明治天皇が明治31年(1898年)に詠まれた歌が刻まれています。


「子わかれの 松のしずくの 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらいのさと」


揮毫は海軍大将・東郷平八郎だそうです。


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こちらは、『楠公父子子別れの像』です。

昭和15年(1940年)に建てられた最初の像は銅製だったそうですが、その後、戦争の協力で金属供出され、石像に変わったそうです。

更に時を経て、現在の像は平成16年(2004年)に有志によって寄贈されたものだそうです。


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どうりで、アニメちっくな顔だと思いました(笑)。


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正行の頭上のは、本物です(笑)。


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台座の「滅私奉公」の文字は、公爵・近衛文麿の揮毫です。

昭和15年の「滅私奉公」が何を意味するか・・・、後世の私たちは知っています。


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こちらのは最も古い石碑で、明治9年(1879年)に英国大使パークスが楠木正成の精忠に感じて、「楠公訣児之処」と刻した石碑を建てたそうです。

楠公さんの精忠はインターナショナルのようです。


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こちらは「旗立松」「子別れの松」と呼ばれる古松の幹です。

この松の木の袂で、楠木父子が決別したと伝えられます。

明治30年(1897年)に松は枯死し、一部を切り取って小屋に保存したそうです。


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「桜井の別れ」のエピソードは、戦前の国語の教科書には必ず乗っていた逸話で、「桜井の訣別」という学校唱歌にもなりました。

乃木希典、東郷平八郎、近衛文麿。

戦前の国粋主義バリバリですね。

乃木も東郷も、日露戦争後は生きながらにして神に祀り上げられた人物です。

忠臣の象徴として神格扱いされた大楠公と同じですね。

ただ、正成が後世に神扱いされることを望んでいたかどうかは、定かではありませんが。


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ちなみに、この「桜井の別れ」の逸話は『太平記』のみに記されているだけで、また、当時の正行は左衛門少尉の官職に就いており、年齢はすでに20歳前後だったという説が古くからあり、史実かどうかは疑わしいとされています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-15 00:11 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その86 「楠木正成奉納の灯籠(極楽寺)」 大阪市住吉区

大阪市住吉区にある極楽寺に、楠木正成が奉納したと伝わる灯籠があると聞き、足を運びました。

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門の横にある石碑には、「毘沙門天王」と刻まれていたそうですが、表面が削れて「天王」の部分が確認できません。

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その右上には「楠正成」と刻まれていますが、その後は読解できず・・・。

いつの時代に建てられた石碑かはわかりませんが、かなり古いもののようです。


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本堂左に見えるのが、正成が奉納したと伝わる灯籠です。

極楽寺の創建は不明ですが、本尊の毘沙門天は聖徳太子の真作で、ここから南に広がっていた榎津庄(奈良~平安期に見られる郷)にあった寺のものと伝えられています。


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正成の父が子供を授からないのを悲しみ、この毘沙門天王に50日の願をかけたところ、妻が身ごもり誕生したのが、のちの正成だったとの伝承があります。

この話を父母から聞かされていた正成は、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の住吉行幸に同行した折にここに立ち寄り、報恩のため石灯篭を寄進したと伝えられます。


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灯篭には「建武三年三月楠木正成建」の銘があるとのことですが、表面の風化が甚だしく、その銘を確認することはできません。


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でも、建武3年(1336年)3月といえば、打出合戦足利尊氏を撃退してから1ヶ月後のことで、後醍醐天皇の住吉行幸のときではないんじゃないかと。

まあ、伝承なんて、そんなもんでしょうけどね。


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境内には、「正成手植えの楠」と伝わる巨樹がそびえます。

確かに大樹ではありますが、樹齢700年近いとは思えないような・・・。


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伝承が本当なら、正成はこの灯籠を奉納した2ヶ月後、湊川の戦いで討ち死にすることになります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-07-14 01:39 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その66 「打出合戦、大楠公戦跡の碑」 兵庫県芦屋市

建武3年(1336年)2月10・11日に起きた、打出合戦の地を訪れました。

現在、その跡地である兵庫県芦屋市楠木町には、「大楠公戦跡」と刻まれた巨大な石碑があります。


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「建武の新政」に不満を募らせた武士たちの期待に呼応するかたちで、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に反旗を翻した足利尊氏は、建武2年(1335年)12月11日、攻め寄せた新田義貞軍を箱根竹ノ下で撃破すると、その勢いで、翌年1月に京都へ乱入しますが、それに対し、後醍醐天皇は奥州から北畠顕家を呼び戻し、足利軍と激突させます。

ここで北畠・新田ら朝廷軍に押された足利軍は、1月30日に京を脱出し、丹波路を通り三草越えの道をとって、2月3日には兵庫の魚ノ御堂に陣を布きます。

ここで足利軍は、周防国の大内氏に援軍を得ることができ、再び京奪還を目指して東へ軍を進めました。

その途上、追撃してきた新田義貞・楠木正成軍と、この地で激しい戦闘となります。

これが打出合戦です。


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結局、尊氏はこの合戦に敗れ、12日に全軍をあげて兵庫から船で海路九州へと敗走

このときの様子を『太平記』では、「とるものもとりあへず、乗りおくれじとあはて騒ぐ。舟はわずかに三百余艘なり。乗らんとする人は二十萬騎に余れり」と伝えています。

かなり混乱していたようですね。


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このあたりの住所は、「芦屋市楠木町」といいます。

言うまでもなく、その由来は楠公さんから来たのでしょう。


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国道2号線を挟んで北側が楠木町、南側が打出町です。

さらにその南側は、現在は阪神高速道路が走っていますが、当時はでした。

平成7年(1975年)1月17日の阪神・淡路大震災のとき、高速道路が横倒しになって、バスが半分落下しかけていた映像を覚えている方も多いかと思いますが、ちょうどあのあたりです。


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また、同じく『太平記』における終盤のクライマックスといえる「観応の擾乱」のなかで、足利直義と足利尊氏・高師直の兄弟間で戦った「打出浜の戦い」も、このあたりが舞台でした。


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ちなみに、この「打出」は、「打出の小槌」の伝承の舞台でもあります。

歴史に深く関わる摂津国打出浜は、現在も芦屋市打出という住所で往時を偲ばせてくれます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-06-08 22:22 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)