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花燃ゆ 第47話「姉妹の約束」 ~寿子の死~

 楫取素彦の妻・寿子病没したのは明治14年(1881年)1月30日のことでした。寿子が健康を害しはじめたのは、明治初年に移り住んだ山口県の二条窪時代からだったようですから、およそ10年近く病魔と戦っていたことになります。素彦が足柄県(現在の神奈川県西部、静岡県伊豆地方)の参事となって同地に赴任した際も、当初は寿子を二条窪に残して単身赴任だったようです。その後、素彦が熊谷県(のち群馬県)権令(県令)に赴任した頃に妹の美和子を同伴して同地に移り住みますが、明治10年(1877年)頃から、療養のため東京に移っていました。

 なぜかドラマでは描かれていませんでしたが、寿子は浄土真宗の熱心な信者だったと伝えられています。二条窪時代には観音堂を建立し、ここで月に二度、地元に人々を集め、僧侶を招いて法座を開くなど、活発な布教活動を行っています。その傍ら、寿子はこの堂宇で、二条窪村の子どもたちに裁縫読み書きを教えていたそうです。また、熊谷県に移り住んでからは、現在の前橋市に本願寺開設を発案。地元山口県から浄土真宗の僧侶・小野島行薫を呼び寄せて酬恩社教会を設立、その説教所(出張所)の造営を支援しました。当時、素彦の赴任した熊谷県は、気性の荒い「上州人気質」が根強く残った「難治の県」と呼ばれていましたが、寿子はその上州人の荒々しさを少しでも鎮めようと、浄土真宗の布教に尽力したようです。まさに「内助の功」ですね。

 寿子は行薫を招いて二条窪時代と同じく月に二度の法座を開き、県庁の官吏の妻たち地元有力者の妻たちに出席を促し、仏教の教義、念仏の功徳などを説きました。また、寿子の死後に発足する「上毛婦人教育会」という仏教系の婦人会の基盤づくりにも尽力したと伝わります。さらに、寿子は行薫に依頼して刑務所における教誨活動にも力を入れていたといいます。ここまでいえばわかるかと思いますが、ドラマでの美和子の活躍というのは、実はすべて寿子の功績なんですね。もちろん、寿子の身の回りの世話をしていた美和子も、何らかの手助けはしていたでしょうが、美和が姉のような熱心な念仏者だったという話は伝わっておらず、美和子は単に姉の協力者に過ぎなかったのではないかと・・・。

 「姉上も、ぜひ病気が治ったら手伝うてください。」
 「もちろんです。わたしたち姉妹で、母親たちの松下村塾をつくりましょう。」

 この姉妹の約束の会話。実はだったんですね。

 病状がいよいよ深刻化した明治13年(1880年)暮れ、家族は前橋にいる素彦に連絡しようとしますが、「公務の妨げになる」といって連絡させなかったといいます。そして年が明けた1月30日の朝、見舞いに駆けつけてくれた親族が見守るなか、正座し、念仏をとなえながら往生したといいます。享年44歳(異説あり)。若く惜しまれる死でした。

 寿子は死の直前、長男、次男それぞれの妻たちに宛てた訓戒状ともいうべき遺言状を残しています。自筆にして5,000字を超える長文で、念仏の功徳などを説いたたいへんな名文だそうです。そのなかで、寿は自分の死後、叔母である美和子に孝養を尽くすよう嫁たちに遺言しています。妹思いの優しい姉の一面がうかがえますね。また、同じ時期に山口県に住む実兄・杉民治に宛てた書簡では、妹の美和子を夫の素彦と同居させ、身の回りの世話をさせてほしいと依頼しています(ドラマではすでに同居していましたが)。ドラマのように、「美和子を後妻に」とといった直接的な表現ではありませんが、自身の死後、妹を夫の後添えにしてほしいという思いが感じ取れます。自身の死期が迫るなか、夫と妹のその後の幸せを願う気丈な寿子の人物像がうかがえますね。やはり、吉田松陰の妹です。

 最愛の妻を亡くした素彦は、ひとつの和歌を詠んでいます。

 「今はただ 甲斐こそなけれ もろともに 花のうてなに 住まんちぎりも」

 天国の蓮のうてなで、また一緒に暮らそうと約束した哀悼の歌だそうです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-23 15:47 | 花燃ゆ | Comments(0)