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八重の桜 第41話「覚馬の娘」 ~山本覚馬vs槇村正直~

 槇村正直に登用されて京都府政に尽力してきた八重の兄・山本覚馬でしたが、同志社設立をめぐってふたりの関係に亀裂が入り、槇村が京都府知事となった明治10年(1877年)、覚馬は京都府顧問の職を解雇されます。しかし、そこで終わってしまう覚馬ではありませんでした。その2年後に行われた第1回京都府議会選挙において、上京区で51票を獲得して府議会議員に選出されます。西南戦争を最後に武力での反政府運動は終わりを告げ、自由民権運動などの追い風に乗って議会政治が始まろうとしていました。国会が開設されるのはこれより10年ほど先のことですが、府県会などの地方議会は先行して各地で開設されます。京都では95名の府議会議員が選出され、そのひとりが覚馬でした。

 府会議員の被選挙資格は、3年以上京都に住む満25歳以上で、地租10円以上を納める者だけでした。また、選挙権の資格も、満20歳以上の男子で、地租5円以上を納める者だけ。つまり、ごくひと握りの富裕層の男子だけの特権だったんですね。しかし、それでも、市民が市民の中から入れ札によって代表者を選ぶというのは画期的なことで、大きな前進だったといえるでしょう。

 初めて開かれた府会で、覚馬は初代議長に選出されます。選挙で議員は選出されたものの、議会制度自体を知る者は少なく、その運営方法についての知識も、ほとんどの議員が持っていませんでした。そこで、覚馬の知識が求められたのでしょう。たとえ盲目で不自由な身体でも、覚馬をおいて他にいなかったのでしょうね。覚馬も、それがわかっていたから引き受けたのでしょう。議長席の横には付き人を書記として就かせ、議事を進行させたそうです。

 府会には議案の提案権決算の審査権もありませんでした。一方で、知事には議事の停止権など強い権限が与えられていました。議会は立ち上がったものの、あくまでイニシアティブは知事にあったわけですが、ただ、地方税の審議権は府会にあったため、知事の権限を掣肘することは不可能ではありませんでした。ところが、明治13年(1880年)5月、知事の槇村は府会の権限を無視し、12年度の税収の不足を理由に、地方税5万8千円の追徴を府会にはかることなく布達してしまいます。当然ながら、無視された府会は猛反発します。そして府会は知事の横暴な越権を責め、内務卿に伺書を提出します。知事vs府会の対立は、槇村vs覚馬と言いかえてもよかったかもしれません。かつての同志は、完全に対峙する関係になってしまいました。

 この紛争の結末は、槇村が一旦布達を取り下げた格好で、あらためて議会に地方税追徴の議案を提出、結果的に原案どおり可決、執行されます。かたちだけでも府会を通したということですね。事実上、敗北となった覚馬は、この騒動のあと、議長および議員を辞職します。一方の槇村も、一連の横暴な越権行為が世論の反感を買い、その責任をとるかたちで知事を退任します。ここに、長く続いた槇村&山本府政は終わります。

 覚馬の娘・みねが結婚しましたね。お相手の伊勢時雄(横井時雄)は、幕末の知識人・横井小楠の長男で、熊本バンドのひとりです。みね19歳、時雄24歳のときでした。ただ、ふたりの幸せな結婚生活は、そう長くは続かないんですね。そのあたりは今後のドラマに譲ることにしましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-15 23:51 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第36話「同志の誓い」 ~新島襄と八重の結婚~

 八重新島襄が結婚したのは明治9年(1876年)1月のことでした。二人を引き合わせたのは、ドラマのとおり京都府大惨事の槇村正直だったようです。木戸孝允の紹介で襄の学校設立の後ろ盾となっていた槇村は、京都で信用を得るためにも襄と日本人女性を結婚させたほうがいいと考え、あるとき、どのような女性が好みかと尋ねたそうです。すると襄は、こう答えたとか。
 「亭主が東を向けと命令すれば三年でも東を向いている東洋風の婦人は御免です」と。

 いうまでもなく当時は、夫に従順で自己主張をしないのが女性の美徳とされていました。いわゆる「三歩下がって夫の影を踏まず」ってやつですね。男尊女卑と漢字で書けば、ずいぶんと女性が虐げられて苦しめられていたように思いがちですが、当時の女性にしてみれば、それが当たり前だったわけで、とくに虐げられている思いはなく、むしろ、自己主張をする自立した女性は、男性からだけではなく、女性からも白眼視されていました。しかし、襄は慎ましやかな日本女性よりも、自己主張をする女性らしからぬ女性を妻として望んでいました。もちろん、これが西洋での暮らしからきた発想であったことは、いうまでもありません。

 襄の望みを聞いた槇村が、山本覚馬の妹である八重を思い出したであろうことは想像に難しくありませんね。槇村は、すぐさま八重の存在を襄に告げたそうです。女紅場のことで次々に難しい問題を持ち込んできたり、何度となく補助金の交付を陳情してくる八重には、槇村自身ほとほと手を焼いていたようです。そんな八重こそ、襄の望む女性像にピッタリだと。その分析、間違ってはいなかったようですね。

 かくして、明治8年(1875年)10月に婚約した襄と八重は、翌年の1月3日に結婚式をあげます。ドラマでも言っていましたが、日本で初めてのキリスト教式の結婚式だったそうです。しかし、そこまでの道のりは決して平らなものではありませんでした。

 覚馬の強力なバックアップのもと学校設立に奔走していた襄でしたが、キリスト教主義の学校設立への風当たりは想像以上に強く、とくに仏教徒を中心とした猛烈な反対運動が起こります。全国の寺院の総本山が集まる京都に、つい数年前まで禁止されていた耶蘇教の学校を設立しようというのだから、当然のことだったでしょうね。京都にキリスト教の学校をつくるなんて、当時、比叡山を琵琶湖に投げ込むくらい不可能といわれたそうです。そんな世論のなか、当初は好意的だったはずの槇村が次第に手のひらを返し始め、学校設立を許可するにあたって、聖書を教えないという条件を提示します。京都府大惨事という立場にありながらも、京都で仏教徒を敵に回すと、何かと仕事がやりにくくなるといった理由があったんでしょうね。槇村としては、やむを得ない条件だったのでしょうが、襄にしてみれば、はしごを外された形となります。

 そして、その煽りは八重のもとにも降りかかります。襄と婚約した直後、八重は女紅場を解雇処分となりました。これも槇村の仕業だったようです。八重が女紅場でキリスト教を教えることで、親たちが娘を退学させてしまうのではと危惧したようです。生徒に聖書を配ったことがきっかけだったようですね。たしかに保護者からの反発は激しかったようで、これも、槇村にとってはやむを得ない処分だったのかもしれません。4年ほど勤務していた女紅場を思わぬかたちで追われることになった八重でしたが、このとき八重は襄にこういったそうです。
 「いいのよ、これで福音の真理を学ぶ時間がもっととれるわ」と。
 そんな八重のことを、襄はアメリカの母と慕うハーディー夫人に宛てた手紙でこう評しています。
 「彼女はいくぶん目の不自由な兄に似ています。あることをなすのが自分の務めだといったん確信すると、もう誰をも恐れません。」 
 この一件で襄は、あらためて、八重こそ自分の妻にふさわしいと思ったかもしれませんね。さらに襄は、同夫人への手紙のなかでこう書いています。
 「彼女は決して美人ではありません。しかし、私が彼女について知っているのは、美しい行いをする人だということです。私にはそれで十分です」
(She is not handsome at all She is a person who does handsome)

 この手紙から、八重の代名詞である「ハンサム・ウーマン」という言葉が生まれたそうです。

 八重と襄は、夫婦である前から、まさしく「同志」だったんですね。




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by sakanoueno-kumo | 2013-09-09 17:55 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第32話「兄の見取り図」 ~山本覚馬の人物像~

 明治4年(1871年)、八重は処刑されたと思っていた兄・山本覚馬が生きていたことを知り、兄を訪ねて京都に訪れます。実に9年ぶりの再開でした。これまで当ブログでは、山本覚馬についてあまりふれて来なかったので(本筋である戊辰戦争に添っていくと、どうしても覚馬の話は横道にそれてしまうため)、ここで改めて、覚馬についてお復習してみましょう。

 鳥羽・伏見の戦いのとき、既に視力を失いかけていた覚馬は、戦争には参加していませんでしたが、京都近郊で薩摩藩兵に捕らえられ、薩摩藩邸内の獄舎に入れられます。しかし、覚馬の優秀さは諸藩の間で知られており、また、薩摩藩代表の西郷隆盛とも面識があったことから、決して粗略には扱われなかったようです。ただ、それでも獄中生活であることに変わりはなく、覚馬の身体は次第に衰弱し、やがて視力は完全に失い、脊髄も損傷し、ついには自力で歩行できないほどの身体になってしまいます。

 そんな過酷な獄中生活のなか、覚馬は自身の考えを口述して筆記させ、『管見』というタイトルの建白書を薩摩藩主宛に提出します。「管見」という単語を辞書で調べると、「知識や考え、意見などが狭くてつまらないものであること」とあります。つまりは、自分の意見を謙遜して使う古い言葉ですが、その内容は決して狭くてつまらないものではなく、政治、経済、外交、教育など、今後の日本のとるべき道が実に明確に示されていました。その先見性に、西郷隆盛や小松帯刀は大いに感服したといいます。

 やがて釈放された覚馬は、明治3年(1870年)4月14日付けで京都府に登用され、京都府権大惨事として府の実験を握っていた長州藩出身の槇村正直の顧問として、府政に関わります。当時の京都は、東京遷都のあおりをモロに受け、寂れかけていました。御所の周りの公家屋敷や武家屋敷が無人となり、それらの需要で成り立っていた京都の経済は一気に冷え込み、京都を去る町人らも続出します。

 明治政府は、荒廃していた「千年の都」をどうにか経済で立て直そうと、明治2年(1869年)には「勧業起立金」として15万両、翌明治3年(1870年)には「産業起立金」として10万両をつぎ込みます。京都府はこの資金を元に、殖産興業を推進して京都再生を図るのですが、その中心にいたのが槇村正直で、その知恵袋として活躍したのが覚馬でした。八重たちが京都にやってきたのは、そんなときだったわけです。

 「兄さまは人が違ったみてえだ。長州の者と笑って話して平気なのがし? 憎くはねえのですか?」

 槙村の下で働く覚馬を理解できない八重がいった台詞ですが、そんな八重に覚馬はこういいます。

 「殿は徳川を守り、都を守り、帝をお守りするその一心で京都守護の御役目を続けてこられた。だけんじょ、もっと大きな力が世の中をひっくり返した。薩摩や長州が会津を滅ぼしに行くのを、止められなかった・・・・。これは俺の戦だ!会津を捨石にしてつくり上げた今の政府は間違ってる。だけんじょ、同じ国の者同士、銃を撃ちあって殺しあう戦は、もうしてはなんねえ!」

 覚馬とて、故郷の会津が滅んだ無念さは同じだったでしょう。でも、その憎しみの矛先が薩摩や長州じゃないことがわかっていたんでしょうね。会津を滅ぼしたのは薩長ではなく、大きな歴史の波にのまれて押しつぶされたということを・・・。だから、薩長を憎んだところではじまらない。覚馬のみならず、元徳川方にいて新政府に仕えた者たちは、皆、わかっていたかもしれませんね。むしろ、わかっていなかったのは薩長閥のなかにいた人たちだったのではないでしょうか。自分たちの力のみで幕府を倒したという思いあがりが、のちの薩長閥政府を作り上げたといえるかも知れません。

 「何かひとつ違うちょったら、薩摩と会津は立場が入れ替わっちょたじゃろう。そげんなっちょったら、薩摩は全藩討死に覚悟で征討軍と戦をした。新しか国を作るため、戦わんならんこつになったどん、おいは会津と薩摩はどっか似た国じゃち思うちょった。武士の魂が通う国同士じゃち・・・。」

 この人は、わかっていたかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-08-13 19:26 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)