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幕末京都逍遥 その28 「武市瑞山・吉村寅太郎寓居之跡」

三条木屋町を高瀬川沿いに上がったところにあるビルの前に、2つの石碑が建っています。

そのひとつは「武市瑞山寓居之跡」と刻まれたもので、もうひとつは、「吉村寅太郎寓居之跡」です。


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道路沿いに建てられているのは、武市瑞山の石碑です。

横には「ちりめん洋服発祥の地」と刻まれた石碑がありますが、ここでは関係ないのでスルーしましょう。

ここに、かつて武市瑞山が住んでいた「四国屋丹虎」がありました。


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瑞山というより、武市半平太と言ったほうがよく知られているかもしれません。

坂本龍馬の遠縁にあたり、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』では、龍馬の盟友として登場する人物ですね。

土佐藩の郷士ながら、お見えの権利を持つ「白札」という身分を持つ武市は、江戸での剣術修行で鏡心明智流・桃井春蔵の道場の塾頭を勤めるほどの決客でしたが、やがて勤王思想に目覚め、帰郷後は郷士、村役人らを中心とする土佐勤王党を組織し、その首魁となります。

文久2年4月8日(1862年5月6日)、公武合体路線を推進する土佐藩参政・吉田東洋暗殺すると、すかさず土佐藩の人事を尊王派で固めるクーデターを起こし、白札の身分ながら藩政を牛耳り、全藩勤王を実現。

そして満を持して京に上った武市は、この地にあった「四国屋丹虎」を政治活動の拠点にします。

丹虎には各藩の尊王派の志士が集い、武市を中心に毎夜激論を交わしたと伝わります。

武市の手足となって「天誅」と称したテロ活動を行った岡田以蔵も、ここから暗殺現場に向かったといいます。

文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」が起こると、それまで藩政から離れていた山内容堂が復帰し、にわかに状況が悪化した土佐勤王党は大弾圧を加えられます。

そして、吉田東洋殺しや京都における天誅騒ぎの嫌疑により投獄され、在獄1年半のすえ、岡田以蔵の自白によって切腹を命じられます。

享年37。

辞世

「ふたゝひと返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」


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武市の石碑から奥まったとこの植え込みのなかに、吉村寅太郎の石碑があります。

実に見つけにくい場所で、知らなければ目に留まることもない場所です。


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吉村は、はじめは武市の組織した土佐勤皇党に名を連ねていたものの、党の方針に疑問を覚えて間もなく脱藩

同じ時期に坂本龍馬も脱藩しており、龍馬の脱藩に大きな影響を与えた人物ともいわれます。

その後、文久2年4月23日(1862年5月21日)に起きた薩摩藩士の同士討ち事件(寺田屋事件)に連座して捕縛され、国元へ帰され投獄されますが、8ヶ月後に保釈されると、再び京都へ上って、ここ武市がいた丹虎の隣に居を構え、諸藩の志士と交わって国事に奔走します。

そして、文久3年(1863年)8月、天皇の大和行幸を受けて倒幕の兵を大和で挙げることを計画し、尊攘派公卿の中山忠光(明治天皇の叔父)を擁して天誅組を結成しました。

ところが、「八月十八日の政変」で状況が一変し、梯子を外されたかたちで孤立無援となった天誅組の志士たちは、幕府による追討軍の攻撃によって壊滅します。

吉村寅太郎、享年27。


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かれの残した辞世の句、

「吉野山風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」

は、あまりにも有名ですね。

なんという凄まじい辞世でしょうか。


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そんな武市半平太と吉村寅太郎が居を構えたこの地。

短い期間ながら、日本の政局の中心になった場所でした。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-05 20:29 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その26 「土佐稲荷岬神社(岬神社)」

土佐藩邸跡の石碑から路地を西へ50mほど歩いたところに、岬神社という小さな神社があるのですが、ここはかつて土佐藩邸内にあった神社で、別名「土佐稲荷」と呼ばれています。


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社伝によると、創建は室町時代初期、鴨川の中州の岬に祠を建てたのが由来とされています。

その後、祠は鴨川の西岸など数度遷され、江戸時代初期、この付近に建てられた土佐藩の京屋敷内に遷されることとなったそうで、一般に「お稲荷さん」の愛称で親しまれる「倉稲魂命」を祀るため、「土佐稲荷」と呼ばれるようになったそうです。


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以降、土佐藩士のみならず、先斗町・木屋町など周辺の町衆からも「産土神(うぶすなのかみ)(地域土着の神)」として熱心な信仰を集め、わざわざ土佐藩邸内に一般人が自由にお参りするための通路を確保したほどだったそうです。

藩士たちの信仰も厚かったそうで、坂本龍馬武市半平太らも詣でたかもしれません。


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境内には、小さな坂本龍馬像が。


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土佐藩というと、どうしても龍馬になっちゃうんですよね。

でも、前稿でも紹介しましたが、龍馬は脱藩が赦されたあとも、土佐藩邸にはあまり寄り付かなかったといいます。

ここ土佐稲荷に詣でたかどうか・・・。

以前、ここに来たときには、龍馬像が何者かによって破壊されていました。

この像は、おそらく最近作り直されたものだと思われます。


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明治維新によって土佐藩邸が売却されると共に神社も移転を余儀なくされ、その後も幾多の変遷を経て、現在地に鎮座。

大正2年(1913年)には近隣の氏子たちによって現在の社殿が建立されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-03 22:44 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

土佐勤王党と山内容堂 (後編)

 土佐藩の政変から京における土佐勤王党の台頭までの流れを、江戸で謹慎中の山内容堂はどんな思いで見ていたのだろうか。彼ら勤王党は、自身が信頼を厚くしていた吉田東洋を殺した憎き集団であり、しかし、「君辱かしめを受る時は臣死す」と容堂に忠誠を誓っている集団でもあった。容堂にとって土佐勤王党は、物語などで描かれるような、不快な存在でしかなかったのだろうか。

 約8年ぶりに謹慎が解かれ藩政に復活した山内容堂は、ちょうど時を同じく京で政変が起き、攘夷派が一掃されたことも相俟って、公然と土佐勤王党弾圧に乗り出した。これより勤王党は一変して衰退の道を辿ることになる。手始めは平井収二郎間崎哲馬弘瀬健太の3名が切腹。そして文久3年(1863年)9月21日、武市半平太が投獄されたことにより、土佐勤王党は壊滅する。結局、彼ら勤王党が活躍したのは、文久2年(1862年)4月8日に吉田東洋が暗殺されてから、わずか1年半足らずの間に過ぎなかった。

 武市半平太の投獄生活は1年8ヶ月にも及んだ。他の軽格党員たちは過酷な拷問を受けたが、半平太は同年1月に白札から留守居組という上士格に昇格していたため拷問は受けなかった。党員たちは厳しい拷問に耐え、吉田東洋暗殺を否認し続けた。中には拷問に屈することを恐れ、服毒自殺した者もいた。結局、東洋暗殺の罪状を立証出来ぬまま、「君主に対する不敬行為」という罪目で半平太は切腹を命ぜられ、慶応元年(1865年)5月11日、「三文字の割腹」の法という壮絶な最後を遂げる。

 ここで少し疑問に思うことがある。それは、武市半平太の投獄から切腹までになぜ1年8ヵ月もの年月を費やしたのかだ。容堂にとって半平太が、嫌悪の対象でしかなかったのであれば、すぐにでも処罰できたはずだ。東洋暗殺の罪を暴くためといっても、結局は立証できず、「君主に対する不敬行為」という曖昧な罪状で切腹に至っている。その気になれば、罪状なんてどうでも良かったはずだ。実際、平井収二郎たち3名は、投獄後間もなく処刑されているし、土佐の独眼竜・清岡道之助と、野根山23士の悲劇。の稿で紹介した清岡道之助たち23名などは、一度も取調べを受ける事もなく首を落とされている。半平太は上士格だったということが理由ならば、即刻降格させればいい。もともと彼の昇格は容堂の隠居中のことであり、容堂の認めるところではなかったのだから。もっと言えば、隠居中の身であっても藩政にまったく口を差し挟めなかったわけではなく、勤王党の台頭を阻むこともできたはずだ。しかし彼はそれをせず、彼らが江戸に下った際には逆に力になったりしている。容堂にとって半平太は、本当に不快な存在でしかなかったのだろうか。

 ここで私見を述べさせてもらうと、容堂は迷っていたのではないだろうか。「酔えば勤王、醒めれば佐幕」と揶揄された山内容堂。「錦旗ひるがへるの日」と誓ったのも彼の本心で、しかし関ヶ原以来の徳川恩顧を重んじるのもまた彼の本心だった。「開国やむなし」と考え至ったのも彼の本心で、しかし「帝の御心に添いたい」と思うのもまた彼の本心だった。参政としての吉田東洋の行政能力には絶大な信頼を置いていたものの、「婦女子の如き京師の公卿を相手にして何事ができようか」といった東洋の考えと容堂は違っていた。下士の分際で藩政を掌握した土佐勤王党には不快感を抱くものの、自身が出来なかった「錦旗ひるがへるの日は、列藩、親藩を問はず、その不臣はこれを討ち、王事に勤めん。」の言葉どおりに行動した勤王党に対して、半ば痛快に思えたときもあったのではないだろうか。そして「君辱かしめを受る時は臣死す」と容堂に忠誠を誓った武市半平太を、殺すに憚られる思いがあったのではないだろうか。半平太投獄から切腹までの1年8ヵ月、容堂は半平太を生かす道を模索していたのではないだろうか。

 結果的に山内容堂は「秩序」を選んだ。藩を治める立場の者の判断としては当然だったのかもしれない。しかし、このとき多くの有為な人材を失ったことによって、維新に際して土佐藩は完全に薩長の後塵を拝することになる。維新後、木戸孝允(桂小五郎)が酒席で容堂に向かって「殿はなぜ武市を斬りました?」と責めた際、容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたという。明治5年(1872年)脳卒中で倒れ病床に伏した容堂は、「半平太、許せ。半平太、許せ。」と何度もうわごとを繰り返したといわれている。容堂の本心はどこにあったのか、彼自身にしかわからない。

 幕末の一時代を猛スピードで駆け抜けた土佐勤王党。彼らは新しい日本が生まれるための「陣痛」のような存在だった。「産みの苦しみ」がなければ、新しい命は生まれない。その苦しみが大きければ大きいほど、生まれてくる命は強いものとなる。彼らの存在がなければ、後の坂本龍馬中岡慎太郎の活躍もなかったかもしれない。新国家誕生の産みの苦しみ。彼ら土佐勤王党は、歴史に大きな役割を果たしたといえよう。

土佐勤王党と山内容堂 (前編)
土佐勤王党と山内容堂 (中編)


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by sakanoueno-kumo | 2010-07-24 00:37 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)  

土佐勤王党と山内容堂 (中編)

 土佐勤王党の掲げる「一藩勤王」を実現するには、どうしても邪魔な存在、それが吉田東洋だった。武市半平太は何度も東洋と会見し、その重要性を説くも、東洋は一向に理解を示さない。事態は思うように好転せず、武市半平太は行き詰っていた。しかし彼らにとって有利だったのは、東洋に敵が多かったことである。まずは民衆だった。彼の推し進める改革によって藩の出費がかさみ、税が厳しくなっていた。それに商人たちは、東洋が作った専売制によって、利益の大部分を藩に吸い上げられ、恨んでいた。そして東洋は下僚には節約を命じていながら参政の職分は別格だとし、豪放な暮らしを平気で行っていた。

 官僚内にも敵が多かった。急激な藩政改革を推し進めていた東洋に対して、それを不満とする保守派グループが形成されていた。これまで世襲が決まっていた、軍学、弓術、槍、剣、居合、馬術、砲術、儒者、医者、などの家格を廃し、家筋によらず能力によってその役を任ずるといった東洋の改革によって、「芸家」の当主たちは当然失職のおそれが出てきた。必然、東洋の失脚を願う者たちが出来た。行き詰まった土佐勤王党と藩内保守派の共通の政敵。思わぬ利害の一致がそこに生じた。

 土佐勤王党と藩内保守派の、そのどちらが先に歩み寄ったのか、また、どちらが先にその計画を打ち出したのかはわからないが、彼らの共通の敵が排除された。吉田東洋暗殺である。実行犯は勤王党と考えてほぼ間違いないだろう。東洋は江戸で謹慎中の山内容堂から全面的信頼を受けている。その東洋を殺すことに、武市半平太に迷いはなかったのだろうか。そこで半平太の背中を押したのは、「錦旗ひるがへるの日」と誓った容堂のあの言葉だったのではないだろうか。容堂が東洋を信頼しているのは、その実情を知らないからだ。東洋は君側の奸なのだ。「その不臣はこれを討ち、王事に勤めん」。この言葉が、東洋暗殺の追い風になったのではないだろうか。

 東洋の死後、土佐勤王党は隆盛を極めた。元々無能が故東洋に退けられていた保守派の藩政復活によって、武市半平太は身分こそ軽格であったが実質影の首相と言ってもよかった。彼らの掲げた「一藩勤王」は、ここに実現した。そして、藩主・山内豊範を奉じて京に上った彼らは、京における尊皇攘夷運動の中心的存在となり、半平太は朝廷の直参のような扱いを受けた。幕府に対する攘夷催促と御親兵設置を要求する勅使として三条実美姉小路公知が江戸に下った際には、警固役に勤王党の者が選ばれ、半平太は姉小路の雑掌となり江戸へ随行した。その際、隠居中の山内容堂も力添えをしている。土佐一藩に留まらず、日本をも動かしつつあったこの時期は、まさに土佐勤王党最盛期だった。一方で、「暗殺集団」としての色も増していった。岡田以蔵を刺客として開国派の人物を次々と殺していったのもこの時期である。彼らはこの暗殺を「天誅」と言った。これもまた、「その不臣はこれを討ち、王事に勤めん」という容堂の言葉に後押しされたものだったのかもしれない。

土佐勤王党と山内容堂 (前編)
土佐勤王党と山内容堂 (後編)

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by sakanoueno-kumo | 2010-07-23 00:00 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

土佐勤王党と山内容堂 (前編)

 幕末史に燦然とその名を残す土佐勤王党。尊皇攘夷をスローガンに立ち上がった彼らは、一瞬の花火のように燃え上がり、消えていった。同時代の同じような思想集団としては、水戸の天狗党や薩摩の精忠組などがあげられる。彼らは皆、藩内において低い身分の者たちの集団で、その多くは動乱の中に消え、あるいは藩上層部によって処刑された。

 彼らのような下級層にとってこの「尊皇攘夷論」は、250年もの長い間、身分によって虐げられてきた憤懣を晴らす、恰好の材料だった。元々「尊王論」「攘夷論」という、それぞれ独立した考えとしてあったものが、ペリー来航によって結ばれた不平等条約のため、諸物価の高騰や流通制度など日本経済に大混乱を招き庶民の生活を圧迫、その憤懣から「攘夷論」が叫ばれはじめ、やがてそれに、日本は神国であるというナショナリズムの発想である「尊皇論」が結びつき、「尊皇攘夷論」となって諸藩の志士や公卿に支持された。さらにそこに、天皇に忠義を尽すという「勤王論」が加わり、やがてそれが250年続いた「封建制」を瓦解させ、倒幕のエネルギーと化していった。

 武市半平太を首魁とした土佐勤王党も、当然この尊皇攘夷をスローガンとした。特に身分差別が激しかったとされる土佐藩下士たちにとっては、封建社会を打破する一筋の光であっただろう。そんな背景もあってか彼ら土佐勤王党は、上記の天狗党や精忠組のような単純な「思想集団」に留まらず、藩論を勤王に統一する「一藩勤王」というテーゼを掲げた「政治集団」となった。そしてその改革を実現するために邪魔者を排除する「暗殺集団」となっていったのである。「思想集団」「政治集団」「暗殺集団」の3つの顔を持ってしまった土佐勤王党。彼らはなぜ、ああも足早に時代を駆け抜けてしまったのだろう。

 当時、土佐藩の藩政を握っていた参政・吉田東洋は、半平太たち土佐勤王党とは180度違う「開国論」の持ち主だった。東洋にとって勤王党の主張は、書生の戯言でしかなかっただろう。そんな東洋を相手に、下士集団に過ぎない勤王党が「尊皇攘夷」を声高に訴えることが出来たのは、このとき江戸にて謹慎の身だった前藩主、容堂こと山内豊信の存在があったからだ。後に勤王党を壊滅させるに至る容堂だが、若き日の彼は熱心な尊王家だった。彼の正室が三条家の幼女だったこともあり、朝廷への政治工作にも加担し、そのことによって安政の大獄時に謹慎の身となった。謹慎前、朝廷に宛てた容堂の「使命覚書」がある。
 「豊信(容堂)は一朝事有り、錦旗ひるがへるの日は、列藩、親藩を問はず、その不臣はこれを討ち、王事に勤めん。」
 この言葉が、武市半平太たち勤王党員たちを後押しした。天皇に忠義を尽すことが、自藩の君主に忠義を尽すことでもある。彼らの思いには一辺の迷いもなかっただろう。

 土佐勤王党の盟約書(盟曰)には次のような文言がある。
 「かしこくも我が老公(容堂)夙に此事を憂ひ玉ひて、有司の人々に言ひ争ひ玉へども、却てその為めに罪を得玉ひぬ、斯く有難き御心におはしますを、など此罪には落入玉ひぬる。君辱かしめを受る時は臣死すと。」
 「錦旗若し一とたび揚らバ、団結して水火をも踏まむと、爰(ここ)に神明に誓ひ、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患をも払わんとす。」

 この盟約の文言は、明らかに上記容堂の言葉を取り入れたものだとわかる。ここでは、天皇と「我が老公」である容堂が忠誠の対象となっている。幕府が容堂に謹慎を命じたことを批判し、そしてその志を自分たちが引き継ぐと誓っている。この思いが、彼らが臆することなく突き進む糧となった。そして容堂の本質を見誤る要因ともなったのである。

土佐勤王党と山内容堂 (中編)
土佐勤王党と山内容堂 (後編)

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by sakanoueno-kumo | 2010-07-22 02:38 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)  

龍馬伝 第28話「武市の夢」

 文政12年(1829年)9月27日、土佐国長岡郡の白札郷士(郷士の中の最上位)に生まれた武市半平太。幼少の頃から学問と武芸に励み、まさに文武両道の秀才で、容姿端麗、人格高潔にして誠実、風雅をわきまえ、深沈で喜怒色にあらわさず、音吐高朗、見るからに人に長たる威厳があったという。その人物像をうかがい知れるものとしては、中岡慎太郎が後年、西郷隆盛を評して、「その誠実、武市に似」と語っているものや、また、人斬り新兵衛こと薩摩藩士・田中新兵衛も半平太を評して、「至誠忠純、洛西にその比を求むるならば、わが大島三右衛門(西郷隆盛)か」と述べていることなどからも、半平太の人物のほどがうかがえる。「人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する」とも言われ、また、坂崎紫瀾が執筆した「維新土佐勤王史」によれば、「一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった」と評されている。維新後、西郷、大久保、木戸の3人をもって「維新三傑」と呼ばれるが、歴史の「もし」はタブーではあるが、もし武市半平太が明治の世まで生きていれば、間違いなく彼を加えた「維新四傑」となったであろうという声も多い。

 そんな至誠の人・武市半平太だが、後世にあまり良い印象を残していないのは、暗殺事件の黒幕というイメージと、人斬り以蔵こと岡田以蔵との関係によるところが大きいだろう。中でも、拷問を受ける以蔵を毒殺しようとしたエピソードは、半平太の人生最後の汚点といえる。本来の言い伝えはドラマとは違い、強い思想を持たない以蔵の自白を恐れ、口封じのために毒入りの弁当を差し入れ殺そうとしたというもの。しかし、この計画は失敗に終わり、そのことを知った以蔵は憤りを覚え自白したと伝えられる。この逸話から思うのは、上記で述べたような至誠の人・武市半平太にあるまじき行動だということだ。たしかに彼は、暗殺事件の黒幕として岡田以蔵を使い、数々のテロを行った。しかし、それは彼にとっては「正義」の行いで、やましい思いはひとつもなく、だからこそ勤王党弾圧が始まり、久坂玄瑞や中岡慎太郎から脱藩を勧められても応じることなく、潔く縄についた。獄中でも臆することなく取り調べに応じ、尚も君主・山内容堂に対し意見を述べていたという。しかし、だとすればこの以蔵毒殺未遂の逸話はあまりに半平太像と異なるという思いがあった。ドラマでは、厳しい拷問で弱っていく以蔵を見るに見かね、楽にしてやろうという思いからの毒殺計画となっていた。半平太の人柄から考えて、この設定はありだと思う。

 岡田以蔵が捕えられたのは元治元年(1864年)6月ごろ、半平太投獄から遅れること9ヵ月後のことだった。半平太が土佐に戻ると、以蔵は土井鉄蔵と名を変えひとり京都に潜伏、女色に溺れ荒んだ生活をしていたという。些細な強盗事件を起こし幕吏に捕えられた以蔵は、「無宿者鉄蔵」と入墨をされ、京を追放、同時に土佐藩吏に捕えられ国元へ搬送される。半平太以外の投獄者は皆拷問を受けたといわれるが、中でも以蔵に対する拷問は苛烈を極めたという。思想を持たない以蔵で口が割れると考えた藩庁だったが、処刑されたのが翌慶応元年(1865年)5月11日のことだから、実に1年近くも厳しい拷問に耐え抜いたことになる。以蔵にも以蔵なりの強い意志があったのだろう。この日処刑された者のなかで以蔵の刑は最も重く、斬首の上、鏡川上流の雁切河原に三日間晒し首となった。享年28歳。

 岡田以蔵の辞世の句。
 「君が為  尽くす心は  水の泡  消えにし後ぞ  澄み渡るべき 」
 歌中にある「君」は、勤王の志士らしく「天皇」のことともとれるが、実は、武市半平太のことだったのではないだろうか・・・。

 私はこれまでこのブログを通して、かなり半平太に肩入れした発言をしてきた。自由で闊達な坂本龍馬に対して、堅物で融通の利かない武市半平太というのが世間一般の見方だと思うが、そんな彼に、私は最も日本人らしい日本人の姿を見る。謹厳実直を絵にかいたような彼の生きざまは、まさに日本人の国民性といってもよく、彼のような真面目を常とする人たちが、少なくとも昭和期まではこの日本を支えてきた。だから多くの人が、自分たちにない坂本龍馬に憧れるのではないだろうか。私たち日本人のその多くが、坂本龍馬に憧れる武市半平太だと私は思っている。

 ドラマでは吉田東洋暗殺を自白した半平太だったが、言い伝えでは最後までその容疑を認めることはなく、結局その件は立証出来ぬまま、「党与を結び人心煽動し君臣の義を乱した」という「君主に対する不敬行為」の罪状で切腹を命ぜられた。以蔵が処刑された同日夜、南会所大広庭にて、切腹の作法としては最も難しいとされた「三文字の割腹」の法を用いたと伝えられている。介錯人は妻・富子の実弟・島村寿太郎と義理甥・小笠原保馬。この割腹法を用いるため、「合図をするまで首をはねるな」と、介錯人にあらかじめ指示していたという。結局、みごと三文字に割腹した半平太は介錯の合図をすることなく倒れ、介錯人は横から喉を刺したという。享年37歳。彼の最後の意地とも思えるこの死に際の潔さは、自己の武士としての誉れの為だったのか、それとも君主・山内容堂への無言の訴えだったのか・・・。

 武市半平太の辞世の句。
 「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」
 半平太の無念の叫びは、この後龍馬に引き継がれていく・・・。
 

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by sakanoueno-kumo | 2010-07-12 02:13 | 龍馬伝 | Trackback(6) | Comments(5)  

土佐の独眼竜・清岡道之助と、野根山23士の悲劇。

 「禁門の変」があった元治元年(1864年)、土佐では郷士たちによる反乱が起きていた。安芸郡の郷士・清岡道之助を首領とする23名が野根山に屯集し、土佐勤王党弾圧により投獄された武市半平太の釈放と、藩論の統一を要求し挙兵した。半平太投獄から約1年後のことである。

 清岡道之助は天保4年(1833年)生まれでこのとき32歳。坂本龍馬より2歳上で、龍馬の義兄である高松順蔵の元で学んでいた時期があり、龍馬とも親しかったという。その後、岩崎弥太郎も学んでいた岡本寧浦に儒学を学び、さらに江戸へ遊学して陽明学や兵学も学んだ。向学心に熱い秀才だったようだ。道之助は左目が不自由だったため武芸の道を諦め、学問で身を立てようと人一倍勉学に励んだといわれている。そんなインテリ郷士だから、当然の如く武市半平太の勤王思想にも感化され、土佐勤王党にも加盟して志士活動もしていた。

 文久3年(1863年)9月、土佐勤王党の弾圧が始まり武市半平太が投獄されると、土佐七郡に住む同志たちの代表者が集まり、道之助も安芸郡の代表者として出席し、今後の対策を協議した。道之助は武力で藩庁に圧力をかける強硬論を主張したが賛同を得ることが出来ず、土佐勤王党幹部で同党の盟約文を起草したともいわれる大石弥太郎が、半平太釈放を賢明に嘆願するが、それも受け入れられることはく、憤懣をつのらせた道之助は、次第に苛烈な思想に傾倒してゆくようになる。

 そして業を煮やした道之助は安芸郡郷士単独での決起を強行し、同志23名で野根山にある土佐三関の一つとされる岩佐番所に武装屯集し、土佐藩庁に半平太以下同志の釈放を要求した。この嘆願を「徒党強訴」とみなした土佐藩庁は、藩兵800人を動員して鎮圧にあたらせた。23人に対して800人である。半平太投獄の最中、藩庁が如何に郷士たちの行動に神経質になっていたかがうかがえる。この大群にはさすがに抵抗出来るはずもなく、道之助たちは隣領の阿波へ逃げ込んだ。当初の予定では嘆願が受け入れられない場合、長州藩が進発する京へ向かい、これに合流する策であったが、長州藩は禁門の変ですでに敗走し、その報をいまだ知らない道之助たちはまったくの孤立状態におちいった。

 
 阿波領に逃げ込んだ道之助たちは、船便を得て脱藩するつもりがあえなく阿波藩兵に捕らえられ、土佐藩へと引き渡された。その際、阿波藩は寛大なる処置を土佐藩に依頼したという。しかし、その依頼が叶えられることはなかった。9月3日、田野郡奉行所に護送された道之助たち23名の郷士たちは、一度も取調べを受ける事もなく、2日後の9月5日、安芸郡の奈半利川の河原に連行されて一人残らず斬首された。清岡道之助、享年32歳。処刑に際して、彼らは辞世を詠むことも許されず、その歌は完全なかたちで伝わっていない。辞世を高らかに吟じる道之助の声は途中で途絶え、首が落とされたという。

 23人の遺骸は道之助の遺言によって福田寺に葬られた。道之助の妻・静は、亡夫の頭髪に櫛を入れて整え、柄杓の柄で首と胴をつないだという。彼女が夫の霊を慰めて詠んだ歌が、墓前の石碑に今も刻まれている。
 「よしやこの 土にかばねは埋むとも 名をば千歳の松にとどめん」
 本堂の傍らには、後に作られた「二十三士記念碑」と、彼らが賢明に助けようとした武市半平太の小さな銅像がある。

 清岡道之助という人物は、坂本龍馬や武市半平太のように有名ではない。しかし、彼のように、おそらくは明治まで生きていれば要職に就いたであろう有能な人物が、いとも簡単にその命を落とし、大業を成し得ず歴史の中に埋もれていった例が、この時代には数えきれないほどある。そんな一人ひとりの犠牲の上に、龍馬などの英雄伝説があることを忘れてはならない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-07-10 00:59 | 歴史考察 | Trackback | Comments(4)  

龍馬伝 第27話「龍馬の大芝居」

 神戸海軍操練所の閉鎖に伴い、元治元年(1864年)10月22日、勝海舟は江戸へ召還される。最悪の場合、切腹かとまで心配されたが、罪一等を免じて海軍奉行の御役御免で落ち着いた。とはいえ2000石の石高から100表の身分への降格だから大変な転落。この後約2年の間、海舟は蟄居生活を余儀なくなれる。さぞかし情けない思いであっただろう。そして情けないといえば、行き場を失った坂本龍馬率いる脱藩浪人たちの落胆は、それ以上に大きなものだっただろう。脱藩後の龍馬にとって最も大きな挫折の時期である。

 海舟は大坂を去る前に、西郷隆盛に龍馬たちの保護をくれぐれも頼んだと伝えられている。この年の10月、薩摩藩家老・小松帯刀が国許を報じた書簡がある。
 「神戸勝方へ罷居候土州人、黒船借用いたし、航海の企これあり。坂元龍馬と申す人、関東へ罷り下り借用の都合いたし候処、能く談判も相付候よし。・・・<中略>・・・右辺浪人体の者を以て、航海の手先に召使ひ候へば、よろしかるべしと、西郷抔滞京中談判もいたし置き候間、大坂御屋敷へ内々御潜め置き申し候。」
 小松は操練所の浪人たちは薩摩が保護するが、「手先に召使ひ」という目的が記されており、小説などに描かれるような友情が見栄えたものではなさそうで、どうやら薩摩は龍馬たちの船乗りとしての腕を利用しようという、かなり上から目線のようだ。この書簡でわかるように、龍馬は船を手に入れようと江戸へ行ったようで、しかし目的は果たせず、大坂に帰り薩摩藩の保護のもと同藩邸に潜伏した。その後、龍馬の消息は5ヵ月近く、即ち元治元年(1864年)11月初旬から元治2年(慶応元年)(1865年)4月5日までわからない。4月5日に京にいたことは土佐勤王党出身の土方楠左衛門の日記に記されている。この5ヵ月間の龍馬の行動は、長崎に行ったという説や、薩摩藩邸で潜伏し続けていたという説など諸所いろいろだが、どれも想像の域を出ない。そんな5ヵ月の間を描いたのが今話のストーリーだ。

 武市半平太岡田以蔵を助けるために土佐に帰郷したという今話。当然ながら、そんなエピソードは存在せず、ドラマオリジナルのフィクションであることは言うまでもない。おそらくは、「そんな史実はない!」と、多くのブロガーさんたちの批判の声が大きいだろうと想像するが、ただ、上記でも述べたようにこの時期の龍馬の行動を証明するものは何ひとつなく、長崎へ行かそうが薩摩藩邸で時を過ごさせようがそれもフィクションに変わりはなく、言わば作家の腕の見せどころだと言ってもいい。だから、「史実と違う」などという無粋な批判はしない。が、どうしても言いたいことがある。それは龍馬が土佐に帰郷した理由だ。

 龍馬と半平太の間に深い友情関係があったことは否定しない。半平太投獄の事実は、龍馬にとっても心を痛める出来事ではあっただろう。しかし、だからといって龍馬は、いやこの時代の志士たちは皆、己の志を中断してまで友を助けに行ったりしない。彼らは皆、死を覚悟して生きている。己の志のためならば、友であっても親兄弟であっても顧みたりしない。ドラマ中、近藤長次郎が妻子との幸せな暮らしよりも己の志す道を選ぶと言っていたが、龍馬も半平太も同じで、何よりも優先すべきは己の成すべき志。「志士は溝壑にあるを忘れず、勇士はその元を喪うを忘れず」。己の命は天にあり、国事において命を失うは志士の誉れ、私心によって命を失うは志士にあるまじきだったはずだ。脱藩の身である自身の身の危険を晒してまで、友を救いに行くような行為は、志士として愚かしいこと。おそらく龍馬は、半平太の身を案じながらも、これも天命と割り切るしかなかったはずだ。

 ドラマである以上、フィクションはあってもいい。しかし、その時代の価値観はある程度考えて欲しいと私は思う。平成の現代の価値観でいえば、友情を重んじる美談かもしれない。しかし、それはこの時代の志士像とは異なる。私はこれまでこのブログにおいて、批判はしてこなかった。史実といわれる逸話と比べて揚げ足を取るような感想は好まないからだ。しかし、今話はどうしても見逃せなかった。毎週読んで下さっている方の思いに添えなかったとしたら、お詫び申し上げます。
 

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by sakanoueno-kumo | 2010-07-05 03:02 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(10)  

龍馬伝 第24話「愛の蛍」

 愛妻家だったという武市半平太。妻と離れ京にいた頃、勤王党の輩が色町に繰り出しても彼は決して行かなかったという。「天皇好き」とあだ名された半平太だったが、近しい者たちからは、「奥方好き」とも親しみをこめて揶揄された。

 ドラマ中、坂本龍馬の姉・乙女が語った半平太と妻・の夫婦愛のエピソード。この話は実話で、ここに出てきた友人というのは、龍馬より一足先に脱藩して、先の天誅組の変で落命した吉村寅太郎である。半平太と冨の間には子がなく、これが半平太のもとに集う一同の悩みの種だった。弟子たちは半平太に妾を持つよう勧めるが、彼はいっこうにその気を示さない。事を深刻に考えた寅太郎は、ある作戦を考えた。冨に理由をつけて一時実家に帰ってもらい、その間に美しい賄い女を雇い、半平太に手をつけさせるという作戦。冨も納得して暇を願い里に帰った。現代の感覚でいえばヒドイ話だが、この時代には「七去」という妻を離縁する基準とされた戒めがあり、「父母に順ならず」「子なき」「淫」「炉」「悪疾」「多言」「竊盗」という七つがその条件だった。中でも「嫁して三年子なきは去る」というのは一番の戒めとされ、寅太郎のとった行動は、師を思う行いとして当然のことだったのである。

 しかし半平太はその女中にまったく関心を示さない。業を煮やした寅太郎は、次々とタイプの違う美女を武市邸内に送りこむが、半平太は手をつけることなく、逆に不審に思った半平太が寅太郎を問いただし計略を白状させ、大いに叱責したという。その後呼び戻された冨は、あまりに喜ぶ半平太の姿に驚き、それまで以上に夫婦の絆が深まったという。至誠の人と言われた武市半平太の人物像がよくわかるエピソードだ。

 半平太が投獄されると、冨は献身的なまでに牢獄へと差入を行ない、影から武市の牢獄生活を支えた。獄中で主人は冬でも板の間に寝ているからと、自分も同じように板の間に寝て、夏には蚊帳も付けずに、冬でも何もかぶらずにいたという。差し入れは弁当や衣類のみならず、季節がわかるように、「花」やドラマのとおり「蛍」などを届けたという。まさにタイトルどおり「愛の蛍」だった。

 維新後、武市家の家録は没収されており家庭は貧困を極め、縫い仕事、袋貼り、マッチの箱貼り、押し絵づくりなどをしてようやく生計を立てていたらしいが、その後養子を迎え、その子に半太と名付け家督を継がせた。明治24年に朝廷から半平太に正四位が贈位された際、弟を伴って上京した冨に対し後藤象二郎板垣退助は、「半平太を死に追いやったのは、いかにも間違いであった」と詫びている。その後の武市家は田中顕助らの尽力もあって経済的には楽になり、養子・半太に半平太の甥の娘を娶わせ武市家を守った。そして大正6年、86歳まで天寿を全うする。

 冨が亡くなる5年前の大正元年、82歳の冨が実に50年近く前の夫を偲び詠んだ歌がある。
 「時しあれば 吹かでも花はちるものを 心みじかき 春の山風」 武市冨
 大意は、「時が来れば風の吹かなくても花は散るのに、なぜあなたは春の山風のように急いで散ったのですか」といったもので、15年間ほどの短い夫婦生活にもかかわらず、その後半世紀、亡き夫を思い続けた冨の心がうかがえる。冨の心にはいつも自分を慈しんでくれた夫が生き続けていたのだろう。心から妻を愛した武市半平太と、夫亡き後その思いを50年守り続けた貞節の妻・富。半平太の短い生涯は、冨という妻にめぐり合えた一点でのみ、幸せだったと言えるかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-06-14 01:54 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(2)  

龍馬伝 第21話「故郷の友よ」

 「志士は溝壑(こうがく)にあるを忘れず、勇士はその元(こうべ)を喪(うしな)うを忘れず」という言葉がある。志のある者は、道義のためなら窮死してその屍を溝や谷に棄てられても良いと覚悟しており、勇ましい者は、君国のためならばいつ首を取られても良いと思っている・・という意味。元は孔子の言葉で、幕末には吉田松陰が志士の心構えとして説き、この時代を生きる全ての志士たちの共通したスローガンだった。近年では小泉純一郎元総理が、改革に向けての所信表明演説でこの言葉を使っていた。小泉元総理が本当にその覚悟があったかどうかは眉ツバものだが、坂本龍馬武市半平太も歩む道は違えど、当然、己の命は天に預けて生きていたことだろう。
 「武市さんらは元から侍じゃ。何があろうと覚悟は出来とったがじゃないですろうか・・・。」
 長次郎の言ったとおり、半平太は覚悟が出来ていただろう。志士は溝壑にあるを忘れず・・・しかし半平太には、溝や谷に棄てられることよりもっと無念な、信じていた者に裏切られるという、彼にとって思ってもみなかった最期が待っていた。

 「八月十八日の政変」で政局が一変すると、山内容堂はついに公然と土佐勤王党弾圧にふみきった。容堂はこのときを待っていたのだ。にも関わらず、半平太はこの直前の8月7日の時点でもまだ容堂を信じていたらしい。7日付けの手紙にはその前日容堂に謁して、「種々様々の御はなしにて、一も争論申し上げ候事御座なく候。」とまで書いており、よほど半平太は容堂に気をゆるしていたらしいことがうかがえる。手紙は続く・・・。
 「天下の勢より、御国の勢、諸侯方の善悪、且つ、其他にて、昨年以来斬姦の次第等申し上げ、誠にしみじみ御談話排承仕候・・・。」
 「斬姦の次第」とか「諸侯方の善悪」云々など、郷士あがりが口にすることなど、容堂が最も嫌悪するところだっただろう。が、この時点ではまだ容堂は耐えた。煮えくりかえる思いで耐えていた。しかし、近々起こり得るであろう政変の匂いは嗅ぎ分けていたことだろう。政変後、なんの遠慮もなくなった容堂は、文久3年(1863年)9月21日、武市半平太、河野万寿弥、そして半平太の妻・富子の弟、島村衛吉など8名を逮捕、投獄した。罪名は、
 「右者、京都へ対し、そのままにおかれ難く、其の余御不審のかどこれ有り。」
という曖昧なものだった。容堂にとって罪状などどうでもよかった。目的は土佐勤王党壊滅にあったのだから。

 龍馬にも当然、この報は届いていた。勝海舟の10月12日の日記にはこうある。
 「聞く。土州にても武市半平太の輩逼塞せられ、其党憤激、大に動揺す。かつ寄合私語する者は必ず捕へられ、又打殺さるゆへに、過激暴論の徒、長州へ脱走する者今三十人斗(ばか)り、また此地に潜居する徒を厳に捕へ、或は帰国を申し渡すよ云ふ。」
 藩庁の手は当然、龍馬にものびた。この時点で、龍馬は再び脱藩者の身になったのである。

 半平太投獄の頃、京に一人残っていた岡田以蔵は、土井鉄蔵と名を変え潜伏していた。半平太と袂を分かち、龍馬とも音信不通になった以蔵は、女色に溺れ、荒んだ日々を送っていたという。追われる身となった以蔵には、「人斬り以蔵」という名で恐れられた面影は既になかった。志士は溝壑にあるを忘れず・・・といった覚悟は、おそらく彼にはなかっただろう。彼は龍馬や半平太のような、高い志を持った志士ではなかった。刀のみを信じたテロリストに過ぎなかった以蔵は、時勢に利用されるだけされ、不要になると、野良犬のような日々を余儀なくされた。時勢に暗い彼は、何故自分が追われる身となったかもわからなかったかもしれない。そこがまた彼の切なさでもある。

 八月十八日の政変や、半平太の妻・富子のことにもふれようと思っていたが、既に多くの行数を費やしてしまったため、また改めて起稿しようと思う。


追記:「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。


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by sakanoueno-kumo | 2010-05-24 01:17 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(4)