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西郷どん 第44話「士族たちの動乱」その2 ~佐賀の乱~

 昨日の続きです。 

 新政府に対する不平士族たちの反乱の狼煙は、まず九州の佐賀において上がります。佐賀は、いわゆる「薩長土肥」の一角として維新政府に人材を輩出していましたが、その実は薩長主導のもとその風下に立たされており、佐賀人はその憤懣を募らせていました。そんな背景のなか、明治6年の政変によって、江藤新平、副島種臣が政府からはじき出されたことが導火線となり、明治7年(1876年)2月1日、3000人近い士族が武装蜂起します。


 当時、佐賀には「征韓党」「憂国党」という2つの政治党派がありました。「征韓党」は、西郷隆盛や江藤新平が主張した征韓論を支持する党派で、「憂国党」は、維新政府の近代化そのものを否定し、政体をかつての封建制に戻せと主張する集団でした。この2つの党派はもともと国家観文明観が異なり、目指すところが違っていたのですが、新政府に対する憤懣という一点のみで同調し、ともに決起することになります。しかし、主義主張で共闘すべきスローガンを共有していなかったため、両党は司令部も別々でした。


e0158128_22240827.jpg 当時、東京にいた江藤新平は、佐賀士族たちの武装蜂起の報せに驚愕し、急いで佐賀に帰郷します。同じく、同郷で天皇の侍従や秋田県の初代権令などを務めた島義勇も、佐賀に向かいます。当初、2人の帰郷の目的は、反乱士族たちをなだめるためだったといいます。しかし、先に佐賀に入った島が憂国党の首領に担がれ、遅れて2月11日に佐賀に入った江藤も、島と会談して翌12日に征韓党の首領に担がれます。こうして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を起こすことになるんですね。江藤が佐賀に帰郷することを決意したとき、同郷の大隈重信大木喬任らは、いま帰郷すると反乱軍の神輿に担がれる可能性が高いと憂慮して必死で説得しましたが、江藤は聞く耳を持たず、不平士族たちを説得する自信があるとして強行しましたが、結果は、大隈たちの心配どおりとなりました。あるいは、江藤自身、こうなることは想定済みだったかもしれません。


 e0158128_15131733.jpg佐賀士族挙兵の報せが東京の大久保利通の耳に入ったのは、まだ江藤が佐賀に入っていない2月3日でした。大久保はすぐさま陸軍大輔の西郷従道に手配を命じ、熊本鎮台に出兵を下令しました。司令官は谷干城少将。このとき佐賀に向かった政府軍の総兵力は約5400人だったといい、これは、この時期の日本軍の可動兵員数の半数にあたりました。また、海軍からも軍艦2隻が出動します。そしてさらに、大久保は自らも九州に出向き、反乱の鎮圧に当たります。このとき大久保は、佐賀における軍事、行政、司法三権全権の委任を受けての佐賀入りでした。つまり、現代で言えば、軍の司令長官警察庁長官最高裁判所の裁判長内閣総理大臣をすべて兼ねた状態だったということで、これは、あらゆる事柄において、すべて大久保の独断で専決できるということでした。たとえ一時的だったとはいえ、大久保ひとりが国家権力のすべてを掌握したかたちだったんですね。大久保は、この政変以後の最初の士族反乱を、完膚なきまでに潰したかったのでしょうね。


 戦いの詳細は省きますが、反乱軍は一時、優勢に立ったこともありましたが、結局、半月ほどで鎮圧されました。江藤は戦場を離脱し、鹿児島に向かいます。鹿児島には、江藤とともに下野した西郷がいました。もともと江藤らの武装蜂起の背景には、いま佐賀が決起することによって、薩摩、土佐を中心とした全国の反政府勢力が続々と呼応して立ち上がり、天下を挙げた大動乱に持ち込んで政府を転覆させるという狙いがあったとされます。その最も頼みの綱は、全国の不平士族の期待を一身に受けた薩摩の西郷でした。江藤は、その西郷に助力を求めるため、薩摩に向かったわけです。


 e0158128_15131310.jpgドラマでは、江藤が西郷の自宅を訪れていましたが、通説では、江藤と西郷が会ったのは鹿児島県の南端の指宿にある鰻温泉だったと言われています。江藤は熱弁を振るって西郷に薩摩士族の旗揚げを促しますが、西郷は動じることはありませんでした。西郷にしてみれば、敵前逃亡ともとれるかたちで士卒を残して戦場を離脱してきた江藤に対して、苦々しく思っていたのかもしれません。薩摩隼人の倫理としては、敗軍の将は士卒とともに潔く死ぬべきだと思うのが普通でした。しかし、江藤には江藤の正義があって、鹿児島まで落ち延びてきた。これも、西郷には理解できなかったわけではなかったでしょう。このとき西郷は、江藤に対して島津久光庇護を受けるよう勧めたといい、しかし、それは江藤のプライドが許さないことで、西郷の忠告を容れませんでした。このとき西郷は、珍しく声を荒げて「拙者がいうようになさらんと、当てが違いますぞ」と、叫んだといいます。この西郷の怒号を、たまたま聞いた宿の女将のハツが、この言葉をのちのちまで語り伝えています。


 結局、西郷の助力を得ることができなかった江藤は、土佐に渡って林有造、片岡健吉らの協力を得ようとしますが、これも失敗し、それでも諦めない江藤は、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みますが、その途上、政府の差し向けた追手に捕らえられて縄に付きます。江藤の逮捕は、手配写真が全国にバラ撒かれていたために速やかに捕らえられたといいますが、この写真手配制度は江藤自身が司法卿を務めていた明治5年(1872年)に確立したもので、その制定者である江藤本人が被適用者第1となったという皮肉な結果となりました。


 捕らえられた江藤は、東京での裁判を望みましたが、江藤の身柄は佐賀に護送され、4月8日から2回に分けて簡単な取り調べを受けたのち、4月13日、除族の上、梟首の刑を申し渡され、その日のうちに刑が執行されました。通常、士族は梟首という屈辱にみちた惨刑を受けることはありませんでしたが、このときの判決は、「除族の上」という判決を付け加え、つまり、士族を廃めさせた上でさらし首にするという強引な判決でした。これは、大久保の発案だったと言われています。大久保は、何が何でも江藤を惨刑に処することによって、全国に燻る不平士族への見せしめにしたかったのでしょう。4月9日の『大久保日記』には、「江東、陳述曖昧、笑止千万、人物推して知られたり」と書かれており、また、処刑執行された13日の日記には、「江藤、醜態、笑止なり」と記しています。大久保は自身の日記が後世の学者に読み解かれるであろうことを見越して、後世の印象操作もここで行っていたようなんですね。この、かつての同志であった江藤に対する残酷な処置が、後世に大久保利通という人物を冷酷で非情な人物と印象づけている所以でもあります。


 江藤の首は、処刑場から4km離れた千人塚に晒されました。そのさらし首の写真が撮影され、大久保の指示によって全国にバラ撒かれたといいます。これも、不平士族に対する見せしめだったのでしょう。そのさらし首の写真は、いまでも画像検索すると出てきます。ネット上でさらされている以上、未来永劫さらされ続けることになるでしょう。これも、大久保の計算だった・・・ってことはないでしょうが。


 江藤新平辞世

 「ますらおの  涙を袖にしぼりつつ  迷う心はただ君がため」


 明日の稿につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-27 00:14 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第42話「両雄激突」その1 ~尾去沢銅山汚職事件~

 当初は1年足らずで帰国する予定だった岩倉使節団でしたが、予定より大幅に長引いていました。しかし、政府首脳の半数以上が1年以上も国外に出たままというのは、やはり不都合が起こってきます。とくに財政面の窮乏は著しく、予算問題をめぐる大蔵省多省とのあいだで対立関係が激化していました。そんななか、太政大臣の三条実美は洋行中の参議・木戸孝允と大蔵卿・大久保利通に対して帰国命令を通達します。しかし、木戸は帰国を承知せず、その後も洋行を一月ほど続け、大久保は、三条からの要請を受け入れて帰国の途につきます。しかし、その大久保とて、すぐに帰って来られるわけではありません。そこで、とりあえずの応急措置として、明治6年(1873年)4月19日、新たに参議の数が増やされます。左院議長・後藤象二郎、司法卿・江藤新平、文部卿・大木喬任の3人でした。


 この参議の登用には、各省の長官を参議とすることで正院を強化する狙いがありました。ところが、そのことが裏目に出て、各省の卿を兼務したかたちでの参議就任は、かえって大蔵省批判や各省の問題がそのまま政府に持ち込まれるかたちとなり、事態はいっそう激化します。そんななか、山縣有朋が辞任に追い込また山城屋事件に続いて、またしても政府の屋台骨が崩れかねない汚職事件が明るみになります。「尾去沢銅山汚職事件」です。


 尾去沢銅山というのは南部藩の所領にあった鉱山でした。幕末、南部藩は財政難にあり、さらに、戊辰戦争敗軍に回ったことから石高を大幅に削られ、新政府に多額の賠償金を払わされるはめになったことから、藩の御用商人だった村井茂兵衛から多額の借財をしていました。村井は、いわば鉱山資本家で、旧幕時代から南部藩所有の尾去沢銅山から産出するを精煉し、「鍵屋」という屋号で大阪や横浜にも支店を置き、手広くそれを売って財を成していました。当時、日本全国のどの大名も藩の財政状態は悪く、領内の商人から借金をして補填していたという話は、めずらしいことではありませんでした。しかし、当時の慣例として、藩が商人からお金を借りる場合、殿様に金を貸すというのはおそれ多いという理由で、逆に藩が商人に対してお金を貸し付けているという内容で証文には記されていました。これは暗黙の了解のもとに行われていたたてまえだったのですが、これを逆手に取ったのが、明治新政府で大蔵大輔の職にあった長州藩出身の井上馨でした。


e0158128_18385697.jpg 明治元年(1867年)、南部藩は借金の肩代わりとして尾去沢銅山の採掘権を村井に与えましたが、藩に貸したお金は返ってくることはなく、明治4年(1871年)の廃藩置県によって藩が消滅してしまいました。このまま泣き寝入りするしかないのかと途方にくれていた村井でしたが、旧藩の抱えていた負債は新政府が引き継ぐということになり、それを聞きつけた村井は、すぐさま東京に出向き、大蔵省に借金の返済を求めました。ところが、ときの大蔵大輔だった井上馨は村井に会おうともせず、下僚を通じて、逆に村井に借金の返済を要求しました。南部藩が村井に金を貸したという形式上の証文を盾にしたんですね。村井はこの証文の理由を必死に陳情しますが、井上はこれを聞き入れることはなく、返済不能と見るや、村井の所有していた尾去沢銅山を没収し、これにより村井は破産に追い込まれました。


 なんとも酷い話ですが、ここまでなら、尾去沢銅山は国の所有する鉱山として明治政府の財政難を助ける存在となり得たでしょうが、井上はその後、この銅山を同郷の長州人である岡田平蔵という政商に競売で払い下げ、そして、あろうことか、そこに「従四位井上馨所有」という高札を掲げさせました。完全に私物化しようとしていたんですね。井上とて、旧士族出身ですから、南部藩の証文が形式上のものであることは知っていたでしょうし、仮に知らなかったとしても、調べればわかることだったでしょう。井上はそれをわかった上で、村井を陥れて私腹を肥やそうとした。古来、これほど露骨で大胆な汚職事件があったでしょうか?


e0158128_22240827.jpg 破産した村井は、このことを司法省に訴えました。当時、司法卿の職にあった江藤新平は、人一倍正義感が強く、このような不正をこよなく嫌う男で、しかも、薩長閥政府にもかねてから不満を顕にしていました。江藤は村井の訴えを受けると、これを私利私欲に満ちた長州閥を退治する好機と捉えて徹底的に調査を進め、事件の証拠を洗い出し、逮捕寸前まで井上を追い込みますが、結局、長州閥の抵抗に押され、これが明るみになったら明治政府自体が瓦解しかねないとの理由から、司法の手にはかからず、井上の大蔵大輔辞職のみで決着を見ました。鉱山もウヤムヤのなか返還されていません。村井は失意のなか、明治6年(1873年)6月10日に死去しています。


 このような貪官汚吏を人一倍嫌悪する西郷隆盛は、この頃から、周囲に辞意を漏らすようになります。腐敗した新政府に嫌気がさしたのでしょう。しかし、留守政府の首相である西郷の辞任など許されるはずもなく、そんななか、にわかに大きな問題が浮上します。西郷が突然、朝鮮使節への就任を希望したんですね。

続きは明日の稿にて。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-12 18:54 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第41話「新しき国へ」その3 ~山城屋事件~

 昨日の続きです。

 天皇の西国巡幸に同行していた西郷隆盛でしたが、その途中、前月に表面化した山城屋事件に関わった山縣有朋に対し、四国の多度津で近衛兵が不満を爆発させたという報を受け、急遽一行から離れて東京に帰ります。以後、西郷は弟の西郷従道とともに、この近衛兵をめぐる紛議の解決にあたることになります。


e0158128_22162487.jpg 山城屋事件とは、長州軍閥の悪癖が露呈した近代日本初の汚職事件です。事件の発端となった山城屋和助というのは、元は長州藩の漢方医の家に生まれ、実名を野村三千三といいました。幕末期に高杉晋作奇兵隊を創設すると、これに入隊して各地で戦いに参加し、戊辰戦争では北越の戦いに従軍しています。この奇兵隊時代に軍監だった山縣と知り合っています。明治に入ると、志を転じて横浜で商人となり、屋号を山城屋和助と称するようになります。そして、その資金を得るべく旧知の山縣に近づきます。山縣は、大村益次郎の死後、長州陸軍の代表格のような立場になり、その後、政府の人事にうまく乗っかり、この当時の陸軍の総帥のような位置にのぼっていました。その山縣をうまく利用して、公金を出させようと考えたんですね。


e0158128_22143981.jpg 山城屋は山縣に近づき、その縁故で兵部省御用商人にならせてもらえないかと頼みます。御用商人になれば、陸軍に軍需品いっさいを納める商人になることであり、簡単に巨額の利益を得ることができます。おそらく山縣に甘い汁を吸わせたのでしょう。山縣はたやすく山城屋の申し出を受け入れます。兵部省御用商人となった山城屋の財はみるみる膨れ上がり、わずか1、2年の短期間で横浜一の巨商になりました。自然、山縣の懐も、山城屋とともに膨れ上がりました。


 陸軍の長官である山縣のそんな姿を見ていた下僚の長州系軍人たちは、山縣にならって山城屋に金を借りに行きました。「借りる」といっても無証文であり、実質「もらう」ことでした。山城屋にしてみれば、平素陸軍によって巨利を得続けているため、これを断ることはできませんでした。このため、山城屋はいつしか長州系軍人の金づるとなっていきました。明治5年(1872年)、山城屋は山縣ら長州系の官僚に陸軍省公金15万ドルを借り、生糸市場に手を出します。このとき長州系軍人官吏らは、貸し付けの見返りとして山城屋から多額の献金を受けたとされています。しかし、ほどなく山城屋は生糸相場に失敗。いままで兵部省御用商人として儲けてきた金をことごとくつぎ込んでも回復不可能な悲境に立ってしまいました。


 山城屋は陸軍省から更に金を借り出し、フランスの商人と直接取引をしようとフランスに渡ります。ところが、パリに渡った山城屋は狂ったように豪遊し、湯水のごとく金を使い始めました。観劇競馬に興じ、一流女優との交際や富豪令嬢との婚約話など、商売そっちのけで散財しているという噂が現地で広まり、この評判がロンドンやパリの日本公館にまで届き、これを不審に思った駐仏公使の鮫島尚信が内偵してみると、長州軍閥に食いついて巨利を得ている商人であることを知ります。鮫島はこの背景に重大な政府部内の腐敗があることを予感し、日本の外務省に詳細な報告を送りました。


e0158128_22240827.jpg当時の外務卿は佐賀藩出身の副島種臣でした。副島はこの種のことが許せないたちの硬骨漢で、すぐに同郷で司法卿江藤新平に知らせました。同じく不正を忌み嫌う江藤はすぐさまこれを調査し、山縣の判で貸し付けた公金が総額約65万円にのぼることが発覚します。65万円とは、当時の陸軍予算の半分以上に当たる巨額で、この事件は、当時出来上がったばかりの新政府の土台を揺るがしかねない大事件となりました。やがて、これを機に陸軍長州閥の弱体化を図りたいと狙う他藩出身の官僚たちが、声高に山縣の罷免を訴え始めます。追い詰められた山縣は、山城屋を日本に呼び戻しますが、すでに山城屋に返済能力はなく、山城屋と親しかった長州閥官僚手のひらを返したように山城屋との関係を一切絶ち、窮地に立たされた山城屋は、明治5年11月29日(1872年12月29日)、陸軍省内部の一室で割腹自殺しました。山城屋の自殺により、山城屋事件の真相は究明されないまま終わります。


e0158128_15131310.jpg 西郷はこの事件の報告を受けた際、声をかけられないほどの落胆の色を示したといいます。そして、この頃から、職務を投げ出して隠棲したいといった旨を口にするようになったといいます。貪官汚吏をこの上なく嫌う西郷にしてみれば、このような腐敗した新政府を作るためにこれまで力を尽くしてきたのではない、という虚しさがあったのでしょう。しかし、最終的には西郷は山縣に救いの手を差し伸べ、翌年の徴兵令施行に伴い陸軍卿に昇進させています。これは、西郷なりに明治政府内の薩長のバランスに配慮したとも、山縣有朋の軍政の才を高く評価していたともいわれますが、真相はわかりません。いずれにせよ、山縣はこの事件以降、西郷に対して深い恩義を感じるようになり、のちの西南戦争で敵対する立場となったときには、悩み苦しんだといいます。


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by sakanoueno-kumo | 2018-11-07 22:06 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第46話「未来への絆」 ~西南戦争後の国事犯たち~

 8ヶ月に及んだ西南戦争は政府軍の勝利で幕を閉じ、政府軍の死者は6,403人、反乱軍の死者は西郷隆盛をはじめ6,765人に及びましたが、反乱軍の生き残りたちは国事犯として長崎で裁判にかけられ、そのほとんどが囚人となります。しかし、政府の管理する監獄ではそのすべてを収監しきれず、約2,700人の囚人が全国の監獄に護送されることとなりました。楫取素彦が県令を務める群馬県には、最初に57名、翌年に31名計88名が囚人として送られてきたそうです。

 ドラマでは、群馬県では囚人たちをただ労役につかせるだけでなく、仕事を与えて職業訓練をさせるという試みをはじめたとありましたが、実際には、群馬県のみならず多くの県で同じようなことが行われていたようです。ただ、それは現代のような職業訓練という趣旨ではなく、労働力としてのそれだったようですね。もっとも、奴隷のようにこき使われていたわけでもなく、むしろ囚人らが自発的に労働を望む場合が多かったようで、開墾作業土木工事に従事して、地域開発に大きな役割を果たしました。

 「国事犯」とは国家の政治的秩序を侵害する犯罪のことをいいますが、そもそも革命期においては、その政治的秩序そのものが不安定なもので、勝てば官軍負ければ賊軍、ひとつ間違えれば、裁く側裁かれる側が逆転していたかもしれないわけです。ドラマ中の美和も言っていましたが、官軍も賊軍も、国のことを憂い、国のために命を投げ出した者たちであり、罪人と言っても、極悪非道な人物たちではなかったわけです。先週、フランス同時多発テロ事件がありましたが、現代のように一定の政治的秩序が確立された時代の政治犯とは違いますからね。当時の国事犯のなかには、人格者が多くいたはずです。

 しかし、当時、国事犯とは最も重い罪で、その首謀者は、ほとんどがまともな裁判にかけられることなく死罪になっています。「佐賀の乱」江藤新平「萩の乱」前原一誠がそうですね。政治的秩序が不安定である以上、その秩序を乱す行為は見せしめとして厳罰に処し、秩序を正当化していく必要があったわけです。その恐怖政治を断行したのは大久保利通でしたが、それほど強引な姿勢で臨まないと、新しい秩序は確立されなかったんですね。新国家の陣痛時期とでもいうか・・・。現代でも、政治犯を問答無用で粛清する独裁国家がすぐ近くにありますが、それ即ち、国家の秩序が不安定な状態にあることを露呈しているといえるでしょうか。

 話を戻すと、その後わが国における囚人の数は増え続け、明治18年(1885年)には8万9千人となり、全国的に監獄は過剰拘禁となりました。政府はこの状態を解決するため、明治14年(1881年)に監獄則改正を行い、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を、当時、開拓地だった北海道に求めました。開拓の労働力としても役に立ち、加えて、人口希薄な北海道に彼らが刑を終えたのち住み着いてくれたら一挙両得だという目論見もあったようです。そんなわけで、明治14年(1881年)には月形町に樺戸集治監、明治15年(1882年)には三笠市に空知集治監、明治18年(1885年)には標茶町に釧路集治監、そして明治23年(1890年)には有名な網走囚徒外役所が置かれます。こうして北海道の監獄の歴史がはじまるんですね。

 本稿は、ドラマから少し離れちゃいましたね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-16 17:54 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第43話「萩の乱に誓う」 ~激動の幕末長州藩の終焉~

 明治9年(1876年)10月28日、山口県はにおいて、不平士族たちの新政府に対する反乱が勃発します。その首謀者は松下村塾生だった前原一誠。決起の趣意書には、「木戸孝允等帷幄に出入し、寵待此なく、しこうして先君の業、掠めて己の功となし」(原文は漢文)と書かれていました。つまり、木戸孝允ら政府高官たちは、先君・毛利家の地をほしいままにしている、と。廃藩置県から4年の歳月が過ぎていましたが、士族たちの心は、未だ毛利家の家臣だったんですね。

 維新後一時期、前原は新政府の参議、兵部省の兵部大輔を務めていました。ただ、前原の登用は、彼の識見や経験を斟酌されたものではなく、前任の大村益次郎暗殺されたため、同じ長州閥から繰り上がりで抜擢されたようなものでした。幕末に多くの有能な人材を失っていた長州藩は、薩摩藩に比べて人材が少なかったんですね。そんななか、同じ松下村塾出身の伊藤博文山縣有朋の出世に便乗して、前原も政府高官に登用されたといった感じでした。しかし、そもそも軍事の専門家ではない前原は、あまり出仕することがなかったようです。やがて徴兵制をめぐって木戸、山縣と対立し、明治3年(1870年)9月に追われるように政府を去ります。先述した決起の趣意書からも、木戸に対する恨み節が感じ取れますよね。

 その後、版籍奉還、廃藩置県で全国の諸藩が解体されると、新政府に反発を抱く不平士族が全国各地にあふれはじめます。そんななか、政府内も権力抗争のゴタゴタが続くのですが、明治6年の政変(征韓論政変)によって、西郷隆盛、江藤新平、副島種臣、板垣退助らが参議を辞任すると、新政府の軍人、高官の多くが西郷らと行動を共にしました。日本中に、新政府と不平士族らの一触即発の空気が漂いはじめます。

 最初に決起したのは、佐賀県でした。これまでずっと薩長の下風に立たされてきたことへの憤懣もあり、加えて江藤、副島が政府からはじき出されたことが導火線となり、明治7年(1876年)2月1日、帰郷した江藤が3千人近い不平士族の神輿に担ぎあげられて挙兵します。いわゆる「佐賀の乱」ですね。しかし、大久保利通の指揮する新政府軍によってまたたく間に鎮圧され、首謀者の江藤は即刻、斬首、梟首となります。不平士族たちへの見せしめですね。

 その後、政府は不平士族たちの特権をさらに削ぐべく、明治9年(1876年)に帯刀禁止令、秩禄処分を断行します。これによって、不平士族たちの憤懣はいっぺんに頂点に達し、同年10月24日に熊本県で太田黒伴雄らが「神風連の乱」を、続いて10月27日には福岡県秋月町で宮崎車之助らが「秋月の乱」を起こします。神風連の乱はわずか1日で鎮圧されましたが、秋月の乱勃発の報が短時間で萩に伝わり、これを千載一遇の好機とみた前原は、10月28日に挙兵します。これが、「萩の乱」勃発までの経緯です。

 しかし、前原にはそれほど人望カリスマ性もなかったのでしょうか。集まった士族は150人にも満たず、これでは大反乱になるべくもなく、たちまち広島鎮台兵によって鎮圧されます。前原は逃亡先の島根県下で捕縛され、首謀者として即日、斬首となります。享年43歳

 前原も江藤も太田黒も宮崎も、挙兵した彼らはみんな鹿児島の西郷の決起を期待していました。乱を起こせば、必ず西郷が起ってくれるに違いない・・・と。この頃、不平士族にとって西郷の声望は、まことに巨大なものになっていました。彼らのあいだでは、西郷は精神的支柱だったんですね。ところが、当の西郷はなかなか動かない。結局、それぞれの反乱が連携することなく単発で終わってしまい、前原たちの思いは砕け散りました。もし、このとき西郷が動いていたら、歴史はどうなっていたんでしょうね。

 この萩の乱には、美和の一族が深く関与していました。ドラマでは美和の甥にあたる吉田小太郎杉民治の長男)しか出てきませんでしたが、民治長女の婿養子で玉木文之進の跡取でもある玉木正誼も、乱に加わり討死しています。一族から二人も反乱者を出し、さらに、首謀者である前原が松下村塾出身であったことから、玉木文之進はその道義的責任を痛感し、同年11月6日に萩の山中で自刃して果てます。享年67歳。松下村塾の創設者であり、吉田松陰の師でもある文之進は、ある意味、激動の幕末長州藩の生みの親ともいえます。その生みの親が、長州藩の最後の武士たちと運命を共にしたというのは、なんとも出来過ぎたドラマですね。彼の死が、幕末長州藩にピリオドを打ったといえます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-26 21:47 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

JIN -仁-(完結編) 第10話(最終章・前編)

 坂本龍馬暗殺予定日の慶応3年(1867年)11月15日になって、ようやく龍馬と会うことができた南方仁は、龍馬を助けるべく居場所を四条・近江屋から伏見・寺田屋に移したものの、日が変わった16日未明、龍馬は史実通りに前頭部を横に斬られて倒れる。しかし、史実とは違って龍馬を斬った人物は、龍馬の護衛に付いていた長州藩士・東修介(架空の人物)だった。
 「私の兄は貴方に切られたんです。貴方が久坂さんと会った帰りに。貴方は私の敵なんです。そのつもりで貴方に近づきました。」

 この時代、仇討(敵討)合法な行為だった。武士階級のみに許されたもので、範囲は父母や兄など尊属の親族が殺害された場合に限られ、卑属(妻子や弟・妹を含む)に対するものは基本的に認められない。その仇討をした相手に対して復讐をする重仇討は禁止されていた。本来は仇討をする場合、主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要で、町奉行所の敵討帳に記載され、謄本を受け取るという手続きが必要。しかし、無許可であっても、現地の役人が調査して仇討であると認められれば、大目に見られ、場合によっては賞賛された。逆に父母や兄が殺されたにも関わらず仇討しないことは武士として恥ずべきことで、場合によっては家名お取り潰しになったりもした。

 つまり、東の龍馬に対する仇討の企ては、逆恨みでも何でもなく、武士として当然の、あるべき姿だったのである。仇討のために龍馬に近づくも、龍馬の考え方に感銘し、尊敬すらし始めていた東。しかし、仇討を断念するは武士の恥。そんな葛藤に苦しんでいた東だったのだろう。
 「私の兄は志士で、やはり志半ばで倒れました。兄の代わりに果たしたいことがひとつあったのですが、坂本さんの大政奉還の建白を読んだ時に、もう良いのではないかと思ったのです。」
 前話でそう言っていた東が、この局面で龍馬に刃を向けたのは、武士の誉である仇討だったのか、それとも、咲が言うように龍馬の生き方を守るためだったのか・・・。

 これより6年後の明治6年(1873年)、明治政府の司法卿・江藤新平らによる司法制度の整備により、仇討は禁止される。それ以後、当然だが現在でも仇討は許されていない。しかし、肉親や大切な人が殺害された場合、その相手を殺したいほど憎む思いは今も同じだろう(肉親を殺された経験はないが)。現代の、どれだけ凶悪な殺人鬼であっても人権が守られる法制度が、果たして正しいものなのだろうか・・・なんて、昨今の裁判の報道などを見てときどき思ったりする。昔のほうが、被害者に優しい血の通った秩序だったんじゃないかと・・・。

 仁先生たちの懸命な治療により、一時的に意識を取り戻した龍馬と仁先生の会話。
 「先生には、この時代はどう見えたがじゃ?愚かなことも山ほどあったろう?」
 「教わる事だらけでした。未来は夜でもそこらじゅうで灯りがついていて、昼みたいに歩けるんです。でも、ここでは提灯を提げないと夜も歩くこともできないし、提灯の火が消えたら、誰かに貰わなきゃいけなくて・・・。一人で生きていけるなんて、文明が作った幻想だなあとか。離れてしまったら、手紙しか頼る方法ないし、ちゃんと届いたかどうかもわからないし・・・。人生って、ホント、一期一会だなあとか・・・。あと、笑った人が多いです。ここの人たちは、笑うのが上手です。」

 文明ってなんだろう・・・と、私もときどき思う。不便を便利にするために発達した文明に、結局私たちは縛られている。携帯電話なんてなかった十数年前までは、相手とすぐに連絡が取れないことが当たり前だった。今は、携帯が繋がらないと、私も含め人はすぐにイライラする。休日でも出先でも、いつでもつかまえられることが当たり前。逆に自分もつかまえてもらう体勢でいなければ、相手に不快感を与えてしまう。便利であるはずの文明に、縛られている。原発が止まって電力が滞ると、都市機能は麻痺し、経済すら滞る。提灯から提灯へ火を譲ったように、電力を国民皆で分け合わなければならない今、人々はそれぞれの立場で好き勝手なことを言い、混沌とした政治はこの期に及んでまだ国民の側を向うとしない。文明って、本当に人を幸せにしたのだろうか・・・と。

 「先生・・・わしゃ、先生の生まれた国を作れたかのぉ?・・・先生のように、優しゅうて、馬鹿正直な人間が、笑うて生きていける国を・・・。」

 坂本龍馬たち幕末の志士たちが命を賭けて目指した未来の国家像は、今のようなものだったのだろうか・・・。もし、彼らが現代の日本と日本人の姿を見たら、どう思うだろうか・・・。

 「こりゃぁ、もういっぺん日本を洗濯する必要がありそうじゃき!」
 そんな龍馬の言葉が聞こえてきそうだ。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-21 19:12 | その他ドラマ | Trackback(3) | Comments(3)