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西郷どん 第38話「傷だらけの維新」その1 ~西郷吉二郎の戦死~

 上野の彰義隊をわずか一日で討伐し、不完全ながらも江戸の街を鎮圧した西郷吉之助(隆盛)は、慶応4年5月28日(1968年7月17日)に京都に向かうべく江戸を発ちます。これは、新政府軍に抵抗の姿勢を示していた会津藩をはじめとする東北諸藩の対応策を協議するためでした。そこで新政府軍の兵力強化の必要性を感じた西郷は、国元からの援軍を得るためため、6月9日、藩主・島津忠義とともに京都を発ち、鹿児島に向かいます。


e0158128_15445401.jpg 6月14日に鹿児島に帰った西郷でしたが、越後方面での戦いで新政府軍が苦戦を強いられているとの報せを受け、8月6日、一大隊の薩摩藩兵を伴い、春日丸で越後に向けて出発します。越後長岡藩7万4千石の小藩でしたが、長岡藩兵は近代的な訓練最新兵器の武装を施されており、また、執政の河井継之助の巧みな用兵と指揮により、一時は新政府の大軍を押し返すほどの抵抗を見せます。戊辰戦争の中でもひときわ激戦と伝わる越後長岡藩との激闘は、6月、7月と展開されますが、7月29日に新政府軍が長岡城を陥落させたことで、ほぼ収束していました。そのあと、8月10日に西郷率いる援軍が越後に上陸します。ドラマでは、西郷が軍議に参加して指揮をとっていましたが、実際には、この戦いには参加できなかったんですね。


e0158128_15131310.jpg越後に上陸した西郷は、辛い現実と直面することになります。すぐ下の弟・西郷吉二郎の死です。ドラマでは、吉二郎は兄の西郷とともに鹿児島を発ってこの戦いに参戦したように描かれていましたが、実際には、もっと以前から参戦しており、越後長岡藩との戦いでは、番兵二番隊の監軍として従軍しています。吉二郎は、れっきとした薩摩兵の幹部でした。ところが、兄の西郷が越後に上陸する8日前の8月2日、五十嵐川の戦いにおいて銃弾を受け、その傷がもとで12日後の8月14日、越後高田の病院で死去します。享年36。


 吉二郎は西郷とは5歳違いの弟で、次男ということもあって、兄の西郷が長年にわたって藩外での活動に奔走するなか、不在中の長兄に代わって、一家の面倒を見ていました。また、西郷が奄美大島徳之島、沖永良部島に流刑になっていたときも、困窮のなか一家を支えていたのも吉二郎でした。吉二郎がいたからこそ、西郷が思う存分国事に奔走できたといっても過言ではなく、そのため、かねてから西郷は、吉二郎に対して常に感謝の気持ちを忘れず、弟でありながら、兄のように敬っていたと言われます。そんな弟の死によって西郷が受けたダメージは、計り知れないものがあったでしょう。西郷はその吉二郎の死について、奄美大島の知人に宛てた手紙に次のように記しています。


将又(はたまた)愚弟吉次郎には越後表に於て戦死いたし残念此の事に御座候。外の両弟は皆々無難罷帰り、仕合せの次第に候。拙者第一先に戦死致すべき処、小弟を先立たせ涕泣いたすのみに御座候。御悲察給るべく候。


 自分が真っ先に戦死すべきところを、弟を先に死なせてしまったと、悲痛な心情を訴えています。こののち西郷は、毎年、吉二郎の命日には自ら謹慎したと伝わります。


e0158128_15491606.jpg 会津戦争はまったくのスルーでしたね。まあ、西郷は北越戦争のあと庄内藩に転進しており、会津戦争には従軍していませんから、このスルーはやむを得ないかもしれませんが、ただ、西郷の国民的人気を不動のものにしたといっていい庄内藩の処遇についての逸話がまったく描かれなかったのは驚きです。一連の戊辰戦争のなかで、最後まで新政府軍に抵抗していたのが庄内藩でしたが、その降伏後、庄内藩に進駐したのが西郷率いる薩摩藩兵でした。庄内藩は前年に起きた江戸薩摩藩邸焼討事件からの因縁もあり、だれもが厳しい処分を覚悟していましたが、ところが、庄内藩に進駐した西郷の態度は一事が万事、礼儀正しく慈愛に満ちたものでした。そして、庄内藩に対しての処分もすこぶる寛大で平和的なものだったため、藩主の酒井忠篤、家老の菅実秀などは西郷に心服してしまい、以後、庄内の人々は西郷に対する敬愛の念を抱き続け、明治3年(1870年)には、忠篤自身が藩士70余名を伴って鹿児島に赴き、数ヶ月に渡って西郷の教えを乞うなどの交流を持ちます。そして西郷没後の明治22年(1889年)には、西郷から受けた恩に報いようと、後世に読みつがれることになる西郷の語録『南洲翁遺訓』が、庄内藩士によって編纂、刊行されるに至ります。ある意味、後世の西郷像を決定づけたエピソードとも言ってよく、他の話を削ってでも、これは必ず描くだろうと思っていたのですが・・・。作品内の割愛のポイントがよくわからないですね。


 ちなみに、ドラマ内で西郷従道が戦争を好まない平和主義者のような描かれ方をしていますが、これも、その意図がよくわかりません。従道は明治維新後、陸軍卿海軍大臣など、軍事畑一筋の人生を歩んだ人です。若き日の従道がドラマで描かれているような反戦思想の人物だったとはとても思えないのですが、大河ドラマでは、登場人物のなかに必ずこのような平和主義者を作らないとダメなんですかね。だとしても、それは従道の担当ではないような・・・。脚本の意図がよくわからないですね。


 ちなみにちなみに、余談ですが、吉二郎の死に西郷が涙するシーンで、「巨人菅野投手がノーヒットノーラン」との速報テロップが出ましたが、あれ、どう考えても邪魔でしたよね。一刻を争う災害の速報などならともかく、巨人ファンしか喜ばないようなどうでもいいニュースのテロップを流して、せっかくの感動シーンを台無しにしてしまいました。この配慮のなさは、2010年の『龍馬伝』の最終回の龍馬暗殺のシーンで愛媛県知事選の当確速報という他府県人にはどうでもいいテロップを流して批判されていましたが、あのときと同じです(参照:龍馬伝最終回の、配慮に欠けた速報テロップの風刺漫画に笑う。)。あんなテロップを出したら視聴者が興ざめすることはわかりそうなものですが、おそらく、NHKの報道部のおごりなんだろうと想像します。放送局内部では、報道部が他のどの制作部よりも力を持っているという話を聞いたことがありますが、天下の国営放送の報道部ですからね。娯楽番組など、端から下に見ているのでしょう。


 さて、西郷が戦地を転戦している間、大久保利通は京都で新政府の基礎づくりに精力を注いでいました。「その2」では、ドラマで描かれなかった大久保の働きをお話します。



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by sakanoueno-kumo | 2018-10-15 15:51 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)