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赤穂高取峠の早駕籠像に見る、浅野内匠頭刃傷沙汰の報せにかかった労力と経費。

前稿までシリーズ5回に分けて赤穂城跡めぐりを紹介してきましたが、その帰路、赤穂市と相生市の境にある高取峠にある駕籠かきの像が目に入り、立ち寄ってみることにしました。


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駕籠かきが4人いるので、早駕籠のようですね。


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説明板によると、この早駕籠は元禄14年(1701年)3月14日に江戸城松之廊下で勃発した浅野内匠頭長矩刃傷沙汰を知らせるための使者が乗った駕籠だそうです。


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事件が起きたのは3月14日。

第1報の使者は早水藤左衛門萱野三平の2人でした。

彼らが江戸を発ったのは当日の未の下刻(午後3時半頃)で、赤穂城に着いたのが3月19日の寅の下刻(午前5時半頃)だったといいますから、江戸から155里(約620km)の距離を、わずか4日半で走行したことになります。

1日に140kmほど進んだことになりますね。

普通にだだ走るだけでも大変なのに、駕籠を担いで走るわけですからね。

しかも、ジョギングシューズじゃなく、わらじで。

どのくらいの頻度で担ぎ手が交代するのかはわかりませんが、おそらく昼夜ぶっ通しで走らないと不可能なスピードで、ちょっと想像を絶しますね。


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それと、駕籠かきは駅ごとに交代するでしょうが、乗ってるほうは変わらないですから、4日半ぶっ通しでこの狭い駕籠のなかというのも、エコノミー症候群になりそうです。


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早水と萱野が持ち帰った報せは、刃傷沙汰のみでした。

しかし、浅野内匠頭長矩はその日のうちに切腹させられましたから、ふたりはそれを知らずに江戸を発ったわけです。

そのため、長矩の切腹と赤穂藩の取り潰しを報せる早駕籠が、その日の夜更けに江戸を発っています。

その第2報の使者は原惣右衛門大石瀬左衛門でした。


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ここで少し俗な話しをすると、この2回の報せをするために、どれほどの労力経費がかかったのでしょう?

今でも、もし東京から赤穂までタクシーで行ったら、ちょっと想像つきませんが、たぶん10万円20万円ではきかないんじゃないでしょうか?

この当時の駕籠も同じで、決して安い交通機関ではありませんでした。

少し時代があとになりますが、天保年間(1830~44年)ごろの町駕籠の運賃は1里あたり400文(約1万円)ほどと言われ、担ぎ手が4人だと、その倍かかりました。

となると、155里の距離を1里2万円で計算すると、なんと310万円

かけることの早水、萱野、原、大石の4人ですから、このとき4人が使った早駕籠代は1,240万円ってことになります。

長距離割引があったかどうかはわかりませんが、深夜割増もあったかも。

お家の一大事ですからそんなこと言ってられなかったでしょうが、大きな出費ですよね。

これ、必要経費で落ちますかね?


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あと、どれだけの労力を費やしたかを考えてみると、駕籠かきがどれくらいの頻度で交代するのかわかりませんが、たぶん、1回のチームが走行できる距離は20kmくらいが限界なんじゃないでしょうか?

となれば、620km進むのに、31回交代したことになります。

かけることの1チーム4人ですから、ひとりの早駕籠に対して述べ124人が担いだことになり、さらに早水、萱野、原、大石の4人ですから、なんと担ぎ手の総人数は496人

すごい労力ですね。

長矩がもうちょっと我慢していれば、これほどの無駄な労力と経費はかからなかったわけです。

もちろん、お家断絶四十七士の死といった不幸に比べれば小さなことですが、そんな小さなことひとつ取ってみても、やっぱ、藩主の行動としては、浅はかだったといえるのではないでしょうか。


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ちなみに歴史の話を少しすると、早駕籠に乗って帰国した早水、萱野、原、大石の4人のうち、萱野以外は四十七士に名を連ねて吉良邸討ち入りに参加し、武士としての本懐を遂げることになりますが、萱野三平は、赤穂城開場後に父から吉良家と繋がりの深い大島家へ仕官するよう強く勧められ、同志との義盟や旧主への忠義と父への孝行との間で板ばさみになって苦しみ、切腹して果てます。

無念だったでしょうね。


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わたしがここを訪れたのは桜が満開の4月9日でしたが、彼らを乗せた早駕籠がこの峠を通過したのは、旧暦の3月19日、いまの暦で言えば4月21日でした。

昔の気候でいえば、あるいは桜がまだ咲いていたかもしれませんね。

ふと、立ち寄った高取峠で、そんなことを思いながら赤穂をあとにしました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-23 11:55 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その5 「水手門、塩屋門」

「その4」の続きです。

シリーズ最後は、赤穂城二ノ丸南側の水手門跡からスタートです。


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かつて赤穂城の南はヨシ原が広がる干潟に面していて、満潮時には海水が石垣に迫るほどだったそうです。

ここ水手門は、赤穂湾に出るための船着き場だったそうです。


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こちらはその説明板。


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現在、水手門の南には水堀があります。

海はこれより1km以上南。

往時とはまったく地形が変わってしまっています。

地面に見られる四角い礎石跡は、おそらく門の痕跡なんでしょうね。


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外から見た水手門跡です。

突堤の下に雁木があるのがわかりますね。

時代劇なんかを見てると、ああいった雁木の石段に船をつけてますよね。


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突堤は現在、城の外と中を結ぶのような役割になっていますが、往時の突堤は、防波堤の役割でした。


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突堤から見る石垣越しのが綺麗です。


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水手門を出て、城跡外周をぐるっと歩いて三ノ丸西側にやってきました。

写真は西隅櫓台跡の石垣。

往時はこの台の上に二重櫓があったそうです。

ただ、その横の石垣が無残に倒壊しています。


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こちらは西隅櫓台の少し北にある塩屋門跡

赤穂城搦手門にあたります。

枡形虎口の形状ですが、高麗門だけで櫓門はなく、奥に太鼓楼があったそうです。


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その案内板です。

古写真にその姿が見られます。


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説明板によると、元禄14年(1701年)3月14日に藩主・浅野内匠頭長矩が起こした刃傷沙汰で、その第1報を持った早水藤左衛門萱野三平と、そして切腹と赤穂藩の取り潰しを知らせる第2報原惣右衛門大石瀬左衛門が入ったのがこの門だったそうで、また、4月19日の城の明け渡しの日に、備中国足守藩第5代藩主の木下公定が通ったのも、この門だったそうです。


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塩屋門の片隅には、歌人・良寛の歌碑が。


山おろしよ いたくなふきそ しろたえの ころもかたしき たびねせし夜は


良寛が諸国行脚の途中、赤穂に立ち寄った際に詠んだ歌だそうですが・・・スミマセン、意味がわかりません(笑)。

和歌のわかる人、誰か解説してください。


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塩屋門とは真反対の三ノ丸東側にある、清水門にやってきました。

ここは、他の門とくらべて小さな門に見えます。


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説明板によると、元禄14年(1701年)4月19日、幕府に城を明け渡したあと、大石内蔵助良雄が退城したのがこの門だったそうです。


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清水門南側には、二重櫓が建っていた二ノ丸東北櫓台があります。

やけに石垣がきれいなので、たぶん復元かと思われます。


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その向かいには、米蔵をイメージしたという歴史博物館があります。


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清水門北側の堀と石垣です。

桜が綺麗ですね。


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で、城跡を1周して「その1」で紹介した大手門に戻ってきたのですが、この日は「春の義士祭」というお祭りの日だったようで、大手門から女性四十七士の行列が出来ました。

毎年4月の第2日曜日に開催されているそうです。

せっかくなので写真を掲載します。


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先頭を歩くのが大石内蔵助良雄とすれば、その後ろを歩く女性の槍の先に吊るされた白布の包が、吉良上野介義央の首でしょうね。


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思わぬパレードに遭遇したところで、赤穂城シリーズを終わります。

最後に、日本100名城スタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-02-22 02:03 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その4 「元禄桜苑」

「その3」の続きです。

赤穂城本丸の東側にある厩口門を出て、二ノ丸南に向かいます。

写真は、本丸側から見た桜と厩口門の高麗門


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天気が曇りじゃなかったら、もっと綺麗だったでしょうね。


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門の外にも桜が見えます。


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こちらは本丸の外から見た厩口門。


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正保2年(1645年)に入封した浅野長直によって築かれた赤穂城ですが、浅野家は3代当主の浅野内匠頭長矩刃傷事件が起こり、改易となります。

城は一旦、お隣の播磨龍野藩主・脇坂安照の預かりとなりますが、その後、下野国烏山藩より永井直敬が3万3,000石で入封。

しかし、直敬はわずか4年で転封となり、代わって備中国西江原藩より森長直が2万石で入部。

以後、明治4年(1871年)の廃藩置県までの12代、165年間、森家が赤穂城主を務めます。


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説明板によると、この門が厩口門と呼ばれていたのは浅野家時代で、森家の時代には「台所門」と呼ばれていたそうです。


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その厩口門もしくは台所門から内堀に沿って南に向かいます。


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桜並木が見えてきました。

石垣が切れている部分は、前稿で紹介した刎橋門跡です。


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こちらが二ノ丸側からみた刎橋門跡。


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そのまま南に進むと、内堀最南端に隅櫓跡の石垣があります。

横矢掛けの形状をしています。


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本丸西側の二ノ丸は市民憩いの芝生広場公園として整備されており、元禄桜苑と名づけられた花見の名所となっています。


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この日は天気が良くなかったので、あまり花見客はいませんでしたが、たぶん、いつもはもっと賑わっているのでしょう。


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水面に映る逆さ桜


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晴れてたらもっと綺麗だったでしょうね。


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元禄桜苑の最北端には、「その2」で紹介した二ノ丸庭園に入る西仕切門があります。

ただ、二ノ丸庭園は整備中のため、平成29年(2017年)4月現在、この門はまだ閉じられたままです。


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元禄桜苑最南端には、南沖櫓台があります。


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土塁を登ってみました。

南沖櫓台の外側には、現在外堀が巡らされていますが、かつてはこの先はだったそうです。


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南沖櫓台から見た土塁と桜です。


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南沖櫓台の東側にある水手門跡の向かい側に、米蔵があります。

この米蔵の建物は復元で、現在は休憩所になっています。

説明板によると、古絵図や古文書によると、かつてこの場所に2棟ないし3棟の米蔵があったそうです。


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さて、本丸、二ノ丸と攻略しましたが、もう1回だけシリーズを続けます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-20 16:49 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

江戸城を歩く。 その6 「本丸」

「その5」のつづきです。

中雀門を入ると、本丸跡です。

現在は芝生広場になっていますが、かつてはここに本丸御殿がありました。

御殿など建物は、長い江戸時代のなかで何度も焼失しては再建されてきましたが、文久3年(1863年)の火災で焼失し、その後は再建されませんでした。


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御殿は南から表・奥・大奥の三区域から成り、江戸時代初期にはその奥に天守がありました。

その広さは約3 万4540 坪に及んだそうです。

表は政務を行うために政庁で、多くの役人が詰めていました。

奥は将軍の生活の場で、今で言うところを首相官邸のような場所でした。

そして、大奥は御台所を中心とした奥女中生活の場で、全盛期には400人ほどの奥女中が居住していたといいます。

あの春日の局天障院篤姫が暮らした場所ですね。


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表と奥には明確な境界はなかったそうですが、奥と大奥は厳重に区画され、御鈴の廊下だけで繋つながっていました。

時代劇で将軍様が大奥に渡るときに通る、あの廊下です。


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本丸最南端にある富士見櫓です。


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かつて江戸城には多くの櫓がありましたが、現在残っているのは、西の丸の伏見櫓、三の丸の巽櫓、そしてここ本丸の富士見櫓の3つだけです。


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富士見櫓は明暦の大火(1657年)で天守とともに焼失しましたが、その後、再建。

天守が再建されなかったため、富士見櫓が天守の代用として使用されたと伝わります。

江戸時代、将軍がここから富士山品川の海を眺めたと伝えられます。


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富士見櫓はどこから見ても同じ形にみえるために、俗に八方正面の櫓とも呼ばれているそうです。

もっとも、現在は柵で囲われていて、1角度からしか見られませんが。


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富士見櫓から北に向かってしばらく歩くと、「松の大廊下跡」と刻まれた石碑と説明板があります。

あの忠臣蔵でお馴染みの松の廊下ですね。


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時は元禄14年3月14日(1701年4月21日)、ここ江戸城松の廊下において、播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、高家旗本の吉良上野介義央に斬りつけるという刃傷沙汰がありました。

浅野内匠頭は即日切腹のうえ、お家はお取り潰し。

かたや吉良上野介はお咎めなし。

これが、翌年の赤穂浪士討ち入りにつながっていくんですね。


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この刃傷沙汰の経緯については、講談などで語られてきた悪玉=吉良のエピソードとは、実際にはずいぶん違っていたようです。

その話をしだすと長くなるので、いずれまた、別の機会に。


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松の大廊下跡から少し北上すると、本丸西側に面した富士見多聞があります。

江戸城には多くの多聞がありましたが、現存するのは、西の丸の伏見櫓の左右にある多聞と、ここ本丸の富士見多聞だけです。

富士見多聞は、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火(1657年)のあとに建てられたと考えられています。


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富士見多聞のなかは見学できます。


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窓です。


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富士見多聞のすぐ近くにある石室です。

説明板によると、石室の用途は諸説あるそうですが、かつてこのあたりは大奥があった場所だそうで、大奥用の調度などの避難場所と考えられているそうです。


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本丸広場の桜並木

ここを訪れたのは4月7日で、まだ桜が残っていました。

曇っていたので、写真ではあまり綺麗には見えませんが。

その向こうに見える石垣が、天守台です。

「その7」では、その天守台に向かいます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-14 23:59 | 東京の史跡・観光 | Comments(0)