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西郷どん 総評

 「幕末」と呼ばれる時代はいつからいつまでを言うのか、という話題になったとき、その始まりは「黒船来航」からという意見で概ね一致しますが、その終わりとなると、ある人は「王政復古の大号令」だといい、別の人は「戊辰戦争の終結」だといい、いやいや「廃藩置県」だろうという人もいれば、「西南戦争の終結」まで幕末は続いていたという人もいて、なかなか解釈が定まりません。


 わたしの個人的意見を述べさせてもらうと、「幕末」「幕」「幕府」「幕」と解釈すれば、幕府政権の終わり、すなわち大政奉還から王政復古の大号令にかけてとなるのでしょうが、古い時代の「幕引き」、新しい時代の「幕開け」という意味での「幕」と考えれば、わたしは侍の時代にピリオドが打たれた西南戦争の終結までが幕末ではなかったかと思います。で、その幕末の最初から最後まで登場するのが、今年の大河ドラマ『西郷どん』の主人公である西郷隆盛です。


 たとえば、幕末の志士のなかで人気ナンバーワン坂本龍馬を主人公にした場合、物語は大政奉還で終わってしまいます。司馬遼太郎さんはその大政奉還を大きなクライマックスに見立てて、あの名作『竜馬がゆく』を生み出しましたが、実際には、大政奉還は確かに大きな節目ではありましたが、維新改革の観点で言えば序章にすぎません。また、もうひとりの人気者である高杉晋作などは、さらに早く死んでしまうため、彼を主人公とする『世に棲む日日』は、これから歴史が大きく動くというところで物語が終わっちゃうので、大河ドラマにはし難いでしょう。その点、西郷隆盛の物語は、黒船来航から西南戦争まで、幕末の始めから終わりまですべて描ける。戦国三英傑の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を比べたとき、その後世の人気度でいえば1信長、2秀吉、3家康という順番になるかと思いますが、物語にすると、家康ものが俄然面白い。というのは、桶狭間の戦いから大坂夏の陣まですべて描けるからに他なりません。その論でいえば、幕末はやはり西郷なんですね。


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 で、そんなミスター幕末・西郷隆盛を主人公にした大河ドラマは、30年前の『翔ぶが如く』以来、2度目の作品となります。わたしは、『翔ぶが如く』はわたしの知る限り3本の指に入るほどの名作だったと思っているので、どうしても、それとの対比になっちゃうのですが、今年の大河ドラマ『西郷どん』は、わたしにとってどうだったかといえば、正直に言って名作とはいえない残念な作品となりました。同じ西郷を主人公とした伝記ドラマであるはずの『翔ぶが如く』と『西郷どん』は、似て非なるものだったと言わざるを得ません。


 その理由はいくつも挙げられますが、いちばんの理由は、取捨選択のマズさと創作稚拙さでしょう。西郷の志士としての生涯は長く、しかも濃い。それ故に史実に縛られること大で、また、伝承レベルの逸話も数多くあることから、それをすべて描こうとすれば、47話ではとても足りない。だから、割愛しなければならないのは仕方がないことですが、その取捨選択があまりにも下手で、理解しがたいものでした。少しでも歴史を知っている人であれば、きっと、何でここをスルーしちゃうんだ?と思ったことは一度や二度ではなかったのではないでしょうか? それが最も顕著に表れているのが、時系列の構成。全47話中、戊辰戦争までの幕末期が38話あったのに対し、維新後の明治期はたった9話。当然ですが、明治期のひとつひとつの歴史的出来事の描き方は粗雑となり、無理やり短縮したり解釈を変えることによって、とても歴史ドラマといえるものではなくなってしまいました。ちなみに、先述した『翔ぶが如く』では、幕末編が29話で、明治編が19話でした。これでも、もっと明治期を描いてほしかったと思ったほどでしたから、このたびの9話というのが、いかに短縮されていたかがわかるかと思います。


 では、その分、幕末期の話が充実していたかといえば、決してそうとは言えず、逆に無駄な話が多かった。それをいくつか挙げていくと、まず、島津斉彬の死までが長かった。たしかに、斉彬は西郷の生涯にとって欠かせない重要な登場人物ですが、西郷と共に過ごした時間は短く、西郷の志士としての長い生涯においては、序章に過ぎません。しかし、今回のドラマでは、斉彬の死までに実に16話も費やしています。しかも、たいして面白くもない創作話をたくさん盛り込んで。明らかにここは無駄だったでしょう。あるいは、斉彬役に超ビッグなハリウッドスターをキャスティングしたため、早く死んでもらうわけにはいかなかったのでしょうか? だとすれば、本末転倒な話ですね。民放の月9ドラマだったら、俳優さんありきで物語が構成される場合も多々あるでしょうが、歴史ドラマにおける俳優さんはあくまで影武者であって、重点をおくべきは、歴史上の人物です。


 それから、篤姫とのラブコメ話もいらなかった。篤姫と西郷の関係は、篤姫の輿入れ時に、その輿入れ道具の調達を任された、ただそれだけの関係です。フィクションがダメだと言ってるわけではありません。ドラマが100話あるんだったら、そういう遊びの回があってもよかったでしょうが、限られた尺のなかで、大事な歴史のエピソードを削ってまでも描かなければならなかったとはとても思えません。それと、ヒー様との意味不明な友情話も不要。あれ、何が描きたかったのか、わけがわかりません。あと、西郷と何ら関わりがなかったであろうジョン万次郎の話もいらなかったですし、それから、坂本龍馬の出番も多すぎた。わたしは、スマホの待受画面を坂本龍馬にするほどの龍馬ファンですが、だからといって、何でもかんでも龍馬人気に肖ろうとする傾向は好きではありません。坂本龍馬の人生にとっては西郷との出会いは重要な出来事だったかもしれませんが、西郷の人生にとっては、坂本龍馬はそれほど重要な人物ではありません。薩長同盟のくだりで少し登場すればいい程度の存在です。龍馬とのエピソードを描くくらいなら、西郷に大きな影響を与えた橋本左内藤田東湖(今回のドラマには登場すらしなかった)との関係を、もっと描くべきだったんじゃないでしょうか? これらの無駄な回をなくすだけでも、ずいぶん幕末編を短縮できたでしょうし、その分、明治編をもっと丁寧に描けたように思います。


それから、人物の描き方についてですが、開明派が賢者で、保守派が愚者という解釈も、相変わらず短絡的すぎるような気がします。例えば島津久光などは保守派の代表のような人物ですが、決して愚人というわけではなく、あと半世紀ほど早く生まれていれば、名君として後世に名を残していたかもしれません。一方で、島津斉彬勝海舟といった開明派は、時代が違えば、奇人変人扱いだったかもしれず、実際に斉彬も勝も、当時の社会のなかでは、敵が多く理解者は少ない存在でした。特に斉彬は、西郷というフィルターを通してみれば名君だったでしょうが、そのあまりにも革新的な考えを実行するために、振り回され、翻弄され、酷使されて使い捨てられた家臣もたくさんいました。斉彬と久光、どちらが薩摩藩にとって名君だったかは、一概には言えないんです。ドラマですから、ある程度分かりやすくするために善悪で描かれるのは仕方ないにしても、賢愚で描くのは、そろそろ見直してほしいと思います。


e0158128_20152636.jpgで、西郷の人物像についてですが、彼の場合、これまで多くの物語などで描かれてきた西郷がそうであったように、結局はつかみどころがない開明的なのか保守的なのか、賢人なのか愚人なのか、革命家なのか政治家なのか軍人なのか、西郷の言動や行動をいくら検証しても、ついぞ見えてこないんですよね。ある人は、西郷は自身が起こした革命を自らの死によって完成させたといい、またある人は、もう一度革命を起こして維新をやり直そうとしていたといい、また別の人は、自らの役目を終えたあとの死に場所を探して彷徨っていたと説きますが、どれも、そうともとれるし、でも腑に落ちません。司馬遼太郎さんは維新前の西郷と維新後の西郷とを、まるで別人と評しているのに対し、海音寺潮五郎さんは、維新前と維新後でまるで人が変ってしまうことなどあろうはずがないといっています。かつて司馬さんが執筆した『翔ぶが如く』を読んだ海音寺さんが、「司馬君でもまだ西郷を描ききれていない。」と評したという話がありますが、それほど、西郷という人物は、計り知れない人なんですね。


 そんな評価の難しい西郷ですが、素人のわたしなりに思う西郷像は、パートナーがあってこその西郷だったんじゃないかと思っています。つまり、西郷は維新第一の英雄となりましたが、自身の強烈な指導力で牽引するヒトラーのようなカリスマ革命家ではなく、誰かにサポートされて、もっといえば、誰かに操られて、その事績を成し得た珍しいタイプの革命家だったといえます。その西郷を操っていたのが、若き日は斉彬であり、革命期は大久保利通だったんじゃないかと。「操っていた」というと聞こえが悪いですが、決して彼らが西郷を見下していたというわけではなく、斉彬や大久保にはない人間的魅力を西郷は持っていて、その西郷の人間力を大久保たちは利用し、また、助けられてもいた。そんなギブアンドテイクの関係が成立していて、英雄・西郷隆盛が作られていったのではないかと思います。実際、斉彬は若き日の西郷を評して、「西郷を使いこなせるのは自分だけだ」と言っていたといいますし、斉彬亡きあと、ともすれば暴走しかねない西郷の手綱をさばいていたのは、大久保でした。西郷は西郷ひとりの力で西郷となったわけではなく、斉彬、大久保がいてこその西郷だったのではないかと。


 ところが、征韓論政変以降、西郷をいい意味で操る人間がいなくなり、西郷が身を預けたのが、桐野利秋別府晋介といった若いぼっけもんたちだった。彼らに西郷を操れるだけの能力はなく、神輿に担ぎあげるのが精一杯だった。これが、西郷の不幸だったといえるでしょう。ひるがえって考えれば、結局、西郷はその人生において自らの意思で能動的に行動したことは一度もなく、斉彬に使われ、大久保に操られ、最後はぼっけもんたちに担がれるという傀儡の生涯だったんじゃないかと。ちょっと西郷ファンには申し訳ないですが。


 今回のドラマの西郷は、これまでにないエネルギッシュな西郷でしたね。それはそれで悪くはなかったと思いますが、残念ながら西郷の生きた歴史、西郷が行った功績がほとんど描かれていなかったため、ただエネルギッシュな良い人、というだけでした。歴史上の英雄というのは、善きにせよ悪しきにせよ清濁併せ呑む人物だったからこそ英雄たり得たわけで、そこが偉人たちの魅力でもあります。そんな歴史上の英雄のなかでは、珍しく西郷は道義を重んじる人格者ではありましたが、西郷とて決して聖人君子ではありません。だから、ドラマ内の「皆が腹いっぱい食える世の中にしたい」というあの台詞を聞くたび、興ざめしていました。そんな、世のため人のために生きてませんよ、人は皆。西郷は道義主義者でしたが、彼の道義はあくまで当時の武士階級の道徳であり、士族至上主義でした。幕末期の西郷は薩摩藩の立場を守るために活動し、明治期の西郷は、薩摩士族のために働いた。ひいては、それが自身のためでもあったんです。決して、世のため人のためといった綺麗事で幕府を倒したわけではありません。自分たちのためです。民百姓のことなんて、眼中になかったと思いますよ。


 それらの人物像歴史解釈、フィクション部分を見ても、どうにも稚拙な描き方に思えてならない今年の大河ドラマでした。勘違いしないでほしいのは、わたしは、フィクションがダメだと言っているわけではありません。でも、全47話という限られた尺のなかで構成するわけですから、そこは、センスが問われるところだと思います。歴史ドラマといえどもエンターテイメントですから、フィクションは不可欠だと思いますし、そこには独自解釈があってもいいでしょう。ですが、歴史ドラマにおけるフィクションは、作り手の知識に裏付けされたセンスが必要だと思います。本作品の原作の林真理子さんと脚本の中園ミホさんに、どれほどの知識の裏付けがあるのかは知りませんが、想像するに、幕末維新の歴史も、西郷隆盛という人物のこともあまり知らずに、執筆依頼があってからにわか知識を放り込み、その程度の知識で作品を書かれたんじゃないでしょうか。


何年か前に、NHK-BSの『英雄たちの選択』で西郷隆盛が採り上げられたとき、パネラーで林真理子さんが出演されておられましたが、そのとき、林さんはあまり西郷のことを知っておられない様子でした。たぶん、あのとき既に大河作品の執筆依頼があって、にわか勉強中だったのでしょうね。ただ、残念ながら、にわか知識で書けるほど、西郷隆盛の生涯は単純じゃないです。どれだけ売れっ子の作家さんであっても、歴史ドラマは、歴史に精通していなければ書けないと思いますし、書くべきではないとわたしは思います。歴史の知識が浅い人が歴史ドラマを書くと、フィクションも的外れでトンチンカンなものになります。ピカソは、写実画を極めた上であの画風に行き着いたのです。デッサン力のない者が抽象画を書いても、ただの下手な絵でしかありません。歴史をしっかりと勉強した人にしかフィクションの歴史は書けないのではないでしょうか。


 というのも、ここ近年、やたらと女性の脚本家さんの作品が続きますよね。女性が主人公の作品だけならまだしも、それ以外も、2008年の『篤姫』以降の11作品中、8作品が女性の脚本家さんです。これ、どういうことでしょう? 女性がダメだとは言いませんが、この比率は明らかに偏っています。ここからはわたしの想像ですが、偏見かもしれませんが、男性の脚本家さんは、大河ドラマの脚本の難しさがわかるから、歴史にそれほど精通していない人は、オファーがあっても容易に引き受けないんじゃないかと。ところが女性の脚本家さんは、その難しさを考えず、にわか知識だけで安直にオファーを引き受けちゃうんじゃないかと。わたしの勝手な想像ですが、11作品中、8作品が女性というのは、どう見ても普通じゃないですよね。その背景には、そんな事情が隠されているように思えてなりません。それが、近年の大河の質の低下を引き起こしている原因じゃないかと。だとすれば、幕末維新じゃないけど、大河ドラマも根本的な改革が必要な時期に来ているのかもしれません。


 いささか辛口な批判ばかり述べてきましたが、最後に、鈴木亮平さんの西郷隆盛は良かったと思います。ここだけで言えば、『翔ぶが如く』の西田敏行さんより良かったかも。西田さんも良かったのですが、いかんせん背丈が・・・。その点、鈴木隆盛は申し分ない体躯と存在感でしたし、もちろん演技も、特に後半は本物の西郷もこんな感じだったんじゃないかと思えてくる程でした。それだけに残念、というしかありません。


 気がつけば、ずいぶん長文になってしまいました。厳しい意見ばかり吐いてきましたが、毎週面白いと思って観ておられた方には申し分ありません。それだけ今年の大河ドラマには期待していたということで、ご容赦ください。それでは、このあたりで『西郷どん』のレビューを終えたいと思います。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてアクセスいただいた方々、どなたさまも本当にありがとうございました。


●1年間の主要参考書籍

『西郷隆盛』 家近良樹

『大久保利通と明治維新』 佐々木克

『西郷内閣』 早瀬利之

『西郷隆盛101の謎』 幕末維新を愛する会

『幕末史』 半藤一利

『もう一つの幕末史』 半藤一利

『西郷と大久保二人に愛された男 村田新八』 桐野作人・則村一・卯月かいな

『翔ぶが如く』 司馬遼太郎

『歳月』司馬遼太郎

『西郷隆盛』 海音寺潮五郎

『西郷と大久保』 海音寺潮五郎


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by sakanoueno-kumo | 2018-12-21 00:07 | 西郷どん | Trackback | Comments(6)  

西郷どん 第42話「両雄激突」その2 ~征韓論~

 昨日のつづきです。

話はいよいよ「征韓論」の政争に突入しました。「征韓論」とは、読んで字のごとく、お隣の朝鮮出兵して征服する、あるいは、武力を後ろ盾に政治体制の変革を迫るという主張です。このときより遡ること約20年前、日本も米国ペリー艦隊の来航によって開国を迫られ、それをきっかけに幕末の動乱がはじまり、長く続いた封建国家体制が崩れ、近代国家を目指すべく明治政府が樹立されましたが、今度は、そのペリー艦隊の役目を日本が行おうとし、明治新政府が成立して以来、政府は朝鮮国に対して、日本と欧米諸国との関係のような、近代的な国際関係に基づいた新たな国交を結ぼうと交渉を続けてきました。しかし、まだ鎖国状態にあった朝鮮国にとってはありがた迷惑な話で、日本も「洋夷」である欧米諸国と同じだとして拒否し続けていました。つまり、かつて日本が諸外国に対して「攘夷」を訴えたように、朝鮮国も、日本を攘夷の対象としていたんですね。


 朝鮮国外交については、豊臣時代から徳川期を通じて、その地理関係から対馬藩が担当していました。発足したばかりの明治政府は、さっそく対馬藩から外交官を派遣し、王政復古を通告しました。しかし、朝鮮は「貴国の文書の形式がこれまでと違う」といって、これを拒絶します。朝鮮にしてみれば、いきなり西洋化した人物が現れて「天皇」とか「皇室」などといった見慣れぬ文字が並んだ文書を突きつけられても、警戒心しかなかったのでしょうね。誕生したばかりの新政権を、いつまで続くかわからない不安定な政権と見ていたのかもしれません。


 ところが、新政府はこの朝鮮国の態度を非礼であるとして、軍艦を派遣して朝鮮に圧力をかけようという、いわゆる「征韓論」を唱え始めます。当初、最も征韓論を主張していたのは木戸孝允でしたが、その後、まもなく木戸が下野したことから、新政府は朝鮮国の宗主国である清国との日清修好条規締結を優先させ、一時は征韓論も沈静化していました。しかし、明治6年(1873年)のこの時期になると、北の樺太問題や南の台湾問題など外交問題が深刻化し始め、そんななか、朝鮮半島に移住している邦人の保護も含めて、再び征韓論が声高に叫ばれるようになります。


e0158128_19013010.jpg 明治6年(1873年)6月の閣議で、あらためて対朝鮮外交問題が取り上げられました。この席で最も強硬論を主張していたのは、土佐の板垣退助でした。板垣は居留民保護を理由に朝鮮への派兵を主張します。しかし、留守政府の実質首相的立場だった西郷隆盛は、戦争となる危険性をはらんだ派兵は慎むべきだと反対し、まずは非武装外交使節を派遣し、外交交渉を尽くすべきだと主張します。そして、その使節には自分が就任し、朝鮮との交渉に当たりたいと主張しました。朝鮮への使節は、あるいは現地で殺されるかもしれない。そのような危険をはらんだ役目を、筆頭参議である西郷に任せるわけにはいかない。当初、太政大臣の三条実美も他の参議たちも激しくこれを反対しますが、西郷の自分が使節になるという希望は異常なほどに執拗で、その西郷の熱意に押し切られるかたちで、8月17日、とうとう閣議の席で西郷の派遣が合意となりました。


e0158128_15131310.jpg なぜ西郷がこれほどまでに朝鮮使節を志願したのか。その理由は今も謎のままです。一説には、自分が作った明治政府の腐敗した現状に憤りを感じていて死に場所を求めていた、と考える人もいますし、別の説では、自分が殺されることによって戦端を開くための大義名分ができ、不平士族の目を国外に向けることができると考えていた、という見方もあり、また、作家の海音寺潮五郎氏は、武力行使も辞さないとう態度を示しながら最終的には平和的解決に導くのが西郷の常套手段で、長州征伐の際に単身岩国に乗り込んで和議をまとめたこと、江戸総攻撃を目前に単身勝海舟と会談し、江戸城無血開城に導いたときなどのように、このときも、丸腰で単身朝鮮国に渡り、これをやろうとした、と説いています。そして、西郷ならば、きっとうまくことをまとめたに違いないと論じています。海音寺さんの西郷愛は尋常じゃないですから、そこは少し割り引いて考えるべきかもしれませんが、いずれにせよ、このときの動機を西郷が記した史料は存在せず、すべて後世の想像にすぎません。ただ、唯一、征韓論に西郷が触れた史料である明治6年(1873年)7月29日付で板垣退助に宛てた書簡のなかで、西郷は自分が殺されることを高い確率で想定しており、そのときは、「此より兵端を開き候わん」と記しています。やはり、西郷は朝鮮を討つための大義名分になろうとしていたのでしょうか・・・。


 8月17日の閣議で決定した西郷の朝鮮国派遣でしたが、ただし、事が重大であるがゆえ、最終的な決定は副大臣である岩倉具視の帰国を待ってということになります。これが、大きなドラマを生むことになるんですね。

 今話のサブタイトルは『両雄激突』でしたが、両雄激突は次回に持ち越しでしたね。つづきは次週の稿にて。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-13 23:59 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第15話「殿の死」 ~井伊直弼の大老就任と島津斉彬の死~

e0158128_20590455.jpg 安政5年4月23日(1858年6月4日)、彦根藩主の井伊直弼が幕府大老職に就任します。そのきかっけは、孝明天皇(第121代天皇)からの条約勅許獲得に失敗した堀田正睦が4月21日に江戸に戻り、第14代将軍・徳川家定に報告した際、堀田は松平春嶽を大老に就けてこの先対処したいと家定に述べたところ、家定は「家柄からも人物からも大老は井伊直弼しかいない」と言ったため、急遽、話が決まったといいます。


大老に就任した井伊は、6月19日に孝明天皇の勅許を得られぬまま日米修好通商条約調印します。この条約締結は周囲の反対を押し切っての井伊の専横のように思われがちですが、実は、井伊自身は熱心な尊王家で、ギリギリまで天皇の承認を得て条約を締結すべきだと訴えていました。しかし、情勢がそれを許さず、やむなく調印を認めるに至ります。尊王家としての思想を大老職としての立場が遮ったわけです。


 また、家定の将軍継嗣問題では、6月25日に紀州和歌山藩主の徳川慶福(のちの徳川家茂)を後継とする最終決定を下します。この問題ついては、井伊は予てから血筋が現将軍の家定に近い慶福を推す立場を取ってきましたが、これも、井伊の専横で決まったわけではなく、何より家定の意志に基づく決定でした。ドラマ中では、病床の家定の言葉をうまく利用して側近たちにガセ情報を流したように描かれていましたが、あれはドラマの創作ですね。井伊はそんな姑息な陰謀家ではなかったでしょう。ただ、井伊の基本的な考え方は、臣下が将軍継嗣などの問題には本来口を挟むべきではなく、あくまで将軍の意思に基づかねばならない、というものでした。その将軍・家定が慶福を強く推しているのだから、井伊にすれば、これは当然至極の決定だったわけです。


e0158128_18082794.jpg しかし、将軍・家定の岳父であり一橋派の急先鋒だった島津斉彬にとっては、この井伊の決定は許しがたいものでした。そこで斉彬は、形成逆転のプランを画策します。そのプランとは、斉彬自身が兵を率いて京都に乗り込み、勅命を奉じて幕政を改革し、公武合体を実現するというものでした。ドラマ中では、西郷吉之助(隆盛)の進言によって斉彬が上洛を決意していましたが、もちろんドラマの創作です。ここでいう「公武」とは、一般的な解釈の「朝廷」「幕府」だけを指すものではなく、この場合の「武」は、幕府と諸藩を意味しています。つまり、朝廷、幕府、諸藩三者が一体となった体制、すなわち挙国一致体制の国家構想でした。そして、その下準備のために、西郷は一足先に上洛していました。しかし、そこで西郷は、思いもしなかった報せを受けることになります。斉彬の死です。


 7月8日、斉彬は居城の鶴丸城下にあった調練場で軍事演習を敢行します。ところが、炎天下で操練を見守っていたせいか、極度の疲労状態となり、10日、11日になると高熱下痢に襲われ、16日に没します。享年50。あまりにも突然の死でした。


 その死因については、当初はコレラと診断されたそうですが、当時はまだ薩摩でコレラは流行っていなかったとして、のちに「細菌性赤痢」によるものと改められました。一方で、かつてのお由羅騒動の記憶が抜けない斉彬派の薩摩藩士たちのあいだでは、久光派による毒殺に違いないといったが当時から囁かれており、斉彬と親交のあったオランダ医・ポンペもその噂を耳にしたといいますが、当然ながら毒殺の証拠は見つかっていません。現在では学説的には否定されている毒殺説ですが、作家・海音寺潮五郎氏は毒殺説を支持しています。以下、海音寺氏の推理を抜粋します。


 『人を、しかも一藩の主を毒殺するということは、ありそうもないことと、現代人には思われる。しかし、江戸時代には往々行われている。現代になって、何かの必要があって江戸時代の諸藩主の墓を発掘した場合、遺体を調査してみると、毛髪や骨から多量の砒素が検出されることが、よくあるのである。「君は一代、お家は万代」とか、「君を以て尊しとなさず、社機をもって尊しとす」とかいうようなことばは、江戸時代の武士の常識であった。お家万代のためにならないと見れば、殿様を無理隠居させたり、巧みに毒殺したりということは、よくあったことなのである。斉形もその手にかかったと、ぼくは推理しているのである。・・・(中略)

 ぼくはこの時、斉彬に盛られた毒は亜砒酸系のものであったろうと推察している。下痢を伴う腹痛があり、心臓が衰弱するというのが、この毒薬の中毒症状である。斉彬は手製の鮨を蓋物に入れて居間の違い棚にのせているのが常であったから、これに毒薬を投ずるのはきわめて容易だったはずである。』


 毒殺かどうかはともかく、斉彬の死によって薩摩藩の舵取りは大きく変化し、西郷の運命にも大きな影響を与えることになります。歴史の「もしも」はナンセンスですが、もしも斉彬があと10年生きていれば、西郷は一介の薩摩藩士として終わったかもしれません。「お前はわしになれ!」と言ったかどうかはわかりませんが、斉彬の遺志を継いだことが、後世の大西郷の原点であったことは、間違いないでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2018-04-23 21:04 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第11話「斉彬暗殺」 ~虎寿丸の死去と斉彬毒殺説~

 嘉永7年閏7月24日(1854年9月16日)、島津斉彬の五男・虎寿丸死去します。わずか数えの6歳でした。斉彬には計6男5女の子供がいましたが、10代まで成長したのは三女・四女・五女のみで、長男から四男までの男児はすべて3歳までに早逝しており、ただひとり、虎寿丸だけが6歳まで成長していました。それだけに、虎寿丸の死は斉彬にとって大きなショックだったに違いありません。


e0158128_20010110.jpg 虎寿丸の死については、当時の記録によると、死去する前日までは普通に手習いなどをして過ごしていたのに、突然発熱して下痢が治まらず、翌日の夜に死去したとあります。後世の目で客観的に症状を見れば、死因は当時流行していた疫痢のためだったと考えられますが、当時の斉彬周辺の者たちはそうは思わず、これは斉彬の世子誕生を望まない勢力の呪詛だと思い込みます。かつてのお由羅騒動における藩内の勢力争いは、斉彬が藩主となった今なお続いていました。当時は幼子が亡くなるということは珍しくありませんでしたが、それでも、長男から五男まですべてが相次いで亡くなるという不幸が続くと、さすがにそう思わずにはいられなかったでしょう。斉彬自身もそう思っていたかもしれません。


 そんななか、虎寿丸の死から約1週間後、今度は斉彬が病に倒れます。症状は胃痛だったとも胸痛だったともいいます。おそらく、虎寿丸の死の心労がたたったのでしょうね。たったひとりの息子が亡くなってしまったわけですから、無理もありません。このとき庭方役を務めていた西郷吉之助(隆盛)も、よほど心配だったようで、嘉永7年8月2日(1854年9月23日)付けで鹿児島にいた友人の島矢三太に送った書簡のなかで、虎寿丸の死を報告するとともに、次のように記しています。


「先々月晦日より、太守様俄に御病気、一通りならざる御煩い、大小用さえ御床の内にて御寝も成らせられず、先年の御煩いの様に相成る模様にて、至極御世話遊ばされ候儀に御座候」


e0158128_15131310.jpg 斉彬の身を案じた西郷は、「西郷どん紀行」で紹介されていたように、目黒不動尊(瀧泉寺)に参詣して斉彬の回復を祈願しました。そして、その怒りの矛先をお由羅たちに向け、同志の有村次左衛門大山格之助(綱良)とともに、お由羅一派の打倒を誓いあったといいます。このときの心境も、同書簡に記されています。


「つらつら思慮仕り候ところ、いづれなり奸女をたおし候ほか、望みなき時と伺い居り申し候。御存のとおり、身命なき下拙に御座候えば、死することは塵埃の如く、明日を頼まぬ儀に御座候間、いづれなり死の妙所を得て、天に飛揚いたし御国家の災難を除き申したき儀と、堪えかね候ところより、あい考えおり候儀に御座候。心中御察し下さるべく候。

実に紙上に向かって、この若殿様の御儀申し述べがたく、筆より先に涙にくれ、細事におよび能わず候。眼前拝み奉り候ゆえ、尚更忍び難き、只今生きてあるうちの難儀さ、却って生を怨み候胸に相成り、憤怒にこがされ申し候。恐惶謹言。」


 お由羅のことを「奸女」と呼び、命に代えてもこれを倒すほかないと、過激な発言をしています。若い頃の西郷は、後年のイメージとは違ってかなりの激情家だったことが窺えますね。それほど、虎寿丸の死と斉彬の病は、西郷にとって大きな衝撃だったのでしょう。西郷は同志とともにお由羅一派の斬奸計画を具体的に進め始めますが、その後、病が回復した斉彬にそのことが知れ、逆鱗常ならざる怒りを受けて、やむなく計画は中止するに至ったと伝えられます。このあたり、ドラマでは少しアレンジして描かれていましたが、概ね伝承にそった展開でした。


 ちなみに、ドラマでは毒殺を疑っていた西郷でしたが、当時の記録では、その疑いは確認できません。あくまで「呪詛」の疑いでした。斉彬の毒殺説が囁かれはじめるのは、斉彬の死後になってからのことです。学問的には否定されている毒殺説ですが、作家・海音寺潮五郎氏は毒殺説を支持しています。ドラマでは、斉彬の膳の焼魚にヒ素が混入されていたと描かれていましたが、おそらく、これも海音寺氏の著書『西郷隆盛』を参考にしたものでしょう。以下、海音寺氏の推理を抜粋します。


 「人を、しかも一藩の主を毒殺するということは、ありそうもないことと、現代人には思われる。しかし、江戸時代には往々行われている。現代になって、何かの必要があって江戸時代の諸藩主の墓を発掘した場合、遺体を調査してみると、毛髪や骨から多量の砒素が検出されることが、よくあるのである。「君は一代、お家は万代」とか、「君を以て尊しとなさず、社機をもって尊しとす」とかいうようなことばは、江戸時代の武士の常識であった。お家万代のためにならないと見れば、殿様を無理隠居させたり、巧みに毒殺したりということは、よくあったことなのである。斉形もその手にかかったと、ぼくは推理しているのである。・・・(中略)

 ぼくはこの時、斉彬に盛られた毒は亜砒酸系のものであったろうと推察している。下痢を伴う腹痛があり、心臓が衰弱するというのが、この毒薬の中毒症状である。斉彬は手製の鮨を蓋物に入れて居間の違い棚にのせているのが常であったから、これに毒薬を投ずるのはきわめて容易だったはずである。」


 この推理があたっているかどうかはわかりませんが、十分にあり得る話かもしれません。もっとも、この推理は今回の病のときではなく、この4年後、斉彬が急逝したときのことです。今回のドラマではどのように描かれるのか、楽しみにしましょう。



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by sakanoueno-kumo | 2018-03-19 21:31 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第9話「江戸のヒー様」 ~西郷はじめての江戸行きと、御庭方役拝命~

 嘉永7年正月21日(1854年2月18日)、西郷吉之助(隆盛)は主君・島津斉彬に付き従って江戸に向かうべく鹿児島を発ちます。西郷はこの少し前に藩から中御小姓、定御供、江戸詰を命じられていました。父が勘定方小頭だったことを思えば、この人事は大抜擢だったといえます。その大抜擢を命じたのが、他ならぬ斉彬だったといいます。


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 今回のドラマでは描かれていませんでしたが、西郷の伝記では欠かさず出て来る逸話で、水上坂のエピソードがあります。鹿児島城下を出てからしばらくすると山道に入り、その坂を登り詰めたところに御茶屋があり、そこが、一行の最初の休憩スポットでした。この坂を「水上坂」といいます。ここで藩主が入国、出国の際、服装を改める慣わしとなっていました。国入りの際には旅装を脱いで騎馬となり、旅立ちの際にはここで旅装に着替え、馬を降りて駕籠に乗ります。また、薩摩人にとって精神的支柱である桜島が挑めるのもここが最後で、しばらく帰らない旅に出るにあたって、ここで、故郷の景色をしっかりと目に焼き付けて薩摩に別れを告げます。初めて江戸に向かうこととなった28歳の西郷も、ここで桜島を見ながら、きっと大きな希望を胸に秘めていたに違いありません。

 その伝承によると、このとき斉彬は近臣に対して、「今回の供の者のなかに西郷吉之助という者がいるはずだが、その者はどいつだ?」と尋ねたそうで、近臣が「あそこにいる大きな体の者が西郷でございます」と答え、斉彬はこのとき初めて西郷を見たといいます。斉彬は西郷が提出した建白書を読んでその名を知り、西郷という人物に興味を持っていました。建白書に書かれていた内容そのものは、斉彬からすれば特に目を瞠るものではありませんでしたが、それを藩主に対して堂々と主張する勇気と誠意に対して、見どころがありそうな若者と見込んでいたといいます。


この逸話は、明治28年(1895年)に刊行された勝田孫弥『西郷隆盛伝』、大正15年(1926年)に刊行された『大西郷全集』などに記された話で、また、海音寺潮五郎史伝『西郷隆盛』でも紹介されています。この話が事実かどうかはわかりませんが、このとき、水上坂で休憩をとったというのは当時の家臣らの日記にも見られることから、事実だったようです。西郷の建白書を読んで斉彬自身が西郷を抜擢したという話が本当ならば、水上坂でのエピソードも実話だったと見ていいんじゃないでしょうか。


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 江戸に着いて1ヶ月ほどが過ぎた嘉永7年4月、西郷は「徒目付兼御庭方役」を命じられます。このうち「御庭方役」は、幕府の「御庭番」に倣って斉彬が新設した役職だったといいます。その職務内容は、簡単にいえば斉彬の秘書のような務めでした。


 石高72万石の大藩だった薩摩では、数千人の家臣団がいて、その家格制度も厳格で、本来であれば、西郷のような下級の家臣は藩主と直接言葉を交わすことなどできませんでした。しかし、門閥にとらわれず広く有能な人材を登用したいと予てから考えていた斉彬は、西郷の人物を見込み、御庭方役に抜擢して「偶然、庭先で見つけた御庭方役の者に話しかける」という方法を思い立ち、西郷を側に置いたのでした。よほど西郷を見込んでいたのでしょうね。ここから、西郷は斉彬からマンツーマンで教育されることとなり、単なる下級の田舎侍が、一流の国士へと成長していくことになるんですね。この二人の出会いがなければ、幕末史はずいぶんと違ったものになっていたことでしょう。まさしく運命の出会いでした。


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by sakanoueno-kumo | 2018-03-05 01:12 | 西郷どん | Trackback(1) | Comments(6)  

西郷どん キャスト&プロローグ

さて、来年の大河ドラマは『西郷どん』ですね。言わずと知れた幕末維新の英雄・西郷隆盛の物語です。歴史に興味のない人でも、「西郷隆盛」という名を知らない人は、まずいないでしょう。今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』は、あるいは大河ドラマ史上最も知名度の低い主人公の物語だったかもしれませんが、来年はその真逆で、日本史上最も知名度の高い人物の物語といえるかもしれません。


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 というのも、たとえば「戦国三傑」と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人では、誰がいちばん知られているか甲乙つけがたいと思いますが、「維新三傑」と称される西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の3人では、知名度、人気ともに圧倒的に西郷が突出しています。聞くところによると、西郷の伝記は、世界中を見渡して、イエス・キリストの伝記に次ぐほど数が多いといいます。キリスト伝は世界中で出版されているのに対し、西郷の伝記はほとんど日本での刊行であることを思えば、いかに西郷を研究する歴史家が多く、また、国民の間に絶大な人気を有しているかが窺えます。

 にも関わらず、後世の西郷に対する評価は一定ではありません。賢人愚人か、はたまた聖人悪人か、見方によって大きく評価が変わるのが、西郷という人の不思議なところです。幕末、西郷とはじめて会った坂本龍馬が、「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と評したという有名なエピソードがありますが、同時代に生きた者でさえつかみどころがなかったわけですから、後世のわたしたちが理解に苦しむのも当然かもしれません。


西郷隆盛を題材にした史伝の代表的な作品として、海音寺潮五郎『西郷隆盛』と、司馬遼太郎『翔ぶが如く』がありますが、海音寺さんと司馬さんの西郷評も、ぜんぜん違うんですね。司馬さんは維新前の西郷と維新後の西郷とを、まるで別人と評しているのに対し、海音寺さんは、維新前と維新後でまるで人が変ってしまうことなどあろうはずがないといっています。今回、原作は林真理子さんだそうですね。原作小説を読んでいないのでわかりませんが、歴史上最も有名でありながら理解に難しい西郷隆盛という人物が、今回、どのように描かれるか楽しみにしています。


 以下、現時点で発表されているキャストです。


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西郷吉之助(隆盛)・・・・・・・鈴木亮平(幼少期:渡邉蒼)

大久保一蔵(利通)・・・・・・・瑛太

岩山糸・・・・・・・黒木華

西郷吉兵衛・・・・・・・風間杜

西郷満佐子・・・・・・・松坂慶子

西郷琴・・・・・・・桜庭ななみ

西郷吉二郎・・・・・・・渡部豪太

西郷龍右衛門・・・・・・・大村崑

西郷きみ・・・・・・・水野久美

大久保次右衛門・・・・・・・平田満

熊吉・・・・・・・塚地武雅

於一(篤姫)・・・・・・・北川景子

ふき・・・・・・・高梨臨

大山格之助(綱良)・・・・・・・北村有起哉

有村俊斎(海江田信義)・・・・・・・高橋光臣

村田新八・・・・・・・堀井新太

赤山靭負・・・・・・・沢村一樹

幾島・・・・・・・南野陽子

由羅・・・・・・・小柳ルミ子

島津斉興・・・・・・・鹿賀丈史

島津斉彬・・・・・・・渡辺謙

島津久光・・・・・・・青木崇高

喜久・・・・・・・戸田菜穂

山田為久・・・・・・・徳井優

愛加那・・・・・・・二階堂ふみ

西郷従道(信吾)・・・・・・・錦戸亮

大久保満寿・・・・・・・ミムラ

桂久武・・・・・・・井戸田潤

タマ・・・・・・・田中道子

阿部正弘・・・・・・・藤木直人

月照・・・・・・・尾上菊之助

徳川家定・・・・・・・又吉直樹

調所広郷・・・・・・・竜雷太

井伊直弼・・・・・・・佐野史郎

徳川斉昭・・・・・・・伊武雅刀

語り・・・・・・・西田敏行

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 西郷隆盛役の鈴木亮平さんのことは、それほど詳しくは知らないのですが、NHK朝ドラ『花子とアン』やNHK大河ファンタジー大河『精霊の守り人』が印象に残っています。大河ドラマは初出演にして初主演だそうですね。巷の噂では、とあるビッグネームの俳優さんが断ったことによる大抜擢だとも聞きますが、たとえそうであったとしても、そんなことはどうでもいいことなんじゃないでしょうか。今やハリウッドスター渡辺謙さんも、『独眼竜政宗』の主役に抜擢されたときは、それほど知名度の高い俳優さんではありませんでしたが、同作品は大河史上に残る名作との呼び声が高い作品となりました。名前の大きさなんて、あとからついてくるものなんじゃないかと。


 その渡辺謙さんが、今回、島津斉彬をやるんですね。ピッタリだと思います。斉彬はたぶん、物語前半しか出てきませんが、西郷の精神の核となる部分を生み出す人物として、重要な登場人物です。渡辺謙さんなら、申し分ないのではないでしょうか。


 大久保利通は瑛太さんですね。西郷といえば大久保。この2人の関係がどのように描かれるかも楽しみのひとつです。一般に、西郷の人気の高さに対して後世に悪評高い大久保ですが、実は、わたしはどちらかといえば大久保贔屓です。なので、大久保利通の扱いがどのように描かれるかが気になるところ。その意味では28年前の大河ドラマ『翔ぶが如く』での鹿賀丈史さんの大久保利通は最高でしたし、その後の幕末ものに出てくる大久保役は、どれもイマイチ納得できませんでした。今回、瑛太大久保は鹿賀大久保を超えられるか。楽しみです。


 その鹿賀丈史さんも、今回、島津斉興役で出られるんですね。それと、語りが西田敏行さん。『翔ぶが如く』での西郷と大久保が、28年後にも揃って出演。これ、往年の大河ファンにはたまらない粋な計らいです。あと、松坂慶子さん、風間杜夫さん、平田満さんの『蒲田行進曲』トリオの共演も話題になっていましたね。皆さん、年を取られました(笑)。


 天璋院篤姫役は北川景子さん。これまた意外にも大河ドラマは初出演だそうですね。篤姫役といえば宮崎あおいさんを思い出しますが、実は『翔ぶが如く』のときの篤姫は富司純子さんでした。もちろん、富司さんは美しい女優さんですが、28年前といえども、当時、富司さんは40代半ばだったと思います。篤姫が第13代将軍・徳川家定のもとに輿入れしたのは20歳のとき。あれはちょっと、無理がある配役でしたよね。その意味では、北川さんはギリギリセーフかな?(笑)。そして、その家定役が芥川賞作家の又吉直樹さんだそうで、これもイメージ出来すぎて笑っちゃいましたが、いちばん笑ったのは、由羅役の小柳ルミ子さん。イメージピッタリです(笑)。


 まだまだ、勝海舟坂本龍馬、木戸孝允、小松帯刀らのキャストも発表されていませんし、桐野利秋、篠原国幹、別府晋介といった西郷と運命をともにする主要キャストも発表されていません。楽しみですね。


 とにもかくにも、また今回も1年間お付き合いいただけたら幸いです。

 楽しみましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2017-12-30 15:19 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

千利休ゆかりの地めぐりと、その人物像に迫る。

今週の大河ドラマ『真田丸』で、千利休が切腹しました。

同作品の千利休は、これまでの作品で描かれてきた悟りを開いた高僧のような厳かな人物像ではなく、小田原合戦において豊臣方、北条方の双方に武器弾薬を売りつけるなど、悪徳商人まがいのいままでにないキャラでしたね。

実際の利休とは、いったいどんな人物だったのか。

そこで今日は、以前に訪れた堺の利休関連史跡を紹介しながら、その人物像に迫ってみます。


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写真は大阪府堺市にある千利休屋敷跡

阪堺電車宿院駅のすぐ近くのビルとビルの間に、異質な空間として残されています。


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千利休は大永2年(1522年)、堺今市町の豪商・魚屋(ととや)の当主・田中与兵衛の長男として生誕。

幼名は与四郎といいました。

17歳のときに北向道陳に茶湯を学び、のちに武野紹鷗に師事し、「わび茶」を大成させます。

その後、茶の湯をもって織田信長に接近し、その死後は豊臣秀吉の茶頭として仕えながら、北野の大茶会を取り仕切るなど天下一の茶匠として権勢を振るいます。

しかし、小田原合戦の後、何らかの理由で秀吉の怒りにふれ、自刃して果てます。

享年70。


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屋敷跡には「椿の井」が残っています。

この井戸は、利休が産湯につかったと伝えられるものだそうで、いまなお清水が湧き出ているそうです。


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井戸屋形は利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を用いて建てたものだそうです。


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一般に「利休」という名で広く知られていますが、実は、その名を名乗ったのは晩年のことで、茶人としての人生の大半は「宗易」という名で過ごしています。

「利休」という名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために、正親町天皇(第106代天皇)から与えられた居士号です。


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同じく堺市内にある南宗寺には、利休一門の供養塔があります。

ここは、若き利休が修行したと伝わるゆかりの寺院です。


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豊臣秀吉が千利休を切腹させたことは歴史上の事実として、過去、多くの小説やドラマで描かれてきました。

しかし、その理由については定かではなく、すべては作家独自の想像の世界なんですね。

というのも、利休という人物が注目され始めたのは意外にも最近のことで、昭和11年(1936年)に海音寺潮五郎氏が直木賞を受賞した作品『天正女合戦』の中で、初めて秀吉との関係が描かれたんだそうです。

現在では、千利休=芸術界の巨人という認識は常識ですが、海音寺氏が発掘する以前は、単なる茶坊主としか見られていなかったそうですね。

この『天正女合戦』の構想をさらに発展させた作品が、昭和15年(1940年)に刊行された同氏の『茶道太閤記』という作品で、これは秀吉と利休の対立を中心に描かれた物語だそうですが、この作品の連載当時には、「国民的英雄の豊臣秀吉と一茶坊主の千利休を対等の立場で描くとは何事だ!」という批判が多く寄せられたそうです。

現代でも、大河ドラマの設定に難癖つける自称歴史マニアがたくさんいますが、あれと同じですね。

「千利休英雄説」が定着するまでには、それなりの困難があったようです。

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海音寺氏によって描かれた秀吉と利休の対立の構図は、その後、今東光氏の『お吟さま』野上彌生子氏の『秀吉と利休』井上靖氏の『本覚坊遺文』など、多くの一流作家の作品に継承され、描かれてきました。

そのなかでも、秀吉が利休に切腹を言い渡した理由については様々で、利休の等身大の木像を紫野大徳寺の山門の2階に設置してその下を秀吉に通らせたという大徳寺木像事件や、利休が朝鮮出兵に強硬に反対したため疎んじられた・・・とか、二人の茶道に対する考え方の違いからの確執・・・とか、利休が安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしているという疑い・・・とか、利休の政治介入を快く思っていなかった石田三成の陰謀・・・などなど、どの説にもそれなりの信憑性はありますが、どれも決定力に欠けます。

のちの朝鮮出兵豊臣秀次を切腹させた秀吉の愚行からみて、利休の切腹が秀吉の狂気の狼煙のように描かれる場合が多いですが、はたしてそうだったのでしょうか。

最も信頼していた豊臣秀長の死から2ヵ月余りで、もうひとりの補佐役であったはずの利休を死罪に追いやるには、もっと重大な、死罪に値する理由があったのでは・・・と考えられなくもありません(たとえば、予てから秀吉に憤懣を抱いていた利休が、秀長が死んだことによって豊臣政権を見限り、諸大名を扇動して謀反を企てていた・・・とか)。

その意味では、今回の大河ドラマでの「死の商人」として暗躍していた利休なら、じゅうぶん死罪に値しますよね。

ない話ではないのかな・・・と。


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中央に利休の供養塔、左右に表千家、裏千家、武者小路家の供養塔があります。


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こちらが利休の供養塔です。


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「天正19年 利休宗易居士」と刻まれています。


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隣には、利休の師匠である武野紹鴎の墓があります。


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利休が愛した茶室「実相庵」です。


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その前庭には、利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟形手水鉢」があります。


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結局のところ、千利休という人物については茶道千家流の始祖ということ以外はなんですね。

その人物像がどうだったのか、切腹させられた理由がなんだったのか、そもそも、豊臣政権において利休の存在がどの程度の影響力を持っていたのか、すべては想像するしかありません。

千利休=芸術界の巨人という今日の常識自体が、実は後世が創りだした虚像かもしれませんね。


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ちなみに余談ですが、ここ南宗寺には、実は大坂夏の陣で死んでいた徳川家康がここに埋葬されたという伝承があります。

以前の稿ですが、よければ一読ください。

   ↓↓↓

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~




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by sakanoueno-kumo | 2016-06-29 18:11 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第24話「利休切腹」

 天正19年(1591年)1月22日、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が病没した。秀長は、秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた時代から兄の片腕として働き、秀吉が天下人となってからは、陰から豊臣政権を支えた。そんな秀長を、秀吉は誰よりも信頼していたという。まさに、「縁の下の力持ち」という言葉が相応しい人物だった。秀長は兄以上に千利休との親交も深く、「公儀のことは秀長、内々のことは宗易(利休)」という言葉からも伺えるように、豊臣政権下、豊臣秀長と千利休はまさに豊臣政権という車の両輪だった。特に秀長の場合、ときにはブレーキ役でもあっただろう。そんな秀長の死に伴って、豊臣政権の両輪補佐体制は崩壊、同時にブレーキも失った車は、暴走し始める。

 ドラマでは、秀長の死によって秀吉の愛児・鶴松の病が治ったという話になっていたが、史料によれば鶴松が病になったのは秀長の死の翌月、閏1月3日となっている。鶴松は生まれつき虚弱で、床に伏すことが多かったとか。ただ、このときの病状はよほど深刻だったようで、秀吉は寺社に祈祷を命じ、自らも紫野大徳寺へ参詣している。そのとき、ドラマで石田三成がいっていた、利休の等身大の休像を見つけた。木像は山門の上から見下ろすように置かれており、これに激怒した秀吉は、利休に蟄居を命じた。そして2月28日、秀吉の命により利休は切腹する。享年69歳。その首は、大徳寺山門から引き摺り下ろされて磔にされた木像に踏ませる形で晒されたと伝わる。

 利休が切腹の前日に詠んだといわれる辞世の句。
 人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛
 意味は・・・難しくて私にはわからない(苦笑)。

 豊臣秀吉が千利休を切腹させたことは歴史上の事実として、過去、多くの小説やドラマで描かれてきた。しかし、その理由については定かではなく、すべては作家独自の想像の世界である。というのも、利休という人物が注目され始めたのは意外にも最近のことで、昭和11年に海音寺潮五郎氏が直木賞を受賞した作品、『天正女合戦』の中で、初めて秀吉との関係が描かれたそうである。現在では、千利休=芸術界の巨人という認識は常識だが、海音寺氏が発掘する以前は、単なる茶坊主としか見られていなかったらしい。この『天正女合戦』の構想をさらに発展させた作品が、昭和15年に刊行された同氏の『茶道太閤記』という作品で、これは秀吉と利休の対立を中心に描かれた物語だそうだが、この作品の連載当時には、「国民的英雄の豊臣秀吉と一茶坊主の千利休を対等の立場で描くとは何事だ!」という批判が多く寄せられたらしい。「千利休英雄説」が定着するまでには、それなりの困難があったようである。

 海音寺氏によって描かれた秀吉と利休の対立の構図は、その後、今東光氏の『お吟さま』野上彌生子氏の『秀吉と利休』井上靖氏の『本覚坊遺文』など、多くの一流作家の作品に継承され、描かれてきた。その中でも、秀吉が利休に切腹を言い渡した理由については様々で、既述した大徳寺木像事件や、二人の茶道に対する考え方の違いからの確執・・・とか、利休が安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしているという疑い・・・とか、利休の政治介入を快く思っていなかった石田三成の陰謀・・・など、どの説にもそれなりの信憑性はあるが、どれも決定力に欠ける。のちの朝鮮出兵豊臣秀次を切腹させた秀吉の愚行からみて、利休の切腹が秀吉の狂気の狼煙のように描かれる場合が多いが、はたしてそうだったのだろうか。秀長の死から2ヵ月余りで、もうひとりの補佐役であったはずの利休を死罪に追いやるには、もっと重大な、死罪に値する理由があったのでは・・・と考えたりもする(たとえば、予てから秀吉に憤懣を抱いていた利休が、秀長が死んだことによって豊臣政権を見限り、諸大名を扇動して謀反を企てていた・・・とか)。利休の切腹は秀吉の狂気だったのか、はたまた、やむを得ない死罪だったのかは今となってはわからないが、いずれにしても、秀長と利休という両輪を短期間で失った秀吉は、孤独な独裁者となっていった。

 「甘いことしか言わん者より、耳に痛いことを言うてくれる者を、信じるんじゃぞ・・・」
 秀長が死に際にいった忠告は、秀吉には届かなかった。いや、届いていたけど、秀吉の関白としての意地が、それを許さなかったのかもしれない。人間、歳をとればとるほど、上にいけばいくほど、耳に痛いことをいってくれる者はいなくなる。それは、現代に生きる私たちとて同じである。利休の死を最も惜しんだのは、切腹を命じた秀吉自身だったのではないだろうか。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-30 01:18 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(8)  

江~姫たちの戦国~ 第12話「茶々の反乱」

 前話の稿で、お江たち三姉妹がこの時期どこで過ごしていたかという説について、羽柴秀吉の庇護の下で摂津大坂城山城伏見城に暮らしたという説や、京極マリアに預けられ安土で過ごしたとする説、また、京極龍子の後見のもと京都にいたという説があると紹介したが、その後調べたところ、柴田勝家お市の方が落命したのが天正11年(1583年)4月で、大坂城の築城が始まったのが同年9月、本丸御殿が竣工したのが翌年8月のようで、その頃には既にお江は嫁いでいることから、三姉妹揃っての大坂城という説はないようだ。ドラマでは安土城説を採用しているが、この時期、山崎城を居城としていた秀吉が、そう頻繁に安土に足を運んでいたとも考えづらく、また、秀吉の正室・お寧や京極龍子も同居しているというドラマの設定から考えても、舞台を山崎城とした方が、無理がなかったのではないかと思う。

 秀吉を頑なに拒絶するお茶々お初お江。当然、今話は完全オリジナルのストーリーだが、父、母、義父の仇である秀吉の庇護の下で暮らす生活というのは、そう簡単に割り切れるものではなかったであろうことは想像できる。ドラマでは多少コミカルに描かれてはいたものの、彼女たちの秀吉に対する感情という意味では、遠からずではなかっただろうか。秀吉に媚びるくらいなら、いっそ殺されたほうがマシ・・・ぐらいに思っていたかもしれない。このときお茶々は14歳、お初は13歳、お江は11歳。のちにお茶々が秀吉の側室になるのは天正16年(1588年)頃といわれており、このときより5年後のこと。秀吉がいつ頃からお茶々を見初めていたかはわからないが、お茶々にしてみれば、はじめから秀吉の側女になることを望んでいたわけでは当然ないだろう。一説には、秀吉がお茶々を側女にするために、邪魔な妹たちを次々と他家に嫁がせていった・・・ともいわれる。側室になるまでの5年間を、お茶々はどんな思いで過ごしていたのか、また、どのように心が移り変わっていったのか、後世の私たちには想像する以外に知る術はない。このドラマでは、その5年間をどう描いていくか・・・今後の展開を楽しみにしたい。

 母の仇を討ちたいというお茶々に対して、憎んで刃向かっているだけでは、所詮は相手と同じレベル、同じ高さだと千宗易はいう。
 「もひとつ上に行くには、相手を受け入れ、いっそ呑み込んでしまわななりまへん。敵より大きゅう太うなるんです。そやないと、倒す、殺すなど到底できませんわ・・・今はこらえて、静かに爪を研ぐときと違いますかな。」
 憎い相手と関わらずに生きられるなら、それもいい。許しがたい相手を排除してしまうほどの力があるなら、それもありだろう。しかし人生には、そんな敵を避けて通れない場合が往々にしてある。そんな場合、いちいち刃向かって、拒絶しながら生きていけるか・・・。それでは、自分の立ち位置は何も変わらないばかりか、場合によっては、相手から自分が排除されるかもしれない。宗易のいうとおり、真に敵に立ち向かうには、まずは相手を受け入れ、己の立ち位置を変えなければならない。そうして敵より力をつけてこそ、初めて煮るなり焼くなり好きにすればいい。しかし、真に敵より大きく太くなったときには、きっと憎しみは消え失せているものだろうと思う。人を憎いと思う気持ちは、所詮は現状置かれた己の立ち位置から生じるものだと思うから・・・。

 千宗易について少しだけ。一般に「利休」という名で広く知られる彼だが、その名を名乗ったのは晩年のことで、茶人としての人生の大半は「宗易」という名で過ごしている。「利休」という名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために、正親町天皇から与えられた居士号である。江たち三姉妹が秀吉に庇護されたこの時期にはまだ「利休」という名は存在せず、ドラマのとおりである。

 織田信長豊臣秀吉という二人の天下人に仕え、茶道千家流の始祖となった“茶聖”千利休。その悲劇の最後からも、秀吉の物語には欠かせない存在の彼だが、意外にも、その出典はさほど古くはなく、昭和11年に海音寺潮五郎氏が直木賞を受賞した作品、『天正女合戦』の中で、初めて秀吉との関係が描かれたそうである。現在では、千利休=芸術界の巨人という認識は常識だが、海音寺氏が発掘する以前は、単なる茶坊主としか見られていなかったらしい。この『天正女合戦』の構想をさらに発展させた作品が、昭和15年に刊行された同氏の『茶道太閤記』という作品で、これは秀吉と利休の対立を中心に描かれた物語だそうだが、この作品の連載当時には、「国民的英雄の豊臣秀吉と一茶坊主の千利休を対等の立場で描くとは何事だ!」という批判が多く寄せられたらしい。「千利休英雄説」が定着するまでには、それなりの困難があったようである。

 何かと批判の声が多い、今年の大河ドラマ『江〜姫たちの戦国』。新しい解釈には、いつの時代も批判が集中するものである。そうした批判を受けながら、歴史認識は出来ていくといってもいい。今日の常識といわれるものも、非常識と批判されたときがあったということを知ってほしいと思う。


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by sakanoueno-kumo | 2011-04-06 19:44 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(37)  

龍馬伝 第26話「西郷吉之助」

 幕末・維新の英雄・西郷隆盛。彼の志士人生は長く、坂本龍馬がまだ江戸で剣術修行をしていた安政元年(1854年)には、当時の薩摩藩主・島津斉彬の手足として国事に奔走していた。水戸の思想家・藤田東湖武田耕雲斎、福井の橋本左内など、幕末の攘夷運動初期の人物とも深く交わり、影響を受けた。以前にも紹介したが、作家・司馬遼太郎氏の言葉で、時代の転換期には「思想家」「行動家」「実務家」という3つのタイプの人間が現れるとし、革命前期には、吉田松陰や藤田東湖のような「思想家」が火を着け、中期には龍馬や桂小五郎、高杉晋作といった「行動派」が激発し、最後に大久保利通や伊藤博文といった実務家が形にする、と語っている。しかし、私が思うにこの西郷隆盛だけは例外で、「思想家」「行動家」「実務家」の全ての時代に生き、その役割を全うした人物だと思う。有名な「敬天愛人」に代表される「思想家」としての彼の「没我奉仕」の精神は、同時代の後発の志士たちに大きな影響を与え、「禁門の変」以後の彼は、マキャベリストとも思えるほどの「行動家」としての役割を果たし、維新後、大久保利通や岩倉具視が外遊中の「西郷内閣」においては、大久保が嫉妬と憎悪を感じるほどの内政を施し、「実務家」としての力を発揮した。そして人生最期には、自らの命をもってして「明治維新」を終焉させるという、大袈裟に言えば西郷隆盛の人生が幕末・維新とも言ってもよく、まさに「ミスター幕末」であり「ミスター明治維新」であった。

 そんなミスター幕末維新・西郷隆盛と、幕末の風雲児・坂本龍馬の最初の出会いは正確にはわかっていないが、元治元年(1864年)8月から9月頃とされている。おそらくは勝海舟の紹介によるものだったのだろう。二人の間でどのような内容の話が交わされたかはわからないが、この二人の出会いが、この後の歴史を大きく動かすことになるのは言うまでもない。二人の出会いについては、晩年の海舟が語った「氷川清話」に印象的なエピソードがある。西郷と会見して神戸に帰ってきた龍馬は、海舟に西郷のことを報告しようとしない。「ニ、三日は、坂本より云い出すのを待ちたれども、遂に堪りかねて『西郷はだうだ』と軽く問ひかくるや」龍馬はこう言ったという。
 「なるほど西郷といふやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらう。」
 つまり簡単にいえば、「つかみどころのない大人物」ということだろう。西郷隆盛という人は、同時代の者から見ても、愚者か賢者か計りがたい人物だったようだ。また、この龍馬の言葉の続きに、「残念なのはこれを突く撞木がが小さかった」と、自分を西郷という鐘を突く撞木に例えて表現した言葉が有名だが、これは上記「氷川清話」や「追賛一話」などの海舟の記録にはまったく記されておらず、出典がわからない。後に作られた造話と考えていいだろう。

 西郷隆盛という人の人物像は、物語によって描かれ方が違う。ある物語では公明正大な人格者・西郷に描かれ、また違う物語では策謀に長けた政治家・西郷にも描かれる。これは小説家や脚本家のみならず、歴史家の見識においても人によって180度異なる。たとえば龍馬などは、幕府側の視点での物語でも、討幕側の視点で描かれたものでも、自由で濶達な人物像にそう差異はない。しかし西郷は見る角度によって善人にも悪人にも描かれる。このことからも、龍馬の西郷評のとおり、「つかみどころのない人物」であるといってもいいだろう。大長編史伝「西郷隆盛」の著者・海音寺潮五郎氏が、同じく西郷を主役にして書かれた司馬遼太郎氏の小説「翔ぶが如く」を読んで、「司馬君でもまだ西郷を描ききれていない。」と評したという話があるが、それだけ西郷隆盛という人はいくつもの顔を持っていて、常人には計り知れない大人物ということだろう。

 とにかくその西郷隆盛と坂本龍馬は出会った。その出会いは、多少神秘的にいえば、歴史が二人を出会わせた、と言えるかも知れない。神戸海軍操練所が閉鎖となり、勝海舟の後ろ盾をなくして元の一脱藩浪士に戻った龍馬だったが、歴史はまだ彼を必要としていた。それはこの西郷との出会いによって証明されることとなる。

 以蔵の毒まんじゅうのエピソードについても述べたかったが、西郷どんネタで長くなってしまったので、また次の機会に・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2010-06-28 01:34 | 龍馬伝 | Trackback(5) | Comments(0)