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山崎合戦のまちを歩く。 その9 「油祖離宮八幡宮」

JR山崎駅の南側に、離宮八幡宮があります。

門前にある神社の縁起によると、貞観元年(859年)に清和天皇(第56代天皇)が九州は大分の宇佐八幡宮より大安寺の僧行教が勧進したといい、淀川を挟んで対岸にある石清水八幡宮はここから分祀されたもので、石清水の名はこの地に涌き出ている霊泉『石清水』に因んだとしています。


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その後、嵯峨天皇(第52代天皇)の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので、社名を離宮八幡宮としたそうです。


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離宮八幡宮は、わが国におけ製油発祥地とされ、「油祖」の称号をとして知られます。

平安時代の後期(貞観年間)、時の神官が神示を受けて「長木」という搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油の製油を始めたところ、次第にこの業が全国に広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜ったそうです。


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境内には、「本邦製油発祥地」と刻まれた石碑があります。


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油脂販売業者の店頭標識だそうです。


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こちらは油祖像だそうで・・・。


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山崎の油の関係は、司馬遼太郎氏の小説『国盗り物語』にも出てきますね。

素浪人から山崎の油商人となり、その冨と策略を駆使してついには美濃国主となった「美濃の蝮」こと斎藤道三の物語で、離宮八幡宮が油の専売特許を持ち、「油座」として栄えていた当時の様子がわかりやすく描かれています。


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やがて、楽市楽座を推し進めた織田信長が室町幕府を倒したことにより、独占販売の特権を持つ「座」のシステムが崩壊し、油のまち山崎も衰退していきました。

しかし、それ以後も、離宮八幡宮は油の神様として、全国の油商人から崇敬されていたそうです。

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幕末の「禁門の変」時には、周りの民家とともに焼失し、明治9年(1876年)には鉄道の開通により、その敷地は大幅に縮小されました。

現在の社殿は昭和初期に再建されたものだそうです。

その社殿には「崇敬発起人」として日本製油・カネダ・吉原製油・昭和産業・豊年製油・味の素・日本油脂など、日本の製油大企業の名が連なっています。




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by sakanoueno-kumo | 2016-07-15 18:42 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

桓武平氏と清和源氏 ~禍福はあざなえる縄の如し~

 今年の大河ドラマの主役・平清盛の血筋を桓武平氏という。桓武平氏とは桓武天皇(第50代天皇)の子孫のうち、平姓を賜り天皇の臣下になった家のことである。桓武平氏にはいくつもの系統があるが、もっとも有名なのが桓武天皇の第三皇子である葛原親王の系統である。そのうち葛原親王の長男・高棟王の子孫は京の宮廷貴族として栄え、公家平氏堂上平氏などと呼ばれた。清盛の妻・時子やその兄弟の平時忠建春門院などがこの血筋を引いている。

e0158128_196372.jpg 一方、清盛らに繋がる武家平氏の祖となったのが、高棟王の弟の高見王の子、つまり桓武天皇から見れば曾孫にあたる高望王である。武勇に優れていた高望王は平姓を賜り平高望と名乗り、9世紀末ごろに上総介に任じられて関東に下った。この当時、坂東では徒党を組んで盗賊行為を働く群党の蜂起が頻繁に発生しており、天皇家の血統と武勇をあわせ持つ高望に、その鎮圧が期待されたと伝わる。やがて、平国香、平良持、平良兼、平良正、平良文ら高望の息子たちは、いずれも鎮守府将軍や諸国の受領を務めるなど、坂東に大きな勢力を持つこととなる。そしてその子孫が常陸や下総、武蔵などの関東各地に土着し、坂東平氏として繁栄した。後世、鎌倉幕府の御家人として名をはせる千葉、三浦、上総、大庭などはその末裔である。東国といえば源氏のイメージが強いが、武士の勃興期には平氏こそが坂東の覇者だったのだ。

 桓武平氏の転機をもたらしたのは、10世紀に起きた「平将門の乱」だった。高望の孫である平将門が常陸や上野で大規模な反乱を起こすと、下野国の押領使・藤原秀郷と共に将門の鎮圧に功をあげたのが、将門の従兄弟にあたる平貞盛だった。貞盛は、乱を平定した功により従五位上に叙せられ、丹波守や陸奥守、鎮守府将軍などの職務を歴任。その子供たちも朝廷の官位をもらい、桓武平氏が中央軍事貴族として繁栄する足がかりを得た。このうち、貞盛の子で伊勢を拠点とした平維衡は、藤原道長などの中央の上流貴族に奉仕しつつ、常陸や下野、伊勢の受領を歴任して力をつけた。この維衡こそ、伊勢平氏の祖といわれる人物であり、清盛の祖父・平正盛の曽祖父にあたる。

e0158128_1973525.jpg 一方、源頼朝木曾義仲の血筋である清和源氏は、清和天皇(第56代天皇)の孫である経基王が臣籍降下により源姓を賜り、源経基と名乗ったことに始まる。経基王は上述した「平将門の乱」や、同時期に起きた「藤原純友の乱」で活躍した人物である。経基の子・源満仲や孫の源頼光源頼信らは藤原摂関家に仕え、頼光は摂津を、頼信は河内を拠点として、それぞれ摂津源氏河内源氏の祖となった。

 源氏と東国との関わりは頼信の時代に始まったと考えられている。11世紀初頭に東国で起きた「平忠常の乱」において、朝廷が討伐軍を派遣してもなかなか鎮圧できなかったものを、頼信はいとも簡単に鎮圧して武名をあげ、源氏の関東進出の土壌を作った。頼信の子・源頼義「前九年の役」を平定、頼義の子・源義家「後三年の役」を主導した。この過程で東国の武士団の多くが頼義、義家と主従関係を結んだといわれる。後年、源頼朝が流人生活を送っていた伊豆で旗揚げし、またたく間に関東を席巻する素地はこの時代に作られていたのである。

 河内源氏を中心に清和源氏が繁栄する一方で、伊勢平氏は維衡の子やその孫の代になると勢いがなくなり、上流貴族に仕える侍や中央官庁の三等官程度の地位に低迷、源氏の後塵を拝していた。その源氏と平氏の地位を逆転させたのが、清盛の祖父・正盛だった。源義家の嫡子・源義親が出雲で反乱を起こすと、隣国因幡守として義親の追討をみごと果たし、一躍武門のトップに踊りでたのである。一方、源氏の棟梁は義親の子・源為義が継いだが、粗暴なふるまいが多かったため昇進できず、その子・源義朝が棟梁になったときには、すでに平氏との差は抜きがたいものになっていたのである。大河ドラマ『平清盛』の舞台となっているのは、そんな時代である。

 しかし後年、義朝の子・頼朝らの手によって伊勢平氏が滅亡に追い込まれるのは周知のところだ。互いに相対しながら隆盛と低迷を繰り返してきた桓武平氏と清和源氏。まさしく、「禍福はあざなえる縄の如し」である。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-11 23:59 | 歴史考察 | Comments(4)