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いだてん~東京オリムピック噺~ 第42話「東京流れ者」 ~代々木ワシントンハイツ返還~

 昭和39年(1964年)の東京オリンピックメインスタジアムは昭和33年(1958年)にアジア大会が開催された国立霞ヶ丘陸上競技場に決まり、スタンドを増設するなどの改修工事が進められようとしていました。皇居北の丸に柔道競技場となる日本武道館の建設が決定したのも、ちょうどこの頃でした。その他の競技施設の建設や道路の整備など、着々と開発が進められ始めていた東京でしたが、そんななか、最も難航していたのが選手村の候補地でした。


e0158128_17574863.jpg 当初、選手村は埼玉県朝霞にあった米軍基地のキャンプ・ドレイク(現在の陸上自衛隊朝霞駐屯地)をアメリカから返還してもらい、そこに選手村を建設する計画でした。ところが、これに反発したのがまーちゃんこと田畑政治でした。理由はいたって明瞭、朝霞では都心にある各競技場までの距離が遠すぎるということ。そこで候補地として田畑が目をつけたのが、代々木のワシントンハイツでした。ワシントンハイツは明治神宮に隣接する92.4万平米の広大な敷地で、そこに在日米軍の兵舎をはじめ、米兵の家族住宅、学校、教会、劇場まである居留地で、いわば「日本の中のアメリカ」といった場所でした。戦前は日本陸軍の練兵場だったところで、昭和15年(1940年)の幻の東京オリンピックの際にも、施設建設地として候補にあがっていた場所でした。都心部でこれだけ広い面積を確保できる場所は他にはなく、メインスタジアムにも徒歩で行ける距離。これほど好条件の場所は他にない、というのが田畑の意見でした。


 もっとも、田畑に言われるまでもなく、ワシントンハイツが最良の場所であることぐらいは誰もがわかっていました。しかし、候補地にあがらなかったのは、アメリカが簡単に手放すはずがないと思い込んでいたからだったようです。ところが、まーちゃんは諦めなかったんですね。その根気が功を奏したのか、突如アメリカ側が軟化し、ワシントンハイツの返還を条件付きで了承します。その条件とは、移転費用(60億円とも80億円とも)はすべて日本政府が負担し、移転先も日本政府が用意するというものでした。この条件に難色を示す池田勇人首相を田畑は説得し(その説得の材料が、ドラマで描かれていたようにNHK放送局の建設とカラーテレビの普及による経済効果だったかどうかはわかりませんが)、昭和36年(1961年)10月、ワシントンハイツへの選手村建設が決定します。


 ドラマでは、平沢和重日米安全保障条約が日本国民の反感を買っていることを利用し、ワシントンハイツ返還のメリットを突きつけて交渉を進めましたが、実際、アメリカが返還に応じた背景には、前年に盛り上がった日米安保闘争があったと見て良さそうです。岸信介総理が新安保条約締結を機に、また日本を戦争に導いていくのではないかと、若者を中心に反政府感情が高ぶっていたこの時期。そんな機運のなか、日本のGHQ統治は昭和27年(1952年)にとっくに終わっているのに、未だ東京の中心部に高い塀で囲われた「日本の中のアメリカ」が存在することに、国民の反感は増長していました。アメリカとしては、できればその反米感情を鎮めたい。それには、ワシントンハイツ返還は格好の手段だったのでしょうね。やはり、オリンピックは政治とは切っても切り離せません。ともあれ、そのおかげで代々木が日本に戻ってきたのだから、結果オーライだったんじゃないでしょうか。


 ちなみに、タクシー運転手の森西栄一「聖火リレーコース踏査隊」となった話、実話だそうですね。たまたま森西のタクシーに丹下健三亀倉雄策が乗り合わせ、そこで聖火リレーコース踏査隊の話を聞き、その役目を自分にやらせてくれとアピールしたというのも本当の話だそうです。てっきりドラマのオリジナルだと思って観ていました。世の中、面白い人がいるもんです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-11-11 20:22 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第40話「バック・トゥー・ザ・フューチャー」 ~フジヤマのトビウオ・古橋廣之進~

 昭和19年(1944年)に開催されるはずだった第13回ロンドンオリンピックは、第二次世界大戦の真っただ中で中止となり、それが、第14回大会として昭和23年(1948年)に開催されることが決定していました。昭和11年(1936年)のベルリンオリンピック以来、12年ぶりのオリンピックです。


e0158128_17574863.jpg 戦後、田畑政治日本水泳連盟会長に就任し、また、日本体育協会常任理事にも就いていました。田畑の目指すところはひとえにオリンピックへの復帰。敗戦国となった日本も、何とかロンドンオリンピックに参加すべく模索しますが、戦時中に日本の各競技団体は国際競技連盟から除名されており、この除名処分の撤回を求めようにも、GHQの統治下にあった日本では、外国と交渉するにもすべてGHQを通さねばならず、事は思うように運びません。ならば、と、田畑は国際水泳連盟の除名が解けないままIOCに直接アプローチを仕掛け、IOCから招待状をもらえるよう働き掛けますが、IOC委員には日本に同情的な意見が多かったものの、日本の招待を強く拒絶したのが、ロンドンオリンピックの開催国であるイギリスだったそうです。IOCも開催国の国民感情を無視することは出来ず、結局、日本のロンドンオリンピック参加は実現しませんでした。やはり、嘉納治五郎が死に際まで訴えた「政治とスポーツは別」という理想は、ここでも受け入れられなかったんですね。


e0158128_14363507.jpg ならば、オリンピックに出られなかった日本代表選手の実力を見せつけてやろうと、田畑はロンドンの日程に合わせて日本選手権の決勝を開催します。戦前、世界最強とうたわれた日本競泳陣の実力は世界の知るところであり、否応なしに世界の注目を浴びる。ここでもし本場オリンピックの選手に勝てば、オリンピック金メダルの価値が下がり、国際水泳連盟も日本を無視できなくなる。なかなかの策士ぶりですね。ほとんど宣戦布告といっていいでしょう。そして、その田畑の狙いは見事にハマり、ロンドンオリンピックの400m自由形の金メダリストとなったアメリカウィリアム・スミスの優勝タイムが4分41秒0だったのに対し、日本選手権の同種目で優勝した古橋廣之進選手のタイムは、オリンピックのタイムより6秒以上も速い4分33秒4世界記録を更新します。また、古橋は1500m自由形でも、19分18秒5のオリンピック優勝タイムを遥かに上回る18分37秒0世界記録で優勝し、古橋と同じ日本大学の橋爪四郎選手も、18分37秒8の記録を叩き出しました。オリンピックに出ていれば、日の丸が金銀を独占したことになります。この結果は、ロイター通信によってロンドンにも即時に伝えられたとか。現地はドッチラケだったでしょうね。


 古橋廣之進選手はその後も世界記録を連発しましたが、これらの記録は日本が国際水泳連盟から除名されていたため公式な世界記録としては公認されませんでした。しかし、敗戦直後で日本人の多くが苦しんでいる時期に「世界記録」を連発する古橋は、国民的ヒーローだったそうで、翌年に招待された全米選手権でも3種目で世界記録を更新する活躍を見せ、アメリカの新聞では「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyamaと称賛されたそうです。今回、その戦後のヒーロー・古橋廣之進を、平成のヒーロー・北島康介さんが演じておられましたね。驚きました。北島さんのクロール、初めて見ましたね。「チョー、気持ちいい」とは言いませんでしたが(笑)。


 田畑のはたらきや古橋、橋爪らの活躍もあってか、昭和24年(1949年)4月にローマで行われたIOC総会への出席が許され、同年6月には国際水泳連盟への復帰が許されました。その後、他の競技団体も次々に国際連盟への復帰が認められます。昭和26年(1951年)9月のサンフランシスコ講和条約で第二次世界大戦が正式に終結すると、日本は沖縄や一部の離島を除いてGHQの占領は終わり、日本の独立が回復します。そして、その翌年に開催された第15回ヘルシンキオリンピックに、日本は念願の復帰を果たしました。残念ながら古橋は、アスリートとしてのピークを過ぎていたことと、前年の南米遠征中に感染したアメーバ赤痢の後遺症が癒えず、思うような結果が残せませんでした。


 その後、昭和31年(1956年)の第16回メルボルンオリンピックを経て、物語は昭和34年(1959年)の東京オリンピック招致スピーチまで進みましたね。次週からは、昭和39年(1964年)の東京オリンピックまでの道のりが描かれる最終章に突入します。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-29 14:38 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第29話「夢のカリフォルニア」 ~ノンプレイングキャプテン・高石勝男~

 五・一五事件から約1か月後の昭和7年(1932年)6月、第10回ロサンゼルスオリンピックに出場する日本選手団が出発しました。このとき日本は陸上競技、水泳をはじめとして、体操、馬術、レスリング、ホッケーなど、開催国に次いで2番目に多い131名が出場しました。金栗四三三島弥彦2人だけで参加した第5回ストックホルムオリンピックから20年。日本のスポーツはここまで発展を遂げていたんですね。


 もっとも、このロサンゼルスオリンピックは、参加選手が非常に少なかった大会でもありました。その理由は、この3年前の昭和4年(1929年)10月にニューヨークのウォール街での株式大暴落に端を発した世界恐慌の影響で、選手の派遣を見送った国が続出したことによります。出場選手は4年前のアムステルダムオリンピック時の約半分にまで減ったとか。この時代、世界中で銀行の取り付け騒ぎ倒産があいつぎ、街には失業者があふれかえっていました。そんな世界情勢だったため、決して開催国アメリカでも歓迎する声ばかりではなく、スタジアムに向けて失業者のデモが行われることもあったようです。


 そんななか、日本はこれまでで最も多くの選手を派遣しました。といっても、当時の日本に他の国と比べて国力があったわけではなかったでしょう。当然、日本も世界恐慌の影響を受けていましたし、その低迷する経済が引き金となって中国大陸への進出を訴える声が強まっていき、ひいてはそれが、満州事変五・一五事件につながっていきます。さらに、外交的にも、満州国建国で日本は世界から孤立し始めた時期でもあり、はっきり言って、オリンピックなんかに行ってる場合じゃなかったはずだと思います。そんな殺伐とした時勢だからこそ、スポーツで明るい話題を作る必要があるとドラマの田畑政治は言っていましたが、たしかに、そういう側面はあったかもしれませんが、世界各国が選手の派遣を中止している世情を思えば、日本も、本当はそうすべきだったんじゃないかと。


でも、日本の長所なのか短所なのか、こういうとき、日本は頑張っちゃうんですよね。国民に無理強いしてでも、欧米列強に追いつけ追い越せで頑張る。その不屈の精神で、明治維新後の富国強兵政策でわずか40年で世界に肩を並べる軍事大国となり、また、昭和の大戦後も、敗戦の焼け野原からわずか40年ほどで世界一の経済大国になった。金栗と三島のストックホルムからの20年も、同じようにストイックに頑張ってきたんでしょう。一方で、不屈の精神で突き進むことしか知らない日本は、国が滅びの道に向かっていても、方向転換したり逆戻りすることができない。ちょっと立ち止まって、冷静に周りを見て、時には後退する勇気があれば、あるいは戦争を回避できたかもしれませんし、それが無理だったとしても、あそこまで長引かせずに戦争を終わらすことができたかもしれません。


e0158128_20353137.jpg 話がそれちゃいましたが、ドラマに戻って、今回はそのロサンゼルスオリンピック開催前の選手選考の話でしたね。主人公は、代表に選ばれながら出場できなかったノンプレイングキャプテン・高石勝男。かつては日本水泳界のエースだった高石が、後輩たちの急成長と自身の衰えの間で苦しむ姿が描かれていました。高石は8年前のパリオリンピックで、日本人競泳選手としてはじめて5位入賞を果たし、その4年後のアムステルダムオリンピックでは800m自由形リレーで銀メダル、100m自由形で銅メダルを獲得しました。そんな日本競泳界の先駆者といっていい選手だったわけですが、ロサンゼルスではピークを過ぎた感が否めず、そんな高石に、田畑は主将の任を託すも選手としては出場させない旨を宣告しますが、そんな田畑に、若手選手や松澤一鶴監督は、「高石に有終の美を飾らせてあげて欲しい」と懇願します。田畑は頑なに却下。「高石ではメダルを取れない」と。


 なんか、妙にドラマチックに描かれていましたが、これ、当然のことですよね。部活動の3年生の引退試合じゃないんだから。国費で行くオリンピックですからね。過去の栄光は関係ないでしょう。あの北島康介選手だって、選手生命をかけて臨んだ最後のリオデジャネイロオリンピックは、選手に選ばれなかったですしね。いま結果を残した選手が選ばれる。当然のことです。


 ちなみに、この高石勝男は、その後、後進の育成に努め、昭和39年(1964年)の東京オリンピックでは水泳日本代表総監督となり、さらには、日本水泳連盟会長などを歴任し、紫綬褒章を受章します。その後もずっと、日本水泳界のノンプレイングキャプテンとして活躍したわけですね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-08-05 20:38 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(2)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第25話「時代は変る」 ~第2部プロローグ~

さて、物語は第2部に入りましたね。スポットは陸上競技から水泳に移され、主人公も金栗四三から田畑政治に代わりました。わたしは、学生時代に自身も陸上部で長距離選手だったこともあり、金栗四三という名前は知っていましたが(といっても、箱根駅伝の創始者という程度ですが)、この田畑政治という人に関しては、まったく名前すら知りませんでした。大河ドラマの制作が発表されてからにわかに関連本を読みましたが、市販されていた本も圧倒的に金栗四三のものが多く、田畑政治のことが詳しく解説された本はあまりありませんでした。なので、ここから先は、主に感想文のようなレビューになるかと思いますが、よければお付き合いください。


e0158128_17574863.jpg 金栗より7歳年下の田畑は、明治31年(1898年)、静岡県浜松市の造り酒屋の次男として生まれました。大商家だった田畑家は、浜名湖口に浮かぶ弁天島別邸を持っていたそうで、ここで田畑は水泳を覚えました。浜名湖を有する浜松は、古来、水泳が盛んな町で、健康な子供は、一日中泳いで遊んでいるような環境だったそうです。また、田畑の祖父も父も若くして肺結核で亡くなっており、病弱な体を鍛えるという目的もあったとか。そんな幼少期を過ごし、やがて県立浜松中学(現・県立浜松北高)に進んだ田畑は、水泳部に入部します。当然のことながら、この時代にプールを完備した学校などなく、練習場所は天然の川や海でした。もっとも、この頃の水泳は、着順を争う「競泳」ではなく、神伝流水府流などの古流泳法を学び、いかに美しく長い距離を泳ぐことができるか、ということに重点が置かれていたそうです。幼いころから浜名湖口の潮流に慣れ親しんできた田畑は、その腕前は水泳部でも抜きん出ていたそうです。


 ところが、4年生のとき、慢性虫垂炎大腸カタルを併発する大病を患い、医者から水泳を続けることを禁じられてしまいます。普通なら、ここで意気消沈してしまうところですが、田畑少年は、自らの選手生命は断念したものの、「浜名湖の水泳を日本一にする」という目標を掲げ、後進の育成に力を注ぎます。具体的には、弁天島の海水浴場で練習する4つの中学校を束ねて「浜名湾遊泳協会」を創設し、当時、各学校でバラバラだった泳法を統一し、レベルの向上を図ります。15、6歳のときの話ですからね。田畑のリーダーとしてのポテンシャルの高さが窺えますね。


 学業優秀だった田畑は、やがて旧制第一高等学校、東京帝国大学に進学。その間も水泳に対する情熱は冷めることなく、夏休みには地元に帰り、後輩たちを熱血指導しました。そして大正11年(1922年)には、全国競泳大会で浜名湾遊泳協会を優勝に導きます。


 大正13年(1924年)、東京帝国大学を卒業した田畑は、朝日新聞社に入社。当時、帝国大学の卒業生のほとんどは高級官僚を目指し、民間企業に就職するとしても、三井三菱といった財閥系の大企業に就職するのが普通でした。新聞社の社会的地位は今ほど高くなく、帝大生は見向きもしなかったそうです。そういった意味でも、田畑は変わり者だったようですね。


 新聞社に入社してからも田畑は水泳に関わり続けました。そして、入社した年の10月には、大日本水上競技連盟理事に就任します。入社半年の新入社員の若造ですからね。当時、それほどスポーツ団体というものが重視されていなかったとはいえ、ありえない人選です。田畑は水泳会の代表として、大日本体育協会の会合にも頻繁に参加するようになり、嘉納治五郎らともやりあっています。帝大出身の秀才で弁も立ちますから、体協の猛者たちは、持て余し気味だったようです。また、朝日新聞社で政治部に所属していた田畑は、政友会の担当となり、鳩山一郎に目を掛けられ、当時の大蔵大臣、高橋是清からオリンピック出場のための補助金を取り付けることに成功しています。ドラマでも描かれていましたね。すごい行動力、交渉力、そして実行力です。こんな若者、いまはまずいないでしょうし、いたとしても、社会から弾かれるでしょうね。


 ちなみに、ドラマで描かれていた「光文事件」。あれは実際にあった話で、大正15年(1926年)12月25日の正天皇崩御直後、東京日日新聞(現在の毎日新聞)が号外を出して次の元号は『光文』と報じました。これに便乗して報知新聞、都新聞も号外を発表、読売新聞なども追随しましたが、その後、発表された元号は『昭和』。大きな誤報となりました。この誤報によって東京日日新聞の編集長が役職を解かれるという事態にまで発展しますが、一説には、当初は『光文』に決定していたものの、事前に漏洩したため、発表直前に『昭和』に変わったとも言われます。しかし、一方では、決定していた元号を直前で変えるなどありえないとする見方もあり、今となっては真相は藪のなかです。先日の『平成』から『令和』への改元のときも、様々な憶測が飛び交っていましたよね。しかし、結果はほとんど予想されていなかった『令和』という元号でした。やはり、国の威信にかけても、簡単に予想できたり事前に情報が漏れるような元号にはできないんでしょうね。


 あと、金栗四三の三度目の出場となった第8回パリオリンピックも少しだけ紹介されていましたね。当時34歳のベテランランナー金栗にとってはラストチャレンジでしたが、結果は酷暑のなか、32km地点での棄権となりました。しかし、ストックホルムのときのような挫折感はなく、レース後、引退を決意します。しかし、日本マラソン界のパイオニア・金栗四三のドラマは、まだまだ続きがあるんですね。それは、今後の物語に譲ることにします。



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by sakanoueno-kumo | 2019-07-01 17:58 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第21話「櫻の園」 ~女子体育と日本競泳のスタート~

 大正9年(1920年)夏の第7回アントワープオリンピック大会後、金栗四三はすぐに帰国せずに欧州をまわりました。といっても、ドラマのような傷心の一人旅ではなく、他の選手たちとともに欧州のスポーツ教育の視察旅行だったようです。金栗は第一次世界大戦敗戦国となったドイツを訪問し、4年前に来るはずだったスタジアムを見に行っています。そこで見たドイツ人のスポーツに向かう姿勢に心を動かされ、とくに、若い女性たちが熱心にスポーツに取り組む姿に驚いたようです。日本ではほとんど見られないことでした。しかし、世界では、明治33年(1900年)の第2回パリオリンピック大会から女子の参加が認められており、陸上競技においても女子選手の参加を認めようという動きが出始めていました。このままでは、また日本が世界から取り残される。そう思ったのでしょうね。金栗はこの後、女子体育の振興に力を注ぐことになります。


e0158128_19143806.jpg アントワープ大会の翌年の大正10年(1921年)1月より、金栗は女子師範学校に勤務するようになります。専門教科は社会科でしたが、実際には体育教師として赴任したようなものでした。「マラソンの金栗」といえば、今や日本中の有名人でしたから、そのオリンピック代表選手から直々に体育を教われる、これほど光栄なことはないように思いそうですが、当時の女学校の事情は違っていました。この時代の女学校というのは、基本的には花嫁修業の場。おしとやかな良妻賢母を育てることが最大の教育理念でした。そうした場にスポーツを持ち込むというのは、大きな抵抗があったであろうことは想像に難しくありません。「女がスポーツなんてやると、じゃじゃ馬になって嫁のもらい手がなくなる」、そういって最初はなかなか受け入れてもらえなかったようですね。既成概念を変えるというのは、簡単なことではありません。


 さて、物語はマラソンだけでなく水泳にもスポットが当たり始めましたね。日本はアントワープオリンピックに初めて内田正練選手と斎藤兼吉選手という二人の競泳選手を送り込みましたが、結果は惨敗。まったく歯が立たちませんでした。その理由は、体力的なものよりも、その泳法にありました。当時の日本人選手は、水府流抜き手神伝流という日本泳法でしたが、欧米諸国は、すでに最速泳法クロールが主流となっていたんですね。


 クロールはもともと南米先住民の泳法だったそうで、それが18世紀前半のイギリスに伝わり、とある選手がこの泳法を競泳大会で試したところ、圧倒的な速さでぶっちぎり優勝したといいます。しかし当初は、「しぶきをあげながら泳ぐのは野蛮だ」として、あまり普及しませんでした。当時は、欧米でも日本の古流と同じような平泳ぎ横泳ぎが主流だったようです。ところが、近代オリンピックが始まると、美しく優雅な泳法よりもスピードを求められるようになり、クロールが脚光を浴びるようになっていきました。しかし、日本はまだその競泳界の事情を知らなかったんですね。


 日本人初のオリンピック競泳は惨敗に終わりましたが、8年前の金栗らと同じく、世界を目にしたことは大きな収穫だったでしょう。このあと日本競泳界はクロールを取り入れ、飛躍的に向上していくこととなります。その立役者となるのが、このドラマのもうひとりの主人公、田畑政治です。



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by sakanoueno-kumo | 2019-06-03 19:58 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ キャスト&プロローグ

さて、今年の大河ドラマは、『いだてん~東京オリムピック噺~』ですね。主人公は日本人初のオリンピック選手となり、「日本のマラソンの父」と呼ばれた金栗四三と、昭和の東京オリンピック招致に尽力した田畑政治の2人がリレー方式で描かれます。物語の舞台は、日本が初めて夏季オリンピックに参加した明治45年(1912年)のストックホルムオリンピックから、となった東京オリンピック開催を決めた昭和11年(1936年)のベルリンオリンピックを挟んで、昭和39年(1964年)の東京オリンピック開催までの52年間。2020年の東京オリンピック開催に向けて、国民みんなで盛り上がっていきましょうって狙いなんでしょうね。


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 毎年、大河ドラマのレビューを毎週起稿してきた当ブログですが、今年の主人公2人についてはほとんど知識がありません。わたしは学生時代に陸上部で長距離選手だったこともあり、金栗四三に名前は少しだけ知っていましたが、箱根駅伝の創始者という程度の認識でしかなく、また、田畑政治に至っては、名前すら知りませんでした。なので、このようなブログをやっている手前、少しぐらい予備知識を持っておこうと関連本を数冊読みましたが、これが意外に面白かった。これは十分ドラマになると思いました。脚本はクドカンこと宮藤官九郎さんで、制作スタッフは連続テレビ小説『あまちゃん』の布陣で臨むそうですから、きっと、面白い作品になるんじゃないでしょうか。


 てなわけで、以下、現在発表になっているキャストです。


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金栗四三・・・・・・・中村勘九郎

田畑政治・・・・・・・阿部サダヲ

東京高師・大日本体育協会

嘉納治五郎・・・・・・・役所広司(金栗四三の恩師)

永井道明・・・・・・・杉本哲太(東京高等師範学校教授)

大森兵蔵・・・・・・・竹野内豊(ストックホルムオリンピック日本選手団監督)

大森安仁子・・・・・・・シャーロット・ケイト・フォックス(大森兵蔵の妻)

野口源三郎・・・・・・・永山絢斗(東京高等師範学校の後輩)

黒坂辛作・・・・・・・ピエール瀧(「足袋のハリマヤ」店主)

可児徳・・・・・・・古舘寛治(東京高等師範学校助教授)

田島錦治・・・・・・・ベンガル(京都帝国大学教授)

内田定槌・・・・・・・井上肇(外交官)

岸清一・・・・・・・岩松了(第2代大日本体育協会会長)

武田千代三郎・・・・・・・永島敏行(大日本体育協会副会長)

熊本の人々

春野スヤ・・・・・・・綾瀬はるか(金栗四三の妻)

池部幾江・・・・・・・大竹しのぶ(スヤの養母)

金栗実次・・・・・・・中村獅童(金栗四三の兄)

金栗信彦・・・・・・・田口トモロヲ(金栗四三の父親)

金栗シエ・・・・・・・宮崎美子(金栗四三の母親)

金栗スマ・・・・・・・大方斐紗子(金栗四三の祖母)

春野先生・・・・・・・佐戸井けん太(スヤの父親)

美川秀信・・・・・・・勝地涼(四三の盟友、東京高等師範学校の同級生)

池部重行・・・・・・・髙橋洋(幾江の息子)

三島家・天狗倶楽部

三島弥彦・・・・・・・生田斗真(金栗四三の盟友)

シマ・・・・・・・杉咲花(三島家に仕える女中)

三島弥太郎・・・・・・・小澤征悦(弥彦の長兄)

三島和歌子・・・・・・・白石加代子(弥太郎と弥彦の母親)

吉岡信敬・・・・・・・満島真之介(「天狗倶楽部」のメンバー)

中沢臨川・・・・・・・近藤公園(「天狗倶楽部」のメンバー。工学博士)

押川春浪・・・・・・・武井壮(作家。「天狗倶楽部」の創設者)

本庄・・・・・・・山本美月(記者)

孝蔵をとりまく人々

美濃部孝蔵・・・・・・・森山未來(若き日の古今亭志ん生)

橘家圓喬・・・・・・・松尾スズキ(落語家)

万朝・・・・・・・柄本時生(孝蔵(志ん生)の噺家仲間)

小梅・・・・・・・橋本愛(浅草の遊女)

清さん・・・・・・・峯田和伸(浅草の人力車夫)

1964東京五輪招致チーム

平沢和重・・・・・・・星野源(外交評論家、ジャーナリスト)

岩田幸彰・・・・・・・松坂桃李(日本オリンピック委員会常任委員)

東龍太郎・・・・・・・松重豊(東京都知事)

志ん生一家と弟子たち

古今亭志ん生・・・・・・・ビートたけし(落語家。本作のナビゲーター)

おりん・・・・・・・池波志乃(志ん生の妻)

美津子・・・・・・・小泉今日子(志ん生の長女)

五りん・・・・・・・神木隆之介(志ん生の弟子)

知恵・・・・・・・川栄李奈(五りんの恋人)

今松・・・・・・・荒川良々(古今亭志ん生の弟子)

その他

大隈重信・・・・・・・平泉成(政治家。早稲田大学創設者)

田畑うら・・・・・・・根岸季衣(田畑政治の母)

********************************************


中村勘九郎さんの金栗四三役は、写真を見る限りぴったりですね。マラソン選手役ということで、かなりハードな身体作りをされたと聞きます。そういえば、親子二代の大河ドラマ主演ですね。これって、緒形拳さんと緒方直人さん親子以来のことなんじゃないでしょうか? ましてや、中村父子の場合、お父さんも大河主演時は「中村勘九郎」を名乗っていましたから、同じ名前での親子二代主演なんて、史上初ですよね。まあ、歌舞伎役者さんならではといえますが、あるいは、遠い将来、中村勘九郎という名で親子三代大河主演なんてこともあり得るかもしれません。気が早い話ですが。


 田畑政治役の阿部サダヲさんは、田畑政治をよく知らないのでハマリ役なのかどうかわからないのですが、阿部さんはクドカン作品には欠かせない俳優さんですから、きっと、いい芝居を見せてくれるのでしょう。


日本の体育の父として名高い嘉納治五郎役は役所広司さんですね。わたしは、いつか嘉納治五郎を主人公にした大河ドラマが描かれるのではないかと思っていたのですが、こういうかたちで描かれるとは思っていませんでした。ある意味、主人公の二人より後世にその名が知られている偉人ですから、きっと、物語前半の重要な役割を担っているのでしょう。役所さんの嘉納治五郎、楽しみです。


 金栗の奥さん役は綾瀬はるかさんですね。綾瀬さんといえば、平成25年(2013年)の大河ドラマ『八重の桜』で主演されたことが記憶に新しいですが、こうして主役を演じられた経験のある役者さんが、今度は脇役で出て来られるのは嬉しい限りです。昔の俳優さんは、大河主演のあと脇役で出演される方はたくさんおられましたが、最近の主演俳優さんは、その後、脇役として出てこられるかたはほとんどいません(今世紀に入ってからで言えば、内野聖陽さんぐらいでしょうか)。西田敏行さんなんて、主役も脇役も何回やったかわからないくらいですからね。大河で主役を張れるほどのビッグネームが脇を固めてくれると、作品に安心感がでます。


 あと、ナレーションが五代目古今亭志ん生役のビートたけしさんだそうですね。これも面白い仕上がりになりそうですが、ただ、たけしさん、滑舌よくないからなあ・・・。ちゃんと聞き取れるだろうか。


 巷では、戦国ものでも幕末ものでもない今回の作品は面白くなさそうだから観ない、という声もチラホラ耳にしますが、私は逆に、予備知識がほとんどない分、純粋に楽しめるんじゃないかと思っています。戦乱政治だけが歴史ではない。オリンピックに捧げた2人の人物を通した、これも立派な日本史ですよね。「面白くなさそう」なんて先入観を持たずに、まずは観てみることなんじゃないでしょうか。


 ただ、今年は、当ブログで毎週レビューを起稿するのは無理だと思います。そもそも知識がありませんから。なので、たぶん、ときどき思いついたことがあったら更新するブログになりそうですが、よければ、また今年もお付き合いください。



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by sakanoueno-kumo | 2019-01-04 18:22 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(2)