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幕末京都逍遥 その143 「伏見薩摩藩邸跡」

前稿で紹介した大国寺から西に100mほど歩いたところに、「薩摩島津伏見屋敷跡」と刻まれた石碑があります。

江戸時代、ここに伏見薩摩藩邸がありました。


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徳川幕府は第3代将軍徳川家光以後、約230年間、江戸にこもって京都にやってきませんでした。

そのため、原則として諸大名にも上洛を禁じました。

西国大名が参勤交代のため江戸と本国を往復するときも、京都ではなく伏見を通りました。

なので、西国諸藩は伏見に拠点となる藩邸を置いていたんですね。


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島津斉彬の養女として第13代将軍徳川家定に輿入れすることとなった篤姫も、薩摩から江戸にむかう途中の嘉永6年9月29日(1853年10月31日)、この屋敷に入ったと伝わります。

篤姫はここを拠点に、10月2日に洛中の近衛家へ、同4日に東福寺を訪問し、同5日に萬福寺を訪問し、同6日に伏見を発ちました。

篤姫は以後、一度も京都を訪れないので、この地は彼女の生涯たった1度の「京都観光」の宿舎だったわけですね。

石碑の側面には、「天璋院篤姫洛中洛外滞在時の宿泊地」と刻まれています。


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また、石碑の反対側の側面には「坂本龍馬 寺田屋脱出後 避難之地」と刻まれています。

「その138」で紹介した寺田屋において、慶応2年1月23日(1866年3月9日)に襲撃されて負傷した坂本龍馬は、「その141」で紹介した材木小屋に身を潜めたあと、長府藩士の三吉慎蔵やのちに妻となるお龍の通報によって助け出され、ここ薩摩藩邸に保護されました。

薩摩藩邸の石碑に土佐人の名が刻まれるというのも、珍しいですね。


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その後、薩摩藩邸は鳥羽・伏見の戦い時に会津藩兵らによって焼き払われました。

現在、その跡地は酒造会社の敷地になっています。


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by sakanoueno-kumo | 2018-10-04 00:09 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第35話「戦の鬼」その2 ~江戸薩摩藩邸焼き討ち事件~

 e0158128_19210653.jpg昨日の続きです。

 王政復古のクーデターの報告を受けた徳川慶喜は善後策に苦慮します。辞官はともかく、納地の命令は、徳川家15代当主として簡単に受け入れられるものではありません。それならば薩摩と一戦交えるか・・・・。幕兵、会津兵、桑名兵を合算すれば、薩長の在京兵力を打ち破れないことはない。しかし、いったん朝敵となってしまえば、尾張、越前、土佐が推し進める調停が水の泡になる。さりとて、激高した部下たちを鎮めるにも限界がある。そんな具合に、慶喜は迷っていたことでしょう。そんなとき、松平春嶽らより、ひとまず京都を去って大阪に下り、事態の沈静を待ってほしいと勧められます。慶喜はこの勧めをうけ、迷ったすえ下阪を決意。松平容保松平定敬板倉勝静らを従え、二条城の裏門から抜け出し、翌日大坂城に入ります。まさしく、「都落ち」といっていいでしょう。

 以後、薩摩と幕府の睨み合いは1ヶ月ほど続きます。その間、慶喜は形成の巻き返しを図るため、朝廷への工作を働きかけますが、一方で、大坂城に籠っていた旧幕府兵や会津、桑名兵らのフラストレーションは積もるばかりで、暴発は時間の問題になりつつありました。そしてついに、慶応4年1月2日(1868年1月26日)、京に向けて旧幕府軍の進撃が開始され、翌3日、京都南郊の鳥羽・伏見で両軍は激突します。世に言う「鳥羽・伏見の戦い」です。

 旧幕府軍の進撃の導火線となったのが、前年に江戸で勃発した徳川家と薩摩藩の軍事衝突でした。王政復古前の11月頃より、江戸市中では薩摩藩の三田屋敷を拠点として、強盗騒ぎが頻発していました。江戸城の留守を預かる旧幕府首脳部と江戸市中の警備を任されていた庄内藩は、これらの騒ぎを薩摩の挑発とみすえ、じっと我慢し続けていましたが、12月に入って、大風の吹く日に市中数十箇所に火を放ち、その混乱に乗じて江戸城を襲い、静寛院宮(和宮)天璋院(篤姫)を連れ去る計画が進められているという風評が流れ、その風評が流れるさなか、天璋院の住む江戸城二の丸が全焼する騒ぎが起きます。さらに浪士たちは徳川家を挑発して、この夜、庄内藩屯所に向けて発砲。これには庄内藩も怒り浸透となり、ついに旧幕府首脳部もしびれを切らして、庄内藩兵とともに薩摩藩邸を包囲。三田屋敷はたちまち火に包まれました。


 e0158128_15131310.jpgこれらの一連の騒動は、長年、西郷吉之助(隆盛)策謀によるものと考えられてきました。その理由は、慶喜の大政奉還によって武力討幕の口実を失った薩摩藩が、江戸に浪士・無頼者を集めて治安を乱し、後方撹乱を狙ったものだったと。今回のドラマも、その説を採っていましたね。この説による西郷の思惑は、騒乱状態を作ることによって、旧幕府兵力を関東に釘付けにし、京阪への集結を妨げるとともに、幕府の権威がもはや衰弱しきっていることを諸藩および江戸市中の民衆に強く印象づけ、さらには、幕府をして薩摩藩討伐の兵を起こさざるをえないように仕向けようというものでした。


 ところが、近年の研究では、この説は修正されつつあるようです。というのも、たしかに西郷は、薩摩藩士の益満休之助伊牟田尚平を江戸に派遣し、浪士たちを指揮して撹乱工作にあたるよう指示していたようですが、それは大政奉還前9月の段階のことで、大政奉還後は、撹乱工作を見合わせるよう益満と伊牟田に指示していたようです。実際、この時点では、幕府と戦って薩摩が勝てる保証などなかったでしょうからね。大政奉還前は、何としてでも武力で潰すしかないと思っていたでしょうが、大政奉還が成ったあとは、無理に戦いを仕掛けなくとも、戦わずして政権を奪えるなら、それも良しと考えたかもしれません。だから、ひとまず撹乱工作は見合わせた。しかし、西郷の意に反して騒動は起こってしまいます。それはおそらく、西郷らの制止を無視した益満と伊牟田らの暴走だったのでしょう。こういった攻撃的な作戦というのは、いったん命令を出してしまうと、のちに取り止めるのは難しいものなんでしょうね。前線の兵というのは、政治を理解できない単純思考の過激派が多かったでしょうから。


 薩摩藩邸焼き討ちの情報が知らされた直後の西郷の蓑田伝兵衛宛の書簡には、「大いに驚駭いたし候」とした上で、「残念千万の次第に御座候」との心境を記しています。これが事実なら、やはり撹乱工作は西郷の計算外だったということになりますし、もし、騒動が西郷の思惑通りだったとすれば、この手紙は蓑田を相手にとぼけていることになり、撹乱工作が味方をも欺くトップシークレットだったということになりますね。果たして、どっちだったのでしょうか。


 江戸での騒動の報が大坂城にいた幕府方に伝わると、城内は一気に沸き立ち、ただちに薩摩を討って一挙に幕府勢力を回復せよといきり立ちます。ことここにいたっては、もはや慶喜にはその勢いを抑える力はありませんでした。こうして戊辰戦争に発展していきます。結果を知っている後世の私たちは、幕府が薩摩の仕掛けた挑発にまんまと乗せられたという見方をしてしまいがちですが、当時の西郷たちにとっては、果たして本当に狙い通りだったのでしょうかね? 案外、いっぱいいっぱいだったかもしれませんよ。


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by sakanoueno-kumo | 2018-09-18 23:33 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その133 「村岡局(津崎矩子)像(嵐山公園)」

嵯峨野の嵐山公園内に、幕末の女傑村岡局の像があります。

村岡局は、女だてらに勤王家として熱心に活動し、西郷隆盛梅田雲浜らとも深く関わった女性です。


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彼女は元の名を津崎矩子といい、公卿の近衛忠煕に仕え、中臈を経て老女となり、村岡局を名乗りました。

黒船来航以降、近衛忠熈が尊王攘夷派の公卿として頭角を現すと、彼女は清水寺の僧・月照や水戸の鵜飼吉左衛門らと親交を持ち、志士相互及び志士と公家との連絡に当たります。

その月照を通して知り合った西郷隆盛の活動も手助けします。


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島津斉彬の養女・篤姫が近衛忠熈の養女として江戸幕府13代将軍・徳川家定輿入れした際には、既に亡くなっていた忠熈の正室・郁姫に代わって養母役を務め、江戸城大奥まで付き従っています。

そして、将軍継嗣問題では一橋派に与し、西郷隆盛や幾島(篤姫の世話係)と連携して大奥内の工作に力を尽くします。


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しかし、彼女の働きも虚しく、一橋派は敗北します。

そして、大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、村岡も捕えられて江戸に送られました。

安政の大獄で処罰された女性は他にも何人かいましたが、そのほとんどは、夫と共に処罰された女性たちで、女性単独で処罰された例は、おそらく村岡だけだったと思います。

しかも、当時の彼女は既に74歳のばあさん。

幕府の役人も扱いに困ったと伝わります。


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取り調べの末、村岡は押込30日に処せられました。

座敷牢のようなものですね。

彼女の果たした働きとしては寛大な処分ですが、その背景には、篤姫の尽力があったともいわれます。


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この銅像は、昭和3年(1928年)に建てられたものだそうで、見る限り、とてもそんな女傑には見えません。

普通の優しそうなおばあちゃんですね。

晩年は付近の子女の教育につくした嵯峨庶民の慈母だったと伝わりますが、この像は、そのときの姿なのかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-16 00:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その62 「皇女和宮生誕の地・橋本家跡(京都御苑)」

京都御所の西側中央付近に、「皇女和宮生誕の地(橋本家跡)」と書かれた木柱が建てられています。

江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室となる和宮親子内親王は、弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)、父が仁孝天皇(第120代天皇)、母は大納言・橋本実久の娘・経子の娘として、橋本家の屋敷があったこの地で生まれました。

孝明天皇(第121代天皇)の腹違いの妹となります。


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周知のとおり、和宮は幕府と朝廷が手を結ぶ「公武合体」の象徴として、徳川家に嫁ぎます。

「公武合体」とは、朝廷の権威を借りて幕府の権威を強固にしようという考えであり、威信が著しく落ちはじめていた幕府にとってみれば、藁をもつかむ策だったわけです。

なんとしても天皇家との縁談を成立させたい。

そこで、白羽の矢を立てられたのが、和宮でした。


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しかし、和宮は、代々親王家をつとめる有栖川家の皇子・有栖川宮熾仁親王と幼いときから婚約しており、話があった当初は、強く拒んだといいます。

しかし、兄の孝明天皇の強い意向をうけて、ついに徳川家への降嫁を承諾しました。

この婚礼は、天皇にとっても、幕政への発言権を強めるという意味では大きなメリットがあったわけです。


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文久元年10月20日(1861年11月22日)、16歳の花嫁・和宮の行列が京の都を出発。

行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、行列の長さは50kmに及んだといいます。

和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれたといいます。


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徳川家大奥に入ってからも和宮は京風の生活を改めようとせず、姑の天璋院篤姫とのさまざまな確執があったとされますが、次第にわかり合い、慶応元年閏5月22日(1965年7月14日)、将軍・家茂が第二次長州征伐総大将として上方に向けて出立した際には、天璋院篤姫と共にお百度を踏んで夫の無事を祈っています。

しかし、その甲斐も虚しく家茂は大阪城にて病没

和宮は落飾し、名を静寛院宮と改めます。

わずか4年余りの結婚生活でした。


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その後、薩長軍による王政復古のクーデターが起き、戊辰戦争が始まると、徳川家の存続と前将軍・徳川慶喜助命嘆願のために天璋院篤姫と共に力を尽くします。

明治維新後は、亡き夫・家茂の生母である実成院とともに田安屋敷に移り、その後、明治2年(1869年)には京に戻りますが、明治7年(1874年)に再び東京に入り、その後は天璋院篤姫らと交流を持って穏やかな日々を過ごしますが、それも長くは続かず、明治10年(1877年)9月2日、脚気衝心のためにこの世を去ります。

32歳という若さでした。

当初、政府は葬儀を皇室に合わせて神式で行う予定でしたが、「家茂の側に葬って欲しい」という和宮の遺言を尊重するかたちで仏式で行われ、墓所は増上寺の家茂の側に葬られました。

徳川家歴代将軍のなかで、夫婦2人の墓が並ぶのは、天璋院篤姫と和宮の2組だけだそうです。

政局に利用され、思いもよらない人生を歩むことになった和宮でしたが、徳川家最後の御台所として、誇り高き最後を迎えたといえるのかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-26 09:51 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その59 「近衛邸跡(京都御苑)」

京都御苑の北西の端にある、「近衛邸跡」を訪れました。

近衛家は藤原氏の流れをくむ藤原北家近衛流の嫡流にあたり、五摂家(近衛、鷹司、九条、一条、二条)のひとつです。

「幕末」と呼ばれる時代の当主は近衛忠煕で、前稿で紹介した九条尚忠のあと、関白に就任します。


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幕府第13代将軍・徳川家定の正室となった天璋院篤姫は、近衛忠煕の養女となったあと、徳川家に嫁ぎました。

篤姫は薩摩藩島津家の分家・今和泉島津家の出身で、将軍家に嫁ぐため、まずは本家で薩摩藩主の島津斉彬の養女となり、名を源篤子と改め、その後、江戸に向かう途中に京都に立ち寄り、近衛忠煕の養女となって、名を藤原敬子と改めます(この際、の名は君号となり、篤君(あつぎみ)となりました)。


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篤姫が忠煕の養女となったのは、忠煕の正室が斉彬の姉・郁姫だった縁からでした。

篤姫が京都に滞在したのは1週間ほどだったといいますが、たぶん、ここ近衛邸に滞在したのでしょうね。

ちなみに、篤姫の教育係で知られる幾島は、もとは忠煕の正室・郁姫付きの上臈だった女性で、ここ近衛邸で共に暮らしていました。


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近衛忠煕は安政4年(1857年)に左大臣となりますが、将軍継嗣問題一橋派に属し、戊午の密勅のために献策したため、「安政の大獄」により失脚し、落飾して謹慎に追い込まれます。

その後、復帰して関白に就任しますが、翌年に辞職し、以後は孫の養育に専念し、明治31年(1898年)、90歳まで長寿します。


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近衛邸跡にある池の畔には、「糸桜」と呼ばれる樹齢60年の枝垂れ桜があります。

ここを訪れたのは7月だったので、桜の写真はありません。

きっと綺麗なんでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2018-05-22 23:45 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第13話「変わらない友」 ~篤姫の輿入れと大久保利通の熊本行き~

e0158128_20010581.jpg安政の大地震などによって先送りになっていた篤姫将軍家輿入れがようやく決定したのは安政3年(1856年)2月のことでしたが、このとき、島津斉彬の命で篤姫の嫁入り道具の調達にあたったのが、西郷吉之助(隆盛)でした。その内容は、箪笥長持、挟箱、櫛、髪飾りなど姫君の嫁入り道具全般に及び、文字通り金に糸目を付けない方針で、西郷自身が店の暖簾をくぐって店との交渉も行ったといいます。現在、残っている書状などを読むと、このときの西郷がいかに花嫁道具の調達に腐心していたかが窺えます。その苦労の甲斐あってか、自身は貧乏な家庭に育ちながら、高価な貴重品の鑑識眼を身につけることになったといいます。


 この嫁入り道具調達のエピソードと、後年の江戸城無血開城に至る嘆願書の話の2つが、西郷と篤姫の接点を史料で確認できる数少ない史実です。つまり、それ以外はすべてフィクションということになります。ところが、今回のドラマでは、その2人の関係を濃厚に描いてきていたので(前話ではラブシーンまで)、きっと、この嫁入り道具調達のエピもたっぷり尺をとって描くのかなぁと思っていたのですが、意外にもあっさり流していましたね。まあ、嫁入り道具を買い集める姿を多く描いても物語上意味がないといわれればそうなんですが、西郷と篤姫の関係をここまでフィーチャーしてきたことを思えば、この数少ない史実エピをもう少し丁寧に描いてもよかったのではないかと。


 西郷が調達した豪華絢爛な品々を携えた篤姫の長大な輿入れ行列は、先頭が江戸城内に到着しても最後尾は依然、渋谷の薩摩藩邸にいたといい、すべてが江戸城に入るのに6、7日間ほどもかかったといいますから、驚くよりほかありません。


e0158128_17375658.jpg 翌年の安政4年5月24日(1857年6月15日)、西郷は約3年4ヶ月ぶりに薩摩に帰国しました。しかし、そのわずか半年後の11月1日(12月16日)には、斉彬の命によって再び江戸に向かうことになります。このとき、同志の大久保正助(利通)が熊本まで同行したという話は史実です。物語では、その大久保の熊本行きを斉彬に進言したことで、逆に大久保の自尊心を逆撫でしてしまうという話でしたね。実際には、このときのふたりの役付けは同じなんですが、斉彬の腹心として江戸、京都と国事に奔走していた西郷に対して、大久保はまだ薩摩を一歩も出たことがなく、あるいは、ドラマのように多少の劣等感を抱いていたかもしれません。また、同格といっても、西郷が徒目付に昇進したのは同年10月1日(11月17日)で、大久保が昇進したのはその1ヶ月後の11月1日(12月16日)。まさに、熊本に向けて出発する当日のことでした。あるいは、ドラマのように西郷の口利きがあったのかもしれませんね。


 たしか10年前の大河ドラマ『篤姫』でも、似たようなシーンが描かれていました。熊本を訪れた西郷と大久保が肥後熊本藩家老の長岡監物と面会するのですが、そこで、西郷と監物との間で内密な話が始まると、西郷が大久保に座を外してほしいと頼み、その言葉に大久保は屈辱を味わうというもの。実際にこのようなことがあったかどうかはわかりませんが、ふたりが長岡監物と面会したのは史実で、このときのことを監物は他者に宛てた書簡に記しています。しかし、そこにあるのは西郷の名だけで、大久保の名はまったく出てきません。監物から見れば、まだ無名だった大久保は西郷の付き人程度にしか思えなかったのかもしれません。そういうものは態度に出るでしょうから、このとき大久保は、西郷との大きな差を実感したでしょうね。


 ただ、後年のそれが示すとおり、大久保という人は、逆境を逆境と思わない強靭な精神力と粘り強さを持った人物です。このときの屈辱は、のちの大久保利通を形成する大きなバネになったのではないでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2018-04-10 17:42 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第12話「運の強き姫君」 ~篤姫の輿入れ難航~

 やはり、今回も篤姫の将軍家輿入れは一橋慶喜次期将軍に推すための密使の役目という設定でしたね。第10話の稿でも述べましたが、この縁談は、島津斉彬が慶喜の将軍継嗣を実現するために仕組んだ謀だったとの説があります。病弱で言動も定かではなかったといわれる(一説には、脳性麻痺だったとも)第13代将軍・徳川家定を、篤姫が御台所としてうまく操り、また、御台所の父という立場で斉彬自身も発言力を高め、将軍継嗣問題を有利に運ぼうとしたという推論です。10年前の大河ドラマ『篤姫』でも、この説が採られていましたね。


e0158128_20010581.jpg ところが、現在ではその説はほぼ否定されています。というのも、そもそも篤姫の輿入れの案が出たのは将軍継嗣問題が生じる前のことで、それも、この縁談を持ちかけたのは島津家からではなく、幕府側からだったといいます。その理由は、将軍家の御台所に島津家から輿入れした実績が過去にもあり、しかも、その御台所が健康子沢山に恵まれたことから、これにあやかろうとしたというのが定説となっています。とすれば、幕府も大奥も、健康な正室を迎えて世継ぎの誕生を期待したということになりますから、家定が本当に子供を作ることができない人物だったのかも、疑問となりますよね。10年前の堺家定は、うつけ者を装った賢者でしたが、今回の又吉家定は、どんな設定なのか楽しみですね。


嘉永6年8月21日(1853年9月23日)に鹿児島を発って江戸藩邸入りした篤姫でしたが、およそ3年近くもの長い間、縁談は進みませんでした。理由はいくつか考えられますが、まず、篤姫が鹿児島を発ったのは黒船来航からわずか2ヶ月後のことであり、国内情勢がそれどころではなかったという背景もあったと思われます。また、過去に実績があるとはいえ、外様大名の島津家からの輿入れに異を唱える勢力も少なくはなかったでしょう。とりわけ、将軍継嗣問題で対立する紀州派は、斉彬の発言力が高まるような縁談には激しく抵抗していたに違いありません。


e0158128_21441368.jpg さらに、篤姫の出自の問題もありました。斉彬の養女になったとはいえ、元は分家の出家格が違いすぎました。ここにいちばんこだわったのは、家定の生母である本寿院だったといいます。分家の娘であるなら側室で十分だというんですね。しかし、斉彬としては、側室としての輿入れは到底受け入れられません。そこで、ここからは次週のネタバレになっちゃいますが、朝廷にはたらきかけて篤姫を右大臣・近衛忠煕養女とすることにし、近衛家からの輿入れというで、暗礁に乗り上げていた縁談がようやく整います。近衛家には斉彬の姉・郁姫が嫁いでおり、その縁で成立した養子縁組でした。


 その郁姫付きの上臈として近衛家にいたのが、幾島でした。ドラマでは、篤姫が江戸屋敷に入ったときから教育係として呼び寄せられていましたが、おそらく、幾島が篤姫付きとなったのは、この養子縁組からだったんじゃないでしょうか。このとき、すでに郁姫は亡くなっており、出家して忠煕に仕えながら郁姫の菩提を弔っていましたが、篤姫の輿入れが決まると、名を「幾島」と改めて(郁姫付きのときは「藤田」と名乗っていた)、大奥に入るまでは篤姫の教育係を、そして大奥に入ってからは御年寄として篤姫を支えていくことになるんですね。そして、西郷吉之助(隆盛)とも、少なからず関わりを持つことになります。


「私は不幸になっても構いません」

「お父上のためなら、篤は喜んで不幸になります。この命、ただ幸せになるためだけにあるのではございません」


 この健気さ。切ないですね。斉彬から真実を明かされたときの目、たまんなかったです。ここで終わってれば良かったんですけどね。そのあとの西郷とのラブシーンはいらなかったなぁ。



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by sakanoueno-kumo | 2018-03-26 21:47 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第10話「篤姫はどこへ」 ~篤姫の輿入れと将軍継嗣問題~

 篤姫輿入れ先が明らかになりましたね。幕末ファン、大河ドラマファンの方々にとっては言うまでもないことだと思いますが、島津斉彬の養女となった篤姫の輿入れ先は、江戸幕府第13代将軍・徳川家定正室でした。外様大名の分家の娘が、一国のファーストレディーになるというのですから、当時としては、ちょっとしたシンデレラストーリーだったことでしょう。その篤姫の輿入れに西郷吉之助(隆盛)も深く関わることになるのですが、それは、もう少し先のことになります。


e0158128_20010581.jpg この縁談に関しては、昔から斉彬が一橋慶喜(のちの徳川慶喜)の将軍継嗣を実現するために仕組んだとの説があります。第13代将軍の家定は病弱で言動も定かではなかったといわれ(一説には、脳性麻痺だったとも)、政務を満足に行える人ではなかったといいます。折しも世情は黒船来航後の混乱の時代を迎えており、大事に対応できる有能な指導者を必要としていました。そこで斉彬たちが期待を寄せたのが、英明との誉れ高かった慶喜でした。ドラマのヒー様です。そのヒー様の次期将軍擁立を推していたのは、斉彬をはじめ、越前福井藩主の松平慶永(春嶽)や水戸の徳川斉昭などの開明派と呼ばれる有力諸侯でした。


これに対して、保守的な譜代大名たちは、家定に血筋が近い紀伊の徳川慶福(のちの徳川家茂)を擁立しようとします。ここに次期将軍の座を巡る派閥が生まれ、前者を一橋派、後者を南紀派と呼ぶようになります。その一橋派の筆頭が斉彬で、南紀派の筆頭が、のちに大老となる彦根藩主・井伊直弼でした。しかし、井伊家は代々幕府大老を排出してきた譜代大名であるのに対し、島津家は、77万石を誇る大大名とはいえ、末席に位置する外様大名という立場に過ぎません。そこで、斉彬は篤姫の輿入れを画策したというんですね。すなわち、篤姫を将軍家に輿入れさせることで、その義父という立場で自身の発言力を高め、慶喜の次期将軍を実現させようと考えたという説です。なるほど、説得力のある話です。今話のラストシーンの斉彬と西郷の会話から見ても、たぶん、今回もその説をベースに描かれるのでしょうね。


 しかし、歴史家さんたちの間では、現在ではその説はほぼ否定されています。というのも、そもそも篤姫の輿入れの案が出たのは、将軍継嗣問題が生じる前のことでした。それも、この縁談を持ちかけたのは島津家からではなく、幕府側からだったといいます。その理由はいくつかありますが、まず、将軍家と島津家がすでに姻戚関係にあったということ。薩摩藩第5代藩主・島津継豊に幕府第8代将軍・徳川吉宗の養女・竹姫が輿入れし、その竹姫の孫にあたる薩摩藩第8代藩主・島津重豪の三女・茂姫(のちの広大院)が、幕府第11代将軍・徳川家斉の正室として輿入れしたという実績がありました。つまり、篤姫の縁組以前から、将軍家と島津家は深い結び付きがあったわけです。これは、外様大名としては例のないことでした。


e0158128_00524727.jpg また、その茂姫が、健康長寿だったことも大きな理由だったと考えられます。茂姫は50年近くも大奥・御台所の地位にあり、しかも、子沢山に恵まれました。彼女の血を引く大名や大名夫人が全国に15人もいて、しかもそれらの面々が皆、元気長寿だったといいます。幕府は、これにあやかろうとしたというんですね。あまり知られていませんが、家定は篤姫を正室として迎える前に、公家出身の女性を二度、娶っていましたが、ふたりとも若くして亡くなっていました。そこで幕府は、3人目の正室は、公家出身ではなく武家出身の女性を求めたとも言われます。そこで白羽の矢が立ったのが、健康で子沢山だった茂姫の実家、島津家だったわけです。つまり、この縁談を欲したのは、徳川家のほうだったんですね。


 もっとも、島津家にとっても、この縁談は大いにメリットがありました。茂姫の死後、家格が低下していた島津家の地位を復活させる意味でも、この縁談は願ったり叶ったりだったでしょう。また、斉彬と懇意だったといわれる幕府老中首座・阿部正弘の意向もあったでしょうね。阿部正弘は斉彬を始めとする有能な諸侯の意見を積極的の取り入れたいという方針の持ち主でした。その対策として、島津家との縁組を画策したとも考えられます。いずれにせよ、将軍継嗣問題は別にしても、篤姫の輿入れは、島津家にとって政治だったことは間違いないでしょう。


 ちなみに余談ですが、ヒー様こと慶喜役松田翔太さんは、10年前の大河ドラマ『篤姫』では、政敵の南紀派が擁立する家茂役でしたね。慶喜、家茂の両方を演じた俳優さんは、松田翔太さんが初めてなんじゃないでしょうか。だからどうということはないのですが。


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by sakanoueno-kumo | 2018-03-12 00:54 | 西郷どん | Trackback | Comments(6)  

西郷どん 第5話「相撲じゃ! 相撲じゃ!」 ~斉彬藩主就任~

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 嘉永4年(1850年)2月、43歳にして島津斉彬がようやく藩主の座に就くと、斉彬の藩主就任を待ち望んでいた勢力は、お由羅騒動で前藩主・島津斉興より不当な処分を受けた者たちの赦免を期待しました。しかし、斉彬は斉興時代の重臣たちを罷免することなく、また、処分を受けた斉彬派の赦免も行いませんでした。あくまで藩内融和を第一としたわけですね。これは賢明な斉彬なら当然の策で、ここで前政権の重臣たちを一掃してしまえば、また新たな遺恨を生み、さらなるお家騒動に繋がりかねません。斉彬はそこを見越したのでしょう。

 また、斉彬自身も、藩主就任に至るまでの経緯では相当裏工作を行っています。密貿易の情報をリークして調所笑左衛門広郷を死に追いやったり、幕府主席老中の阿部正弘に手を回して斉興に圧力をかけたり、決して品行方正ではありませんでした。当然、斉興派もある程度それを見抜いていたでしょうから、それらの口を封じるためにも、懐柔策が必要だったんですね。人事は重要な政治です。


 もっとも、赦免を期待していた斉彬派にしてみれば、納得できないのは当然だったでしょう。彼らにしてみれば、斉彬を藩主にするために力を尽くし、その結果、不遇の身となったわけで、斉彬が手を差し伸べてくれなければ浮かばれません。天性正義を好み、姦悪を憎むことの強い西郷吉之助(隆盛)も、憤激して建白書を提出したといいます。もっとも、相撲大会で優勝はしていません。ってか、なぜ斉彬に直訴するのに相撲大会で優勝しなければならないのかがわかりません(笑)。


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 思いのほか早く篤姫が出てきましたね。もっとも、「篤姫」と称するようになるのは斉彬の養女となってからで、ドラマのことときより2年後のことです。彼女は島津氏の一門の今和泉家に生まれ、幼名は「於一」といいました。平成20年(2008年)の大河ドラマ『篤姫』では、於一を「おかつ」と読ませていましたが、今回は「おいち」と呼んでいましたね。どちらが正しいのかはわかりませんが、最近では「おいち」の方が有力のようです。於一はこの2年後に斉彬の養女となって篤子(あつこ)となり、その後、徳川将軍家に嫁ぐために右大臣・近衛忠煕の養女となって敬子(すみこ)と名乗り、将軍・徳川家定の死後は落飾して天璋院と名乗ります。

 ちなみに、嘉永4年(1850年)のこの時期、於一は数えで15歳。いまでいえば中学2年生です。相撲観戦の際にお菓子を賭けていた隣の姫はまぎれもなく10代半ばに見えましたが、於一は・・・。まあ、綺麗だったので許しましょう(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2018-02-05 20:06 | 西郷どん | Trackback(1) | Comments(0)  

篤姫~名語録~その4

残念ながら総集編は仕事が忙しくまだ見れていません。
正月休みにゆっくり見ようと思っています。

名言その4は、最終回、49歳になった篤姫が言った最後の言葉。
「この世に意味のないものなど一つもございませんからな。」と言った勝海舟に対して、
「そうじゃの。人は皆それぞれ"使命"、果たさなければならないものを持って生まれて来るのじゃからの。」

志半ばで病没した島津斉彬、攘夷派の反感を一身に浴びて討たれた井伊直弼、新しい日本を目の前にして逝った坂本龍馬、明治政府に順応出来ず散った西郷隆盛、強引な改革断行によって不平士族達に暗殺された大久保利通、その他、名を成すことなく死んでいった多くの幕臣や志士たちのひとつひとつの命が、現代の私たちの日本に繋がっている。
この世に生れてきた命は、ひとつとして無用なものはなく、ひとりひとりが何らかの大切な使命を帯びて生きている。
そして平成の現代、名もなく細々と生きている我々もまた・・・。

そんなことを、大河ドラマ『篤姫』は教えてくれたように思います。

この辺で、『篤姫』の余韻に浸るのは終りにしたいと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2008-12-29 18:36 | 篤姫 | Trackback | Comments(0)