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天誅組の足跡を訪ねて。 その30 「龍泉寺(天誅組菩提寺)」

鷲家にある禅寺・龍泉寺は、天誅組の菩提寺となっています。

「その25」で紹介した鷲家口の宝泉寺も天誅組の菩提寺でしたが、あちらは「その26」で紹介した明治谷墓所に眠る天誅組隊士9名の菩提寺で、ここ龍泉寺は「その29」で紹介した湯ノ谷墓所に眠る6名の天誅組隊士の菩提寺です。


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石碑には、「天誅組志士菩提寺」と刻まれています。


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ここを訪れたのは、平成30年(2018年)11月18日。

天誅組隊士が死んでいったときと同じ紅葉の季節でした。


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こちらには、天誅組総裁のひとり・藤本鉄石辞世が刻まれた石碑があります。


雲をふみ 岩をさくみし もののふの

よろひの袖に 紅葉かつちる


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血に染まったように赤い紅葉です。


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境内です。


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龍泉寺は元亀元年(1558年)に開創された曹洞宗のお寺で、本尊の聖観音は野見観音

呼ばれ、首から上の病にご利益があるといわれています。


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ここ龍泉寺の墓地には、藤本鉄石に討たれた紀州藩銃撃隊の的場喜一郎の墓があるそうですが、どこにあるかわかりませんでした。

宝泉寺にも、天誅組隊士とともに敵方の彦根藩士の戦死者も弔っていましたが、ここも同じく討った藤本鉄石と討たれた的場喜一郎の両方の菩提を弔っています。

仏さんに敵も味方もない、ということでしょうね。


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彼らも、この美しい紅葉を見ながら死んでいったのでしょう。

次回、シリーズ最後です。




「天誅組の足跡を訪ねて。」シリーズの他の稿はこちらから。
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天誅組の足跡を訪ねて。



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by sakanoueno-kumo | 2019-11-14 23:55 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

室町時代の庭園が残る多気北畠氏城館跡を訪ねて。<後編> 武家庭園

<前編>の続きです。

多気北畠氏城館跡内にある庭園を散策します。

ここからは有料。


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入口横には、「名勝及史蹟多気北畠氏城館址」と刻まれた石碑があります。


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案内板です。

庭園は7代国司・北畠晴具の時代、享禄元年(1518年)頃の管領・細川高国の作庭という説に合致するそうです。


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いざ、庭園内へ。


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ここを訪れたのは平成30年(2018年)11月18日。

見事な紅葉が彩ります。


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天気が良ければもっときれいだったのでしょうけど、この日は曇りだったうえに、ここを訪れたのが夕方4時を過ぎていたので、暗い写真になってしまったのが残念。


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北畠氏伊勢国との関わりは、『神皇正統記』の作者としても知られる北畠親房が延元元年(1336年)に伊勢国田丸城を拠点としたことに始まります。

親房は伊勢神宮の存在や南朝を支持する南伊勢の諸勢力、及び、吉野朝廷と東国との連絡経路等について考慮し、伊勢国に拠点をおいたものと考えられています。


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親房自身はやがて常陸国に移りますが、次男の北畠顕信と三男の北畠顕能が伊勢にとどまり、延元3年(1338年)に顕能が伊勢国司となりました。

ちなみに、長男が前稿で紹介した悲運の武将・北畠顕家です。

その後、南伊勢の各拠点が北朝方の攻撃を受け、興国3年/康永元年(1342年)に田丸城が落城すると、北畠氏はほどなくここ多気に拠点を移し、霧山城や館を築いたといわれています。


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南北朝が統一されたあとも北畠氏は伊勢国司としての地位を保ち、守護大名として室町時代を生き抜いていきます。

往時の北畠氏の勢力範囲は、拠点である多気の地だけにとどまらず、およそ旧一志郡以南の諸地域に及び、隣国である伊賀国大和国の南部をもその支配下におさめていたといわれます。


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しかし、時は流れて天正4年(1576年)、織田信長天下布武の動きの中で侵攻を受け、約240年続いた多気北畠氏の歴史は幕を閉じることになりました。

栄華盛衰は世の慣いです。


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説明板によると、近年、同時代の庭園が発掘調査によって各地で見つかっていますが、ここ多気北畠氏城館跡の庭園のように、埋もれずに残っているものは他に例がなく、たいへん稀有な存在といえるそうです。


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庭園内にはかなりの樹齢であろう巨樹がたくさん茂っていましたが、おそらく、往時はこのような巨樹はなく、もっと見通しの良い空間だったのでしょう。


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さて、名勝を堪能したので、庭園を出て裏山への登山道入口に来てみました。


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霧山城址まで1350mとあります。


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でも、この時点で時刻は16時半で、とても1km超えの登山などできません。

霊山城はまた、いずれ、機会があれば。

最後に続日本100名城スタンプを載せます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-06-13 23:58 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

室町時代の庭園が残る多気北畠氏城館跡を訪ねて。<前編> 北畠神社

南北朝時代から戦国時代にかけて伊勢国の守護大名だった北畠氏の城館跡が、三重県津市の多気の地にあります。

多気(たげ)と読みます。


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多気北畠氏城館跡は多気のほぼ中央に位置する館跡詰城およびその背後の山頂にある霧山城をあわせた総称ですが、この日は夕方からの訪問だったため、麓の館跡のみの見学です。


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駐車場にイラストマップがあります。


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現在、館跡には北畠神社が鎮座します。

北畠神社はその名のとおり、初代伊勢国司として南朝奉護に尽くした北畠顕能を主祭神とする神社です。

石碑には、「別格官幣社」とあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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ここを訪れたのは平成30年(2018年)11月18日。

紅葉まっさかりの時期でした。


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境内入口の石鳥居です。


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社殿です。

北畠神社は建武中興十五社にも数えられています。

「建武中興十五社」とは、後醍醐天皇(第96代天皇)の建武の新政(建武の中興)に尽力した人物を祀った神社のことですが、北畠神社には主祭神の北畠顕能のほかに、父の北畠親房と兄の北畠顕家が合祀されていることから、建武中興十五社に数えられたのでしょう。

北畠神社の創建は寛永20年(1643年)3月と伝わり、建武中興十五社で唯一、近世以来の由緒を持ちます。

つまり、他の14社は明治以降の創建ということ。

明治政府が多分に政治利用するために創建したバッタもんの神様、とは言い過ぎでしょうか。


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境内には、合祀された北畠顕家の像があります。


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北畠顕家は建武の新政下、わずか16歳陸奥守兼鎮守府将軍に任じられた南朝方の武将で、一時は反旗を翻した足利尊氏軍を九州へ追いやる活躍を見せますが、延元3年/建武5年(1338年)、5月22日、阿倍野・石津の戦い21歳という若さで討死した悲運の武将です。


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「花将軍 北畠顕家公」とあります。

これと同じような像が、同じく建武中興十五社に名を連ねる阿部野神社にもあります(参照:太平記を歩く。 その149 「阿部野神社」)。

顕家は紅顔の美少年だったと言われ、その貴公子ぶりからも「花将軍」と称されました。

平成3年(1991年)のNHK大河ドラマ『太平記』では、当時、「国民的美少女」と持てはやされた後藤久美子さんが演じて話題になりましたね。


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境内に設置された説明板では、日本最古の石垣が発掘されたと書かれていました。

でも、あたりを見渡すかぎり、それらしき石垣は見当たりませんでした。


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こちらにも、何か説明板があります。


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入口跡の石段が見つかったとありますが、これも、見当たりませんでした。

たぶん、埋め戻されたのでしょうね。


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こちらの説明板には、礎石建物跡が出土したとありましたが、これも埋め戻されたのでしょう。


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結局、遺構といえるようなものは見られませんでした。

仕方がないので、紅葉をアップします。


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さて、<後編>では室町時代から残る庭園を散策します。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-12 23:34 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

但馬八木城跡登城記 その2 ~石城三ノ丸・二ノ丸跡~

「その1」の続きです。

「秋葉さん」と呼ばれる石仏を過ぎると、いよいよ縄張り図に描かれている本格的な城跡の遺構です。


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八木城は、西から東へ伸びる細長い尾根上に築かれており、東西340m、南北260mに及ぶ巨大な山城です。

標高303mの本丸から東方面に7段の郭があり、さらに北方向に6段、南方向に9段の郭があります。

この日の登山コースは東から。


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「秋葉さん」のあった土塁の上が、東面第6郭跡です。


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けっこう広い郭です。

ここは眺望もよく、物見櫓のような役割を果たしていたのかもしれません。


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説明板が設置されています。


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第6郭からの東南東の眺望です。

説明板によると、ここから但馬朝倉城が見えるとのことでしたが、木が覆い茂っていて視界が狭く、よくわかりませんでした。


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第6郭から第7郭を見下ろします。

削平地が段々になっているのがわかるでしょうか?


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第6郭から第5郭を見上げます。


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続いて第5郭から見た第4郭です。


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第4郭下から空を見上げます。

ここを訪れたのは平成30年(2018年)10月28日。

紅葉が始まりかけていました。


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第4郭跡です。

第4郭は八木城で最も大きな郭で、長さ66m、最大幅17mあります。


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本丸、二ノ丸、三ノ丸という用語は豊臣秀吉の時代から使われ始める言葉ですが、それでいうと、この第4郭あたりが三ノ丸に相当する郭と推定されます。


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第4郭跡の東先端には、「三ツ顔さん」と呼ばれる石仏があります。


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見上げると、陽の光をよく浴びている上の方が紅葉しています。

あと1週間ほど遅く来たら、もっと綺麗な紅葉が見られたかもしれません。


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「その1」でもふれたとおり、ここ八木城は但馬国守護大名の山名氏に仕える山名四天王に数えられた八木氏が、15代、300年以上に渡って守ってきた城でした。


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ところが、第15代城主の八木豊信の時代になると、但馬国の情勢が変わり始めます。

山名氏の勢力が次第に弱体していき、そんな中、織田氏毛利氏が但馬国に手を伸ばしてきました。

そのため、八木豊信は天正3年(1575年)11月から毛利勢の吉川元春と手を結びますが、織田信長の命を受けた羽柴秀吉軍の二度に渡る攻撃に屈し、降伏しました。

その後、豊信は羽柴軍に属して因幡国侵攻戦に参加し、秀吉から因幡智頭郡2万石を与えられて因幡若桜鬼ヶ城を任されますが、しかし、天正9年(1581年)に山名豊国から吉川経家鳥取城主が代わり、毛利氏の勢力が盛り返すと、若桜鬼ヶ城を守りきれずに消息不明となりました。

その後の詳細はわかっていません。


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八木城跡まであと100mとあります。


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第3郭跡です。


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そして、この防獣柵を超えると第2郭です。


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主郭(本丸)のすぐ真下にあたる部分で、のちの用語でいえば二ノ丸に相当する郭です。


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ここにも石仏があります。


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見上げると、本丸跡の石垣がドドーーンと目に入ります。

でも、長くなっちゃったので、本丸跡は「その3」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-04 22:38 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その167 「臥雲山即宗院」

「その164」で紹介した東福寺の塔頭のひとつである臥雲山即宗院は、薩摩藩ゆかりの寺院として知られています。


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即宗院は、南北朝時代の元中4年(1387年)に薩摩国の守護大名だった6代目・島津氏久の菩提を弔うため創建されました。

その後、永禄12年(1569年)に火災で焼失しますが、慶長18年(1613年)、島津家久よって再興され、以来、薩摩藩の畿内菩提所となりました。


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即宗院が建立される以前は、関白・藤原兼実が晩年に営んだ山荘「月輪殿」があったとされます。

その名残を感じさせる庭園は現在京都市名勝に指定され、紅葉の名所としても知られています。


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幕末、島津斉彬の養女として第13代将軍徳川家定に輿入れすることとなった篤姫も、薩摩から江戸にむかう途中の嘉永6年10月5日(1853年11月5日)に、ここを訪れたという記録が残っています。


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境内の奥へと進むと、かつて採薪亭という茶亭があった場所があります。

安政の大獄の嵐が吹き荒れた安政5年(1858年)、ここにあった採薪亭で西郷隆盛と清水寺塔頭・成就院の住職・月照が、たびたび密議を交わしていたと伝えられます。


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採薪亭の跡地には「西郷隆盛密議の地」と書かれた説明書が立っています。


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ここ即宗院は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで薩摩軍の屯所となりました。

鳥羽・伏見の戦いから会津戦争までの薩摩藩士の戦死者は524名とされています。

西郷隆盛は、その戦死者を弔うための薩摩藩士東征戦亡之碑を、ここ即宗院に建立します。


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その碑は、境内の裏山にあります。


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石段を登りきると石の鳥居があり、その奥の玉垣に囲まれた空間に石碑があります。


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正面には、西郷隆盛が藩士の霊を供養するために斎戒沐浴し、524霊の揮毫を行ったという石碑が5基、整然と並びます。


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これらすべて、西郷の揮毫といわれています。

この中には、西郷隆盛のすぐ下の弟で西郷従道の兄にあたる西郷吉二郎の名が刻まれているというのですが・・・。


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ありました・・・って、よく見ると「西郷宗次郎」となっていますね。

別人なのか、あるいは変名なのか、それとも誤記なのか・・・でも、弟の名前を間違えたりしないですよね。


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いちばん奥には、篆額「東征戦亡之碑」と記された石碑が建ちます。

その下の碑文は漢文なので詳しくはわかりませんが、「慶應之役其」という書き出しから想像するに、戊辰戦争の概要を記した文章だと思われます。

で、文末を見ると・・・。


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「西郷隆盛 謹書」とあります。

西郷の本当の名は「隆永」で、「隆盛」は父の名を間違って登録してしまったものだったため、西郷は終生、手紙などで「隆盛」の名を使ったことはなかったといいますが、公式な文書などでは、「隆盛」と記していました。


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過日、大阪歴史博物館で行われていた「西郷どん展」を観覧してきたのですが、そこで、ここ「薩摩藩士東征戦亡之碑」の設計図が展示されていました。

そこで紹介されていた文によると、除幕式に西郷は参列し「南洲翁の姿はフロックコートに白羽二重の帯に草履を履き、大小を手挟み、しずしず霊前にしばしもくとう、おもむろに祭文を読まれ、しばらくして、涙、滂沱として慟哭また慟哭、声なく全軍の士また貰い泣き、また慟哭」と、西郷の下僕だった永田熊吉が回想しています。


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せっかくなので石碑の前で記念撮影。


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この奥にある墓地には、人斬り新兵衛の異名で知られる田中新兵衛や、生麦村で大名行列を横切る英国人に斬りつけた奈良原喜左衛門、イギリス公使・パークス襲撃事件で負傷しながらも襲撃犯からパークスを守った中井弘などの墓があるそうですが、一般の方の墓もあるということで、残念ながら観光客は立入禁止でした。

最後に、石段を降りる際に目の前に広がっていた紅葉に彩られた景色をアップします。


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さて、明治維新150年にあたる年を記念して、今年2月から「幕末京都逍遥シリーズ」を続けてまいりましたが、本稿をもってひとまず終わりにさせていただきます。

167稿に渡った幕末史跡ですが、これを巡るのに、約2年かかりました。

1日で4~5ヶ所まわっていたのですが、30~40回は京都に足を運んだんじゃないでしょうか。

神戸から京都は、同じ関西ではあっても決して近くはなく、交通費も結構かかります。

われながら、よくやったなあと・・・。

楽しかったですけどね。

ただ、結構くまなく調べたと思っていますが、わたしの知らない幕末史跡が京都にはまだ残っているかもしれません。

そのときは、また続きをやろうと思いますので、その際はまたお付き合いください。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-24 03:50 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その164 「東福寺」

東山九条にある東福寺を訪れました。

ここは、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで長州軍の本陣が布かれた場所です。


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嘉禎2年(1236年)、摂政の九条道家が九條家の氏寺として建立したと伝わる東福寺は、京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭を有する大寺院です。


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東福寺は紅葉の名所としても知られています。

わたしがここを訪れたのは平成29年(2017年)11月26日で、観光客でたいへん賑わっており、庭園はほとんど牛歩状態でした。


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東福寺は東山の東南端、伏見と接する位置にあります。

大坂城から鳥羽街道を北上して鳥羽と伏見の2方に分かれた幕府軍に対して、長州軍は主に伏見方面の戦闘を担当しました。


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山門の横には、「維新戦役忠魂之碑」が建てられています。


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篆額は山縣有朋の書だそうです。

大正6年(1917年)11月に行われた長州藩殉難の士五十回忌に建てられたそうで、表には戊辰戦争の概略と長州軍の活躍をたたえた文面、裏には鳥羽・伏見の戦いで戦死した48名の名前が刻まれています。


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その横には「防長忠魂碑」と刻まれた石碑も。


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せっかくなので、紅葉の写真をアップしておきます。


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鳥羽・伏見の戦いは1月だったので、紅葉は散ったあとですね。

長州藩にとっては、文久3年(1863年)の八月十八日の政変で追放されて以来、約4年半ぶりの入京がここ東福寺だったわけです。

断腸の思いで見た景色だったんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-17 01:21 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その124 「実相院」

前稿で紹介した「岩倉具視幽棲旧宅」のすぐ北西に、鎌倉時代創建の寺院・実相院があります。

ここも、かつて岩倉村に隠棲していた岩倉具視ゆかりの寺院です。


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実相院は門跡寺院のひとつです。

門跡寺院とは、皇族公家が住職を務める特定の寺院で、かつては位階の高い寺院とされていました。


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実相院は紅葉の名所で知られています。

わたしがここを訪れたのは、晩秋の12月2日でした。


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文久2年(1862年)10月に岩倉村に落ちてきた岩倉具視は、元治元年(1864)に前稿で紹介した屋敷を購入して住居としますが、それまでの間の一時期、ここ実相院に住んでいたと伝わります。


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その縁もあって、寺院内には岩倉具視の日記密談の記録などが展示されていましたが、実相院の建物内はすべて撮影禁止のため、紹介することはできません。


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せっかくなので、紅葉の写真を載せます。


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岩倉具視もここで紅葉狩りを楽しんだのでしょうか。


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実相院は、床に紅葉が反射して見える「床紅葉」が有名ですが、これも、撮影禁止でした。

なので、こちらでググってみてください。

  ↓↓↓

実相院 床紅葉


実相院の裏山には、尊王攘夷派の志士たちに命を狙われた具視が身を潜めたと伝わる場所があり、現在、その地に石碑が建っていると聞いたのですが、裏山に入ってみたのですが、道標がなく石碑を見つけることができませんでした。

案内板、作ってほしいですね。




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幕末京都逍遥


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by sakanoueno-kumo | 2018-09-02 01:17 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その19 「忠僕茶屋(清水寺)」

前稿で紹介した「舌切茶屋」から少し西へ歩いたところに、「忠僕茶屋」という名の茶屋があります。

ここも、安政の大獄によって非業の死を遂げた月照に関係しています。


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月照が住職を務めた清水寺塔頭・成就院下男に、大槻重助という若者がいました。

重助は月照の尊王攘夷運動の手足となって働き、月照が西郷隆盛の導きで薩摩に下った際には、重助も付き従って薩摩に落ちます。

しかし、月照は薩摩の錦江湾にて入水自殺してしまうんですね。


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月照の死後、その遺品を京都に持ち帰った重助は、幕府方に捕えられ、六角牢獄につながれます。

そこで、同じく獄中にあった月照の弟・信海と再会します。

のちに信海は江戸に送られ、伝馬町牢内で病死してしまうのですが、このとき重助は、信海から後事を託されたといいます。


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重助はやがて解放され、一旦は生まれ故郷に帰ったものの、再び清水寺に戻り、境内に茶屋を営むことを許され、生涯、妻とともに月照・信海の墓を守り続けたそうです。


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重要文化財の三重塔を見上げる、こんな場所にあります。


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紅葉が美しい。


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前々稿で紹介した月照、信海、西郷隆盛の歌碑の横には、「忠僕重助碑」と刻まれた石碑があります。

この篆書の彫文字は、西郷隆盛の弟・西郷従道による揮毫だそうです。

西郷の歌碑に刻まれた漢詩は、明治7年(1874年)の月照の十七回忌のときに詠まれたものですが、当時、鹿児島にいた西郷が、この漢詩を託したのが重助だったのだとか。

「忠義」というのは、武士だけの美徳ではなかったんですね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-23 05:05 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その18 「舌切茶屋(清水寺)」

清水寺の境内に、「舌切茶屋」という変わった名称の茶屋があります。

ここは、おとぎ話の「舌切り雀」に由来する茶屋・・・ではなく、幕末の安政の大獄に関係した茶屋です。


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前稿で紹介した清水寺塔頭・成就院の住職・月照は、幕府大老の井伊直弼が進めた安政の大獄によって追われる身となり、西郷隆盛とともに薩摩の錦江湾で入水自殺しますが(西郷はのち蘇生)、このとき、月照上人の友で成就院の寺侍であった近藤正慎は、西郷と月照を都落ちさせたことで幕府方に捕らえられ、京都・六角牢獄で月照の行方を問われて拷問をうけます。

しかし正慎は決して口を割らず、最後は自ら舌を噛み切り、牢獄の壁に頭を打ちつけて壮絶な最期を遂げました。

月照と正慎は幼いころからの友人だったといいます。

正慎がどれほど熱心な尊王攘夷家だったかはわかりませんが、拷問に耐えて友人を守り抜いたその生きざまは、まさしく「勤皇の志士」だったといえます。


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残された正慎の妻子を救済するために、清水寺は境内に茶屋を開くことを許しました。

この茶屋が、のちに「舌切茶屋」と名付けられたそうです。

現在もその子孫が経営されているのだとか。


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紅葉が綺麗です。


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前稿で紹介した月照、信海、西郷隆盛の歌碑の片隅には、近藤正慎の碑もあります。

ちなみに、正慎は俳優の近藤正臣さんの曽祖父にあたるそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-22 00:03 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その199 「常照皇寺(山国御陵)」 京都市右京区

京都北郊の山中にある、常照皇寺を訪れました。

ここは、出家した光厳天皇(北朝初代天皇)が晩年に開山して隠棲した寺院で、光厳天皇陵(山国御陵)があります。


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参道入口です。

ここは紅葉の名所として知られていますが、人里離れた山奥ということもあり、それほど人は多くない穴場スポットです。

わたしがここを訪れたのは平成29年(2017年)11月11日。

もちろん、紅葉狙いです。


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真っ赤です。


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山門です。

長い石段は、まだ楓のレッドカーペットはできていません。

あと1週間ほど経ってからのほうがよかったかも。


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石段を上りきったところにある勅額門です。


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勅額門をくぐると、目の前に紅葉が広がります。

太陽が照っていればもっと鮮やかに見えたでしょうが、少し残念。


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正面に見えるのは勅使門

現在は閉ざされていて使われていません。


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光厳天皇は、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の失脚により、鎌倉幕府によって擁立されますが、その後、配流先の隠岐島を脱出した後醍醐天皇が討幕の兵を挙げると、討幕方に与した足利尊氏の軍勢によって京都の六波羅探題が攻め滅ぼされ、光厳天皇は後伏見上皇(第93代天皇)・花園上皇(第95代天皇)らとともに北条仲時に連れられ、東国に逃れるべく京を落ちます。

しかし、ほどなく近江番場宿で捕らえられ、在位僅か1年8ヶ月で廃位されます。


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その後、復権した後醍醐天皇によって、「朕の皇太子の地位を退き、皇位には就かなかったが、特に上皇の待遇を与える」として、光厳天皇の即位そのものを否定されます。

ところが、後醍醐天皇の建武の新政はわずか2年で崩壊

再び後醍醐天皇が京を追われて吉野朝を起こすと、光厳上皇は足利幕府の庇護の下、北朝院政を行いました。


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しかし、その後、南朝軍が一時京を奪還したことにより、弟の光明天皇(北朝第2代天皇)、子の崇光天皇(北朝第3代天皇)と共に捕えられ、南朝の本拠地だった大和賀名生幽囚されました。

その幽囚先で光厳天皇は失意のうちに出家し、諸国を行脚したのち、この山奥の寺を隠棲の場と定め、正平19年(1364年)7月7日、この地で崩御しました。


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中庭入口の紅葉もきれい。


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中庭の中央には、天然記念物に指定されている枝垂れ桜「九重櫻」があります。

光厳天皇の弟、光明天皇が手植えした桜と伝わるそうですが、だとすれば、樹齢650年に及びます。

これは、桜の季節にもう一度来る価値がありそう。


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庫裏入口です。


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方丈内です。


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玉座?

・・・じゃないでしょうね。


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方丈の縁側から見る庭園です。

みごとな紅葉です。


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しばし堪能。


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方丈の奥に続く怡雲庵(開山堂)に向かいます。


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怡雲庵(開山堂)のなかです。

明るく開放的な印象の方丈とは対照的に、薄暗く厳粛な雰囲気が漂う異空間といった感じです。


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外陣両脇のギャラリーには十六羅漢像が並んで見下ろしています。

その下には、昭和天皇をはじめとする歴代天皇の位牌が整然と安置されています。


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圧巻ですね。


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内陣です。

奥に、何やら僧侶のような人影が。


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どうやら、光厳天皇の木像のようです。

一瞬、即身仏かと思ってしまいました。

傍らにいるのは、側近の順覚の像だそうです。

順覚は、光厳天皇が諸国行脚の旅に出たとき、ただひとりお供した僧です。


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波乱に満ちた生涯を送られた光厳天皇ですが、木造のお顔はたいへん穏やかに見えます。


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それにしても、国の重要文化財でありながら撮影禁止じゃないのがありがたい。


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建物を出て、光厳天皇の御陵に向かいます。


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ここが、光厳天皇が眠る山国御陵です。

後花園天皇(第102代天皇)もここに眠ります。


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多くの歴代天皇が洛中にほど近い場所に眠るなか、人里離れた山奥を終焉の地に選んだ光厳天皇。

おそらく、俗世とは距離を置きたかったのでしょうね。

同じく山奥に眠りながら、最後まで京に帰ることを望んだ後醍醐天皇とは、対照的です。


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ただ、この山国御陵は、宮内庁のHPで紹介されている歴代天皇陵には記載されていません。

というのも、現在の天皇家の歴史は、南朝が正統とされているからです。

明治44年(1911年)に起きた南朝、北朝どちらが正統かという議論「南北朝正閏問題」で、「南朝正統論」を広めることこそ日本国民の道徳教育であると一部の歴史家が唱えたことにより、大逆事件などの政治問題と絡んで国会で追及された桂太郎内閣が、明治天皇(第122代天皇)の裁可を得て南朝を正統と決定しました。

これにより、北朝5代天皇は歴代天皇からは除外されてしまいます。

その後、「南朝正統論」は国策として進められ、教科書では「南北朝時代」「吉野朝時代」と改められ、政府を挙げて南朝の正統性を国民に浸透させようとしました。


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ちなみに、現在の皇室は北朝の血筋です。

もはや南朝正統論が政治的意味を持たなくなった今日、北朝5代天皇を歴代天皇に復帰させてもいいように思うんですけどね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-11 00:49 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)