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山崎合戦のまちを歩く。 その13 「勝龍寺城跡 ~後編~」

勝龍寺城本丸跡は東西120m、南北80mの長方形で、現在は庭園として整備されています。


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向こうに人物像が2体見えます。


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像は細川藤孝の嫡子・細川忠興と、その妻・玉(ガラシャ)のものでした。

ふたりは勝龍寺城で盛大な結婚式を挙げ、天正8年(1580年)に丹後国宮津に移るまでの2年間、新婚生活をこの地で過ごします。


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15歳どうしの結婚でしたが、わずか2年の間に2人の子宝に恵まれます。

宮沢保浅井雪乃ですね(←これ、わかる人はわたしと同世代かな?)。


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しかし、ふたりが幸せだったのはつかの間

天正10年(1582年)に玉の父である明智光秀「本能寺の変」を起こして自らも滅んだため、忠興は「逆賊の娘」となった妻を丹後国の味土野に幽閉します。

その後、羽柴秀吉の執り成しもあって、玉は細川家に戻されますが、その頃から心の拠りどころをキリスト教に求め、洗礼を受けてガラシャと呼ばれるようになりました。


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管理棟内にある忠興とガラシャの肖像画です。

ガラシャは絶世の美女だったと伝えられます。

そのせいか、忠興のガラシャに対する愛情常軌を逸していたといわれ、玉の美しさに見とれた植木職人を手討ちにしたとか、玉のキリスト教信仰に影響を与えた侍女の鼻をそいだとか、異常といえる妻への愛情が伝えられます。

そして、慶長5年(1600年)の「関が原の戦い」の際は、大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャは石田三成人質になることを拒み、壮絶な最期を遂げます。

忠興はその後も半世紀近く長寿しますが、ガラシャが幸せだったのは、ここ勝龍寺城で暮らした新婚時代だけだったといえるでしょうね。


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本丸南西の土塁上から、天王山が見えます。


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同じ場所から見下ろした南側の堀です。


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本丸の西側には、「沼田丸」という曲輪跡があります。

かつてここには、細川藤孝の妻の実家であった沼田氏の屋敷があったのではないかと伝えられているそうです。


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話を山崎合戦に戻して、一時、勝龍寺城に逃げ込んだ光秀でしたが、羽柴軍の追撃を受けて同城を脱出、自身の居城である坂本城に落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命します。

光秀にとって勝龍寺城は、まさに「最後の砦」でした。


次回に続きます。





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山崎合戦のまちを歩く。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-29 16:06 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(2)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~

本丸を攻める前に、大坂城うんちくを少し。
近世の城はどこでも、石垣の表面に築城にたずさわった大名の家紋などが刻まれた刻印石がありますが、ここ大坂城も例外ではなく、多くの刻印石が現存します。

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ざっと石垣を見渡してみても、拡大してみるといろんな刻印石が見つかります。

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これはどこの家紋でしょう?

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城内には、刻印石公園が整備されていて、間近で刻印をみることができます。

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解明されている刻印が表にまとめられています。

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上の写真は土佐藩主・山内忠義の刻印石のようです。

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この二重丸は、肥後熊本藩主・加藤忠広のようです。
また、この時点では改易になっていなかったんですね。

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これは細川越中守とありますから、おそらく明智光秀の娘・ガラシャの夫だった細川忠興のことでしょうね。
このときの忠興は豊前小倉藩主ですが、この石垣工事の数年後には、上記の加藤忠広に変わって肥後熊本藩主になります。

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丸に西と書いてあるように見えますが、誰のものでしょうか?
上手く撮れているものに限って、誰のものかわからない(苦笑)。

あと、大坂城の石にまつわる見どころとして、とてつもない巨石が使用されていることです。
下の写真は大手口枡形にある巨石で、松の木に隠れている正面の大手見付石が、表面積が約29畳敷(47.98㎡)で城内第4位の大きさ、左の大手二番石約23畳敷(37.9㎡)で城内第5位、右の大手三番石約22畳敷(35.82㎡)第8位の大きさだそうです。
いずれも瀬戸内海の小豆島から運んできたと推定されているそうで、ここを担当していたのは、このときはまだ肥後熊本藩主だった加藤忠広だったそうです

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続いて下の写真は京橋口枡形にある肥後石で、表面積が約33畳敷(54.17㎡)で城内第2位の大きさです。
肥後石という名から熊本の石かと思ってしまいそうですが、実際にはこれも小豆島から運ばれてきた石だそうで、担当大名は備前岡山藩主の池田忠雄だったといわれています。

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で、最後の写真は、二の丸と本丸を結ぶ桜門の枡形にある蛸石で、高さ5.5m、幅11.7mで表面積は約36畳敷(59.43㎡)と城内第1位の大きさで、重さは約108トンもあるとか。

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人と比較して見てみると、その大きさがよくわかるでしょうか?

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この採石場は備前岡山の犬島といわれ、担当大名は池田忠雄だったそうですが、いったいどうやって運んだんでしょうね。
運搬は海上輸送だったと考えられているそうですが、その具体的な方法はだそうです。
石垣の建築技術も戦国時代のそれとは比較にならないほどの進歩が見られますが、その運搬技術も目を見張るものがありますね。

さて、うんちくはこれくらいにして、今度こそ本丸に攻め込みます。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

大坂の陣ゆかりの地めぐりシリーズも、よければ。
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-05 19:44 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第34話「姫の十字架」

 明智光秀の三女として生まれた、たま(珠、玉、玉子)は、天正6年(1578年)、15歳のときに織田信長のすすめで、当時、乙訓一帯を支配していた戦国大名で勝龍寺城主・細川藤孝の嫡男・細川忠興のもとに輿入れした。たまは、聞きしに勝る絶世の美女だったとか。そんな彼女を忠興は愛し、ほんのひととき、勝龍寺城で幸福な新婚時代を過ごした。

 天正10年(1582年)6月2日、父である明智光秀が本能寺において主君・織田信長を討った、いわゆる「本能寺の変」が起き、その光秀も山崎の合戦において敗北、落命したため、たまは「逆臣の娘」となり、細川家内でも難しい立場になる。処刑もしくは離縁をすすめる父・藤孝に対して、たまを溺愛していたためどうしても離縁できない夫・忠興は、彼女を丹後の山奥深くの味土野という山里に隔離、幽閉してしまう。生まれたばかりの長男、のちの細川忠隆からも引き離され、わずかな侍女たちとともに人目を憚りながら暮らすこととなった彼女は、この間に、身分の分け隔てを超えた“人間愛”のような思想に目覚めていったという。

 2年後の天正12年(1584年)、天下人となりつつあった羽柴秀吉のとりなしもあって、忠興はたまの幽閉を解き、大坂城下玉造の細川家屋敷に住まわせた。しかし、そこでの生活は彼女にとって、幸せな日々ではなかった。夫・忠興のたまに対する溺愛ぶりが幽閉前よりさらにエスカレートし、度を越した嫉妬心で彼女を縛った。彼女が他の男と口をきくことを嫌がり、さらには彼女が他の男の目に触れることさえ疎んじ、屋敷から一歩も外に出ることを許さなくなった。一説には、たまの美しさに見とれてはしごから落ちた植木職人を、その場で手討ちにしたという逸話もある。今でいえば、ストーカー的というか、ちょっと偏執的な性癖があったようである。

 そんな大坂屋敷での生活に悩んでいたたまは、忠興が九州征討に出陣した留守中、カトリックの教えを聞きに教会へ足を運び、そこでの教えに感銘を受け、ついには洗礼を受け、“ガラシャ”という名を賜る。“ガラシャ”というのはラテン語で、“神の恵み”“神の恩寵”という意味。その後も死ぬまで熱心に信仰を続けたガラシャだったが、その名のとおり“神の恩寵”があったかといえば、この世に神も仏もないほど悲しい最後となる。

 秀吉の死後、再び天下に暗雲が立ち込め、徳川家康石田三成の対立が激化。ドラマにもあったように、徳川家康が上杉討伐のため挙兵した際、細川忠興もこれに従って出陣。しかし、家康が大坂を空けるやいなや、石田三成が徳川討伐を掲げて挙兵。徳川に与した大名・武将の大坂に残った妻たちを人質に取ることを企てる。当然、忠興の正室・ガラシャにも、石田方の手は伸びた。ところが、ガラシャは石田方の人質要請を頑なに拒否。彼女は三成の軍にかこまれると、屋敷に火を放ち、家老の小笠原少斎に胸をつかせて潔くを選んだ。享年38歳。自害を選ばなかったのは、キリスト教では自殺は大罪であり、天国へは行けないという教えがあったためだといわれている。

 ドラマでは、愛する夫のために死を選んだ・・・という設定になっていたが、通説ではもっと悲惨な話である。忠興は出陣前から三成の挙兵を予測していて、先にも述べたように度を越した嫉妬心の持ち主だった彼は、もしガラシャを人質に取られそうになったら、その前に彼女を殺すように家臣に命じていたという。石田方の人質になることなど許されるはずもなく、かといって、家臣に妻を託すことさえ、忠興にとっては耐え難いことだった。

 そんな忠興の性癖を知っていたガラシャは、家臣に自分を始末するよう夫が命じていたことも悟っていた。知った上で、潔くその運命に従ったのである。そんな偏執的な性癖の夫を、彼女が心から愛していたとはとても思えず、彼女にとっては彼女なりの戦いだったのかもしれない。その相手は、徳川でも豊臣でもなく、夫・細川忠興だったのではと・・・。元より彼女は、本能寺の変で「逆臣の娘」となって以降、この日を待っていたのかもしれない。もしそうだとすれば、彼女にとってこの死は、“神の恩寵”だったのだろうか。

 辞世の句
 散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

 花も人も、散りどきを心得てこそ美しいのだ・・・という意味。細川ガラシャことたまの、壮絶でありながら美しいその生涯は、まさしく「姫たちの戦国」である。


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by sakanoueno-kumo | 2011-09-05 03:09 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(2)