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越前松平家の福井城跡を歩く。 その3 ~天守台~

「その2」の続きです。

福井城本丸跡県庁庁舎県警本部の間の通路を北に進むと、本丸跡北西の隅に天守台跡が残ります。


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天守台です。


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天守台登り口の案内板には、天守の絵図が紹介されています。


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こちらは天守台案内図。

この上に天守台があるようですから、ここは天守郭といった方が正しいでしょうか。


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残されている天守絵図によれば、外観は4層ですが、最下層の階高を高くとって二階分の床を張っており、内部が5階になっています。

高さは約28mあり、天守を含めると約37mに及ぶ壮大な姿を誇っていました。


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天守の外壁は白漆喰総塗籠仕上げだったそうで、最上重には、外廻縁高欄と西面に向唐破風があり、元和大坂城天守(徳川秀忠によって普請された大坂城)に見られるような配置に破風が並べられていたとされます。


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かつて柴田勝家の築いた北ノ庄城の跡地に、福井藩の初代藩主として越前に入国した結城秀康が福井城の築城を開始したのは慶長六年(1601年)、それから約6年の歳月をかけて、雄大な城郭を築きました。

完成した城の敷地面積は2km四方に及んだといいます。


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天守台の外周をめぐってみます。


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石垣は横のラインが通った「布積み」と呼ばれる「切込接ぎ」の工法で、これは当時、第1級の城だった二条城江戸城などと同じ積み方です。

さらに福井城の石垣の特徴としては、すべて足羽山の笏谷石という同じ石が使われていることで、石が小さく、運びやすく加工しやすい「切り石」ばかりが使用されているそうです。


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天守台の北半分には大きな礎石が並んでいます。

おそらくここに天守があったのでしょう。


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この壮大な天守は、寛文9年(1669年)4月の大火によって焼失してしまいます。

このときの火災の被害は甚大で、侍屋敷379軒町家2,672軒が天守とともに焼失したと伝えられます。


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天守台の向かいにある小天守台(控え天守台)です。

傾いているのは、昭和23年(1948年)6月28日の福井大地震での被害だそうです。


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その3年前の昭和20年(1954年)7月19日には福井大空襲で市街の95%が破壊され、その復興まもないときに、今度は震災に見舞われ、福井市街は壊滅的な状態になったそうです。

この度重なる苦難を乗り越えて蘇った福井市を、「不死鳥のまち」と呼ぶそうです。

だから、福井市のメインストリートを「フェニックス通り」と呼ぶんですね。

なるほど。


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天守台の片隅には、「福の井」と呼ばれる井戸があります。

この井戸は、慶長6年(1601年)の築城当時からあった井戸と考えられているそうです。


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福井藩の正史である「越前世譜」「北庄を福井と御改候事(天守之傍ニ福井と云

名井有、其名ニ依而被改之)」とあるそうで、名井「福の井」「福井」の名の由来になっ

たという説も生まれたそうです。

しかし実際は、寛永元年(1624年)、福井藩第3代藩主の松平忠昌「北ノ庄」の名は敗北につながるとして「福居」に改名し、それが1700年頃に「福井」となったと考えられています。


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さて、天守台まで制覇しましたが、もうちょっと福井城周辺をめぐってみます。

「その4」に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-03-01 07:47 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

越前松平家の福井城跡を歩く。 その2 ~結城秀康~

「その1」の続きです。

福井城本丸跡に建つ県庁庁舎ビルの前には、初代福井藩主の結城秀康の像があります。

結城秀康は徳川家康の次男で、「関ケ原の戦い」の翌年にあたる慶長6年(1601年)に越前68万石を与えられ入国し、慶長11年(1606年)にここ福井城を築城しました。

この騎馬石像は、平成14年(2002年)4月に秀康の入国400年を記念して、3,800万円かけて建立されたものだそうで、ひとつの石で仕上げられています。

ただ、その製作費ほどの価値を感じないというか・・・。

以前の拙稿で紹介した三木城※参照)や法界寺別所家霊廟※参照)にある別所長治像と同じ匂いがします。

三国志の騎馬武者って感じが・・・。


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甲冑に身を固めた勇ましい騎馬像ですが、実は、秀康はその生涯で一度もこのような姿で勇猛果敢に戦ったことがありません。

その理由は、秀康に武者としての能力がなかったわけではなく、その生い立ちにありました。


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秀康の生母・於万の方(長勝院)は、家康の正室・築山殿侍女だった女性で、家康は於万の懐妊を知ると、築山殿の嫉妬を恐れて他家に避難させて出産させます。

そこで生まれた秀康を家康はなぜか疎んじ、3歳になるまで対面しなかったといいます。

その後、織田信長の命によって築山殿は暗殺され、長男の信康切腹に追いやられると、普通なら次男の秀康が後継ぎになるはずが、家康は三男の秀忠を嫡子とします。

家康が秀康を疎んじた理由は諸説ありますが、正確なことはわかっていません。


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その後、豊臣秀吉の時代になると、家康は秀康を豊臣家に人質として送ります。

実子のいなかった秀吉は、秀康をわが子のように可愛がったといいます。

「秀康」という名は、秀吉の「秀」と家康の「康」から名付けられたものですね。

その名の通り、秀康は徳川家と豊臣家の架け橋になろうとしていました。

なるはずでした。

ところが、秀吉に実子・鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松をわずか生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名し、そのため、秀康は他の秀吉の養子同様に、他家へ養子に出されることとなります。

それが、下総国の名家・結城氏でした。

ここに、結城秀康の名が誕生します。


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結城家当主として関東に下った秀康を、家康は丁重に扱いました。

しかし、秀吉の死後も家康は秀康を戦地に送ろうとはせず、関ヶ原の戦いの際にも留守居を命じました。

その理由は、嫡子・秀忠以上の働きをされては困るからだったと考えられます。

そして戦後、秀康は越前北ノ庄67万石に加増、移封されました。

一見、一族としての優遇にも見えますが、しかし、仮に秀康がその気になったとしても、徳川幕府を倒せるほどの身上でもない。

しかも、当時の越前国は雪深く、ひとたび冬になれば身動きがとれません。

家康は、加増という名目で秀康を雪国に閉じ込めたんですね。


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秀康は、ここ福井城が落成した翌年の慶長12年(1607年)に死去します。

死因は梅毒だったともいわれますが、詳しくはわかっていません。

秀康の武将としての器量は一流だったといわれ、剛毅で体躯も良く、天下人たる資質を十分に備えていたと伝わりますが、ついにその短い人生において何ら偉業を達成することなくその不遇の生涯を終えました。

秀康は父の家康より秀吉を慕っていたといいます。

一説には、秀康はその死の直前、嫡子・忠直に対して、「もし、徳川が秀頼様を害するようなことあらば、必ず秀頼様のお味方をしろ」遺言した、なんて逸話もあるくらいです。

しかし、忠直は父の遺言を守らず、徳川方に属して大阪城を攻めました。

そのおかげで、福井藩松平家は明治維新までの約270年間17代にわたって、徳川家の親藩として継続することになります。

でも、もし秀康が大坂の陣まで生きていたら・・・あるいは、この騎馬像のような勇姿を、豊臣方武将として見られたかもしれません。

なんて、想像たくなっちゃうのは、わたしだけでしょうか?


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今回は秀康像だけで終わっちゃいました。

福井城シリーズは、「その3」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-28 00:11 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

越前松平家の福井城跡を歩く。 その1 ~内堀、石垣~

過日、福井県を訪れた際に福井城跡に立ち寄りました。

福井城は、徳川家康の二男で初代福井藩主となった結城秀康が慶長11年(1606年)に築城し、約270年間17代にわたって越前松平家の居城となった城ですが、現在は石垣の一部だけが残っているだけで、その跡地には福井県庁の庁舎、県会議事堂県警察本部などがあります。


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写真は南東の堀と巽櫓跡の石垣です。

現在残っている堀は内堀で、県庁などのある石垣の内側は本丸跡

二ノ丸、三ノ丸は都市化されており、その遺構を見ることはできません。


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こちらは北東艮櫓跡の石垣。

内堀の幅の広さに、かつての福井城がいかに巨大な城であったかがうかがえます。


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こちらは北西天守台跡の石垣。


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福井城の石垣は横のラインが通った「布積み」と呼ばれる「切込接ぎ」の工法で、これは当時、第1級の城だった二条城江戸城などと同じ積み方です。


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さらに福井城の石垣の特徴としては、すべて足羽山の笏谷石という同じ石が使われていることで、石が小さく、運びやすく加工しやすい「切り石」ばかりが使用されているそうです。


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内堀西側山里口御門には、屋根付きの橋・御廊下橋が復元工事中でした。


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現地説明板によると、福井城本丸内には政庁と藩主の居住部分を合わせた床面積1千坪を超える御殿がありましたが、歴代藩主のうち、昌親(吉品)、重冨、治好、慶永(春獄)、茂昭の5人は、西三の丸御座所に居住していたとされ、藩主が政庁であった本丸と西三の丸御座所とを往復するための専用の橋が、この御廊下橋だったそうです。


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現在行われている復元工事は、明治初期に撮影された写真を元に忠実に再現されているそうです。


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その御廊下橋から内堀にそって南下した隅の坤櫓跡の石垣。


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坤櫓跡から東を見ると、本丸南面の内堀に架かる御本城橋が見えます。


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こちらがその御本城橋。

福井城大手門にあたります。


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内堀外周を1周したところで、御本城橋を渡って本丸跡に入ります。


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御本城橋を渡ったところの左には御門跡、右には瓦御門跡の石垣があります。

当時は枡形門の構造になっていましたが、現在は石垣が取り壊されています。


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門を入ると、本丸跡中央に県庁の庁舎が聳えます。

県庁がかつての城跡にある県は他にもたくさんあります。

戦国時代と違って江戸時代のお城は、言ってみれば各藩の政庁だったわけで、明治になって「藩」「県」になっても、行政の機能をそのまま引き継いで県庁になったわけですね。


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さっき通った瓦御門跡の石垣の上は、散策路となっていました。

せっかくなので登ってみることに。


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登り口にある説明板です。


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石垣の上は桜並木になっています。

ここを訪れたのは平成29年(2017年)5月21日だったのですが、桜の季節だったら綺麗だったでしょうね。


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で、こちらが瓦御門の石垣の上。

かつてはここに櫓があったわけです。


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石垣上から内堀を見下ろします。


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瓦御門裏手には、雁木が残っています。

雁木とは石垣や土塁に昇降するために付設された石階段のことで、近代城郭ではよく見られる遺構ですね。


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さて、長くなっちゃったので、「その2」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-26 23:59 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第21話「ぬしの名は」 ~気賀宿と中村屋~

 浜名湖に面する商業の町・気賀が今話の舞台でしたね。気賀は現在の浜松市北区にあった地名で、かつては東海道の脇往還である本坂通の宿駅として栄え、江戸時代には気賀関所が設けられたまちでした。エンディングの『直虎紀行』でも紹介されていたとおり、かつて浜名湖は淡水湖だったそうですが、ドラマのこの時代より遡ること70年近く前の明応7年(1489年)に起きた「明応の大地震」によって南側が決壊し、海へと通じるようになったそうです。これにより浜名湖南側を走る大動脈、東海道分断されてしまい、北側を迂回する本坂通の往来が盛んになり、その街道沿いのまちだった気賀は、宿場として栄えました。気賀の東に流れる井伊谷川都田川には橋が架かっておらず、街道を往来する人々は渡し船で通行したそうで、まちには船着場がいくつもあったといいます。


ちなみに、ドラマでは気賀を「きが」と言っていましたが、「きが」と読まれるようになったのは昭和12年(1937年)からだそうで、それ以前は「けが」と読んでいたそうです。


 ドラマに出てくる盗賊の頭・龍雲丸は架空の人物ですが、気賀の商人を取り仕切っていた中村与太夫は実在の人物です。代々、浜名湖の航路を支配していた中村氏は、この時代、屋号『中村屋』をかかげて、今川家の代官として戦船も管理していたといいます。この頃の中村氏の当主は第18代・中村正吉で、ドラマに出てきた中村与太夫は正吉の次男です。これより少しあとの永禄11年(1568年)、松平(徳川)家康が遠江国に入ると、正吉は船を出してこれを迎えたといい、その後、主君を今川氏から松平氏に乗り換えました。さすがは商家、機を見るに敏ですね。もっとも、この頃の今川氏は支配下の相次ぐ離反に歯止めが効かない状態にありましたから、中村氏の判断は当然のことだったといえるでしょうが。中村氏が付いたことで、松平氏は浜名湖の航路を手中に治めたわけです。これは大きかったでしょうね。

 以後、中村氏は徳川家に仕え、今切軍船兵糧奉行代官を勤めました。次男の与太夫はその分家にあたる気賀中村家の始祖となり、その当主は代々「与太夫」を名乗り、気賀宿の本陣として繁栄を築きました。余談ですが、後年、家康が正室・築山殿(瀬名姫)侍女に手を付けて妊娠させてしまった子を、宇布見の本家中村家の屋敷で産ませたといわれています。のちに家康はたくさんの女性に子どもを産ませますが、正室以外の女性に産ませた子としては、たぶん、これが最初のお手付きだったと思われ、しかも、それが築山殿の侍女だったということもあり、多少は後ろめたい思いがあったのかもしれません。一説によると、侍女の懐妊を知った築山殿は超激怒し、侍女の身の危険すら感じられたため、その目を逃れるために城外で出産させたとも。その出産の場に中村家の屋敷が選ばれたわけですから、中村氏が家康からよほど信頼されていたことがわかりますね。

 ちなみに、そのお手付きとなった女性は於万の方(長勝院)で、中村屋敷で生まれた子が、のちの結城秀康です。

 少しだけドラマのストーリーの話しをすると、龍雲丸から武家は百姓が作ったものを召し上げる大泥棒と言われ、ガビーンとなった井伊直虎。まあ、税金なんてものは払わずにすむなら払いたくないと思うのが世の常で、取られる側からしてみれば「盗られてる」感覚になるのは今も同じですね。ましてや、この時代の百姓に課された年貢の税率は、現代の税金とは比較にならないほど重いものでしたから。


もっとも、農民と武家の関係は直虎が言ってた土地の貸借関係というより、荘園の警護と百姓の保護のために有力農民の中から自然発生的に生まれたのが武家ですから(異説あり)、百姓は米を作り、武家は命を張る、といった相互関係が成り立っていたんじゃないかと思います。むしろ、政務活動費と称して多額の公金を横領し、記者会見で無様な号泣を晒したどっかの県議や、政治資金を公私混同してピザの本やら家族旅行やら中国服やらに使って辞職に追い込まれたどっかの都知事など、わたしたちの血税を私物化する「税金泥棒」は、現代の政治家や役人のほうが多いかもしれませんよ。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-29 17:35 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(5)