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緒方洪庵の適塾をたずねて。 <後編>

<前編>の続きです。

建物内はひととおり見学したので、建物の外を歩いてみましょう。


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説明板によると、表屋の建物は寛政4年(1792年)の北浜大火後まもなくの建築と考えられ、元は町筋に面する商家の形であったようですが、その後、弘化2年(1845年)に緒方洪庵が買い上げた際に若干の改造が行われたと見られています。


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建物の東側に、庭のような空間があります。


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入口の看板。

文字が消えて読めない(笑)。


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庭というか、公園ですね。


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近代的なビルに囲まれ、今も残る町家風のたたずまい。

不思議な空間ですね。


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第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)にこの建物は国に寄付されることになり、現在は大阪大学が所有、管理しています。

洪庵の子息や適塾門下生によって明治初期に設立された大阪仮病院大阪医学校が、やがて大阪帝国大学となり、現在の大阪大学医学部につながっているからだそうです。


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障子窓が開いているところが、前編で紹介した塾生大部屋です。


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続いて建物西側にやってきました。


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西側は広い公園になっていて、緒方洪庵の銅像が座しています。


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緒方洪庵は文化7年7月14日(1810年8月13日)、備中足守(岡山市足守)藩士・佐伯惟因(瀬左衛門)の三男として生まれました。

17歳のときに大坂に出て中天游の私塾「思々斎塾」に学び、21歳で江戸に出て坪井信道、宇田川玄真らに学ぶと、さらに26歳で長崎へ遊学して医学、蘭学を学び、29歳のときに大坂に帰って医業を開業しました。

このとき、同時に適塾を開きます。

同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚し、のち6男7女をもうけました。

その後、医師として種痘の普及や天然痘の予防などに尽力し、日本における西洋医学の基礎を築くとともに、教育者としては、福沢諭吉大村益次郎など幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く育てました。


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人柄は温厚篤実を絵に描いたような人物だったようで、福沢諭吉曰く「誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評しています。


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故・司馬遼太郎氏が小学校の国語教科書用に書いた『洪庵のたいまつ』の冒頭で、司馬氏は洪庵について次のように語っています。


世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。

ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。

緒方洪庵のことである。

この人は、江戸末期に生まれた。

医者であった。

かれは、名を求めず、利を求めなかった。

あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。

そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。

(『洪庵のたいまつ』より)


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また、司馬氏の小説『花神』では、こうも言っています。


なぜ洪庵が医者を志したかというと、その動機はかれの十二歳のとき、備中の地にコレラがすさまじい勢いで流行し、人がうそのようにころころと死んだ。

洪庵を可愛がってくれた西どなりの家族は、四日のうちに五人とも死んだ。

当時の漢方医術はこれをふせぐことも治療することにも無能だった。

洪庵はこの惨状をみてぜひ医者になってすくおうと志したという。

その動機が栄達志願ではなく、人間愛によるものであったという点、この当時の日本の精神風土から考えると、ちょっとめずらしい。

洪庵は無欲で、人に対しては底抜けにやさしい人柄だった。

適塾をひらいてからも、ついに門生の前で顔色を変えたり、怒ったりしたことがなく、門生に非があればじゅんじゅんとさとした。

「まことにたぐいまれなる高徳の君子」と、その門人のひとりの福沢諭吉が書いているように。

洪庵はうまれついての親切者で、「医師というものは、とびきりの親切者以外は、なるべきしごとではない」と、平素門人に語っていた。

(『花神』より)


司馬さんはよほど洪庵に惚れ込んでいたようですね。


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ここ適塾で学んだ門下生たちが、のちに医学、兵事、政治など各方面で活躍し、そしてそれが現在の私たちの生活につながっています。

まさに、洪庵のたいまつはつながっているんですね。

先述した司馬氏の『洪庵のたいまつ』の文末は、こう結んでいます。


洪庵は、自分の恩師たちから引き継いだたいまつの火を、よりいっそう大きくした人であった。

かれの偉大さは、自分の火を、弟子たちの一人一人に移し続けたことである。

弟子たちのたいまつの火は、後にそれぞれの分野であかあかとかがやいた。

やがてはその火の群が、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである。

後生のわたしたちは、洪庵に感謝しなければならない。

(『洪庵のたいまつ』より)


ここ適塾は、近代日本のたいまつ発祥の地といえるかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-15 07:53 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

緒方洪庵の適塾をたずねて。 <前編>

大阪市内のオフィス街のど真ん中に、緒方洪庵が開いた適塾(適々斎塾)の建物が残されています。

緒方洪庵は、幕末における洋楽研究の第一人者として仰がれた医師、蘭学者で、「日本の近代医学の祖」と呼ばれる人物です。

洪庵は、天保9年(1838年)から文久2年(1862年)までの25年間、大阪・船場で塾を開き、幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く育てました。


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この建物は、弘化2年(1845年)に洪庵が町家を買い受け、適塾を拡張したときのものです。


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間口は約12mしかありませんが、奥行きは約40mあり、敷地面積は464㎡あり、木造2階建の建面積は285㎡、延床面積は417㎡あります。


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正面には昭和16年(1941年)に建てられた石碑があります。


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入口横の説明板です。


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玄関を入ってすぐの土間に、平面図が書かれた行灯看板があります。


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それでは、建物の中を見てまわりましょう。


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1階は主に教室に使われた表屋と、洪庵とその家族の住まいとなっていた主屋に分かれます。

教室は2部屋あります。


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教室の奥には、中庭があります。

この中庭より奥が、洪庵の居住スペースとなります。


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書斎です。

六畳間です。


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手前が八畳の応接間で、奥が十畳半+床の間の客座敷です。


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客座敷です。

奥に庭が見えます。


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前栽(庭)です。


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こちらは、客座敷の隣にある家族部屋です。

七畳ありますが、洪庵は6男7女の子供がいました。

まさか、ここで全員寝てたわけではないですよね。


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そして台所


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ここで塾生たちの飯を炊いていたのでしょう。


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台所の天井です。

煤けていますね。

150年以上前の煤でしょうか?


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台所から2階へ上がる階段があります。

この急な角度、階段というより梯子のようです。

でも、昭和の時代も、古い家屋はみな、こんな急な階段でしたよね。


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2階へやってきました。

上ってすぐにあるのは、女中部屋です。


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そしてこの六畳間は、ヅーフ部屋と呼ばれる部屋です。

その名称の由来は、塾生たちが使用したヅーフ辞書(長崎出島のオランダ商館長ヅーフが作成した蘭和辞書)だそうです。

適塾の教育システムの中心は蘭書の会読だったといいますが、その予習のために塾生たちはこのヅーフ辞書を使ったそうですが、当時、極めて貴重だったこの辞書は適塾にも一冊しかなく、塾生はヅーフ辞書が置かれていたこの部屋につめかけて奪い合って使用したといいます。


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そして、その奥にある大広間が、塾生大部屋です。


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洪庵は医学者でしたが、適塾門下生からは、医学のみならず様々な方面で活躍する人物が出ました。

もとは医学者でありながら、やがて幕末の政治活動に身を捧げて死んでいった橋本左内や、同じく医学者から兵学者に転身して維新十傑の一人となった大村益次郎、維新後、慶応義塾大学を創設した福沢諭吉、同じく維新後、内務省の初代衛生局長となった長與專齋などがいました。


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また、戊辰戦争で新政府軍に抗い、あの五稜郭に立て籠った大鳥圭介高松凌雲も適塾門下生で、大鳥はのちに明治の外交で活躍し、高松は五稜郭の戦いで箱館病院を開院し、敵味方を問わずに傷病兵を助けるという我が国最初の赤十字博愛精神を実践した人物で、これがやがて日本赤十字を生むことになり、その初代総裁には、同じく適塾門下生だった佐野常民が就きました。

まさに、幕末維新の錚々たるメンバーがここから巣立ったんですね。


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この大部屋で、門下生たちは寝泊まりしていました。

塾生1人一畳が使えましたが、毎月、成績のいい者から好きな場所を選べたようです。

出入口付近はみんなに踏まれて最悪だったとか。

福沢諭吉なんかは、きっと常にいい場所を確保していたんでしょうね。

福沢諭吉は後年、適塾時代を振り返り、「およそ勉強ということについては、このうえにしようもないほど勉強した」と述懐しています。

その理由は、向上心よりも、場所取りだったかも(笑)。


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大部屋中央の柱には、塾生がつけたと伝わる刀傷が無数に残っています。

秀才ぞろいの適塾でしたが、やはり武士の若者たちですから、血の気の多いやつもたくさんいたんでしょうね。


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さて、ひととおり建物内を見て回りましたが、次回、建物の外を歩きます。

<後編>に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-13 23:27 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

司馬遼太郎記念館をたずねて。 その2

昨日の続きです。

十数年越しの希望だった司馬遼太郎記念館を訪れたこの日、せっかく来たのだから、なにか記念になるものを買って帰ろうと、グッズ売場であれこれ見てたのですが、どれも結構いい値段するんですよ。
文庫本用のブックカバーなんて5000円もするし、ペンケースも4000円以上して、さすがにちょっと手が出ませんでした。
かといって、ストラップや絵葉書など、安いからといって使わないものを買っても仕方がないし・・・で、結局購入したのがこれです。

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これも3200円もしたので、決して安い買い物ではありませんが、わたしはこういうところに来ると、必ず何か記念品を買って帰りたくなる性分でして、グッズ屋さんの思うつぼの客です。
司馬氏自筆とうたっていましたが、名前はそうでしょうけど、イラストもそうなんでしょうか・・・?
このイラストは、アイルランドの妖精だそうです。
司馬氏とアイルランドといえば、『街道を行く−愛蘭土紀行』が有名ですね。

あと、本を一冊買いました。
   ↓↓↓
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いまさら紹介するまでもないでしょうが、司馬氏が小学校6年生の国語の教科書向けに書き下ろした『二十一世紀に生きる君たちへ』です。
実は、この本を買うのはこの度が4度目になります。
1度目は自分自身のために、2度目は、いま大学生の息子が小学校を卒業するときの贈り物として、3度目は、今年高校を受験する甥っ子が小学校を卒業するときの贈り物としてでした。
そして、今年3月には、わが娘が小学校を卒業します。
たぶん、この度が最後の購入になるでしょうね(って、いつの日か孫に贈ってるかもしれませんが・・・苦笑)。

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小学生向けに書かれたエッセイですが、わたしはこの無駄のない文章が大好きなんですね。
人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている・・・ということ。
人間とは自然の一部にすぎない・・・ということ。
自己を確立するためには、何をしなければならないか。
そして、わたしがもっとも好きな言葉は、「やさしさ」は、人の持つ本能ではない。だから、わたしたちは訓練をしてそれを身につけねばならない・・・という一文。
わたしは、はじめてこの一文を読んだとき、目からウロコが落ちました。
そうか、生まれつき優しい人間なんていないんだ・・・と。
言いかえれば、訓練すれば、誰でもやさしくなれるんだ・・・と。
わたしは、この一文読んでほしくて、これまで子どもたちにこの本を贈ってきました。
どこまでその思いが伝わっているかはわかりませんが、心の片隅に少しでも響いてくれれば・・・という思いです。
わたしは、このエッセイを何度読み返しても、目頭が熱くなります。
名文中の名文だと思います。

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この本には、もうひとつ『洪庵のたいまつ』という作品も収録されています。
こちらも小学生向けに書かれた随筆で、緒方洪庵を題材にした一編です。

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世のために尽くした人の一生ほど、美しいものはない・・・という一文から始まるこのエッセイは、緒方洪庵という人の、私利私欲を捨て、人のために生きた生涯を紹介したものです。
幕末きっての蘭学者だった彼が、自分の恩師たちから引き継いだたいまつの火を、弟子たち一人ひとりに移し続け、やがてその火はそれぞれの分野であかあかと輝き、日本の近代を照らす大きな明かりとなった・・・と。
そしてそのたいまつの火は、現代のわたしたちにも受け継がれている・・・ということですね。
これもまた名文です。

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司馬遼太郎記念館を出て歩いて10分ほどのところにある中小阪公園というところに、『二十一世紀に生きる君たちへ』の一文を抜粋した文学碑がありました。

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まるで、二十一世紀にわが国で起きる、科学・技術が洪水のように人を飲み込んでしまった事故を予見しているかのような一文ですよね。
ほかにも、同作のなかのこの一文に関連した氏の言葉を部分的に抜粋して紹介します。

人間は・・・・繰り返すようだが・・・・自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。
このことは、少しも誤っていないのである。
歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。
この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。
人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、思い上がった考えが頭をもたげた。
20世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といってもいい。


現役の政治家さんの中には、司馬氏を崇拝すると公言している先生方がたくさんおられます。
その司馬氏が、二十一世紀に生きる私たちに向けて何を伝えたかったのか・・・たしか安倍晋三さんも司馬氏のファンでしたよね。
今だからこそ、もう一度この文章を読み返してみるべきではないでしょうか・・・。

さて、司馬遼太郎記念館訪問の備忘録のつもりが、話が思わぬ方向に向かっちゃいましたね。
とりとめがなくなってきたので、このへんで終わりにします。


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by sakanoueno-kumo | 2014-02-06 23:21 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)