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タグ:織田信長 ( 65 ) タグの人気記事

 

麒麟がくる 第11話「将軍の涙」 ~農兵制と兵農分離~

 織田信広松平竹千代(のちの徳川家康)の人質交換によって三河での勢力を盤石にした今川義元は、翌天文19年(1550年)8月、大軍を率いて尾張の知多半島に攻め寄せ、織田方の領地を次々と攻略していきます。これにより、織田信秀はその非力ぶりを露呈することとなり、いよいよ崖っぷちに立たされていきます。


 このとき織田方から美濃の斎藤道三援軍要請があったかどうかはわかりませんが、美濃から援軍を送ったという記録は残っていません。ドラマでは、稲刈りどきに他国のために兵を送るなど出来ないと国衆から猛反対を受けていた道三でしたが、たしかに、時期的に見てそれはあったかもしれません。この時代はまだ兵農分離が確立されておらず、百姓も貴重な兵力でした。この時代の兵士のほとんどは、普段は農業に従事し、召集がかかると武装して参戦する半農半士の者たちだったんですね。だから、領主たちは戦を仕掛けるにも、農繁期を避けて農閑期を選ばねばなりませんでした。つまり、経済面からも軍事面からも民百姓の数は国力であり、容易に貸し出せるようなものではありません。もっとも、金銭で兵を雇う傭兵制度は当時もありました。しかし、それも農閑期に限ったようです。


麒麟がくる 第11話「将軍の涙」 ~農兵制と兵農分離~_e0158128_21004698.jpg その最も顕著な例が、武田信玄上杉謙信の間で5回に渡って繰り広げられた「川中島の戦い」です。あれほど何度も対峙しながら、結局はっきりとした決着をつけられなかったのは、まさしく、両軍ともに農兵が中心だったからでしょう。農兵制である限り、長期戦は不可能だったんですね。ところが、その軍制を見直し、兵農分離を積極的に取り入れて常備軍を作り上げたのが織田信長でした。この軍制改革が信長を天下人たらしめたといえます(もちろん、それだけではありませんが)。逆に言えば、よく、武田信玄も上杉謙信も、もし、もう少し長生きしていれば天下を獲っていただろうという人がいますが、わたしは、上記の理由からそれはなかっただろうと思っています。信玄も謙信も、信長に比べれば所詮はローカルレベルでの英雄だっただろうと。


その意味で、わたしは信長が天下人の階段を上っていったのは歴史の必然だったと思うのですが、しかし、上り詰める寸前で引きずり降ろされたのもまた歴史の必然。天才信長には違う意味での欠陥があったんですね。


 話が大きく脱線しちゃいましたが、このとき、今川と織田の間に将軍・足利義輝から和睦要請があったのは史実です。もっとも、それを明智光秀が促したというのは、もちろんドラマの創作ですが。天文20年(1551年)6月28日、義輝は織田方との和睦を今川氏に求めるよう前関白の近衛稙家に依頼しています。これを受けた近衛稙家は、将軍義輝の御内書を今川義元や太原雪斎らに送りました。この調停によって両軍は休戦状態となりますが、その和睦交渉は遅々として進まず、おそらくは翌年の信秀の死によって沙汰止みになったと思われます。



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by sakanoueno-kumo | 2020-03-30 20:03 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(0)  

麒麟がくる 第10話「ひとりぼっちの若君」 ~織田信広と竹千代の人質交換~

 前話に続いて今回もほとんどが創作の回だったので、織田信長の庶兄・織田信広についての話を少し。信広は織田信秀長男と伝わりますが、母が身分の低い側室であったため、家督相続権は弟の信長にありました。生年は不詳ですが、信長とは年が離れていたと推測されています。


 弟の信長があまりにも英雄となったために愚鈍な兄に見られがちな信広ですが、決してそうではなかったようで、戦の際には父・信秀から軍事的にも重要な役割を任されており、天文17年(1548年)3月に起きた第二次小豆坂の戦いでは、先鋒を務めています。しかし、その戦いで織田軍は大敗を喫してしまい、安祥城へと敗走を余儀なくされました。その後、その安祥城の守備を任されたのが信広でした。三河攻略を目指していた織田にとって安祥城はその拠点となる砦で、そこを任されていた信広は、決して凡将ではなかったといえるでしょう。


 麒麟がくる 第10話「ひとりぼっちの若君」 ~織田信広と竹千代の人質交換~_e0158128_15331497.jpg天文18年(1549年)3月、今川義元の配下の太原雪斎率いる今川・松平連合軍2万の軍勢が安祥城に攻めかけます。このときは今川軍の攻撃のマズさによって撃退に成功しますが、同年11月、再度、雪斎に城を攻められた際には、平手政秀などが援軍に遣わされるも耐え切れず、安祥城は陥落。この戦で信広は今川方に生け捕りにされてしまいます。今川方は最初から信広を生け捕りにするのが目的の戦いでした。その理由は、人質交換の駒にするため。その相手は、2年前から織田家の人質となっていた竹千代(のちの徳川家康)でした。竹千代の父・松平広忠は、実質、今川氏の傘下となっていましたが、その広忠亡きあと(ドラマでは信長が殺した設定)その跡取りである竹千代は、三河を支配する上で重要な駒だったんですね。


 「竹千代は三河の主となる若君。それを今川に渡すなど、尾張の命運にも関わります。兄上は戦下手ゆえ捕らえられた。自業自得ではありませぬか。捕らえられる前に腹を切るべきであった!」


 劇中、今川氏からの人質交換の要求に苦慮する信秀に対して言い放った信長の台詞。庶兄とはいえ実兄に対して何とも血も涙もない物言いですが、正論ではあります。戦に負けても捕虜にさえならなければ、竹千代を今川氏に渡すことはないですからね。


「信秀は、我が子を見殺しにいたしましょうか?」

「見殺しにできるようならば、信秀殿はまだ見どころがある。」


 信広生け捕りの報を知った斎藤利政(道三)明智光秀の会話ですが、しかし、信秀は息子を見殺しにはせず、人質交換に応じます。信秀からすれば、息子可愛さの親心だったのか、あるいは、それほど信広が見殺しにし難い優秀な人材だったのか、いずれにせよ、この人質交換によって三河はほぼ今川氏の支配下に入ることとなり、織田氏の三河侵攻は失敗に終わりました。


 ちなみに、劇中、将棋を打つなど心を通わせていた信長と竹千代でしたが、この人質期間中に2人が知り合っていたという史料は残っていません。また、この時期に信長と光秀が会ったという記録も当然なく、2人が知り合うのはもっとずっと先のことです。まあ、史料に残っていないというだけで、完全否定する材料にはなりませんし、少なくとも、信長と家康は、何らかの接点があったとしてもおかしくはないでしょう。でも、光秀と信長は、ちょっと無理があるでしょうね。そもそも帰蝶(濃姫)従兄妹関係だったという説も定かではないですし、それがもし事実だったとしても、そう簡単に会えるものでもなかったでしょうし。


 さて、物語は第10話まで進みましたが、それにしても、時代が進みませんねぇ。この10話でまだ2年ほどしか経っていません。残り37話で30年以上の歴史を描かねばならず、その後半になればなるほど、光秀の事績は濃くなっていくはず。大丈夫でしょうか?特にここ4話はほとんど創作話ばかりで、ドラマである以上、創作が悪いとは言いませんが、本来、光秀の事績は信長の配下に入ってからが重要だと思うのですが、このペースで行くと、後半がかなり駆け足になりそうで心配です。駒ちゃんの恋バナもいいですが、そんな箸休めに時間を費やしすぎて、本題の光秀の歴史が粗雑な描き方になるようであれば、本末転倒かな、と。最初の3話ほどがたいへん面白かっただけに、ここへ来てちょっと心配になってきました。期待はずれにならなければいいのですが・・・。



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by sakanoueno-kumo | 2020-03-23 15:34 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(2)  

麒麟がくる 第9回「信長の失敗」 ~大うつけ信長と松平広忠の死~

 尾張国と美濃国の同盟の証として結婚した織田信長帰蝶(濃姫)。ドラマでは、祝言をすっぽかして平手政秀ら家臣たちを困らせていた信長でしたが、司馬遼太郎『国盗り物語』では、とりあえず婚儀の席には座ったものの、その窮屈さに堪えかねて何度も脱走を試み、その都度、平手政秀につかまって連れ戻されるというヤンチャな信長の姿が描かれていました。もちろん、どちらも物語上の創作ですが、信長の型にはまることを嫌う破天荒ぶりを強調した創作でしょう。


麒麟がくる 第9回「信長の失敗」 ~大うつけ信長と松平広忠の死~_e0158128_21004698.jpg そんな若き日の信長が「大うつけ」と呼ばれていたことは有名ですね。『信長公記』が伝える信長のうつけぶりは、湯帷子の袖をはずし、半袴を着て、その腰には帯代わりの縄を巻いて火打袋瓢箪などいろいろぶら下げ、髪は茶筅の形にして紅の糸や萌黄の糸で巻き立て、朱鞘の大刀を差していたといいます。その異常な身なりで人目をはばからずにをかぶりながら町を歩き、立ちながら餅を食べ、人によりかかり、「人の肩につらさがりて」歩いたというから、いまでいえば、ヤンキーチンピラですね。また、信長は卑賎の若者たちとも頓着せずに戯れていたようで、これは、いかに秩序の乱れた戦国時代といえども、あり得ないことでした。これらすべてが、のちの既成概念にとらわれない奇才ぶりや、身分にとらわれない人材登用の片鱗といえるのでしょうが、当時の人々の目には「大うつけ」としか見えなかったでしょうね。


麒麟がくる 第9回「信長の失敗」 ~大うつけ信長と松平広忠の死~_e0158128_19245940.jpg そんな「大うつけ」に斎藤道三は娘を輿入れさせたわけですが、後年、道三は信長と会見し、信長の非凡な能力を見抜いたという話は有名ですが、この時点では、やはり巷のうつけ評を信じるしかなかったでしょう。それを承知の上で帰蝶を嫁にやったのは、もちろん尾張との戦を回避するためというのが一番の理由だったでしょうが、もし信長が噂どおりの大うつけならば、父の織田信秀の死後、棚ぼたで尾張が手に入るという魂胆だったのかもしれません。実際、この約2年後に信秀は病没してしまいますし、道三も信秀の健康状態が芳しくないという情報を得ていて、あえてうつけに娘をやったのかな、と。ところが、それはとんだ見当違いだったんですね。


 ちなみに、ドラマで信長が祝言をすっぽかした理由としていた怪物が出る池の話は、『信長公記』が伝える「あまが池」の逸話がベースでしょう。あまが池に大蛇が出るという噂を耳にした若き日の信長は、家臣や付近の農民たちに池の水を全部かい出せと命じ、4時間ばかり続けて7割ほど水をかい出したところで、業を煮やした信長は自ら脇差を咥えて池に潜り、大蛇を探したといいます。ところが、結局、大蛇は見つからず、「蛇など、おらぬ」と言い残して清州に帰った、と。この逸話は、物事の真実を突き詰めなければ気がすまない信長の性格を物語ったエピソードとして知られていますが、ドラマでは、化け物に怯える領民の不安を解消するため、自ら池に入ったという領民思いの信長として描かれていました。う~ん・・・ちょっと違うよなあ。


 あと、織田家の人質となっていた竹千代(後の徳川家康)の父・松平広忠についてですが、諸説あって定かではありません。江戸幕府の正史『徳川実記』大久保忠教が著した『三河物語』では病死とされていますが、これは、二代続けて当主が不慮の死を遂げたということを隠蔽したものだともいわれています(広忠の父・松平清康は若くして家臣に裏切られて殺害されています)。昭和58年(1983年)の大河ドラマ『徳川家康』では、岩松八弥に殺害されるという展開でしたが、これは、江戸時代中期に編纂された『岡崎領主古記』によるもので、山岡荘八の原作小説どおりでした。


今回は信長が広忠を討たせたという設定でしたね。広忠殺害に織田家が関与していたという説は『岡崎市史』に見られるそうで、それによると、「廣忠公、天文十八年三月鷹狩ノ節、岡崎領分渡利村ノ一揆生害ナシ奉ル。尾州織田弾正忠武略・・・」とあるそうです。ここでいう織田弾正忠とは、信長の父・信秀のことですね。信秀が渡利村の一揆を扇動して鷹狩に出ていた広忠を討たせた、というもの。若干16歳の信長がこれに関与していたというのは考えづらいですが、今回の設定は、まったく荒唐無稽の作り話というわけではないようです。もっとも、これがもし本当なら、家康は父と息子と妻を織田家に殺されたことになりますね(息子と妻の死についても諸説ありますが)。それでも律儀に織田家との同盟関係を貫いた家康の心中は、現代の私たちには想像もつきません。


 殺害された広忠の脇差を届けてその死を報せたのは、菊丸でしたね。ただの農民ではなく、物語の狂言回し的役割を担っているのだろうとは思っていましたが、松平家に仕える忍びだったんですね。伊賀者でしょうか? 竹千代を守るべく託された菊丸が、この先、明智光秀にどう絡んでくるのか楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2020-03-16 14:33 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(4)  

近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>

「その2」のつづきです。

宇佐山城主郭の北側にある三ノ郭に向かいます。


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上の写真は主郭北側の階段。

前稿で紹介したとおり、主郭にはNHKの中継設備が建てられているため、このような階段が設置されています。


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階段を降りたところが、主郭と三ノ郭のあいだにある大堀切です。

おそらく往時はもっと深いだったのでしょう。


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三ノ郭虎口です。


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三ノ郭です。


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三ノ郭北東から、琵琶湖畔が一望できます。

晴れていたらきれいな眺望だったと思うのですが、この日はあいにくの曇り空。


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「近江富士」と呼ばれる三上山です。


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安土城のあった安土山も見えます。

その向こうには、観音寺城のあった繖山も。


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元亀元年(1570年)9月25日、摂津から駆けつけた織田信長がここ宇佐山城に入ると、浅井・朝倉連合軍は、比叡山に逃げ込みます。

そこから同年12月までの間、両軍睨み合いとなりますが、その間、信長は比叡山延暦寺に対して、それまでに取り上げた寺領を返還するから、せめて中立を保つよう要請しますが、延暦寺はこれを受け入れませんでした。

『信長公記』では、これが、翌年の「比叡山焼き討ち」の原因となったと説いています。

結局、同年12月に朝廷の仲介を受けて、織田軍と浅井・朝倉連合軍は和睦します。

和ぼくに際して、宇佐山城は一時的に破却されたようですが、元亀2年(1571年)の夏までには修復され、明智光秀が城代として入りました。

そして同年9月、あの「比叡山焼き討ち」が実行されます。

その際、ここ宇佐山城が信長の本陣になったとの説がありますが、確かな史料は残っていません。

でも、前年の「志賀の陣」からの流れを考えると、ここが比叡山焼き討ちの拠点となったと考えていいんじゃないでしょうか。


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湖畔に見えるのようなところが、のちに明智光秀が築いた坂本城跡公園です。

比叡山焼き討ちで武勲をあげた光秀が、信長から坂本の地を与えられ、翌年の元亀3年(1572年)に坂本城を築いて移ったため、ここ宇佐山城は廃城となり、歴史的役割を終えました。


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比叡山方面は、現在は樹木が遮ってよく見えません。


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さて、城跡はひと通り制覇したので、弁当食って下山します。


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登山口の宇佐八幡宮まで降りてきました。

せっかくなので、お参りして帰ります。


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石段を上がったところが境内です。


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舞殿です。


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本殿です。


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ここを訪れたのは令和元年(2019年)11月3日。

天皇陛下御即位を祝う幟と垂れ幕が掲げられていました。


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由緒書の石碑には、「織田信長が山頂に宇佐山城を築いた戦乱のなか、落城の戦火により社殿は悉く焼失し荘厳な往時の様子は今に語り継がれている。」とあります。

元亀元年(1570年)の「志賀の陣」のことでしょうね。


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本殿の後ろに、何かあります。


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何かの礎石跡のようです。


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説明書によると、この礎石は創建当時のものだそうで、礎石の表面が焼けただれているのは、宇佐山城の戦火に巻き込まれたときのものと考えられているそうです。


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宇佐山城が歴史の記録に登場するのは、元亀元年(1570年)からわずか2年間ほどしかありませんが、その歴史的役割は非常に大きなものだったといえるでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2020-03-14 14:11 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>

「その1」のつづきです。

二ノ郭の一段下の郭のさらに下に降りてみると、立派な高石垣が残っていました。


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これは素晴らしい!


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こっちの角度からも。


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前が狭いので、全景を撮影するのが難しい。


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ここ宇佐山城は、前稿でも述べたように元亀元年(1570年)に織田信長森可成に命じて築かせた城ですが、信長が安土城より以前に近江で最初に石垣による築城を行ったという意味では、貴重な城とされています。

宇佐山は伊勢や美濃から琵琶湖の南岸を通って京都に至る最短ルートの途中にあり、ちょうど近江と京都の境界上に位置しています。

信長が京都へ進出するにためには、重要な場所だったのでしょう。


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石垣に根を張る巨樹。


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とにかく、見事な高石垣。

圧巻です。


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このあたりは段曲輪になっていて、さらに下にも広い曲輪があります。

石垣を堪能したので、山頂に向かって登ります。


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二ノ郭にも少しだけ石垣跡が見られます。


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二ノ郭に登ってきました。


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理由はわかりませんが、有刺鉄線で囲われていました。

特に何もなさそうですが、何を守っているのでしょう。


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二ノ郭の北側が主郭ですが、現在、主郭にはNHKの中継設備が建てられていて、遺構は失われています。

残念。


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ただ、こちらの建物の下の空間に単管の柵があり、その中を覗いてみると・・・。


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水路跡のような遺構があります。

これ、たぶん遺構ですよね。


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主郭の樹木に設置された看板。


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主郭の西側に降りていく道があります。

この下にも曲輪がありそうです。

行ってみましょう。


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やはり、曲輪跡のような削平地がありました。


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そして、ここにも石垣跡が。


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さらに西側をみると、段曲輪が何段も続いています。

降りてみましょう。


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やはり、ここにも石垣跡がたくさんあります。


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段曲輪の周囲にすべて石垣が積まれています。

それだけ、宇佐山城は信長にとって重要な城だったということでしょうね。

「その3」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-12 00:11 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>

琵琶湖の南西、近江国と山城国を隔てる比叡山塊の南に位置する標高336m宇佐山山頂に、かつて宇佐山城がありました。

宇佐山城は織田信長森可成に命じて築かせた城で、可成に死後は明智光秀が入り、「比叡山焼き討ち」の拠点とした城です。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19434189.jpg


宇佐山への登山ルートは近江神宮からも登れますが、楽したい人は、中腹の宇佐八幡宮まで車で登ることができます。

もっとも、道がかなり狭い上に道路も荒れているので、運転に自信のない方、車が汚れるのが嫌な方にはお勧めできません。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19433198.jpg


宇佐八幡宮の近くに車を停めて、ここからは登山です。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19452225.jpg


宇佐八幡宮への参道の脇に、こんな看板があります。

ここから斜面を登って山道に入ります。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19491246.jpg


登山道には、地元の小学生の手作りの誘導看板が随所に建てられています。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19490558.jpg


「歴史をかんじる宇佐山城」


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19491584.jpg


「がんばって登りましょう」

おじさん、頑張る!(笑)


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19574660.jpg


宇佐山城の文献上の初見は、奈良・興福寺の僧である多聞院英俊が記した『多聞院日記』で、永禄13年(1570年)3月20日の稿に、「信長が配下の森可成に命じて宇佐山に築城させ、江南と京都を結ぶ道路を封鎖した」と記されています。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19574978.jpg


また、『信長公記』には、元亀元年(1570年)5月9日(この年の4月に永禄から元亀に改元される)に「宇佐山拵え」という記述があり、この少し前に築かれたと考えていいのでしょう。


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元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いで、信長は浅井・朝倉連合軍を敗走させましたが、同じ年の8月末には敵対する三好三人衆が大坂の野田城、福島城を拠点に蜂起し、信長はすぐさま自ら摂津入りして両城を包囲するも、9月半ばに大坂の石山本願寺が信長に敵対することを決め、本願寺の指令を受けた一向宗徒が織田方へ一斉に襲いかかってきました。


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摂津で信長が苦戦を強いられている最中、その機に乗じて浅井・朝倉連合軍が息を吹き返し、3万の大軍を率いて南近江の志賀郡へ進軍。

ここ宇佐山城に攻め寄せました。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19575820.jpg


宇佐山城には城主の森可成をはじめ、信長の弟・織田信治がいましたが、その兵力はおよそ3000人ほどだったといわれ、10倍以上の兵力の差は如何ともし難く、可成、信治ともに討死します。

しかし、宇佐山城は城兵の必死の防戦で何とか持ちこたえました。

その後、浅井・朝倉連合軍は比叡山に逃げ込み、睨み合いとなります。

この戦いは「志賀の陣」と呼ばれ、織田信長の生涯で最も苦しい戦いとされています。


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と、歴史の話をしていると、石垣が見えてきました。

どうやら、あの上が主郭のようです。


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石垣のところまで登ってきました。


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きれいに残っていますね。


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450年もの時を経ているとは思えません。


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このまま主郭には登らずに、南の二ノ郭側に斜面を攻めてみます。


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石仏の転用石のようです。


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崩れかけていますが、明らかに石垣跡ですね。


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こっちにも。


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二ノ郭下の石垣です。


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二ノ郭のさらに一段下の郭です。


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その下を覗き込むと、また石垣が見えますが、長くなっちゃったので、つづきは「その2」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-11 00:12 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

麒麟がくる 第8話「同盟のゆくえ」 ~帰蝶(濃姫)の輿入れ~

 国内外の敵に攻撃されて苦境に陥っていた織田信秀は、その打開策として、美濃国の斎藤氏との同盟を図ります。すなわち、信秀の嫡男・織田信長斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)の結婚でした。二人の結婚の時期については、一次史料の『信長公記』には記載されていませんが、江戸時代初期に刊行された軍記物『美濃国諸旧記』によると、天文18年2月24日(1549年3月23日)とされます。信長、数え16歳。帰蝶は年齢不詳ですが、同じく『美濃国諸旧記』の記述によれば、天文4年(1535年)の生まれとあり、その説に従えば、信長の1つ下の数え15歳となります。また、同じく『美濃国諸旧記』によると、二人の結婚の媒人は明智光安であったとされます。ドラマでは明智光秀叔父(異説あり)にあたる人物ですね。また、『信長公記』によると、両家の婚儀をまとめたのは、織田家家臣の平手政秀の尽力によるといいます。ドラマで、帰蝶に謝っていた人です。平手政秀は信長の傅役でした。


麒麟がくる 第8話「同盟のゆくえ」 ~帰蝶(濃姫)の輿入れ~_e0158128_16344558.jpg その帰蝶についてですが、上述したように生年もはっきりしないばかりか、その名前すら定かではありません。『信長公記』などの一次史料には彼女の名前の記載はなく、今回のドラマで採用されている「帰蝶」という名は、上述した『美濃国諸旧記』によるものです。また、同書によると、父・斎藤道三の居城・鷺山城から輿入れしたため、「鷺山殿」と呼ばれていたと書かれていますが、これは、当時の慣習からいえば、あり得る話だそうです。一般的の最も有名な呼称は「濃姫」だと思いますが、こちらは、江戸中期以降に編纂された読本『絵本太閤記』『武将感状記』に登場するもので、「帰蝶」よりも新しい呼称です。その由来も、美濃からきた姫だから「美濃姫」、略して「濃姫」という安直なネーミングで、どう考えても本名ではなさそうです。司馬遼太郎『国盗り物語』では、帰蝶という名があるにも関わらず、信長は何故かその名を呼ぼうとせず、濃姫の濃をとって「お濃」と呼んだという設定でした。どっちの説も否定しないという司馬氏の苦肉の設定だったのでしょうか。


 帰蝶の生母は、斎藤道三の正室・小見の方とされます。『美濃国諸旧記』によると、小見の方は東美濃随一の名家であったという明智氏の出身であり、帰蝶が唯一の子だったといいます。一説には、小見の方は明智光秀の叔母にあたることになり、その説に従えば、帰蝶と光秀は従兄妹の関係になります。今回のドラマでも、その設定を採用していますね。この従兄妹説は他の多くの物語でも採用されていて、帰蝶が光秀にほのかな恋心を抱きながら信長に輿入れするという設定も、これまで何度も描かれた話です。2人の結末を考えると、これほどドラマチックで悲しい話はないですからね。もっとも、この従兄妹説については、光秀の出自自体に不明な点が多く、定かではありません。


 それよりも興味深いのが、今回、初めてドラマなどで描かれている(であろう)設定、帰蝶バツイチ説ですね。あまり知られてはいませんが、帰蝶は信長と結婚する前に、美濃国守護・土岐頼芸の甥の土岐頼純に輿入れしたという説です。ドラマで道三に毒殺されたあの男ですね。頼純に道三の娘を輿入れさせたというのは史実で、道三から見れば主筋となる土岐家への輿入れであることから、ではなく正妻の娘を輿入れさせたとみるべきで、となれば、この場合、帰蝶しかいないことになります。この説は、わたしの知る限りドラマなどで描かれたことはなかったように思います。もっとも、帰蝶が頼純に輿入れしたとされるのは、天文4年(1535年)生まれ説に従えば数え12歳、今で言えば小学校5年生ぐらいです。多分に形式的だけの結婚だったと思われ、その翌年には頼純は道三に殺されていますから、おそらく、信長に嫁ぐとき、帰蝶はまだ生娘だっんじゃないでしょうか。どうでもいい? いやぁ、大事なことですよ。世嗣ぎが出来たとき、面倒なことになりますから。



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by sakanoueno-kumo | 2020-03-09 16:36 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(2)  

穴太衆の郷、坂本石積みの郷公園。

先日の稿で紹介した西教寺から1.5kmほど南西に山を下ったJR湖西線の比叡山坂本駅の駅前に、坂本石積みの郷公園があります。

このあたりは、かつて織豊時代に活躍した石垣職人・穴太衆が住んでいた郷と伝わります。


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現在の住所に残る「穴太」は、ここより2駅南の滋賀県大津市坂本穴太ですが、この辺一体に穴太衆が住んでいたということで、ここに公園があるのでしょう。


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よく、「この城の石垣は穴太積みである」といった説明がなされているものがありますが、「穴太積み」は技法ではなく、穴太衆が築いた石垣を「穴太積み」といいます。

なので、「穴太積み」は基本的には「野面積み」が多いですが、実際には、穴太衆は「打込接」「切込接」「玉石積み」「切石積み」もできました。

野面積みのことを穴太積みと誤解される場合がありますが(そういう説明をしているパンフレットなども見かけます)、間違いです。


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野面積みの中でも穴太衆が手掛けた穴太積みは特に堅牢だったそうで、説明板によると、その秘密は、積み石の比重のかけ方にあって、表面から1/3奥のところに重力がかかるように設計されており、さらに土の水ぶくれによる崩壊を防ぐため、石垣の奥に栗石層、その奥に小石をつめていくなどして排水を良くする工夫が施されているのだとか。

その技が、何百年の風雪に耐え得る堅牢さ生み出しているんですね。


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もともと穴太衆は比叡山の寺院の石工を任されていた職人でしたが、安土城の石垣を施工したことで織田信長豊臣秀吉にその技術を認められ、それ以降は江戸時代初頭に至るまで、多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られたといいます。

いい仕事をすると、次の仕事につながる。

これ、技術職の基本ですね。


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公園内には、なぜか若き日の最澄の像がありました。

穴太衆とは何の関係もありません。


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おそらく比叡山坂本駅の駅前だからでしょうね。


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最澄が開祖となった比叡山延暦寺の石垣を施工したのが穴太衆とすれば、まったく関係ないこともないか。


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400年以上の時を経て、わたしのような城マニアが、穴太衆の施工した石垣をめぐって写真を撮りあさっていようとは、彼らは思いもしなかったでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-04 00:44 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>

近畿の水がめ琵琶湖の南湖西岸に、かつて明智光秀が築いた坂本城がありました。

現在、その遺構は都市化によってほとんど残っていませんが、城跡周辺を歩いてみました。


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まず訪れたのは、琵琶湖畔に整備されている坂本城址公園

その入口には、「坂本城址」と刻まれた石碑が立ちます。


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西側を振り返ると、比叡山が見えます。

元亀2年9月12日(1571年9月30日)、織田信長は比叡山を焼き討ちにしますが、その中心実行部隊として活躍した明智光秀に近江国滋賀郡5万石を与え、ここ坂本城の築城を命じました。

その目的は、比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得だったといいます。

たしかに、比叡山を監視するには絶好の場所かもしれません。

もっとも、比叡山から見下されているという気もしないでもないですが。


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公園内には、石碑や説明板、それから光秀の像もあります。


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まずは光秀像


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微妙・・・・。


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五木ひろしさんみたい(笑)。


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以前、福井城の結城秀康像の稿(※参照)や、三木城の別所長治像の稿(※参照)でも述べましたが、どうも、平成に作られたであろう新しい像は安っぽい

どう見ても戦国武将には見えず、三国志の騎馬武者って感じに見えます。

どれも同じ作者に見えますね。

三木城の別所長治像なんて、着物が左前の死人襟(死人合わせ)になっていて、ひどいものでした。

中国で低予算で作らせているんじゃないかと。

明治から昭和初期に作られた像は、どれも立派なものばかりですからね。


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像前の業績碑


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その横の歌碑です。

われならで 誰かは植ゑむ 一つ松 心して吹け 志賀の浦風 光秀

かつてこの近くにあった「唐崎の松」という名木が、大風によって枯れたしまい、それを惜しんだ光秀が詠んだとされる歌です。


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こちらは、「光秀の意地」の碑。

唄うは鳥羽一郎さんだそうです。

聞いたことねーっ!

五木ひろしさんだったら、さっきの像とリンクするんですが(笑)。


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こちらは案内板。


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地図を拡大します。

なんだ、ここ城跡公園は、城の縄張りの外じゃないか!

本丸、二ノ丸跡はもう少し北、三ノ丸跡はもう少し西にあったようです。

本丸跡も湖岸に、「坂本城石垣」と記載されています。

あとで探しに行ってみます。


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公園から湖岸に通じているようです。


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琵琶湖です。

南東に見える高いビルは、大津のホテルです。


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こちらは東側。


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そして、こちらは北東側。

対岸の右に見える富士山のような形の山は、近江富士と呼ばれる三上山です。

ということは、写真右側の遠くに見える山々のあたりに安土城があるはずです。


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さて、「その2」では、本丸跡付近を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-20 11:48 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 番外編 <安土城考古博物館、信長の館>

「その10」の続き、番外編です。

安土城跡から車で5分ぐらいのところに、安土城関連の展示館が2ヶ所あります。

まず訪れたのは、安土城考古博物館


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ここで目を引いたのが、復元模型でした。


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上の写真は、「その3」で紹介した伝羽柴秀吉邸跡の復元模型。

上下2段に分かれた郭で構成は、まさに、さっき歩いた遺構そのままですね。

こういうのを作ってもらえると、たいへんわかりやすい。

ちなみに、右側の石段が大手道石段です。


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その大手道石段の模型。

上の写真は、安土城築城時の大手道の想像模型です。


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こちらは、昭和の発掘前の大手道

幕末の火災によって焼失した摠見寺(参照:その10)が、その後、昭和7年(1832年)に大手道脇の「伝徳川家康邸跡」に移築された際(参照:その4)、大手道の一部を埋め立てて石垣を築いたため、まっすぐ伸びていた大手道石段は姿を消し、大手道は石垣を大きく迂回するかたちになっていたそうです。


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つづいて、発掘中の大手道

往時のまっすぐの大手道石段が姿を表しました。


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そして、発掘整備後の大手道

現在の大手道ですね。

大手道の変遷がよくわかります。


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続いて、安土城考古博物館のとなりにある「信長の館」にやってきました。


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館内には、安土城天守の5階と6階が実物大で復元されています。


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35mm換算の広角レンズを使っても、全景を撮ることができません。


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安土城天守は絵図などの史料は残っておらず、その姿は定かではありません。

この復元天守は、古文書などの元に研究者が想像したもの。

つまり、復元天守ではなく、想像天守です。


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「その8」で紹介したポルトガル宣教師ルイス・フロイスの記述によると、「ヨーロッパにも例がない絢爛豪華な建物」絶賛しています。

フロイスは「ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である。」と記述しており、この復元天守は、その赤の階層と、最上階の金色の階層となります。


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5階は内陣外陣囲う八角形構造になっており、内陣のなかは金箔の壁と釈迦説法図襖絵に囲まれた総朱塗りの床の中央に、2枚のが敷かれています。


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こんな部屋、落ち着かないだろうなあ。


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外陣も総朱塗りの廊下になっており、壁には双龍争珠図などが描かれています。


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黄金の最上階を見上げます。


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最上階に上ってきました。


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こちらは、フロイスの記述も『信長公記』の記録も、どちらも金色だったと伝えていますから、金箔貼りだったことは間違いないでしょう。


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も金です。


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最上階の内部は、黒塗りの柱と床をベースに、壁は総金箔貼りとなっています。


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何度も言いますが、これはあくまで想像の天守。

実際に織田信長がもしこれを見たら、ぜんぜん違う!と言って殺されるかもしれません(笑)。


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こちらは、館内にある50分の1の復元模型

こっちの方がわかりやすいです。


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そして、館内の展示で興味深かったのは、本能寺の変の約半月前の天正10年5月15日(1582年6月15日)、織田信長が武田勝頼討伐に功をなした徳川家康穴山梅雪を安土城に招待してもてなした際の饗応メニューのレプリカの展示です。

これは、詳細な献立の史料が残っているそうで、ほぼ忠実に再現できるそうです。


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こちらが本膳

問題の鮒寿司があります。

このとき、信長は魚が腐っているといって激怒し、饗応役を務めていた明智光秀足蹴にしたといい、その怨恨が、本能寺の変に繋がったという説がありますよね。

そのときの腐った魚というのが、この鮒寿司だったんじゃないかと言われています。

鮒は近江の高級食材だったのですが、海産物が豊かな尾張や三河の信長や家康にしてみれば、臭みの強い鮒は口に合わず、腐っていると勘違いしたのではないかと。

光秀にしてみれば、最高級の料理でもてなしたつもりだったのでしょうが、たしかに、現代でも好き嫌いに分かれることが多い鮒寿司のチョイスは、ちょっと失敗だったかもしれません。


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こちらは二膳

こちらにも、鮎、鯉などの淡水魚が揃っています。

鯉も癖が強い魚ですもんねえ。


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こちらは三膳

日本人はこんな昔からカニを食べてたんですね。


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こちらは与膳

また、鮒が出てきています。

鮒汁は近江の特産だそうですが、これも口に合わなかったかもしれませんね。


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そして五膳

汁は鴨の汁だそうです。


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最後に御菓子

いわばデザートですね。

すごいコース料理です。


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饗応役でのトラブルが本能寺の変に繋がったかどうかは定かではありませんが、この夜、何らかの理由で光秀が信長から叱責されたのは事実のようです。

ルイス・フロイスの記述によると、「この饗応の準備について信長は光秀と言い争いになり、怒った信長が、光秀を一度か二度足蹴にした」と伝えています。

今年の大河ドラマは明智光秀が主人公の『麒麟がくる』ですが、この饗応役のエピソードは、果たしてどのように描かれるでしょうね。


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さて、番外編まで続いた安土城攻城記でしたが、このへんで終わりにします。

長々とお付きあいいただき、ありがとうございました。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-16 01:55 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)