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タグ:織田信長 ( 47 ) タグの人気記事

 

映画『アルキメデスの大戦』に見る、将軍たちは一つ前の戦争を戦う。

先日、映画『アルキメデスの大戦』を観てきました。

何の予備知識もなく観に行ったので、わたしはてっきり戦艦大和を題材にした史実ベースの戦争映画だと思っていたのですが、ぜんぜん違いましたね。

物語は戦艦大和建造のみにスポットを当てたヒューマンドラマとでもいいますか・・・。

少しはモデルとなった実話があるのかと思いましたが、まったくのフィクションだそうで。

原作漫画は読んでいませんが、映画としては、まあ面白かったと思います。


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物語は、巨大戦艦「大和」を建造しようとする海軍首脳部と、その建造は開戦につながるとして、それを阻止しようとする反対派との机上の戦いが主軸でした。

ここで、実際に戦艦大和の建造が必要だったかどうかを考えてみたいと思いますが、確かに、結果を知っている後世から見れば、すでに戦闘機が主流となっていた第二次世界大戦に、途方もない巨額予算を投じて時代遅れの巨大戦艦を造り、一瞬にして海の藻屑と消えた愚かな策に映りますが、当時の日本人に、果たしてそれがわかっていた人がどれだけいたでしょうか?


当時、日本は大正11年(1922年)のワシントン海軍軍縮条約以降、10年以上戦艦を造っていませんでした。

その後、昭和5年(1930年)に結ばれたロンドン海軍軍縮条約で、さらに主力艦建造停止が延長され、英・米・日の補助艦総保有量は10:10:7となりました。

この条約に不満を持った海軍将校たちが、あの五・一五事件を起こすのですが、とにかく、海軍としては軍備を強化したくてもできない時代が長く続いていたんです。

そこで、条約の期限が切れて建艦制限が失効した昭和12年(1937年)から大和の建造が始まるわけですが、なぜ戦艦に固執したかというと、やはり、そこには日露戦争の戦勝の経験があったのでしょうね。

日露戦争で日本は、当時、世界最強とうたわれたロシアのバルチック艦隊を、日本海で壊滅させました。

このときも、それをやろうとしていたんですね。

アメリカが日本に艦隊を送る場合、狭いパナマ運河を通る必要があり、そのためには、そこを通れないような大型の戦艦は造れない。

それを見越して、日本は46cmの主砲を擁した巨大戦艦を造ろうと考えた。

そしてアメリカが日本近海に来るのを待ち構えて叩こうとしたんです。

軍縮条約のため数で勝てない日本は、その性能で米・英を凌駕しようと考えたんですね。

その着想の原点は、やはり日露戦争の日本海戦にありました。


「将軍たちは一つ前の戦争を戦う」


という格言があります。

指揮をとる者は、どうしても前回の成功の経験をもとに戦略を立ててしまいがちで、それが今に合わなくなっていることに気づかない、という意味ですが、これは、軍人のみならず、人間、過去の成功を踏襲したいと思うのは普通のことだと思います。

それをしなかったのが織田信長でした。

彼は、桶狭間の戦い寡兵を率いて今川義元の大軍を破り、一躍、戦国の勢力争いに名乗りを上げましたが、以後の信長は、桶狭間のような奇策はいっさい用いず、必ず勝てる戦力を整えてからでないと戦を仕掛けませんでした。

普通なら、過去の成功を模倣して百戦そのやり方でいきそうなものですが、そこが信長の天才たる所以でしょうね。


しかし、信長のような天才は日本史上においてもです。

日本が日露戦争の戦勝に模倣したのは、当然の成り行きだったでしょう。

あるいは、映画における山本五十六のように、戦艦を無用の長物と考える先見性を持った人物がいたかもしれませんが、ほとんど声にならないほどの少数だったでしょうね。

実際の山本五十六が大和建造に反対していたかどうかもわかりません。

一説には、当時、航空本部長だった山本が、「これから海軍も空が大事で、大艦巨砲はいらなくなる」という発言をしたという話がありますが、これも、戦後の回顧談によるものだそうで、本当の話かどうかはわかりません。

大和建造は、避けられない歴史の必然だったんじゃないかと。


話を映画に戻して、菅田将暉くん演じる主人公の櫂直は、大和建造の不正を暴いて計画を中止させるべく奮闘するわけですが、しかし、最終的に大和が建造されることは歴史の事実としてわかっているわけで、そこにどう話を着地させるのかが物語の最大の焦点だったと思いますが、なるほど、そうきたか・・・と。

なかなか見事な落としどころでしたね。


ここからはネタバレになるので、映画を観ていない人は読むか否かは自己責任でお願いします。

大和の設計者である平山忠道(架空の人物)曰く、日本はアメリカと戦ったら確実に負けるとした上で、こう言います。


「戦争での負け方を知らない日本人は、最後の一人まで戦ってしまいうだろう。その結果、国はつぶれる。この国を守るには、絶対に沈まないと信じさせた鉄壁の艦を目の前で沈ませ、国民を目覚めさせなければならない。この戦艦は、日本という国の“依り代”なのだよ。」


そして、そのためにふさわしい名「大和」なんだ、と。

みごとな落とし方ですね。

「依り代」を辞書で引くと、「神霊が依り憑く対象物。神霊は物に寄りついて示現されるという考えから、憑依物としての樹木・岩石・動物・御幣など」とあります。

戦争に負けても日本が沈まないために、日本の代わりに沈んでくれる、それが「大和」だと言うんですね。

大和が沈むことを知っている現代人目線だから言えることだ、という無粋な見方はやめましょう。

だって、所詮はフィクションなんだから。


ただ、実際の歴史では、大和は「依り代」にはなれませんでした。

戦艦大和が沈んだのは昭和20年(1945年)4月7日、日本がポツダム宣言を受諾したのが同年8月14日。

この4ヶ月間に、おびただしい数の国民が命を落としました。

もし、映画の平山忠道の言葉どおり大和沈没で日本が目を覚まし、そのすぐあとに戦争を終わらせていたら、どれだけの命が助かったか。

本土主要都市の空襲のほとんどがこの4ヶ月の間のことで、それも避けられた。

当然、広島、長崎の原爆投下もなかった。

ひめゆり学徒隊も死なずにすんだ。

広島城岡山城福山城和歌山城名古屋城仙台城大垣城首里城も、焼けなくてすんだ。

ソ連が参戦することもなく、のちの北方領土問題もなかった。

何より、この4ヶ月間だけで数十万人の国民が死んでおり、その命が助かっていたんです。

この4ヶ月間で日本が失ったものは計り知れません。

残念ながら大和は「依り代」にはなれませんでした。


ただ、大和は戦後も日本を象徴する存在ではありつづけました。

戦艦「武蔵」「金剛」は知らなくても、大和を知らないという人はいないんじゃないでしょうか。

大和を題材とした映画やドラマも数多く作られました。

なんせ、戦後30年足らずでイスカンダルまで行っちゃいますからね(笑)。

それだけ日本人は大和という艦が好きで、その理由は、片道の燃料だけを積んで海に沈んだという敗戦の無念さを象徴する艦だからということもあるでしょうが、やはり、いちばんは、「大和」という名称にあるように思います。

「武蔵」や「金剛」では、ここまで日本人は哀愁を感じなかったんじゃないかと。

やはり、映画のとおり、沈む艦としてはふさわしいネーミングだったといえるかもしれません。

その意味では、少しは「依り代」になったのかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-11 00:23 | 映画・小説・漫画 | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その10 <ライトアップ>

「その9」の続きです。

令和元年(2019年)6月1日から築城400年事業の一環として、本丸の櫓がライトアップされるという情報を知り、その初日、昼間に続いて再び明石城にやってきました。


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写真は明石公園南入口にあたる太鼓門

「その2」でも紹介しましたが、昼間とはまたぜんぜん雰囲気が違いますね。


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で、公園内三ノ丸の芝生広場にやってきました。


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左が坤櫓、右が巽櫓です。


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ライトアップが始まりました。


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三脚も立てずに撮影していますので、手ブレ、ご容赦ください。


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七色に七変化です。


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今風にいえば「城ナリエ」ですね。

ちょっと違うか。


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城のライトアップというのは各地で行われていますが、日本で最初の城のライトアップは、今から約440年前の天正9年(1581年)7月15日、織田信長による安土城のライトアップというのはあまりにも有名ですよね。

もちろん、電飾などない時代ですから、照明はすべて松明提灯でした。

『信長公記』によると、安土城の天主および惣見寺にたくさんの提灯を吊るさせ、また、お馬廻り衆を新道に配置し、または入り江にを浮かべさせて、それぞれに松明を灯させたと伝えられます。

また、ルイス・フロイス『日本史』には、安土城周辺の家臣の屋敷はすべて火をたくことを禁じ、色とりどりの豪華な美しい提灯で上の天守を飾らせたとあります。

そのライトアップされた城が琵琶湖の水面に映り、言いようもなく美しかったと。

当時の人々にとっては、見たこともない幻想的な光景だったでしょうね。


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現代のそれは、LEDによって色とりどりに演出されています。

でも、安土城を見た当時の人々のような感動はないかなぁ・・・。


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坤櫓です。


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巽櫓です。


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今年で築城400年を迎えた明石城ですが、実は、約400年前の元和年間(1615~1624年)は、空前の築城ブームだったので、令和元年(2019年)の今現在、築城400年を迎えようとしている城、城跡は全国にたくさんあるんですね。

なので、いろんな場所でこれから数年間に築城400年事業が計画されているようです。

これを機に、築城400年めぐりをしてみるのもいいかもしれません。


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さて、これで本当にシリーズを終わります。

最後に、この日に押したものではありませんが、日本100名城のスタンプを載せます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-09-07 01:30 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その9 <織田家長屋門・明石駅>

「その8」の続きです。

前回までで明石城内はすべて攻略しましたが、「その1」で紹介した中濠南西の西不明門(にしあけずもん)の南側に、古い屋敷門跡があります。


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この門は「織田家長屋門」といい、明石城築城当時から、歴代家老・重臣が住んでいた屋敷の門跡です。


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「織田家」「織田」は、あの織田信長の一族にあたる家系だそうで、代々明石藩家老を務めました。


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明石藩家老の織田家は、織田信長の叔父である犬山城主織田信康を祖とします。

信康は尾張統一を目指す甥の信長に領地を奪われ、信康の子・織田信清は信長に敵対して敗れますが、その子・津田(織田)信益は許されて信長に仕え、のちに豊臣秀吉に仕え、晩年は越前の結城秀康(徳川家康の次男)に仕えます。

信益の子・織田信勝は初代大野藩主の松平直良に仕え、その直良の子・松平直明が明石藩に移封となると、織田家も共に明石へ移り、以後、代々明石藩家老としてこの屋敷に居を構えていたそうです。


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長屋門は江戸時代から現存するもので、明石市の文化財に指定されています。


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もとは門の西側に棟割長屋4軒納屋2軒があったそうですが、昭和20年(1945年)の空襲で焼失し、門のみが残ったそうです。


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門に使用されている太鼓鋲、蝶番、飾り金具などは室町時代の様式で、明石城築城時に破城となった船上城の門を移築したと伝えられています。

明石城が今年築城400年なら、この長屋門も築400年ということになりますね。


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さて、これで明石城をすべて制覇しましたので、帰路につきました。

写真はJR明石駅のホーム上からの北側の眺望です。

手前に見えるのが中濠その向こうに、本丸、二ノ丸、東ノ丸の高石垣が東西に長く伸びています。

以前は、本丸の櫓はここから見えていましたが、石垣は樹木に隠れてほとんど見えませんでした。

最近、その木が伐採されて、石垣が露出して見えるようになったんですね。


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左が坤櫓、右が巽櫓です。


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坤櫓にズーム。


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巽櫓にズーム。


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そして、こちらは二ノ丸と東ノ丸の高石垣です。


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さて、これで帰路についた私でしたが、ここを訪れたのは令和元年(2019年)6月1日だったのですが、ちょうどこの日から築城400年事業の一環で、夜に本丸の櫓がライトアップされるということを知りました。

せっかくなので、夜も見てみようじゃないかと思いたち、この日の夜、再び明石を訪れることにしました。

あと1回、「その10」に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-05 23:29 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第49話「本能寺が変」 ~本能寺の変~神君伊賀越え~

 「敵は本能寺にあり!」

 過去、大河ドラマにおいて数々の役者さんが発してきたこの台詞ですが、おそらく、明智光秀を演じられた役者さんは、みなさん、配役が決まったときからこの台詞をどのように吐くかを悩まれるんでしょうね。演出家さんや脚本家さんの意向とかもあるのでしょうが、光秀のいちばんの見せ場ですからね。この台詞を吐くために他の場面があると言っても過言ではないかもしれません。今回のそれは、躊躇している自身に言い聞かせるよう呟く、といった演出でしたね。このパターンは、はじめてなんじゃないでしょうか。


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 「敵は本能寺にあり!」という台詞がはじめて使われたのは、江戸時代中期の元禄初頭から15年(1688年~1702年)頃に書かれたといわれる明智光秀を主人公とした軍記物『明智軍記』からだそうです。作者は不明で、光秀の死後100年以上経ってから書かれたものということで、史料的価値は低いとされている作品ですが、この台詞に関しては、その後、「本能寺の変」を題材とした作品ではずっと使われてきた台詞で、もはや光秀の代名詞のような言葉となっています。実際には、どのような言葉を発したのかはわかりませんが、備中の羽柴秀吉の援軍として出陣した軍勢を、途中で進路を返して本能寺に向かわせたのは史実ですから、そこで、何らかの意思表示をしたのは確かでしょう。「これより本能寺に向かい、信長を討つ!」では普通だし、「敵は信長なり!」でも、イマイチ、パッとしません。やっぱ、「敵は本能寺にあり!」ですよね。その後300年以上、ずっと使われる台詞を書いた『明智軍記』の作者は、よほどのセンスの持ち主といえます。いまだったら、間違いなく流行語大賞ですね。

 徳川家康饗応役を解かれた光秀に代わって、織田信長自ら膳を運んでいましたが、これは、『信長公記』にも記されているエピソードで、史実とされています。でも、実際に信長に配膳されたら、ドラマのように家康たちは凍りついていたでしょうね。どれほど豪華な料理でも、味がわからなかったでしょう。

 今回の「本能寺の変」は、信長が家康とその重臣たちを安土城に招き、接待すると見せかけて殺してしまおうという計画を、事前に明智光秀が家康と今川氏真に情報を漏らし、逆にその機に乗じて信長を討とうという光秀の謀略で、しかし、光秀が想定外の備中援軍を申し付けられてしまったため、徳川一行が堺見物をしている最中、備中に向かう兵を返して本能寺で事に及んだという設定でした。まあ、「本能寺の変」に至る経緯は諸説ありますから、どのような描き方があってもいいと思いますが、今回の設定は、結局、よくわからないまま終わったという感じです。そもそも、信長は光秀がいうように、家康を殺すつもりだったのでしょうか?


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 家康に贈る茶道具を選んでいる信長の姿や、「殺気が感じられない」と言った家康の台詞などから、どうも、家康を殺すという計画は最初からなかったと見ていいんでしょうね。であれば、光秀はなんでそんなをついたのでしょう? 家康や氏真に計画を明かして味方に引き入れる、というわけでもなさそうでしたし、であれば、計画を明かす必要がないというか、むしろ、家康や氏真が信長に計画を漏らす危険だってあったわけで、そんなリスクを背負ってまで、ふたりに謀略を打ち明ける理由が見当たりません。光秀にとって、何の得もないですからね。結局、ドラマでも、徳川一行は光秀の計画を知っていたせいで必要以上にオロオロしただけで、光秀の謀略には何ら役に立ってないですからね。いったい光秀は何がしたかったのでしょう? どうも、消化不良な「本能寺の変」でした。


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 また、信長横死の報せを受けたあとの「神君伊賀越え」についてですが、これがなぜ家康の人生における一世一代の大ピンチだったかというと、信長と同盟関係にあった家康は光秀から見ればであり、もし、明智軍に遭遇すれば衝突は避けられず、かといって、弔い合戦が出来るような兵力を引き連れておらず、四面楚歌の状態に陥っていたからでした。しかし、今回のドラマでは、徳川一行は光秀から事前に信長討伐を知らされていたわけで、家康の心中はどうあれ、光秀はこの時点では家康のことを味方だと思っていたはず。何も知らない穴山梅雪さえ始末してしまえば、あとは険しい伊賀越えなんてせずに、大手を振って東海道を帰ればよかったのでは? それとも、光秀の計画は、信長もろとも家康も殺すつもりだったとか? う~ん・・・。イマイチ設定がよくわかりません。繰り返しますが、消化不良な「本能寺の変」でした。まさしく、その副題どおり「本能寺が変」でしたね。

 さて、次回は最終回ですね。井伊直虎が死んだのは、本能寺の変から約2ヶ月半後のことだったと言われています。でも、ドラマの直虎はピンピンしていて、そんな兆候は微塵にも感じられません。この感じでは、病死とかではなさそうですね。どんな最期に描かれるのか、楽しみにしましょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-12-11 15:55 | おんな城主 直虎 | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第48話「信長、浜松来たいってよ」 ~信長の駿河訪問~

 甲州征伐で武田氏を滅ぼした織田信長は、その帰路、富士山見物に出かけます。これまで富士山が見られる地域は敵対してきた今川氏、武田氏の領地でしたから、おそらく富士山を間近で見たことはなかったのでしょう。富士山といえば、言わずと知れた日の本一の名山で、当時は信仰の対照でした。富士山を一度この目で見たいという願望は、魔王・信長といえども同じだったんですね。


 このとき、富士山を有する駿河の国は、甲州征伐の戦功で徳川領となっていました。そのため、信長の富士山見物ツアーの一報をうけた徳川家康は、莫大な私財を投じて街道を整備し、宿館を造営しました。「紀行」でも紹介されていましたが、富士信仰の聖地、富士山本宮浅間大社の境内には、金銀をちりばめた豪華な装飾を施した仮の宿所が建てられたと伝えられます。


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 また、信長は富士山見物のあと、家康の居城・浜松城に立ち寄りました。そのため、家康は街道を広げ、川に橋を架け、また、ドラマにもあったように、人を集めて川の水を堰き止めたといいます。至れり尽くせりの接待ですね。現代でも、アメリカ大統領クラス国賓を迎えるにあたっては、厳重な警備体制はもちろん、道路、宿泊先の整備まで入念に行われますが、まあ、あれと同じようなものといえるでしょうか。大統領の娘や孫にまで、これでもかと言わんばかりの気の使いようでしたもんね。同盟国といえども明らかに弱者である日本にとっては、大統領およびその家族をもてなすことは、大きな政治です。信長と家康の関係も同じことがいえるでしょう。信長は家康の接待をことのほか喜び、米八千俵あまりを贈ったといいます。そして、その返礼として、信長は家康とその重臣たちを、安土城に招きました。

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 信長から招きを受け、その真意を詮索する家康と重臣たち。たしかに、主だった家臣団を引き連れて安土城に入れば、駿河はがら空きになり、その隙を突かれたら、ひとたまりもありません。実際、武田氏を滅ぼしたことで、信長にとって家康との同盟関係のメリットが薄くなったのは事実。自民党単独3分の2議席を獲得したあとの公明党のようなものでした。徳川家にしてみれば、いつ切り捨てられてもおかしくはないといった心配はあったでしょう。ドラマ中、明智光秀は、信長の駿河訪問は軍事視察目的だったと言っていましたが、実際、そのような解釈を説く歴史家さんもおられます。もし、信長があと少し生きていたら、徳川氏は滅ぼされていたかもしれません。

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 結局、信長からの招きを断れるはずもなく、家康一行は安土城を訪れ、その約半月後に「本能寺の変」が起きることは周知のところだと思います。ただ、明智光秀がいつの段階で謀反を決意したのかは、様々な見方があってハッキリしません。ていうか、人の心の部分ですから、心中を吐露した書簡でも残されていない限り、どれだけ状況証拠を並べても推論の域を出ないんですけどね。ドラマでは描かれていませんでしたが、有名なエピソードのひとつで、最後の武田攻めの際、光秀が「ここまで来られて、われわれも骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたという話があります。これが実話だとすれば、富士山見物をして浜松城を訪れたこのときは、ちょうどその直後で、すでに腹に一物を持っていたかもしれません。もちろん、その計画を今川氏真に持ちかけたという話はドラマの創作ですが、このとき既に殺意を持っていたかもしれないという推理は、否定できません。

 光秀の息子として描かれていた自然(じねん)という少年ですが、実在したかどうかは定かではありませんが、諸説あるなかの一説では、光秀の五男として生まれ、山崎の戦いで父の光秀が討死したあと、近江坂本城自刃したとされます。ただ、光秀の系図は複数あって、その子供についても俗説が多く、はっきりしません。もちろん、今川氏の人質となって井伊直虎の住む井伊谷で匿われたという話はドラマの創作ですが、そもそも実在したかどうかもわからない息子ですから、この創作はありなんじゃないでしょうか。こうでもしないと、直虎を話に絡められないですもんね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-12-04 15:32 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第47話「決戦は高天神」 ~高天神城の戦い~

 息子の松平(徳川)信康と正室の築山殿を失った徳川家康でしたが、落ち込んでいる間もなく、武田氏の高天神城攻めを本格化します。天正3年(1575年)以降、高天神城は武田氏、徳川氏の間で幾度となく攻防戦が行われてきました。しかし、戦いは両者とも一進一退を繰り返し、決定的な決着がつかずにいました。そんななか、信康の武田氏内通の嫌疑が浮かび上がり、信康は自刃に追い込まれます。前話の稿でも述べましたが、信康自刃の背景には、徳川家内での織田派、武田派の分裂の危機があったといわれます。となれば、家臣を結束させるためには、信康の自刃だけではなく、その根源である武田氏を攻め滅ぼす必要があったわけです。


 信康が自刃して約半年後の天正8年(1580年)3月以降、家康は高天神城の周囲に付城を築いて包囲網を形成、そして9月、5000人の軍勢で城を取り囲みます。このとき家康は力攻めではなく、兵糧攻めの作戦をとります。ドラマでは、「兵糧攻め」を敵味方ともに兵を失わずに戦う策と言っていましたが、たしかに「兵糧攻め」は味方の兵の損傷を少なくする作戦ではありますが、敵(籠城軍)にとっては、そんな心優しい作戦では決してありません。籠城兵にとって、食糧を断たれることほど苦しいことはなく、餓死者は続出し、飢餓の極致に達した者たちは、人肉をも食らったという記録も数多く残されています。同じ頃に羽柴秀吉が指揮した「三木の干殺し」「鳥取の飢殺し」などが有名ですね。「兵糧攻め」とは、決してドラマで言っていたような人命尊重の戦い方ではありません。


 城代の岡部元信はよく耐えましたが、武田勝頼からの援軍を得ることができず、やがて城兵の大半が餓死します。この戦いには織田の援軍も加わっており、織田信長からは、「高天神城が降伏してきても許すべからず」といった書状が家康に対して送られています。これはドラマでも描かれていましたね。信長は、勝頼が高天神城を見殺しにしたという形にすることで、武田氏の威信が失墜することを狙っていたようです。そして、ついに翌天正9年(1581年)3月、逃亡する城兵が続出し、残った城兵は城から討って出るも、徳川軍の包囲網によって岡部元信と兵688の首が討ち取られまず。


 『寛政重修諸家譜』によると、この戦いに出陣していた万千代(のちの井伊直政)は、水の手を断つなどの手柄をあげたと記されていますが、派手な活躍は伝えられていません。また、『井伊家伝記』によると、同じ頃に万千代は2万石加増されていますが、それが、この戦いでの戦功だったかどうかは定かではありません。ドラマで描かれていたように、この加増によって、中野直之、奥山六左衛門朝忠以下、山中に籠っていた旧井伊家譜代の家臣たちが万千代のもとに集まり、仕えたといいます。


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 この戦いのあと、武田氏の凋落は一気に加速し、戦国の世のならいとはいえ、武田家内での裏切り、寝返りは酷いものでした。これが、高天神城の城兵を見捨てたことに端を発したとすれば、信長のシナリオどおりになったといえます。そして、「高天神城の戦い」から約1年後の天正10年(1581年)3月11日、武田勝頼は自害します。享年37。このとき、勝頼に付き従っていた家臣団は、わずか43人になっていたとも。『甲陽軍鑑』『甲乱記』などの記述では、勝頼主従の最期は華々しく戦って討死したとありますが、『信長公記』では、「落人の哀れさ、なかなか目も当てられぬ次第なり」とあります。実際には、43人の手勢ではなすすべもなかったでしょう。ここに、450年の歴史を誇る名門武田氏は滅亡します。


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by sakanoueno-kumo | 2017-11-27 17:45 | おんな城主 直虎 | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第45話「魔王のいけにえ」 ~松平信康自刃事件(前編)~

 諸説あって謎が多い徳川(松平)信康自刃事件ですが、ドラマでは長年通説となっていた『三河物語』の記述をベースに構成されていました。前回の徳川家康暗殺未遂事件のあとの信康と石川数正のやりとりを見ていて、何か違う解釈で描くのかなぁと思っていたのですが、違いましたね。まあ、ほとんどの物語では、『三河物語』の通説を採用していますから、やはり、それがいちばんドラマチックだということでしょう。わたしはそれでいいと思います。


 信康の正室・徳姫織田信長の娘で、ふたりの結婚は徳川と織田の同盟の証でした。『三河物語』によると、天正7年(1579年)、徳姫は父・信長に宛てて夫と姑の愚痴12箇条に綴った手紙を書きます。その内容は、信康の日頃の乱暴な振る舞いを嘆き、また、自分が女児しか産んでいないことを姑の築山殿から罵られたということなど、現代の夫婦間でもありそうないざこざですが、そのなかに、信康と築山殿が武田家と内通している疑いがあるとの報告がありました。これが事実なら、織田家としては捨て置けません。


 信長は真偽を確かめるべく、徳川家家老の酒井忠次を呼んで詰問します。ドラマでは、岡崎城の信康と浜松城の家康の配置を入れ替える旨を信長に伝えるために家康が忠次を使者として送り込むという設定でしたが、このあたりは、『三河物語』を少しドラマのオリジナルにアレンジしたものでした。たしかに、こっちの方がより自然かもしれません。


 『三河物語』によると、信長から問いただされた忠次は、何の弁解もしなかったばかりか、あろうことか、信康をかばうことなくすべてを事実と認めてしまいます。忠次、何を血迷っていたのでしょうね。一方で、ドラマでの忠次は、信康の内通を家康の指示があってのことなのか、それとも信康独断の行いだったのかという二者択一誘導尋問に迫られ、家康に害が及ばぬため、やむなく信康を切り捨てたという描き方でした。このあたり、なかなか秀逸なアレンジだったんじゃないでしょうか。『三河物語』では、信康をかばわなかった忠次に対して家康は、「知らぬと言えばよかったものを」と嘆き、他の家臣たちからも憎まれたとされていますが、ドラマでの忠次も家康から叱責されていましたが、忠次は忠次なりに徳川家を守るための最善策をとった結果であり、一方的には責められません。通説を上手く料理した脚本でしたね。


 こうなった以上、信康の首を差し出すしかないと意見する忠次。憤る家康。そこに、家康の実母・於大の方が訪れ、信康を斬りなされと諭します。


「獣はお家のため我が子を殺めたりいたしませぬ。なれど武家とはそういうものです。お家を守るためには己自身、親兄弟も、いえ、子の命すら人柱として絶たねばならぬことがある。そのなかで生かされてきたのですから。そなただけが逃れたいというのは、それは通りません。それは通らぬのです。」


 母の言葉。みごとでしたね。最近の大河ドラマでは、こういった台詞がありませんでした。現代のヒューマニズムの観点からいえば、許されない考えだからでしょう。しかし、かつて我が国の武家の秩序では、肉親の命より大切なものがあったのです。それを正しく描くことが、非人道的なことだとはわたしは思いません。よくこの台詞を、しかも女性に吐かせてくれたと思います。今話のこのワンシーンだけで、わたしはこのドラマが巷で批判されているような酷い作品じゃなかったと言いたくなりました。最終回まであと数話。楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-11-13 01:11 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第43話「恩賞の彼方に」 ~戦の論功行賞~

 長篠の戦い手柄あらため(論功行賞)に頭を悩ませる徳川家康。徳川・織田連合軍の圧勝に終わったこの戦いでしたが、この敗北によって武田氏がたちまち滅亡したわけではなく、したがって、徳川の領地が急増したというわけでもありません。ところが、戦は大勝利だったわけですから、戦功をたてた武将はたらふくいたわけです。そんな中でバランスよく恩賞を与えるというのは、さぞかし難しい仕事だったことでしょう。


 劇中の家康は、岡崎城浜松城の恩賞のバランスに苦慮します。武功だけみれば、浜松の武将たちの活躍が目立ち、岡崎城を守備していた家康の嫡男・徳川信康の配下には、目立った活躍が見られません。しかし家康は、岡崎城の日頃のはたらきがあったから、織田の援軍を得ることができた、というところを思案の材料とします。岡崎城は織田領との国境に近く、信康の正室は織田信長の娘・徳姫です。織田氏との関係を良好に保つために、岡崎城は重要な役割を果たしていました。長篠の戦いの兵力を見ても、徳川勢8千に対して、織田の援軍が3万。本体より援軍の方がはるかに多かったわけで、織田の援軍なくしては、長篠の大勝はなかったでしょう。その意味では、岡崎城の戦功は、決して軽視はできないものでした。しかし、榊原康政は言います。


 「武功は命がけでございます。」


 たしかにそのとおりで、命がけで槍働きをした武将を蔑ろにすると、のちのちの士気に影響しかねません。武士は戦場で活躍してなんぼの時代ですからね。しかし、戦場で武勇を奮うだけがいくさではありません。このあたりのバランスは難しかったでしょうね。


 通常は、榊原康政のいうとおり武功第一でした。しかし、その常識を覆した論功行賞が行われた例があります。天才・織田信長でした。その舞台は、このときより遡ること15年前の永禄3年(1560年)5月19日に起きた桶狭間の戦い。織田方の奇襲によって大軍の今川軍を壊滅させたことで知られるこの戦いですが、このとき、敵将の今川義元に最初に槍をつけたのが服部小平太で、二番手に飛びこんでいった毛利新介が義元のをあげました。当然ながら、このとき、一番手柄は服部小平太か毛利新介のどちらかと誰もが予想しましたが、翌日の論功行賞の場で信長が最初に名をあげたのは、簗田政綱という武将でした。簗田は戦場で目立った活躍はなく、誰もが驚いたのは言うまでもありませんが、このときの簗田の戦功は、隠密行動によって今川義元の本陣の場所をつきとめ、信長に伝えたことでした。これによって織田軍の奇襲が可能になったわけで、信長は、義元の首を挙げた武功よりも、簗田の功績が大きいと判断したわけです。信長は、武功よりも情報が重要と考えたんですね。これは当時としては画期的な判断で、下手をすれば、家臣から不信を買って士気を下げかねません。信長だから出来た仕置だったといえるでしょうか。


 恩賞の与え方というのは、国を預かる領主にとっては重大な政治でした。その意味では、家康にしても信長にしても豊臣秀吉にしても、ときには手厚く、ときには冷酷に、上手く論功行賞を捌いたからこそ天下人たり得たといえるかもしれません。特に家康は、晩年の関ヶ原の戦いから大坂の陣に至るまで、その論功行賞の巧みさで力を拡大していきました。その政治感覚は、この頃に磨かれたものだったかもしれませんね。


 さて、次回は井伊万千代にも、大きな恩賞が与えられるようです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-30 19:10 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第42話「長篠に立てる柵」 ~長篠の戦い~

 虎松徳川家康の小姓となって井伊万千代と名乗りだした3ヶ月後(ドラマではまだ草履番ですが)、家康は織田信長に援軍を頼み、長篠城に出陣しました。武田信玄の死後、家康が武田氏から奪回した長篠城を信玄の息子・武田勝頼が囲んだからでした。長篠城は遠江と三河の国境付近に位置し、交通の要衝地にありました。


天正3年(1575年)4月に三河攻略を開始した勝頼は、5月に長篠城を包囲。長篠城を守っていた徳川方の奥平信昌は必死の防戦を見せますが、やがて劣勢が明らかになると、鳥居強右衛門を援軍要請の使者として、岡崎城の家康ももとに送ります。これを受けた家康は、5月18日、徳川軍8千と援軍に駆けつけた織田軍3万とともに、長篠城の支援に向かいます。そして、その決戦の舞台となったのが、長篠の手前にある設楽原でした。設楽原は平野ではなく、丘陵地が川に沿って南北に連なる地形でした。両軍は連吾川を挟んで陣を布き、川を自然の堀として防御線を築きました。織田・徳川連合軍は、丘陵地であるがゆえに相手陣を奥深くまで見渡せないという地形を利用し、さらに馬防柵を構えて万全を期します。


 5月20日夜、武田軍が付城として守備していた鳶ヶ巣山城を、織田・徳川連合軍が奇襲して落とし、武田軍の退路を断ちます。そして翌21日早朝、設楽原では、武田軍が織田・徳川軍への攻撃を開始。しかし、連吾川の中流域は水田があり、大軍が進撃するには足元が悪く、さらに、信長が用いた革新的な鉄砲攻撃が火を吹き、8時間の戦いのすえ武田軍は壊滅的な大敗北を喫します。有名な「鉄砲三千挺の三段撃」ですね。当時の火縄銃は、1発を撃ったら2発目を撃つまでには30秒ほどかかったといいます。この30秒の空白を埋めるため、鉄砲隊を3列にわけ、入れ替わりに撃つという戦法で、これにより、織田・徳川連合軍の鉄砲は間断なく火を吹き、当時、最強といわれた武田の騎馬隊は、為す術もなく屍を積み上げていったといいます。織田信長の天才伝説のひとつですね。


 ただ、この「三段撃」に関しては、近年の研究では否定的な見方が少なくありません。太田牛一が記した『信長公記』によると、鉄砲の数は「千挺ばかり」とあるだけで、三段撃ちのことはまったく記されていません。専門家の見解によると、三段撃ちのような複雑な動作をこなすには、よほど熟練した鉄砲隊と安定した性能の鉄砲が必要で、技術的には困難と指摘しています。では、なぜこの「三段撃」が通説となったのか。その出典元は、江戸時代前期の作家・小瀬甫庵『信長記』に記された、「鉄砲三千挺(中略)一弾ずつ立ち変わり打たすべし」という記述からのようで、以後、この逸話が多くの信長伝説に引用され、広く知られるようになったそうです。しかし、この『信長記』は、『信長公記』を元に創作された読み物で、現在では史料としてはほとんど認められていません。信長ファンにとっては残念なことかもしれませんが、「三段撃」は、実際にはなかったのかもしれませんね。


 いずれにせよ、武田軍の大敗に終わったのは事実で、織田・徳川連合軍に主だった戦死者が見られないのに対し、『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、山県昌景、馬場信春をはじめ、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など重臣や指揮官を含む1万人以上に及んだといいます。武田軍の兵は1万8千ほどだったといいますから、半数以上の死者を出したということで、壊滅したといっても過言ではないでしょうね。


 この大敗北を機に、武田氏は一気に滅亡の道を進んでいった・・・と思われがちですが、実はそうではなく、武田氏が滅亡するのはこれより7年後のことで、それまでは、織田、徳川両氏と激しい攻防を繰り広げます。しかし、この戦いで武田氏は多くの人材を失い、衰退化に繋がったことは間違いないでしょう。歴史の大きなターニングポイントとなった長篠の戦いでした。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-23 02:01 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第29話「女たちの挽歌」 ~信玄・家康の密約と虎松の生母の再婚~

寿桂尼がこの世を去った永禄11年(1568年)、井伊家を取り巻く情勢はいよいよ緊迫の様相を呈していました。同年8月17日、実質破綻していた甲斐国武田信玄駿河国今川氏真手切れが決定的となります。危機感を抱いた氏真は、越後国上杉謙信同盟を結ぶべく懸命に交渉を進めていました。劇中、井伊直虎三河国徳川家康に上杉氏との同盟を持ちかけたのは、そんな背景からの着想だったわけです。上杉氏と徳川氏が結び、そこに今川氏と北条氏が加われば、武田氏の駿河侵攻は避けられる・・・と。しかし、信玄はすでに家康に接近し、大井川をはさんで駿河国は武田氏、遠江国を徳川氏といった密約を交わしていたといわれます。武田軍の駿河侵攻は時間の問題でした。


 ドラマでは描かれていませんでしたが、信玄がこのタイミングで動き出した背景には、この年の9月、織田信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛したことが影響していたと思われます。このとき、武田氏と織田氏は同盟関係にありましたが、織田氏の勢力拡大は武田氏にとって決して喜ばしいことではなく、牽制する必要があったんですね。そのためには、東の憂いを排除しておく必要があったわけです。


 直虎が家康に上杉氏との同盟を勧めたという話はドラマのオリジナルの設定なので、当然ながら同盟は不成立に終わります。そして、逆にその行為がとなって、井伊家の立ち位置を危ぶまれ、井伊虎松の母・しの人質に要求されてしまいます。もちろんこれも、ドラマのオリジナル設定です。


 しかし、虎松の生母再婚したという話は本当で、その相手が徳川方の間者・松下常慶の兄・松下源太郎清景というのも史実です。この件に関して『井伊家伝記』にはこう記されています。


 「直盛公内室並びに次郎法師御相談にて、直政公御実母御年若故、松下源太郎方へ御縁付き成され候」


 直虎は母の祐椿尼と相談し、若くして未亡人となった虎松の母に再婚を勧め、松下源太郎清景に嫁がせたというんですね。どうやら人質ではなかったようです。ただ、この結婚がいつだったかはわかっておらず、ちょうどこの駿河攻め直前にもってきて人質としたのは、上手い設定だったんじゃないでしょうか?


 この松下氏とは、頭陀寺城の城主・松下加兵衛之綱の一族です。之綱といえば、まだ織田信長に仕える前の少年・藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の非凡さを見抜いて拾い上げ、武士として育てたことで知られる人物です。その一族である清景は、虎松の実母と結婚したことで虎松の継父となり、後年、井伊直政となった虎松が徳川家家臣として頭角を現すと、井伊家の重臣として代々仕えることになります。


 物語は前回あたりがらグッと大河ドラマらしくなってきましたね。緊迫した甲駿関係、そんななか、直虎のとる策は・・・。これから数話、ドラマは大きなクライマックスを迎えます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-24 21:53 | おんな城主 直虎 | Comments(0)