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八重の桜 第30話「再起への道」 ~萱野権兵衛の切腹~

 鶴ヶ城白旗が掲げられる2週間前の9月8日、元号が「慶応」から「明治」へと改元されていました。この約2ヶ月前には、江戸の名称も「東京」と改められ、会津藩が新政府軍と降伏交渉を進めていた同じ頃、明治天皇(第122代天皇)は京都を発ち、東京に向かっていました。翌月、天皇が江戸城に入ると「東京城」と改められ、皇居と定められました。こうして、将軍のお膝元であった江戸が消滅し、天皇を迎えた新都「東京」に変わろうとしていました。中学校の歴史授業的にいえば、250年続いた江戸時代が終わり、以後40年以上続く明治時代が始まります。

 実際には、どこまでが江戸時代で、どこからが新時代の幕開けかの線引は難しく、人によって見解のわかれるところだとは思いますが、こうして見ても、佐幕派の象徴的存在であった会津藩の敗北というのは、ひとつの節目ではあったといえるでしょう。世は足早に変わろうとしていました。

 城を出た松平容保喜徳父子、そして照姫は、滝沢村の妙国寺に入り、約1ヶ月の謹慎生活を送ります。その警備を土佐藩越前福井藩が担当。しかし、容保らを守るための警備のはずが、その大砲の砲門は容保らがいる本堂に向いていました。容保父子の奪還を画策する旧会津藩士たちの動向を警戒していたのです。降伏・開城したとはいえ、政府軍と会津藩の緊張状態は依然として続いていたようです。

 その後、容保父子の身は東京に移され、12月7日、政府の処分が下ります。その内容は、死一等を免じて、容保は鳥取藩、喜徳は久留米藩に永のお預けというものでした。しかし、これで一件落着というわけにはいかず、政府としては、藩主に代わって戦争を引導した首謀者の出頭を求めます。となれば、その対象は藩の指導的立場にある家老職となるわけですが、すでに筆頭家老である田中土佐神保内蔵助は自害しており、西郷頼母は藩首脳部との対立によって領外追放処分で行方知れず、そこで、家老としては4番目の地位にあった萱野権兵衛が、ひとりで責めを負うことになります。
 「松平容保公の代わりに首を討たれるのは、それがしの役目だった・・・・。萱野権兵衛殿ひとりに、責めを負わせてしまった。」
ドラマでの頼母の台詞ですが、そういう背景からの言葉だったわけですね。

 権兵衛が処刑されたのは、降伏・開城から8ヶ月後の明治2年(1869年)5月18日、場所は照姫の実家である飯野藩保科家の下屋敷でした。政府の命令は「斬首」だったようで、公文書などには「刎首」とあるそうですが、実際には、保科家のはからいによって「切腹」のかたちが取られ、武士らしい最後を遂げることができたようです。権兵衛の処刑に際して照姫は、次のような和歌を贈ったそうです。

 「夢うつゝ思ひも分す惜むそよ まことある名は世に残るとも」

 この歌と容保からの親書を受け取った権兵衛は、「まことに光栄である」と感涙したといい、親書を持参した梶原平馬山川大蔵の熱涙をさそったといいます。

 「では、さらばだ!」
 柳沢慎吾さんのいつにないシリアスな演技、なかなかなものでしたね。
 「あばよ!」・・・じゃなかったのが、少々残念ではありましたが・・・(笑)。

 萱野権兵衛の処刑から4ヶ月後の9月28日、容保の罪が許され、松平家の家名も再興となります。この年、容保は側室との間に長男(松平容大)をもうけていました。こんなときに、よくまあ子作りに励めたものだ!!!と思わなくもないですが、殿様なんてそんなもんでしょう。ドラマでの容保は、少し美しく描かれ過ぎかと・・・。

 11月4日、容大は家名の相続を許され、陸奥国の旧盛岡藩南部家領において3万石が与えられました。ここに、会津藩は斗南藩として生まれ変わります。御家再興を待ち望んだ旧会津藩士たちにとっては朗報だったわけですが、斗南での暮らしは、彼らが待ち望んだものとは程遠いものでした。そのあたりは、また次回以降で・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2013-07-30 22:16 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(2)