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丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>

「その1」のつづきです。

前稿で紹介した丹波亀山城跡大本・天恩郷を訪れたのは平成30年(2018年)6月2日だったのですが、その翌年の令和元年(2019年)5月3日、北側の南郷公園明智光秀の像が建立されたというニュースを見ました。

で、更にその翌年の令和2年(2020年)2月2日、再び亀岡の地を訪れました。


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こちらが、その光秀像

左右に亀山城の鯱瓦像もあります。


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土台は亀山城の石垣をイメージしているのでしょうか。


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ここを訪れたのは夕方だったので、逆光で顔がわかりづらいのが残念。


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いろんな角度から。


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肖像画に似ているといえば似ているかも。


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少なくとも、坂本城跡に建てられていた安っぽい石像よりは、数段いい出来ですね。


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こちらは、光秀像建立にあたっての説明板。

令和元年(2019年)は明治2年(1869年)に「亀山」という地名を「亀岡」に改名して150年という節目の年にあたることと、令和2年(2020年)のNHK大河ドラマが光秀を主役にした『麒麟がくる』に決定したことが、光秀像建立につながったのだとか。

その資金には、ふるさと納税による寄付金が充てられたそうです。

さすがは大河ドラマ、地方行政をも動かします。


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鯱瓦像です。


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その説明書きの真鍮板。


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反対側の鯱瓦像の土台には、城づくりの名手といして名高い藤堂高虎が普請したという亀山城天守の図が刻まれた真鍮板があります。


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近くには、「明智光秀公築城亀山城趾」と刻まれた石碑が。


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光秀像の背後には、南郷池が横たわります。

「その1」でも紹介したとおり、この池はかつての亀山城の外堀の名残です。


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前稿での南郷池は夏のロケーション、今回は冬のロケーションです。


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南郷池の説明板。


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南郷公園はJR亀岡駅のすぐ南側にあります。

これから、この光秀像が亀岡市の顔になっていくのでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-20 00:29 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>

かつて口丹波にある亀岡盆地の中心にあった亀山城は、織田信長の命を受けて丹波攻略中だった明智光秀が、その拠点とすべく築城した城です。

本能寺の変の際、光秀はこの亀山城から本能寺に向かいました。


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写真はかつての外堀跡

現在は南郷池と呼ばれ、池の畔は公園整備されています。


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池の東側に架かる橋には、「保津門跡」と書かれた駒札が立てられていました。


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そこから南に進むと、説明書きの駒札が立てられています。

「大本・天恩郷(丹波・亀山城)」と書かれています。

亀山城は、明治維新以降、廃城処分となり、所有者が転々としていましたが、大正8年(1919年)に新興宗教団体「大本」が購入し、荒廃していた石垣を積み直すなど整備し、以後、宗教施設として現在に至ります。

説明書きの末尾に、「受付申込みで城址の一部が見学できます」とあります。

行ってみましょう。


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施設外周の石垣は、城跡のものを積み直したものか、あるいは後世のものか・・・。

新しいものではなさそうですが・・・。


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ここが宗教施設の正門

なんとなく入りづらい。


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誰も歩いていないし・・・。


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施設内にある案内板です。

城跡の説明書きはありませんが、中央上部に石垣の絵があります。

あそこが城跡の遺構かもしれません。

行ってみましょう。


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施設中央にある万祥池

かつての内堀跡だそうです。


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この辺の石垣も、城跡を感じさせてくれます。


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戦前、ここを拠点として急激に拡大した大本に脅威に感じた大日本帝国政府は、徹底的な弾圧を加えはじめ、昭和11年(1936年)に施設内の神殿などを1500発のダイナマイトで徹底的に破壊したそうで、この一連の弾圧事件は、「大本事件」として昭和史に刻まれています。

このとき、亀山城の遺構の多くも破壊されてしまったそうで、現在残る石垣のほとんどは、戦後、信徒の方々の手によって積み直されたものだそうです。


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この橋を渡ったところにある万祥殿で、城跡見学の申込みができます。

城跡は聖域にあるということで、見学前に大麻(おおぬさ)お祓いをしていただき、その後、立ち入りが許可されます。


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万祥殿横の小さな門をくぐって聖域に入ります。


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いきなり石垣が目に入ります。

きれいに積み直されています。


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その道中に、高さ20mを超える大きなイチョウの木があります。


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説明板によると、かつてここに光秀の手植えと伝えられたイチョウの木があり、その木は江戸時代中期の台風で倒れ、若木を植え替えたものが現在の大イチョウだそうです。

光秀手植えというのは眉唾ものとしても、ここにそれだけの樹齢の大樹があったというのは本当の話でしょう。


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そして、眼前にみごとな高石垣が現れます。


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どうやら、天守台石垣のようです。


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しかし、残念ながら天守台の上は、宗教上の理由で立入禁止となっていました。


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積み直しとはいえ、みごとな復元です。

出隅はちゃんと算木積み、扇の勾配になっています。


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明智光秀がここ亀山城を築城したのは、天正5年(1577年)から同6年(1578年)頃と考えられています。

しかし、正確な史料に乏しく、光秀時代の城の全容はわかっていません。

天正8年(1580年)に丹波国を拝領した光秀は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手しますが、そのわずか2年後に本能寺の変が起こり、その後の山崎の戦いで落命します。


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その後は天下を統一した豊臣秀吉の支配下となり、羽柴秀俊(小早川秀秋)によって修築され、秀吉の死後は徳川家康の譜代大名である岡部長盛が入城。

天下普請によって城は大改修され、近世城郭として生まれ変わりました。

このときの築城にあたっては、城づくりの名手といして名高い藤堂高虎縄張りを務め、五重の層塔型天守が造営されました。

この天守台石垣も、そのときのものと思われます。


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天守台の反対側にやってきましたが、やはり立入禁止でした。

まあ、当然でしょうが。


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光秀の時代の遺構は残っていませんが、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、ここから明智光秀率いる軍勢が本能寺に向けて出陣したのは間違いありません。

「敵は本能寺にあり

は、あるいはこの城内で発せられたかもしれませんね。

歴史の大きなターニングポイントの舞台となった亀山城です。

「その2」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-18 23:05 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

丹波国篠山城跡を歩く。 その1 ~内堀~

兵庫県篠山市にある篠山城跡を訪れました。

篠山城は江戸幕府開府後に徳川家康が築いた城で、当時、篠山盆地は大阪や京都から山陰、山陽への街道が通る交通の要衝地でした。


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江戸幕府を開いた徳川家康は、慶長13年(1608年)に松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに、西国諸大名に対する抑えの拠点として新城の築城を命じました。

そして築かれたのが、ここ篠山城です。


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築城工事は西国15カ国20大名によって行われ、縄張り奉行を築城の名人で知られる藤堂高虎が、そして普請総奉行を同じく城づくりの名手として知られる池田輝政が務め、延べ8万人を動員して約半年という突貫工事で完成させたといいます。


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篠山城跡の見どころは何といっても高石垣

まずは内堀に沿って1周してみましょう。


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石垣は基本的に野面積みです。

関ヶ原の戦い後のこの時代は既に打込み接ぎの工法が主流となりつつあったと思うのですが、なぜか篠山城は古い工法の野面積みなんですね。

半年間の短期突貫工事だったからでしょうか?


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北西の出隅です。

算木積みの工法が用いられていますね。

「算木積み」とは石垣の出隅部分に用いられる技法で、長方体の石を交互に重ね合わせて積み上げられるため、強度が増します。


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内堀は、昭和の戦後に一度埋め立てられたそうで、その後、復元されたものだそうです。


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南西の出隅です。


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南側の石垣。


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上部に見える門は、二の丸へ通じる埋門

現在は通行禁止です。


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南東に見えるのは、天守台の高石垣。

高さは約17mあるそうです。

石垣下には、犬走りが見られます。

「犬走り」とは、石垣と堀の間や土手の斜面に設けられた細長い通路や平地部分のことで、犬が通れるくらいの幅しかない道という意味合いから、そう呼ばれます。


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こちらは南東から見た天守台石垣。


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出隅は算木積みになっていますね。


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こちらは、北東の石垣です。

ここにも犬走りがあります。

こちらは草が刈られてきれいに整備されています。


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とにかく石垣が見事です。


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表門横の櫓台石垣です。


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櫓台の説明板。


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北側の北廊下門にやってきました。

ここが三ノ丸から二ノ丸に続く大手筋になります。


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土橋前には昭和31年(1956年)に建てられた石碑があります。


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その横には案内板が。


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さて、土橋を渡って二ノ丸へ・・・と言いたいところですが、長くなっちゃったので、続きは「その2」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-22 00:36 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

悲運の藤堂高吉を家祖とする名張藤堂家邸跡を訪ねて。

三重県名張市にある名張陣屋跡を訪れました。

現在残る名張陣屋跡は「名張藤堂家邸跡」として一般公開されています。


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名張藤堂家は、藤堂高虎の養子となった藤堂高吉にはじまります。


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こちらが入口です。


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説明板です。


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敷地内に入ります。


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名張藤堂家は寛永13年(1636年)からこの地に居を構えますが、当時の屋敷は宝永7年(1710年)の名張大火によって焼失したため、現存する建物はその後に再建されたものだそうです。

ただ、それも明治初年に大部分が失われたため、現在残る建物は、ほんの一部だけです。


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建物前の庭です。


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地面にかつての屋敷図面の石板が埋め込まれています。


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建物内に入ってみましょう。


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現存する建物は、「御西」と称された中奥、祝之間、茶室など日常生活に使用された奥向の一部だけだそうです。


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名張藤堂家の系図です。

初代の藤堂高吉はなかなか数奇な人生だった人で、元は織田信長の重臣・丹羽長秀の三男として生まれましたが、本能寺の変で信長死去の後、羽柴秀吉の所望により、実子がいなかった弟の羽柴秀長養子となります。

これは、天下を望む秀吉が、柴田勝家を討ち滅ぼすために丹羽長秀と縁を結ぶ目的だったといわれます。

この縁組で高吉は秀長の後継ぎなるはずでしたが、天下人となった秀吉は甥の秀保を立てたため、話はおじゃんになりました。

その後、高吉を家来と結婚させようとしますが、このとき秀長の家臣だった藤堂高虎が願い出て、高吉を養子に貰い受けました。

このとき、名を高吉としました。


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高虎は実子に恵まれなかったため、高吉を跡継ぎにするつもりでしたが、高虎48歳にして実子が生まれたため、その話はまたまたおじゃんに。

やむなく高吉は高虎の家臣となりますが、高虎は高吉を疎んじはじめ、参勤交代にも同伴しなかったといいます。

高吉は何も悪いことしてないのですが、悲運としか言いようがありません。


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高虎の死後は実子の藤堂高次の家臣として仕えるようになりますが、その高次の命によって高吉は伊勢国へ2万石の移封となり、その後、ここ名張に移封となりました。

その際、次男以下3人に5000石を分知させられ、1万5000石に減封となりました。

高次は高吉の存在を危険視したとされ(幕府に高吉を藤堂本家から独立した大名に取り立てようという動きがあったためといわれる)、名張移封も、高吉に対する高次の冷遇の一環であったといわれます。

まさに、たらい回し人生ですね。


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中奥の間にあったこの屏風絵は、「長徳」の落款が記されています。

名張藤堂家7代目の藤堂長徳の作品のようです。


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です。

便所も畳敷きなんですね。


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湯殿です。


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茶室「清閑楼」です。


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茶室から見える庭です。


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向こうに見えるのは、太鼓門


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東側の「祝之間」は、武具や書簡など名張藤堂家に伝わる品々の展示コーナーになっています。


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羽柴秀吉・丹羽長秀の書簡です。

ふたりとも高吉の人生を狂わせた人物ですね。


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こちらは秀吉の朱印状


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さて、建物の外へ出て、先ほど庭に見えた太鼓門を見に行ってみましょう。


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こちらが太鼓門です。


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名張藤堂家と藤堂藩本家の間の確執は高吉の死後も200年近く続きました。

享保19年(1734年)には第5代・藤堂長熙は藩祖・高吉の実家である丹羽氏を通して幕府に独立を働きかけますが、翌年にそれが本家の知るところとなり、本家と分家の一触即発の状態になりました。

最終的には重臣3名が主君のあずかり知らぬところと主張し、責任を被って切腹したため落着しましが、長熙は隠居を命じられ、藤堂長美が跡を継ぎました(享保騒動、名張騒動とも)。

以降、本家から2名の横目付が派遣され、徹底した監視下に置かれるようになります。

しかし、第8代当主の藤堂長教が本家の藩主・藤堂高嶷の娘と結婚すると、ようやく両家の関係が徐々に良好になっていったそうです。

現代でも、後継者争い相続争いが確執を生むといった話は珍しくありませんが、200年近い対立というのは、双方、しんどかったでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-15 20:27 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

有子山城跡と出石城跡登城記。 その3 ~有子山城本丸・千畳敷~

「その2」の続きです。

有子山城を登り始めて約1時間、ようやく本丸(主郭)までたどり着きました。

眼前に現れたのは、見事な石垣


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450年近く前の野面積みの石垣です。

よくこんなに綺麗に残っていましたね。


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出隅は第3郭で見られた鈍角シノギ積みとは違って、直角になっています。

でも、強度の高い算木積みの技法は見られません。

でも崩れずに残っていたんですね。


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本丸北側の石垣は、ネットで保護されていませんでした。

その前に、「犬走り」のような狭いスペースがあります。

その下は崖になっています。


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本丸に登る23段の石段です。

虎口は幅約5mあります。


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本丸です。

広い!!

東西42m、南北20mあります。


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前稿でもふれましたが、有子山城は但馬国守護の山名祐豊が築城した城です。

元来の山名氏の本拠は、ここから3kmほど北の此隅山城を居城としていましたが、永禄12年(1569年)の羽柴秀吉但馬攻めで落城し、その後、秀吉軍と和睦した山名祐豊が、天正2年(1574年)に標高321mの有子山山頂に有子山城を築いて本拠としました。

此隅山城は別名・子盗城とも言いますが、その「子盗」という名を山名祐豊が嫌って、次の城は「有子」城と名付けられたともいわれています。

しかし、祐豊の息子の山名堯熙のときに毛利氏方についたため、天正8年(1580年)の秀吉による第二次但馬征伐で再び攻撃を受け、落城しました。

その後、有子山城には秀吉の実弟・羽柴秀長が入り、そのとき、石垣の城に改修されます。

現在残る石垣の遺構は、秀長時代のものということになりますね。


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秀長時代の改修は、築城の名人として知られる藤堂高虎が関わっていたようです。

高虎の生涯を記した『高山公実録』に、「28歳、羽柴秀長の命により出石(有子山)に築城を命ぜられた」という記述があり、記録上、高虎が最初に手がけた石垣の城が、ここ有子山城だったのではないかと言われています。


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案内板が設置されています。


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心ない落書きが酷いです。


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本丸からの眺望です。


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雲が近い。


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麓をズームアップ。

出石の城下町のシンボル、辰鼓楼が見えます。

わたしの愛車も見えます(笑)。


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わたしの山城めぐりの必須アイテム(笑)。


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本丸南東を見下ろすと、大堀切があります。

幅28m、深さ12mあります。


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その向こう側には、千畳敷と呼ばれる有子山城最大の郭跡が見えます。

行ってみましょう。


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先ほどの大堀切の下です。

巨大なV字型になっています。

おそらく、往時はもっと深かったのでしょう。


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そして、千畳敷です。


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東西135m、南北50mもあり、但馬国の城郭では最大の郭だそうです。


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所々に建物があったとみられる礎石跡があります。


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庭園もあったとされているそうです。

この大きな岩は、その名残でしょうか?


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千畳敷から見た本丸です。


さて、これにて有子山城をすべて攻略しました。

「その4」では麓の出石城を散策します。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-12 01:03 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~

豊臣方の長宗我部盛親隊と徳川方の藤堂高虎軍が激突した八尾の戦いの激戦地に、常光寺という寺があります。
ここは合戦当時、徳川方の保護を受けていました。

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戦後、藤堂高虎は、この寺の本堂の北にある住職の居間(方丈)の縁側に、敵方の首級を並べて「首実検」をしたと伝わります。

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その縁板は、おびただしい血痕がついていたため、のちに方丈の西廊下の天井として貼り替えられました。
その天井は「血天井」と呼ばれたそうです。

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その血天井を見にここを訪れたのですが、残念ながら改修工事中で、中を見ることはできませんでした。
ただ、境内にある藤堂家家臣七十一士の墓には参れました。

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説明は石碑をお読みください。

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境内には、往時を知っているであろうか、大樹が・・・。

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常光寺のすぐ近くに、八尾神社があるのですが、その境内に、「八尾城址」と刻まれた石碑があります。
かつてこの辺りに八尾城(矢尾城址)があったと伝えられますが、織田信長の家臣となった切支丹武将の池田丹後守教正の居城だったという記録を最後に、史料が確認されていません。
したがって、八尾の戦い当時に城が残っていたかどうかはわかりませんが、あるいは、廃城となった八尾城がとして利用されていたかもしれませんね。

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前稿でも述べたとおり、八尾の戦いに勝利した長宗我部盛親はその後処刑され、長宗我部家は滅亡
一方、この戦いで壊滅寸前となった藤堂高虎は、その後、津藩初代藩主となって、藤堂家は幕末まで大名であり続けます。
運命ってわからないものですね。

まだまだ続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-18 20:08 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~

大阪府八尾市の久宝寺地区に、「長曽我部物見松遺址」と刻まれた石碑があります。
若江の戦いが行われた同じ日、豊臣方の長宗我部盛親隊と徳川方の藤堂高虎軍がこの地で激突しますが(八尾の戦い)、その戦いにおいて、長宗我部軍が藤堂隊の動静を探るために上ったと伝わる松の巨木が、かつてここにあったと伝えられます。

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現在は石碑樹齢若い松の木が植樹されています。

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長宗我部盛親は木村重成隊と共に中河内地区に出陣し、重成が若井へ、そして盛親は八尾に陣を布きました。
そこで、同じくこの地に進軍していた徳川方の藤堂高虎軍の左翼、藤堂高刑、桑名吉成隊と出くわし、そのまま激突します。

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このときの長宗我部隊の攻撃はすさまじく、藤堂高刑、桑名吉成は討死し、藤堂隊はほとんど壊滅寸前にまで追い込まれますが、そこに、若江方面での木村重成隊の敗報が届き、孤軍となることを恐れた長宗我部隊は、大坂城に撤退しました。

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写真はこの地区に流れる長瀬川
現在は見てのとおりの小さな川ですが、当時は川幅が180mほどある大河で、高い堤があったそうです。
長宗我部隊は、その堤の上に陣を布いたそうです。

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盛親はその後、翌日の最終決戦には出陣せず、大坂城京橋口を守っていましたが、豊臣方の敗北が決定的になると、「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し、再起を図って逃亡しました。
しかし、武運は盛親に味方せず、ほどなく潜んでいるところを発見され、その後、見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられ、そして、豊臣家敗北から1週間後の慶長20年(1615年)5月15日、京都の六条河原で6人の子女とともに斬首され、三条河原に晒されました。
享年41歳。
兵どもの夢の跡です。

シリーズはまだまだ続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

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by sakanoueno-kumo | 2015-11-17 20:29 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

続、雨の紀の国、さくら舞い散る和歌山城。

一ヶ月以上経っちゃいましたが、先日、3日間ほど仕事で和歌山市を訪れていた際、寸暇を惜しんで和歌山城に行ってきました(参照:雨の紀の国、さくら舞い散る和歌山城なう!)。
この日は4月6日で、ちょうどが綺麗な時期だったのですが、残念ながらこの日は朝からガッツリ雨で、前日まで満開だった桜を一気に散らしてしまいました。

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和歌山城のある紀州藩は、徳川家康の十男・徳川頼宣を始祖とする徳川御三家のひとつで、8代将軍・徳川吉宗や14代将軍・徳川家茂を排出した名家ですね。
和歌山城と県庁の間の交差点には、吉宗の銅像があります。

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吉宗は、徳川の8代将軍として知られていますが、元々は紀州の2代藩主・徳川光貞の四男として生まれ、兄が相次いで亡くなるなどしたため、5代紀州藩主となります。その後、32歳で将軍に推され、30年近く将軍職を務めます。「享保の改革」を成し遂げた徳川将軍家、中興の祖として、後世に名高い名君ですね。

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「南海の鎮」として徳川御三家の一角をなす和歌山城ですが、元は豊臣秀吉の時代、天正13年(1585年)に羽柴秀長によって築城されました。築城を担当したのは城作りの名人として知られる藤堂高虎で、このとき「和歌山」という名称に改められたんだそうです。

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本丸御殿跡から撮影した天守です。
おそらくここからが最もきれいに撮影出来るポイントかと。
天守は弘化3年(1848年)に落雷によって焼失してしまい、嘉永3年(1850年)に再建された天守は、昭和20年(1945年)の和歌山大空襲で焼失するまで残っていました。

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和歌山城は、虎伏山の山頂部に天守曲輪本丸が並列された縄張りが特徴で、天守曲輪は、南東隅に天守、北東には玄関が付けられた小天守、北西隅には乾櫓、南西隅には、二の門櫓を多聞櫓で連結した姫路城伊予松山城と同様の連立式天守群です。

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天守からは市街地を360°見下ろすことができ、大パノラマが広がります。

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西の丸庭園(紅葉渓庭園)です。
その名のとおり、紅葉の季節に来ればきっと綺麗なんでしょうね。
この日はあいにくの雨で、片手に傘をさしながら片手で撮影していたので、ゆっくり庭園を散策する余裕はありませんでした。

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向こうに見えるのは、藩主の生活の場である二の丸と、紅葉渓庭園のある西の丸を行き来するために架けられた御橋廊下の復元です。

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実際になかを通ることができます。

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上の写真が坂の下から、下の写真は上からの撮影です。
上からの写真を見ると、床板にがついているのがわかるでしょうか?
おそらくこれは、急勾配の坂の廊下で滑り落ちないように工夫されているのでしょうね。
階段とは逆の段になっているので、歩くと角が足の裏を刺激して結構痛かった。
足つぼマッサージに最適です(笑)。

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外から撮影した御橋廊下です。
結構な傾斜でしょう?

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現存として残る貴重な岡山門です。↑↑↑
国の重要文化財に指定されています。

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本当はもっとゆっくり取材したかったんですが、仕事の合間だったことと、とにかく雨が激しかったこともあって、滞在は約1時間。
足早に歩き回っただけでした。
今度はもっと天気のいい日に、仕事ぬきで訪れたいと思います。
といっても、和歌山市って、神戸に住む私にとって同じ関西でありながら、なかなか縁がない場所なんですよね。
神戸から車で1時間ほどですから、来ようと思えばいつでも来れるんですが、いままで仕事以外できたことはなく・・・。
旅行となると、もっと南へ足を伸ばして、白浜とか那智勝浦とかまで行っちゃいますもんね。
和歌山市内に遊びにくるという発想になかなかならない(和歌山市に住む方々スミマセン)。
近くて遠い和歌山市です。

追記
2017年より日本100名城スタンプの収集をはじめました。

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by sakanoueno-kumo | 2013-05-18 01:50 | 和歌山の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)