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幕末京都逍遥 その155 「戊辰役東軍戦死者埋骨地(悲願寺墓地)」

「154」で紹介した法傳寺から少し北上したところにある悲願寺墓地内に、鳥羽・伏見の戦いで戦死した東軍兵の埋葬地があります。


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鳥羽・伏見の戦い後、この付近で戦死した兵の遺骸がそのまま放置されていたそうで、それを見かねた下鳥羽の人々が、この墓地の一隅に穴を掘り、焼け残った家の梁や柱を集めて戦死者の遺骸をその上に積み、荼毘に付したうえで丁重に埋葬したそうです。

自分たちの家も戦災で焼けていたにもかかわらず、昔の人は皆、殊勝な人ばかりですね。

まあ、遺体がそこら中に散乱していたら、誰でもそうするでしょうか?


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ここに葬られたのは233名だそうです。

鳥羽・伏見の戦いでの東軍の戦死者は279人といいますから、その大半がここに眠っていることになりますね。


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墓碑には「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれています。

同じ文字が刻まれた墓碑がここ以外にも複数存在しますが、いずれも、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうです。

十七日会は徳川家康の命日である十七日(元和2年4月17日)にちなんだ徳川家恩顧者の会だそうです。


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ここ悲願寺墓地の歴史は古く、奈良時代の高僧・行基が改装を行ったとされているそうです。

この墓地は寺所有の墓地ではないのですが、格式が高い墓地ということで、「寺」の称号が与えられたのだとか。

かつてはここより南にありましたが、昭和59年(1984年)の都市計画によって、現在の場所に移転され、そのときに鳥羽伏見戦の戦死者の遺骨も改葬されたそうです。




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幕末京都逍遥


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by sakanoueno-kumo | 2018-10-28 08:04 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その195 「天野山金剛寺(南朝行在所)」 大阪府河内長野市

大阪府河内長野市にある天野山金剛寺を訪れました。

ここは、かつて南朝行宮所となった歴史をもつお寺です。


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天野山金剛寺は、奈良時代、天平年間(729~749年)に聖武天皇(第45代天皇)の命により、当時の高僧・行基によって開かれたといわれています。

また、平安時代には弘法大師(空海)が修行した聖地ともいわれています。


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正平7年/文和元年(1352年)に起きた「正平の役(八幡の戦い)」に敗れた後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)は、「その 」で紹介した賀名生の行宮に帰還したあと、正平9年/文和3年(1354年)10月に河内天野に移り、ここ金剛寺を行宮と定めます。

その後、正平14年/延文4年(1359年)12月に観心寺に移るまでの5年余りをこの地で過ごしました。


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わたしがここを訪れたのは平成29年(2017年)6月10日、このとき、金剛寺は各所が修復工事中でした。

上の写真は鎌倉時代築で国指定の重要文化財楼門ですが、工事中でネット養生されていました。

残念。


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境内側から見た楼門です。


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楼門を潜ってすぐ右手(北側)にある食堂です。

こちらも国指定の重要文化財。

後村上天皇はここで政務を執られたそうです。


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食堂は別名「天野殿」とも呼ばれるそうです。

石碑には「南朝六年間常御殿」と刻まれています。


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平安時代の治承2年(1178年)の創建と伝わる金堂

こちらも国指定の重要文化財。

慶長年間の大修理で改築されており、金堂内陣に安置されている本尊の木造大日如来坐像、脇士の木造降三世明王坐像木造不動明王坐像は、いずれも運慶の作と伝えられ、国指定の重要文化財。

ここも修復工事中でした。


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平安時代の創建と伝わる多宝塔

こちらも国指定の重要文化財です。

慶長10年(1605年)に豊臣秀頼の命により、大規模な修理が行われています。


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こちらは五佛堂


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五佛堂と回廊でつながる観月亭


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観月亭は後村上天皇の行在所時代に付け加えるように建てられたそうで、ここで天皇がお月見をしたため、観月亭と呼ばれるようになったそうです。


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その隣の御影堂

五佛堂、観月亭、御影堂、いずれも重要文化財です。


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そして、その北側にある魔尼院が後村上天皇の行在所となったところなんですが、この日は魔尼院も修復工事中で、まったく近寄ることすら出来ませんでした。

非常に残念。

魔尼院は後村上天皇が5年余りに渡って行在所としたのち、長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)、後亀山天皇(第99代天皇・南朝第4代天皇)の3代20余年にわたり、行在所となりました。

下の写真は「後村上天皇御手植桜」だそうですが、たぶん、当時のものではなく、何代目かなんでしょうね。


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さて、天野山金剛寺は南朝行在所という歴史を持つとともに、北朝ゆかりの地でもあります。

というわけで次稿も金剛寺を続けます




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太平記を歩く。


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by sakanoueno-kumo | 2018-02-06 23:41 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その7 「山崎院跡」

天王山の麓を走るJR線路沿いの道路脇に、「山崎院跡」と刻まれた石碑が立っています。

「山崎院」とは、奈良時代の高僧・行基が建てた寺院で、神亀2年(725年)、山崎の地に来た行基は淀川に「山崎橋」を架け、その維持管理と布教活動の拠点として、山崎院を建立したと伝わります。


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平成元年(1989年)と平成11年(1999年)の発掘調査により、日本最古級の彩色された壁画片約100点や、陶器、瓦、釜などが出土し、それまで不明瞭だった山崎院の所在地が、天王山の南側山麓のこの場所にほぼ比定されました。


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行基は河内国生まれの高僧で、畿内を中心に貧民救済、治水、架橋などの社会事業に大いに尽力しました。

天平13年(745年)には、聖武天皇(第45代天皇)より東大寺大仏造立の責任者として招聘され、力を尽くします。

その他、わかっているだけでも49の寺院を建立し、その他、伝承レベルのものでは、全国各地に行基が開基したとされる寺院が存在します。

「その2」で紹介した宝積寺も、行基が聖武天皇の命で建立した寺院として伝えられていますね。

山崎の地は、行基にゆかりの深い地といえそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2016-07-08 20:08 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その2 「大念寺~宝積寺」

登山口からしばらく急な坂道を登っていくと、これまた急勾配の石段があります。

ここを登ったところに、大念寺という小さなお寺があったので、立ち寄ってみました。


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大念寺は弘治元年(1555年)、この地に住む井尻但馬守長助が、京都知恩院徳誉光然上人を開山として建立したお寺だそうです。

本尊には「阿弥陀如来立像」(国指定の重要文化財)があるそうですが、拝観するには予約が必要だそうで、この日は見送り。


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小さな鐘楼があります。


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かつては力のあったお寺だったそうですが、元治元年(1864年)の「禁門の変」の際、長州藩士の一部が大念寺に布陣していたことで巻き込まれて焼失し、再興されたのは明治12年(1879年)になってからだったそうです。

当時、山崎地区は長州藩の屯所となっていました。


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大念寺からさらに坂を登ると、宝積寺という広い敷地を持つ立派な寺院があります。


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山門に立つ金剛力士像は鎌倉時代のものだそうで、重要文化財指定されています。


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山門から一直線にのびる参道の右側には、桃山時代の建築で重要文化財の三重塔があります。


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その側には、「豊臣秀吉一夜之塔」と書かれた立て札がありました。

なんでも、山崎合戦で明智光秀を討った羽柴(豊臣)秀吉が、その勝利を記念し、一夜で建立した塔なんだとか。

そんなわけないやろ!・・・と言うのは無粋というもの。

墨俣一夜城といい石垣山一夜城といい、秀吉は一夜で仕事を済ませる達人なんです(笑)。


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宝積寺は、奈良時代に聖武天皇が僧・行基に命じて建立したといわれる由緒ある古寺です。

この近くには、同じく行基が建てたと伝わる「山崎院」跡もあり、王山周辺は行基にゆかりの深い地なんだそうです。

ただ、宝積寺は貞永元年(1232年)の火災で行基時代の建造物はすべて焼失しており、現存する仏像等は、すべてそれ以降のものだそうです。


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天正10年(1582年)の山崎合戦では、ここに秀吉の本陣が置かれました。

その後、秀吉は天王山の山頂に山崎城を築城し、大坂城に移るまでの拠点としますが、その際、ここ宝積寺も城郭の一部として取り込まれたため、「宝寺城」とも呼ばれたそうです。


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「秀吉の出世石」だそうです。

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何の変哲もないただの石ですが、秀吉はこの石に座して天下統一を考えたんだそうです。

座るだけで史跡になっちゃう秀吉です(笑)。


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時代は進んで幕末の「禁門の変」の際には、尊皇攘夷派真木和泉を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた歴史があり、また、大正4年(1915年)には夏目漱石がここを訪れ、「宝寺の隣に住んで桜哉」の句を詠みました。

1300年近く、ずっとこの地に歴史を刻んできたお寺なんですね。


次回に続きます。



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山崎合戦のまちを歩く。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-10 00:23 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback(1) | Comments(4)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その11 ~法界寺別所家霊廟~

法界寺山ノ上付城という名称ですから、当然、その山の麓には法界寺というお寺があります。
ここは別所氏の菩提寺として、別所長治の高祖父にあたる別所則治が再興したと伝えられる寺です。

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創建は行基菩薩聖武天皇(第45代天皇)の勅願を奉じて諸国行脚のとき、宝祥祝寿鎮護国家の道場として、虚空山と号して法界寺と名づけたと伝えられているそうです。

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天正8年(1580年)1月17日、羽柴秀吉三木条攻めの兵火によって寺院は焼失しましたが、別所長治が自刃したあと、遺体はこの地に埋葬されたといわれています。
ということは、三木城跡近くの雲龍寺にある首塚は、供養塔ってことですかね?

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その後、豊臣政権下の慶長元年(1596年)、三木城の城代を務めていた杉原伯耆守長房によって再建され、別所氏の五輪石塔および霊廟が建てられました。

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その別所家の霊廟です。
この霊廟は当時のものではなく、文政4年(1821年)に再建されたものだそうです。

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長治とその妻・照子の辞世が刻まれた石碑です。

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「東播八郡総兵別所府君墓表」と刻まれた石碑です。
これも文政4年(1821年)に再建されたものですが、初代は、長治の死から98年後の延宝6(1678)年、禅空素伯和尚が三木郡十二町里の民衆に募縁し、この碑を建てて長治の百回忌法要を施したといいます。

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別所氏家臣墓所とあります。
これは、どう見ても最近造られたものでしょう。

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長治の騎馬像です。
これと同じような石像が三木城跡にもありますが(参照:その1)、先日、とある方から教えていただいたのですが、着物が左前死人襟(死人合わせ)になっています。

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写真は2つの石像のアップ、たしかに左前ですよね。
これは駄目でしょう?
両方とも同じときに造られたものかはわかりませんが、ここ法界寺の石像は、「平成15年1月吉日」とあります。
なんで左前なのか、知ってる人がいれば教えてください(教えてくれた人は、中国で造らせたんじゃないか?と言っていました。たしかに、三国志の騎馬武者って感じの顔でした)。

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他にも、法界寺には長治夫妻の位牌および木像、三木合戦記を絵物語にした大幅掛軸があるそうです。
現在でも毎年4月17日には追悼法要が営まれ、掛軸を公開して「三木合戦絵解き」が行われるそうです。
いつか参加してみたいものです。

シリーズはまだまだ続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-04-23 21:19 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)