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平清盛 第42話「鹿ヶ谷の陰謀」

 延暦寺の山門衆徒の要求を全面的にのむかたちで決着をみた「比叡山の強訴」だったが、いったんは引き下がったものの腹の虫がおさまらない後白河法皇(第77代天皇)は、強訴の責任は延暦寺座主の明雲にあるといいはじめ、座主職の罷免と所領の没収を命じ、廷臣の反対を押し切って明雲の伊豆配流を断行する。しかし、山門の大衆はこの決定に反発し、護送中の明雲を力づくで奪還して比叡山に連れ帰った。これに激怒した後白河院は、平重盛平宗盛の兄弟に出撃を命じたが、二人は父の平清盛の指示を仰ぐといって態度をはっきりさせない。業を煮やした法皇は、福原に使者を送って清盛を呼び出し、比叡山総攻撃を命じた。平家にとって比叡山を敵に回しても得るものは何もなく、清盛はかねてから比叡山との協調姿勢をとっていたが、さすがの清盛も治天の君である後白河院直々の司令を拒むわけにはいかなかったようで、やむなくこれを受諾する。

 ところが比叡山攻撃直前の治承元年(1177年)6月1日、事態は急変する。明け方、明雲を讒言したという罪状で西光が捕縛されて拷問にかけられ、清盛を倒す計画を法皇や近臣と謀議したことを白状。翌日、五条坊門朱雀で斬首された。『愚管抄』によれば、ことの発覚は多田行綱の密告だったと伝えているが、事実かどうかは定かではない。行綱は摂津国多田荘を本拠とする摂津源氏の有力者で、摂津福原に拠点をおいていた清盛とは協調関係にあったと考えられており、その行綱が平家打倒の謀議の席に呼ばれるのは不自然であるという意見もある。また、ドラマでは囚われの身となった西光が清盛に向かって「無頼の高平太」と罵り、激高した清盛が西光を何度も蹴り倒すというシーンがあったが、このエピソードは『平家物語』の中に描かれている有名な逸話で、西光が「卑しい身分の出でありながら太政大臣にまで成り上がるなど過分である」と罵り、激怒した清盛は西光の顔を踏みつけた上でその口を切り裂かせ、首を打たせたと記されている。ドラマで描かれていた狂気の沙汰は、この逸話から連想した描写だろう。

 続いて、藤原成親藤原成経父子、法勝寺の執行・俊寛僧都、検非違使の平康頼など、院近臣が次々と逮捕されて解官・配流に処された。そして6月6日には明雲の赦免が決定され、法皇が清盛に命じた比叡山への武力攻撃は未然に回避されたのであった。

 以上が「鹿ヶ谷事件」または「鹿ヶ谷の陰謀」といわれる平家打倒未遂事件のあらましである。平家の専横が招いたクーデター未遂事件ともいえるが、一方で、タイミング的にあまりにも平家にとって都合がよすぎる展開だけに、清盛が院近臣の勢力を一網打尽にするため、あるいは比叡山との武力衝突を避けるために仕組んだ演出だったという見方も少なくない。実際、この事件によって後白河院近臣の実力者は一掃され、断るに断れなかった法皇の命令も回避することができた。まさしく平家にとっては渡りに船であり、願ったり叶ったりの事件だった。この陰謀が、清盛のでっち上げた謀略だったという説も頷ける気がする。ただ、捕まった西光が打倒清盛の謀議を白状したのは事実であり、このとき参加した院近臣の名簿まで作成されている。また『愚管抄』にも、「後白河院が静賢の鹿ケ谷山荘に御幸した際、藤原成親・西光・俊寛が集まりさまざまな議をこらした」とあるから、「火のないところに煙は立たぬ」で、何らかの謀議はあったようだ。

 だが、それが平家を武力で排除するような計画だったかどうかは甚だ疑問である。彼らの動かせる兵力が平家の足元にも及ばないことは火を見るより明らかであり、武力での政変など無謀極まりないことは、いくら軽率な院近臣にもわかることだったはずだ。謀議といっても、せいぜい反平家の貴族があつまって愚痴をこぼし合っていた程度のことだったのではないだろうか。『平家物語』によると、謀議が終わったあとの宴席で酔った成親が立ち上がった勢いで瓶子(へいし)が倒れ、後白河院が「あれはいかに」と問うと、成親が「平氏(瓶子)たはれ候ぬ」と答え、俊寛がそれをどうするか尋ねると西光が「頸をとるにしかず」と瓶子の首を折り割ったという。これが本当なら、何とも幼稚な行いで滑稽な話ある。いってみれば、サラリーマンが仕事のうっぷん晴らしの不平不満をいい合う程度の呑み会が「謀議」とされたというわけだ。酔った勢いで調子に乗って瓶子の首をもぎ取った西光は、のちに自身の首がもぎ取られることになろうとは、夢々思っていなかったことだろう。

 「そなたの国づくりは志ではない。復讐だからじゃ。おのれを犬と扱う王家への恨みつらみに突き動かされておるだけだからじゃ。さようなものにつきあわされて、よい面の皮じゃ。民も、公卿も、うぬらもな。」
 西光に罵られて激高する清盛。少なからず図星をつかれたということだろうか? 人臣の頂に立ち、酸いも甘いも噛み分けた清盛が、あそこまで我を忘れて狂態を晒した理由は? どうやらその辺にドラマの清盛の根っこの部分があるようだ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-10-30 00:48 | 平清盛 | Trackback(4) | Comments(0)  

平清盛 第41話「賽の目の行方」

 建春門院滋子の崩御をきっかけとして、栄華を極めていた平家一門の前途に暗雲が漂いはじめる。事実、滋子の崩御後、後白河法皇(第77代天皇)は側近の藤原成親平康頼西光俊寛らを重用するようになり、次第に平家を疎んじるようになっていった。法皇の後ろ盾を頼りに出世を狙う近臣たちにとっては、平家の専横を崩すチャンスが巡ってきたように思えたかもしれない。

 滋子の崩御後まもなく、仏門に入っていた後白河院の第九皇子第十皇子を還俗させ、高倉天皇(第80代天皇)の猶子としたのはドラマのとおりである。後白河院にしてみれば、高倉帝が成人して自分の意志で政治を行うようになる前に退位させ、自身の意のままになる幼帝を立てて政治権力を維持しようとしたか、あるいは平家の血を引く帝の出現を阻もうとしたのか、いずれにせよ、高倉帝退位工作の一環であったことは間違いないだろう。しかし、平家にしてみれば高倉帝の中宮である徳子に皇子が生まれる前の退位は、絶対に認められるものではなかった。そんなこともあって、清盛、後白河院の両者の対立はいっそう深まっていく。

 反平家の機運が高まるなか、治承元年(1177年)3月に事件は起きた。のちの「鹿ヶ谷事件」の前哨戦とも言うべき「比叡山の強訴」である。ことの発端は、加賀守・藤原師高の弟で目代(国守に代わって現地に赴任する代官)を務める藤原師経が白山中宮の末寺・湧泉寺(ゆうせんじ)とイザコザを起こし、師経が末寺を焼き払ったことにあった。怒った白山衆徒は本寺である比叡山に訴え、これを受けた延暦寺の山門衆徒は師高・師経の解官と配流を求めて強訴の挙に出る。だが、師高・師経は後白河院の側近中の側近・西光の息子であったため、後白河院は師経だけを罰して事態を収拾しようとした。西光という人物は、もとは信西の家人で俗名を藤原師光といったが、信西が死んだのち出家して後白河院に仕え、「法皇第一の近臣」と言われるまでのし上がった人物である。

 しかし、延暦寺側は後白河院の処分に納得せず、4月13日には七基もの神輿を担ぎだして高倉帝の閑院内裏に押し寄せた。このとき、内裏を警備していた平重盛の軍兵の放った矢が神輿のひとつに命中し、延暦寺の衆徒にも死傷者がでる事態に発展した。怒った大衆は神輿を放置して帰山。しかし、武力攻撃を命じたのが後白河院自身であったということを知った大衆は、ふたたび強訴を行う姿勢を見せる。やむなく朝廷は祇園社に神輿を預けて対応を協議、師高の尾張国への配流を決定し、神輿に矢を射た重盛の家人を監獄へ送った。結局は大衆の要求を全面的に受諾することで事件は決着する。

 この事件に際して、平清盛と延暦寺が何らかの気脈を通じたいたという見方はあるようだが、師経が白山の末寺と起こしたイザコザまでもが清盛の仕組んだことだったというのは、ドラマの創作だろう。師経と延湧泉寺とは、かねてから所領問題でもめていたようだ。ただ、この事件の2ヶ月後に起きた「鹿ヶ谷事件」は、清盛が反平家勢力を一掃するために仕組んだ演出だったという見方が強い。おそらくはその伏線として、本話の設定となったのだろう。

「当人同士の思惑に関わりなく、たまたま出た目に突き動かされるが、双六というもの。おのれの番が巡って来た時に、よりよい目を出すよりほかに、勝つ道はござりませぬ。」
 乙前が後白河院に対して言った台詞。清盛と後白河院の出した賽の目の行方は・・・?
「賽の目は、目まぐるしく変わるものぞ・・・あがりじゃ。」
 このときの清盛の政治力は、たとえ相手が治天の君であっても敵ではなかった。あるいは賽の目さえ自在に操れたのかもしれない。



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by sakanoueno-kumo | 2012-10-22 23:21 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(0)