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西郷どん 第23話「寺田屋騒動」 その1 ~大久保の刺し違えんとするエピソード~

e0158128_15131310.jpg 島津久光の東上に先立って鹿児島を発った西郷吉之助(隆盛)村田新八でしたが、下関で福岡脱藩浪士の平野國臣らから上方で尊王攘夷派の挙兵計画があることを聞き、その中に薩摩藩士が含まれていることを知ると、西郷は彼らを鎮めるために矢も盾もたまらず下関を発って上方へ向かいます。しかし、西郷は鹿児島を発つ際、久光より下関で待機せよとの指示を受けていました。したがって、西郷のこの無断上坂は君命を無視した行為でした。これを知った久光は当然の如く激怒。鹿児島での会見の際の「地ゴロ」発言の遺恨も相まってか、久光は西郷に切腹の沙汰を口にしたといいます。


 この西郷の独断専行について、西郷自身が文久2年(1862年)7月に奄美大島在住の木場伝内に宛てた書簡のなかで、久光の上洛に期待して京阪に集まった攘夷派の浪士たちは、皆、自分(西郷)を当てにして死を覚悟した志士たちなので、「死地に入らず候わでは、死地の兵を救う事出来申す間敷」と判断しての行動だったと説明しています。つまり、自分が現地に入って直接説得しなければ事態を収拾できない、と。西郷らしい行動といえますが、しかし、この判断は、裏を返せば久光には事態の収拾はできないと言っているようなものであり、久光を軽んじた行為だと思われても仕方がなかったでしょう。事実、西郷は久光のことを軽んじていました。久光の激怒は当然だったといえます。


e0158128_11283315.jpg 怒る久光に許しを得て東上した大久保一蔵(利通)は、伏見で西郷と会います。ここで二人の間でどのような話があったかは史料がなくわかりませんが、大久保が報告のために久光の元に戻ると、先に堀次郎(伊地知貞馨)有村俊斎(海江田信義)が西郷についての情報を久光の耳に入れていました。その内容は、堀曰く、長州藩の長井雅楽という大奸物と腹を合わせていると西郷から激しく面詰されたといい、有村は、西郷が平野國臣とともに戦死しようと話し合っていると報告していました。この報告は、久光の怒りに拍車をかけます。


 もはやどんなに力を尽くしても久光の怒りを解くのは不可能だと判断した大久保は、ちょうど自分が泊まっていた明石の旅館に西郷が現れると、西郷を人気のない浜辺に連れ出し、「ここで刺し違えて死のう」と言ったといいます。しかし、これを西郷は拒否します。曰く、「自分はどのような処罰を受けようともかまわないが、ふたりとも死んでしまっては、先君(島津斉彬)の遺志を継承する者がいなくなる。だから、決して自殺などしない」というものでした。こう諭された大久保は、自分もこの逆境を耐え忍ぶことを決意したといいます。


e0158128_17375658.jpgドラマとは少しシチュエーションが違いますが、大久保が西郷に刺し違えようと迫った話は有名ですね。この話は、この翌々日に大久保自身が大坂で本田親雄に語った秘事で、後年、大久保の死後に本田が明らかにして有名になったエピソードです。もっとも、大久保が刺し違えて死のうと言ったのは、西郷に甘んじて罪を受けさせるために打った芝居だったのではないかと見る歴史家もいます。その理由は、大久保がその日の日記に「(西郷が)従容として許諾、拙子も既に決断を申し入れ候、何分右通りにて安心いて此上なし」と記していることを指摘し、本気で死のうとしていた人間が、その直後に「安心」などと書けるだろうか、芝居だったからこそ本音がでたのではないか、との解釈です。


 たしかに、後年の大久保の性質から見て、すぐに「死」を口にする西郷と違い、「切望」という言葉を知らないかの如く、どんなに窮しても、一縷の望みを探して努力してやまない男が大久保です。簡単に「死のう」なんて言葉を口にする人物ではないんですね。そう考えれば、大久保の「刺し違えて死のう」は、あるいは芝居だったかもしれませんが、でも、大久保とて若き日は感情に任せて勢いで行動したこともあったでしょうし、冷静沈着なイメージの大久保ですが、決して情に薄い人物ではありません。西郷を大島から呼び戻したのは大久保だったわけで、その責任を感じて口から出た本音だったのではないでしょうか。


 結局、西郷は死一等を減じられて遠島処分となります。久光の本心で言えば死罪を申し付けたかったのでしょうが、あるいは、ドラマのように周囲の助命嘆願があったのかもしれませんね。もっとも、久光の胸の内では、この遠島は一生鹿児島に帰ることのない終身刑のつもりだったようです。そうなっていれば、歴史はまた違ったものになったでしょうね。


 ちなみに、ドラマでは久光に報告したことが誤解を招いて怒りを買ったことを詫にきた有村に対し、寛大に受け止めていた西郷でしたが、実際には、久光の激怒を招いたのは有村や堀の「讒口」、つまり、西郷を陥れるための虚言によるものだと受け止め、以後、西郷は彼らを恨み続けます。ドラマでの西郷、ちょっといい人すぎますね。


 寺田屋事件の話にいくまでに長くなっちゃいました。つづきは明晩、「その2」の稿にて。



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by sakanoueno-kumo | 2018-06-18 01:22 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その75 「吉田屋跡(立命館草創の地)」

かつて「三本木」という花街にあった料亭「吉田屋」跡を訪れました。

幕末、吉田屋は尊攘派の志士たちの密会の場として頻繁に利用されており、桂小五郎(木戸孝允)の愛妾だった芸姑・幾松が芸妓時代を過ごしていたのもこの吉田屋だったといいます。

新選組に追われていた桂を幾松が匿ったという有名なエピソードも、ここ吉田屋が舞台だったといわれています。


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また、慶応3年6月22日(1867年7月23日)、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎、寺村左膳、真辺栄三郎、福岡孝弟の両藩首脳が会合し、さらに「浪人の巨魁」として坂本龍馬中岡慎太郎が陪席して締結した「薩土盟約」の会場も、ここ吉田屋だったといいます。

この席で土佐藩は大政奉還論を主張し、その方針に沿って盟約が結ばれます。

すなわち、武力倒幕を原則回避する方針ですね。


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ところが、結局は半年後に鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られます。

そのため、薩摩側にとってこの盟約は、倒幕準備のための時間かせぎだったとか、幕府の大政奉還拒否を想定しての倒幕の名分獲得などの思惑だったとも言われますが、事実はどうだったのでしょうね。

実際、西郷、大久保は武力倒幕派でしたが、小松は大政奉還論だったといいます。

この時点では、まだ薩摩側も揺れ動いていたということではないでしょうか。


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維新後、吉田屋は清輝楼、大和屋旅館として継承され、その後、明治33年(1900年)5月19日に西園寺公望の秘書官だった中川小十郎によって、立命館大学の前身である京都法政学校が創立されました。

現在、「立命館草創の地」と刻まれ、当時の建物の写真が転写された石碑が建てられています。




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幕末京都逍遥


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by sakanoueno-kumo | 2018-06-14 23:30 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第22話「偉大な兄 地ごろな弟」 ~地ゴロ発言~

e0158128_15131310.jpg 西郷吉之助(隆盛)が奄美大島より召喚された最大の理由は、かつて西郷がリーダー格だった誠忠組藩権力を掌握し、これから中央政局に乗り出していこうとするなかで、諸藩の志士や朝廷に名の売れた西郷に国事周旋を補佐させるためでした。ところが、帰藩した西郷は、誠忠組が推進してきた島津久光を担いで東上するという計画に真っ向から反対します。その理由は、久光は国父といえども藩主になった経験がなく、そのため、参勤交代などで江戸にも京にも行ったこともなく、有力諸侯や老中らとの交流もないため、東上して政治活動をするのは無理であり、そもそも、無位無官の身である久光には、中央政局で発言する資格がない、というものでした。上洛など時期尚早で、まずは、大藩の有力諸侯との連携構築が先である、と。たしかに西郷の指摘は的を射ており、問い詰められた中山中左衛門、小松帯刀、大久保利通ら久光の側近は、ぐうの音も出なかったといいます。


 そして後日、西郷が久光と会見した際、西郷の口から後世に有名な久光批判の発言が飛び出します。「地ロゴ」ですね。「地ロゴ」の語源は「地五郎」で、つまり「田舎者」という意味。すなわち、田舎者の久光が京や江戸に乗り込んで何ができるのか、といった批判で、これを聞いた久光が大いに気分を害したことはいうまでもありません。


e0158128_11283315.jpg 西郷のこの発言の裏には、おそらく西郷が常日頃から兄の故・島津斉彬と久光を比較し、今回のサブタイトルのように、都会的で偉大な兄に対して田舎者の弟といった久光を軽視する気持ちがあったのだろうと想像できますし、また、その背景には、かつてのお由羅騒動による久光派への敵対意識や、斉彬暗殺疑惑などの偏見も影響していたに違いありません。それらの過去の派閥抗争に久光は直接関係しておらず、また、斉彬と久光の関係は良好だったといわれていますが、斉彬を崇拝する西郷としては、簡単に割り切れない思いがあったのでしょう。久光公ごときが先君の遺志を継ごうなんて片腹痛い、と。


 また、久光とその側近に対する西郷の不満はそれだけではなく、奄美から帰藩したときの藩政にもありました。前話の稿でも述べたとおり、国父となった久光は島津斉興時代の家老・島津豊後(月照と西郷を追放した家老)を罷免し、前藩主の斉彬に重用された島津久徴主座家老としましたが、この久徴の就任を西郷はたいへん喜んでいました。というもの、久徴は日置島津家の出身で、かつてお由羅騒動に連座して切腹した赤山靱負実弟だったからです(参照:第4話)。西郷と赤山は浅からぬ関係で、その実弟である久徴の復職は、西郷にとってはこの上なく喜ばしい人事だったんですね。


 ところが、その久徴が、久光の上洛計画に異を唱えます。その理由は、いま久光が上洛しても成功は見込めないというもので、概ね西郷が大久保らを問い詰めた内容と同じでした。この反対を受けた久光は、久徴を罷免し、久徴を取り巻く日置派に属した藩士たちも閑職に追いやります。おそらくは、大久保たち誠忠組も、この人事に口を出していたに違いありません。西郷はこれも気に入らなかったのでしょうね。


e0158128_17375658.jpg 西郷の主張は決して間違ってはいませんでしたが、彼のやり方は、決して褒められたものではなかったでしょう。このとき西郷が奄美大島在住の木場伝内に宛てた書簡には、上述した中山、小松、大久保に対して、「愚行の形行残さず申し上げ候」とか、「甚だ以て疎地の御策」などといった厳しい言葉で痛烈に批判したと記されています。若き日の西郷は後年とは違い、相手を完膚なきまでに論破してしまう尖った男だったといいますが、これでは、相手の立場を配慮しない、顔をつぶすに等しいやり方です。いくら西郷の批判が的を射たものだったとしても、顔をつぶされた側は面白いはずがありません。西郷にしてみれば、かつて江戸や京で一流の志士高貴な方々と深い交流を持った自分と、国元にいる薩摩人では格が違うといった上から目線はあったかもしれません。また、3年という島暮らしの期間が、西郷を多少ひねくれさせていたかもしれませんね。大久保、小松がこのときどう思ったかは伝わっていませんが、中山は、大久保とともに久光の東上計画を作成した人物であっただけに、恥をかかされたという思いが人一倍強く残り、この後、薩摩藩内の反西郷勢力のリーダー格となり、西郷を大いに苦しめることになります。


 また、久光に対する有名な「地ゴロ」発言ですが、わたしはかねてから、いくら久光に批判的だったとはいえ、藩内最高権力者に対して、このような不躾な発言を直にするだろうかと疑問に思っていたのですが、今回のドラマでは、西郷に直接「地ゴロ」と言わせず、遠まわしに批判する西郷の意図を察した久光が、「おいを薩摩しか知らん地ゴロち抜かすか!」と問い詰めるという設定でしたね。たしかに、このほうが自然かもしれません。


ちなみに、この西郷の「地ゴロ」発言の出典は、はるか後年の明治19年(1886年)に久光が側近の市来四郎に対して述懐したものを市来が書き残したもので、信用に足る逸話とはいえません。あるいは、年老いた久光が多少話を盛っていたかもしれませんね。ただ、いずれにせよ、これに近い失礼な発言をしたのは事実と思われ、これが、西郷と久光の長い対立関係の開始を告げるゴングとなったことは間違いないでしょう。


 そんな西郷の反対意見も採用されることはなく、久光の東上は決行されることになります。そうなると西郷も、封建社会に生きる武士である以上、従わざるをえません。西郷は村田新八とともに久光らの出立に先立って出発し、形勢を視察したうえで下関で久光一行を待つことになります。ところが、その下関で、上方で尊王攘夷派の挙兵計画があることを聞き、その中に薩摩藩士が含まれていることを知ると、彼らを鎮めるために矢も盾もたまらず下関を発ってしまいます。これが、再び久光の逆鱗に触れることになるんですね。


 今話は「偉大な兄 地ごろな弟」というサブタイトルで、久光と斉彬の関係にかぶせて、西吉之助(隆盛)と西郷信吾(従道)兄弟を描いていましたが、たしかに信吾は次週の寺田屋事件に関わってはいますが、彼が歴史の表舞台に登場するのはまだまだ先のことです。ここで無理に弟を出して創作話を展開するより、上述した「地ゴロ」発言の経緯や側近たちの感情の機微などを、もう少し丁寧に描いてほしかったですね。



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by sakanoueno-kumo | 2018-06-11 16:28 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その72 「大久保利通邸跡」

京都御苑の東側、「その64」で紹介した清浄華院のすぐ北側に、かつて大久保利通が京で暮らしていた邸がありました。

現在、その場所には、「大久保利通旧邸」と刻まれた石碑が建ちます。


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盟友・西郷隆盛は幕末の初期段階から主君の島津斉彬の手足となって京に江戸にと奔走していましたが、大久保は薩摩藩領内から外に出る機会に恵まれず、はじめて京に上ったのは、文久2年(1862年)島津久光公武周旋のために京に入ったときだったようです。

以後、大久保は京に滞在することが頻繁となり、慶応2年(1866年)から慶応4年(1868年)までの間、この地に邸宅を構えていたそうです。


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この時期、他藩士たちとの外交を担当していたのは西郷で、京での大久保の役目は、主に朝廷工作でした。

だから、御所のすぐ近くに邸を構えたのでしょうね。

大久保はここを拠点に、岩倉具視らと密接に関わって朝廷工作に奔走し、やがて王政復古の道筋を立てていくんですね。

この頃はまだ、西郷と大久保は、同じ方向を向いていました。


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大久保が暗殺された3年後の明治14年(1881年)までは旧邸が残っていたそうですが、今は石碑がその場所のみを伝えてくれています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-10 10:30 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第21話「別れの唄」 ~国父・久光政権誕生と西郷の召喚~

 物語が一気に2年ほど経過したため、その間の薩摩藩内の動きを簡単に解説します。


e0158128_17375658.jpg安政7年3月3日(1860年3月24日)に桜田門外の変が起きると、大久保正助(一蔵・利通)は藩主の父・島津久光出兵を進言します。というのも、前話の稿で述べたとおり、大久保たち誠忠組はその突出計画を中止する条件として、ひとたび中央で国家の一大事が発生すれば、直ちに全藩あげて国事活動に乗り出すとの約束を取り付けていたからでした。ところが、久光は今回も出兵を拒否します。その理由は、今回の一件は水戸藩脱藩浪士による暴発であって「兵乱」ではなく、しかも、暴発のメンバーに薩摩藩士が関係しており、幕府がどう出てくるかわからない状況で軽々に動くべきではない、とのことでした。大久保は不満ながらも久光の説得を受け入れるしかありませんでした。しかし、この久光の政治判断は正しかったといえるでしょう。その後、大老・井伊直弼亡きあとの幕府は、朝廷、諸藩との協調政策に路線を転じ、井伊襲撃に関する薩摩藩への追求もありませんでした。もし、突出が行われていたら、そうはいかなかったでしょう。


 翌年の文久元年2月18日(1861年3月28日)、幕付老中・久世広周から薩摩藩主・島津茂久に、参勤交代で茂久が国許不在中は父・久光が政務を預かるよう通達されます。これにより幕府より正式に藩政に関与することを認められた久光は、同年4月22日(1861年5月31日)、「国父」と称することを藩内に布告します。かくして久光は事実上、薩摩藩の最高権力者となりました。


e0158128_11283315.jpg 5月には久光の小姓で大久保を久光にとりもった人物・中山中左衛門小納戸に任じられ、小松帯刀が大番頭から側役に昇進しました。小松はのちに大久保ら誠忠組と深く関わってくる人物ですね。そして10月には島津斉興時代の家老・島津豊後(月照と西郷を追放した家老)を罷免し、前藩主の島津斉彬に重用された島津久徴主座家老とします。そして、前述した小松と中山が新任の家老を補佐し、誠忠組の大久保と堀次郎(のちの伊地知貞馨)を小納戸に抜擢します。この新しい久光政権は、大久保ら誠忠組の面々が藩政の中枢に名を連ねるという、彼らにとっては願いがかなった夢の政権の実現だったわけです。この有能な人材を集めた藩首脳で、これから中央政局に乗り出していこうとしていたのです。そこで大久保は久光に、もうひとり、中央に乗り出すにはどうしても必要な人物がいると進言します。西郷吉之助(隆盛)です。


e0158128_15131310.jpg 西郷に帰藩命令が下されたのは、大久保が小納戸になった翌月の文久元年11月21日(1861年12月21日)のことでした。ドラマでの西郷は生涯島民として暮らすことを決意していましたが、実際の西郷は、愛加那と結婚してからもずっと鹿児島に帰ることを切望していました。ただ、島での生活も2年が過ぎたあたりからは、半ばあきらめムードが漂い、大久保に送った手紙でも、「明らめ居り申し候」とか「頓と島人に成り切り」などといった発言が見られるようになります。というのも、この年の1月2日に、西郷にとってはじめての子供である菊次郎が誕生しており、そんな幸せな日々のなかで、このまま島民としてここで静かに暮らす人生も悪くはないかもしれない、と思いはじめていたかもしれません。ところが、歴史は西郷を必要としたんですね。皮肉にも西郷のもとに帰藩せよとの召喚状が届いたのは、愛加那、菊次郎とともに暮らすための新築の家が建って引っ越した翌日のことだったといいます。この召喚状を受けた西郷は、喜んだのか、あるいは困惑したのか・・・。ずっと願ってきたことではあったものの、このイミングの悪さでは、手放しには喜べなかったかもしれません。


 このあと西郷は、奄美大島での最後の正月を妻子と過ごしたのち、文久2年1月14日(1862年2月12日)に島を出帆し、同年2月12日(1862年3月12日)に鹿児島に帰着します。このとき西郷は、生きていることが幕府に発覚しないよう、しばらく大島三右衛門と名乗ることになります。これは、大島にほぼ3年いたという意味が込められた改名でした。



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by sakanoueno-kumo | 2018-06-04 14:52 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第20話「正助の黒い石」 ~誠忠組突出計画と諭告書~

 今回は大久保正助(利通)が中心の話でしたね。わたしはかねてから、無理に主人公を話に絡めないでも、話の流れ的に主人公が出ない回があってもいいのではないかと言い続けてきましたが、今回はまさしく、それに当てはまる回でした。主人公である西郷吉之助(隆盛)は最初と最後に少し登場しただけ。でも、箸休めの回ではなく、重要な史実ベースの回。このチャレンジは、わたしは良かったと思います。


 安政の大獄の嵐が吹き荒れるなか、薩摩藩下級武士の有志らで結成された精忠組の面々は、脱藩して大老・井伊直弼をはじめ幕閣首脳を襲撃しようとする、いわゆる「突出」を計画します。しかし、その計画は事前に薩摩藩国父の島津久光の知るところとなり、安政6年11月5日(1859年11月28日)、藩主・島津茂久自筆で次のような諭告書が下され、暴発を思いとどまらせました。


方今、世上一統動揺、容易ならざる時節にて、万一事変到来の節は、順聖院様(島津斉彬)御深意を貫き、国家を以て忠勤をぬきんずげき心得に候。

各々有志の面々、心相心得、国家の柱石に相立ち、我等の下肖をたすけ、国名を汚さず、誠忠を尽くし呉れ候様。

ひとえに頼み存候。 よって件の如し。


精忠士面々へ 


安政六年巳未十一月五日 茂久(花押)


 簡単に言うと、「時が来れば必ず君たちの力が必要となるから、それまでは軽率な行動を慎め」ということですが、このなかで注目すべきは、彼らを「国家の柱石」とし、「精忠士」の称号を与えたことで、彼らの突出を「義挙」と認め、さらに、近い将来に全藩あげて国事活動に乗り出すと約束しています。この時代、藩主が自筆の諭告書を下級武士の直接下すことなど異例中の異例のことでした。脱藩して場合によっては死ぬつもりでいた彼らも、藩主父子にここまで言われては、突出を思いとどまらざるをえなかったでしょう。


e0158128_17375658.jpg この諭告書の発行を水面下で操っていたのが大久保だったというのがドラマの設定でしたね。これについては、海音寺潮五郎氏の著書でも同じような設定で描かれています。しかし、これが事実かどうかは定かではありません。たしかに、この時期、大久保は趣味の囲碁を通じて久光に近付こうとしていました。ただ、記録では、実際にふたりが顔を合わせたのはこの翌年のことで、この時期はまだ、久光の囲碁の対手である僧侶・吉祥院を通じての間接的な接点でしかなかったようです。あるいは、その吉祥院を通じて諭告書の発行を促したかもしれませんが、その文案まで大久保が起草したというのは、少々無理があるかもしれませんね。


 ドラマでは描かれていませんでしたが、大久保は西郷が奄美大島に流される直前、この精忠組の突出についてどう思うか、西郷に意見を求める手紙を送っています。これに対して西郷は、「憤激の余りに事を急ぎ候では、益御難を重ね奉るべく候」と、自重を求めています。この西郷の忠告によって、大久保は世の趨勢を冷静に見つめ、精忠組のリーダー的存在となっていったと・・・。なんで、これやらなかったのでしょう?


 藩主父子の諭告書によって突出を踏みとどまった精忠組は、メンバー49名の名前を書いた血判状をつけ、上申書を添えて藩主に提出したそうです。その名簿の筆頭には、その場にはいられなかった「西郷吉之助」の名が加えられました。


 こうして一旦は沈静化した精忠組の突出計画ですが、翌年の安政7年3月3日(1860年3月24日)に桜田門外の変が起きると、事態は再び緊迫します。このあたりについて次週で描かれるのか、それとも、次週はまた奄美大島に舞台を移すか・・・。わたしとしては、もう少し大久保と精忠組の動向を見たいのですが、予告編を見る限りでは次回は奄美が中心になりそうですね。



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by sakanoueno-kumo | 2018-05-28 18:17 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第19話「愛加那」 ~奄美大島に対する苛政~

 奄美大島に流された当初の西郷吉之助(隆盛)は、島の生活に馴染めず苛立ち戸惑いに満ちた日々を送っていたようで、島民に対してもあまり良い感情を抱いていなかったようですが、一方で、島民に対する薩摩藩の不当な処遇を目の当たりにし、義憤を覚えるようになります。西郷が本土の大久保利通税所篤に宛てた安政6年2月13日(1859年3月17日)付の書簡には、次のように記されています。


「何方においても苛政の行われ候儀、苦心の至りに御座候。当島の体誠に忍びざる次第に御座候。松前の蝦夷人さばきよりはまだ甚敷御座候次第、苦中の苦、実に是程丈けはこれある間敷と相考え居り候処驚き入る次第に御座候」


曰く、「北海道松前藩によるアイヌ民族に対する政策よりもひどいもので、忍びざるを得ない。これほど酷い扱いだったとは思ってもみず、実に驚いた。」と。


 薩摩藩が奄美大島での砂糖の生産に介入するようになったのは、元禄年間(1688年~1704年)頃からだとされています。それまでは、年貢で納められた砂糖を他藩に売り捌いて藩の利益としていましたが、極度の藩財政の悪化に直面し、島民に対して過酷な砂糖生産のノルマを課すようになっていきます。さらに19世紀に入ると、第8代藩主の島津重豪放漫財政によってさらに財政は悪化。それを立て直すべく調所笑左衛門広郷が登用されると、その財政改革の一環として、奄美大島、喜界島、徳之島の三島での砂糖の総買い入れ制を布きます。つまり専売制ということですね。これにより薩摩藩は莫大な利益をあげることになりますが、島民に対する処遇はいっそう悲惨さを増すことになります。


 島民の砂糖は法外に安く買い上げられ、一方で、本土からの物品は市場の5倍から10倍といった法外な高値で藩から配当されました。そのため、島民は老いも若きも日の出から日没までも働き詰めで、にも関わらず、食べるものもままならず、有害な蘇鉄を食糧にしていたといいます。「働き方改革」「最低賃金」もありません。ほとんど植民地の奴隷状態ですね。ドラマで、前藩主・島津斉彬民のための善政を主張する西郷に対して、「わたしらは、民のうちにはいってなかったんだ」という愛加那の台詞がありましたが、まさしく、薩摩藩にとって島民は「民」ではなかったのでしょう。


 また、藩の役人や島在中の役人の暴力を伴う圧政と、私腹を肥やすためのごまかしも酷かったようで、血気盛んな西郷が怒りを顕にしたといいます。終生、不正を心底毛嫌いした西郷ですからね。当然の怒りだったでしょう。現に、西郷が悪代官を懲らしめたというエピソードが残されています。


e0158128_15135174.jpg 島での暮らしも半年以上が過ぎた安政6年11月8日(1859年12月1日)、島で西郷の身の回りの世話をしていた龍家の娘と結婚します。ドラマでは「とぅま」という名で呼ばれていましたが、幼名は於戸間金(おとまがね)といい、「於」は尊称、「金」は加那の古称なので、名は「とま」といいました。ドラマのとおり、結婚時に西郷が「愛」の名を与え、愛加那と名を変えます。


 ドラマで、「わたしをアンゴにしてほしい」と愛加那が言っていましたが、「アンゴ」とは「島妻」という意味です。つまり、島にいる間だけの現地妻ということですね。これに対して西郷は、島妻ではなく本妻になってくれと言っていましたが、そこはドラマですからね。実際には、やはり島妻であり、決して対等な立場での結婚ではありませんでした。現に、結婚後3年近くが経過した頃の西郷の書簡に、愛加那のことを「召し使い置き候女」と記しています。島妻は相手の男が本土に帰ると、同行できません。それでも、西郷は、結婚したあとも復権して鹿児島へ帰ることを期待し続けました。西郷にとって愛加那は、最初から現地妻だったんですね。


 ただ、これを非情だとするのは、現代人の感覚ですね。当時、島に流された武士が島妻を娶るのは普通のことで、島妻を差し出す側も、それなりの見返り、利益供与があったとされます。まあ、そう言ってしまうと、ドラマにはなりませんが。


 いずれにせよ、島妻とはいえ、愛加那との結婚で西郷の心身はずいぶん癒やされたようで、西郷は愛加那を心から愛しんだといいます。波乱万丈の西郷の人生のなかで、束の間の安らぎの時間でした。


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by sakanoueno-kumo | 2018-05-21 15:18 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その56 「清水谷家の椋(京都御苑)」

前稿で紹介した蛤御門を潜って100mほど東へ進んだ御所の南西の角のあたりに、「清水谷家の椋」と呼ばれるムクノキの巨樹があります。

元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)の際、長州藩の豪傑・来島又兵衛が、この木の下で自刃したと伝えられます。


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「清水谷家の椋」という名称は、この木のあたりに公家の清水谷家の屋敷があったことに由来します。

幹周は約4mあり、樹齢約300年と言われています。


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長州藩きっての武闘派として知られる来島又兵衛は、若年者が多かった幕末の長州藩士のなかでは、長老格でした。

何より猛々しさを重んじる又兵衛は、幕末より戦国時代に生まれたほうが似つかわしい人物で、藩士からの人望も厚かったようです。

禁門の変に際して、ギリギリまで慎重論を主張する久坂玄瑞に対して、怒気を飛ばして論破したのがこの又兵衛で、その気質のとおり、彼が強硬派の急先鋒でした。

変当日の又兵衛は、風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて会津藩の守る蛤御門に猛然と攻めかけます。


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勇猛果敢な又兵衛の突撃によって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転

その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助(隆盛)でした。

西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。

しばらくして又兵衛は、胸を撃ち抜かれて落馬

死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。

それが、このムクノキの下だったと伝えられます。

享年47。


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ムクノキの向こうに見える塀は、御所の外塀です。

当時も同じように塀があったのかどうかはわかりませんが、御所の目の前で朝敵の汚名を着せられたままの討死は、さぞ無念だったに違いありません。

西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-17 23:36 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その55 「蛤御門(京都御苑)」

京都御苑外郭九門のひとつである「蛤御門」にやってきました。

元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」の際、最も激戦地となった門として知られ、同変のことを「蛤御門の変」とも呼ばれることで周知の場所です。


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「蛤御門」の名称の由来は、御所の火災の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリになぞらえて、「蛤御門」と呼ばれるようになったそうで、本来の正式名称は「新在家御門」なんだそうです。

その由来となった火災については、宝永の大火(1708年)後とする説と、天明の大火(1788年)後とする説が挙げられているそうです。


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現在の蛤御門は、明治10年(1877年)から明治16年(1883年)にかけて行われた大内保存および京都御苑整備事業によって移設されたもので、それ以前は現在よりも30mほど東の位置に、南を向いて建てられていたそうです。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)、伏見、山崎、天龍寺の陣を出た長州藩兵は、まず、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の3人が率いる隊が三方から京へ出撃しますが、対する会津藩兵桑名藩兵の守りは固く、行く手を遮られます。

そんな戦況のなか、来島又兵衛率いる隊が強引に突っ込んで御所の中立売御門を突破。

ここ、蛤御門に殺到しました。


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又兵衛の部隊は門扉を突き破って突入し、大激戦を演じます。

又兵衛自身は風折烏帽子具足、陣羽織を身にまとい、その出で立ちは元亀・天正の戦国武将さながらだったといいます。

そんな又兵衛の奮闘もあって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転

その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助(隆盛)でした。

西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。

しばらくして又兵衛は、胸を撃ち抜かれて落馬

死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。

享年47。

西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。


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門には、複数の弾痕がいまも残っています。


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おびただしい数の弾痕が、その激戦のほどを雄弁に語ってくれます。

このなかには、あるいは川路利良の撃ったものもあるかもしれません。


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戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。

その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。

『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。

一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。

後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。

戦争でいちばん辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということですね。

21世紀のいまも変わらない事実です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-16 23:10 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(4)  

西郷どん 第18話「流人 菊池源吾」 ~奄美大島流島~

 安政5年11月16日(1858年12月20日)未明、護送中の船から錦江湾に身を投げた西郷吉之助(隆盛)月照でしたが、その後、海中から引き揚げられたふたりのうち、月照だけが命を落とし、西郷は奇跡的に蘇生する結果となりました。息を吹き返した西郷は、その後、数日間にわたって何度も海水を吐き出し、回復に1か月近くかかったといいます。このとき意識のない西郷の枕頭で看病にあたったのが、同志の税所喜三左衛門(篤)でした。


 意識を取り戻した西郷は、自分だけが生き残ってしまったことに酷く心を痛めます。また、自殺を図るにあたって、確実に死ねる刀を使わずに入水という女子のしそうな手段を選んだことも、大いに後悔しました。西郷が刀を使わなかった理由は、僧侶の身体に刃を向けるのが憚られたからと、後年語っています。いずれにせよ、この出来事が、西郷の心中に大きな傷跡として残ったことは言うまでもありません。このときの西郷の心中は、この約1か月後に熊本藩の長岡監物に宛てた書簡に窺えます。


 「私事、土中の死骨にて、忍ぶべからざる儀を忍び罷り在り候次第、早御聞き届け下され候わん。天地に恥ケ敷儀の御座候え共、今更に罷り成り候ては、皇国のために暫く生を貪り居り候事に御座候」

(私は一旦死んだ人間であり、土の中の死骨に等しく、その恥を忍んでいる身であるが、しばらくは皇国のために命を長らえている)


e0158128_15131310.jpg 一時は月照の後を追おうとした西郷でしたが、結局、いましばらく生き延びることを決意しました。なぜ、そう決意したのかはわかりませんが、ただ、いえるのは、このときの西郷にとって、生きる道を選択するということは死ぬことよりよほど勇気がいる決断だったであろうということです。この時代の一流の武士にとって、自殺を図って死にきれなかったということほど恥ずかしいことはありません。ましてや西郷の場合、共に身を投げた月照が死に、自分だけが生き残っています。これは、武士としてあまりにも恥ずかしいことだったといえ、月照の後を追って死んだ方がよほど楽だったに違いありません。ところが、西郷は生き恥を晒す道を選んだ。その背景には何があったのか、あるいは、主君・島津斉彬の死に際して殉死しようとしていた西郷を説得した月照のような人物がいたのか・・・。あるいは、ドラマのように大久保正助(利通)だったかもしれませんね。


 もっとも、このときの心の傷は生涯を通して癒えることはありませんでした。これより先、西郷は、どこか死を急ぐような、死を願望し続けたようなところがありますが、それは、このときに始まったとも思われます。ドラマ中、西郷が自身のことを「亡霊のようなもの」と言っていましたが、西郷にとって、このあとの人生は、ずっと「土中の死骨」だったのかもしれません。


 西郷の蘇生の報せを受けた薩摩藩家老の新納久仰は、西郷の措置を以下のように決定します。まず、捕吏の目を誤魔化すために、西郷は死亡したことにする。もし幕府サイドが死体の検分を望んできたら、近々に死んだ別の罪人の死体を差し出す。そして、西郷本人は、事態が落ち着くまで名前を変えて奄美大島に潜ませる。島での生活費は、藩の費用で賄う、というものでした。守旧派で月照の庇護を拒んだ新納久仰でしたが、この西郷に対する措置は、あきらかに西郷を守ろうとしている意図が窺えます。つまり、この流島処分罪人扱いではなかったということですね。西郷は菊池源吾と名を変え、安政6年正月10日(1859年2月12日)に鹿児島の山川港を出発し、翌々日に奄美大島の龍郷村阿丹崎へ到着します。以後、足掛け3年に及ぶ西郷の奄美での生活が始まります。


 奄美に着いた当初の西郷は、奄美の気候島人とのやりとりなどで非常に苦労していたようです。奄美到着後に初めて出した大久保宛の書簡によると、


 「一日晴天と申すなるは御座無く雨勝ちに御座候。一体雨はげしき所の由に候得共、誠にひどいものに御座候」


と、1日として晴れが続かない奄美の冬期特有の気候に悩まされていたようです。また、初めて接する島人との関係も最初は芳しくなかったようで、


 「誠にけとう人にはこまり入り申し候。矢張りはぶ性にて食い取ろうと申すおもいばかり、然しながら、至極御丁寧成る儀にて、とうがらしの下なる塩梅にて痛み入る次第に御座候」


と、愚痴をこぼしています。「けとう(毛唐)人」とは島人への蔑称であり、「はぶ性」とは、島人が西郷を恐れ、物陰から常に覗っている様子を、奄美の毒蛇ハブに見立てた皮肉たっぷりの表現でした。この文面からも、西郷が島人に対して好意的な感情を抱いていなかったことが窺えます。このときの西郷は、斉彬や月照の死による悲しみや、流島処分となった自身の現状に憤りを感じ、自暴自棄になっていたのかもしれません。そんな西郷の荒んだ心を癒したのが、島の女性・とぅまでした。のちの愛加那ですね。彼女については、次週に譲ることにします。



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by sakanoueno-kumo | 2018-05-14 00:37 | 西郷どん | Trackback | Comments(4)