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タグ:豊臣秀吉 ( 95 ) タグの人気記事

 

漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。 その4「本丸上の段」

「その3」の続きです。

岡山城本丸本段まで登ってきました。


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本段にもかつては複数の櫓が存在し、中央には本段御殿の建物がありましたが、現在は芝生広場に昭和41年(1966年)に復元された天守があるだけです。

この日はゴールデンウィーク中とあって、子供向けのイベントが行われていました。


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岡山城の天守は、宇喜多秀家が築城を開始して8年を経た慶長2年(1597年)に完成しました。

外観5重・内部6階で、高さ約15mの石垣に約22mの建物が乗っています。

「その2」の下の段の稿でも紹介したとおり、天守台が不整形な五角形になっていることから、天守の一重目も天守台に合わせた不等辺五角形になっています。

天守台東西の幅は約24m~30.5m、南北の奥行は約13~17mあり、二重目もほぼ同じ大きさです。


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岡山城天守には天守台に地下室がないため、天守に入るための付櫓が必要となります。

現在の復元天守には南面の石垣に開いた観光客用の入口がありますが、往時の天守にはこの入口はなく、写真左側の白い付櫓・塩蔵に見える入口が、天守に通じる入口でした。

このような付櫓と一体型の天守を、複合式天守といいます。


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外壁は、すべての階で分厚い土壁の表面に黒く塗った下見板を張り、重厚感のある天守となっています。

その外観から、カラスのような黒さを表した「烏城」という別名で呼ばれていました。

宇喜多秀家の創建時は、下見板を黒漆塗で仕上げていたらしく、軒先に金箔を施した瓦を並べた屋根とともに、天下人・豊臣秀吉身内大名にふさわしい質実剛健かつ格調高い天守だったといいます。


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二重目の屋根は巨大な入母屋造で、3階はその屋根裏階となっています。

4階である三重目も入母屋造の大屋根で、その上に二重の望楼である5階(四重目)・6階(五重目)を乗せた望楼型天守です。


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岡山城天守には鉄砲狭間が少なく、破風内に数か所ある程度です。

その分、格子窓が多く、上下階で位置が重ならないように配置されています。

これは、敵への攻撃の死角をなくすためだそうです。


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天守内に入ってみましょう。


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天守内部は大方の復元天守と同様に、資料館になっています。

この日はゴールデンウイーク中ということもあって、観光客で賑わっていました。


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最上階からの南側の眺望です。


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こちらは北側、後楽園側の眺望です。

手前に流れるのは旭川


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復元天守内部にはそれほど興味がないので、天守を降りて本段内をもう少し歩きます。

こちらの写真は、旧天守の礎石を移設したものだそうです。


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こちらは下の段東側の水の手と本段をつなぐ六十一雁木上門(要害門)です。

「その2」の下の段の稿でも紹介しています。

「六十一雁木上門」という名前の由来は、江戸時代初期に整備された際に、61段の石段があったことにちなんでいるそうです。


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本段北西側の搦手門から中の段に下ります。


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「その3」で紹介した表門の不明門は普段は使用されず、このルートで天守と行き来していたそうです。


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細い路地のようなルートです。

戦のない江戸時代になってから作られたルードだとは思いますが、一応は敵に見つかりにくい構造になっているのでしょう。


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ここから、「その2」で紹介した廊下門を抜けて、下の段に繋がります。


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明治に入って、岡山城は各地の城と同様に、その存在意義を失いました。

建物の取り壊しや堀の埋め立てが行われ、明治15年(1882年)頃までには天守とわずかな櫓を残してほとんどの建物が壊されました。

また、昭和初期には堀の埋め立てもほぼ終わり、本丸以外の地区は市街地となりました。

残った建物は旧国宝に指定され、街のシンボルとして維持管理されていく予定でしたが、昭和20年(1945年)6月29日の岡山大空襲によって焼失してしまいます。

これも、他の地域の城と、ほぼ同じ運命ですね。

爆撃機から見れば、お城ほど格好の的はなかったでしょうからね。


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さて、本段天守まで攻略しましたが、次稿、もう一回だけ、岡山城北側の後楽園を歩きます。

「その5」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-05-08 01:37 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

但馬八木城跡登城記 その3 ~石城本丸跡~

「その2」の続きです。

八木城二ノ丸跡(第2郭)から北西を見上げると、本丸跡(主郭)石垣がドドーーンと目に入ります。


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実に見事な石垣です。


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本丸跡に登る前に、石垣下を1周してみましょう。


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本丸南出隅の石垣です。

算木積みですね。

「算木積み」とは石垣の出隅部分に用いられる技法で、長方体の石を交互に重ね合わせて積み上げられるため、強度が増します。


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算木積みは天正年間(1573~1592年)ごろから見られ始めた技法です。


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その下には、説明板が設置されています。


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説明板によると、この南隅の算木積みの上に、隅櫓があったのではないかと想定されるそうです。


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石垣のアップです。


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本丸西側面は、見事な高石垣が続きます。


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この高石垣は40mに渡り、高さは8.6mあるそうです。


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写真ではわかりづらいですが、中央が「く」の字に折れ曲がっています。


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出隅ではなく、入隅に曲がっています。

わかるでしょうか?


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石垣は野面積みですね。


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反対側(北西側)から見た高石垣です。


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そこから曲がった北西部分の出隅です。

ここからは高さ2.5mの低い石垣になります。


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北西から西側面にかけて、低い石垣が鈍角の出隅で折れ曲がっていきます。

このような鈍角の積み方を「シノギ積み」といい、算木積みより古い技法です。


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北東から南東にかけては、写真のように石垣がフェードアウトしていてなくなっています。


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なので、ここから本丸上に登ります。


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本丸跡です。


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八木城の本丸は長軸47m短軸23mいびつな長方形をしています。

本丸の最も奥まった北西の2段の平坦地が天守台の想定地だそうですが、形が不整形なうえに建物跡の礎石や瓦などの跡も見つかっておらず、ここに天守のようなものがあったかどうかは定かではありません。


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「その2」でふれたとおり、八木城を300年以上守ってきた八木氏は、15代城主の八木豊信のときに羽柴秀吉軍によって攻略されますが、その後、八木氏は因幡若桜鬼ヶ城に移され、代わって八木城に入ったのは、三木合戦で死んだ別所長治の叔父・別所重宗でした。


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現存する八木城の遺構は、郭の配置や虎口の形状、石垣などの築城技法などから総合的に判断すると、天正13年(1585年)に城主となった別所重宗と、それを引き継いだ息子の別所吉治の時代に改修されたものであろうと推定されています。


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本丸上にも石仏があります。


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本丸北西のいちばん高いところ(天守台跡?)から見た南東です。


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本丸上から西側の高石垣を見下ろします。


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説明板がありました。


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こちらの写真は、「その1」で紹介した麓の八木城交流館のなかにあった八木城本丸の想像模型です。

右手前が算木積みの櫓台石垣で、その左に伸びているのが、くの字に曲がる高石垣です。

この模型と、上の実際の写真を見合わせれば、本丸の形状がよく理解できます。


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さて、これで本丸まで攻略できましたが、まだ、さらにここから西側の尾根伝いに登ったところにある八木土城(八木古城)跡が残っています。

「その4」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-05 22:31 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

越前松平家の福井城跡を歩く。 その2 ~結城秀康~

「その1」の続きです。

福井城本丸跡に建つ県庁庁舎ビルの前には、初代福井藩主の結城秀康の像があります。

結城秀康は徳川家康の次男で、「関ケ原の戦い」の翌年にあたる慶長6年(1601年)に越前68万石を与えられ入国し、慶長11年(1606年)にここ福井城を築城しました。

この騎馬石像は、平成14年(2002年)4月に秀康の入国400年を記念して、3,800万円かけて建立されたものだそうで、ひとつの石で仕上げられています。

ただ、その製作費ほどの価値を感じないというか・・・。

以前の拙稿で紹介した三木城※参照)や法界寺別所家霊廟※参照)にある別所長治像と同じ匂いがします。

三国志の騎馬武者って感じが・・・。


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甲冑に身を固めた勇ましい騎馬像ですが、実は、秀康はその生涯で一度もこのような姿で勇猛果敢に戦ったことがありません。

その理由は、秀康に武者としての能力がなかったわけではなく、その生い立ちにありました。


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秀康の生母・於万の方(長勝院)は、家康の正室・築山殿侍女だった女性で、家康は於万の懐妊を知ると、築山殿の嫉妬を恐れて他家に避難させて出産させます。

そこで生まれた秀康を家康はなぜか疎んじ、3歳になるまで対面しなかったといいます。

その後、織田信長の命によって築山殿は暗殺され、長男の信康切腹に追いやられると、普通なら次男の秀康が後継ぎになるはずが、家康は三男の秀忠を嫡子とします。

家康が秀康を疎んじた理由は諸説ありますが、正確なことはわかっていません。


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その後、豊臣秀吉の時代になると、家康は秀康を豊臣家に人質として送ります。

実子のいなかった秀吉は、秀康をわが子のように可愛がったといいます。

「秀康」という名は、秀吉の「秀」と家康の「康」から名付けられたものですね。

その名の通り、秀康は徳川家と豊臣家の架け橋になろうとしていました。

なるはずでした。

ところが、秀吉に実子・鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松をわずか生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名し、そのため、秀康は他の秀吉の養子同様に、他家へ養子に出されることとなります。

それが、下総国の名家・結城氏でした。

ここに、結城秀康の名が誕生します。


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結城家当主として関東に下った秀康を、家康は丁重に扱いました。

しかし、秀吉の死後も家康は秀康を戦地に送ろうとはせず、関ヶ原の戦いの際にも留守居を命じました。

その理由は、嫡子・秀忠以上の働きをされては困るからだったと考えられます。

そして戦後、秀康は越前北ノ庄67万石に加増、移封されました。

一見、一族としての優遇にも見えますが、しかし、仮に秀康がその気になったとしても、徳川幕府を倒せるほどの身上でもない。

しかも、当時の越前国は雪深く、ひとたび冬になれば身動きがとれません。

家康は、加増という名目で秀康を雪国に閉じ込めたんですね。


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秀康は、ここ福井城が落成した翌年の慶長12年(1607年)に死去します。

死因は梅毒だったともいわれますが、詳しくはわかっていません。

秀康の武将としての器量は一流だったといわれ、剛毅で体躯も良く、天下人たる資質を十分に備えていたと伝わりますが、ついにその短い人生において何ら偉業を達成することなくその不遇の生涯を終えました。

秀康は父の家康より秀吉を慕っていたといいます。

一説には、秀康はその死の直前、嫡子・忠直に対して、「もし、徳川が秀頼様を害するようなことあらば、必ず秀頼様のお味方をしろ」遺言した、なんて逸話もあるくらいです。

しかし、忠直は父の遺言を守らず、徳川方に属して大阪城を攻めました。

そのおかげで、福井藩松平家は明治維新までの約270年間17代にわたって、徳川家の親藩として継続することになります。

でも、もし秀康が大坂の陣まで生きていたら・・・あるいは、この騎馬像のような勇姿を、豊臣方武将として見られたかもしれません。

なんて、想像たくなっちゃうのは、わたしだけでしょうか?


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今回は秀康像だけで終わっちゃいました。

福井城シリーズは、「その3」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-28 00:11 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その33 「五社八幡神社」 神戸市北区

神戸市北区にある「五社八幡神社」を訪れました。

元弘3年(1333年)2月の「摩耶山合戦」の際、摩耶山城を本拠とした赤松則村(円心)は、北方の備えとしてこの背山に支城を築き、荒廃した社殿を再建して戦勝を祈願したと伝えられます。


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その甲斐あって赤松軍は幕府六波羅軍に大勝し、倒幕の勢いにのります。

鎌倉幕府の瓦解は、遠く離れた神戸のまちから始まっていました。


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時代は下って戦国時代、三木城主別所長治の家臣・小野三郎義晴切畑城を築き、ここの境内に居館を設けていたそうですが、羽柴秀吉軍の三木攻めの際、兵火により社殿を焼失したと伝わります。

その際、義晴は御神体に兵火がかからないよう、背後の谷間に埋めたといわれ、その後、村民が御神体を掘りおこし、社殿を再建して奉安したと伝えられますが、その年月は不明です。


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しかし、昭和55年(1980年)に文化庁の調査が行われ、社殿が室町時代のものと判明。

そこで、国の重要文化財に指定するかの審議がなされていたそうですが、その最中、放火によって全焼してしまいまったそうです。


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現在の社殿は、昭和60年(1985年)に鉄筋コンクリートで再建されたそうです。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

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太平記を歩く。


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by sakanoueno-kumo | 2017-03-30 20:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その46 ~書寫山圓教寺~

前稿で黒田官兵衛が出てきましたので、引き続き官兵衛つながりで。

西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。

三木合戦は始まった当初、羽柴秀吉は一時この地に本陣を置きました。

それを進言したのが、他ならぬ黒田官兵衛だったといいます。


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山頂までは麓から登山すると1時間以上かかるそうで、この日はロープウェイで登ります。

ロープウェイは黒田官兵衛キャララッピングされています。

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』以降、姫路市周辺はこの官兵衛くんキャラでいっぱいです。


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有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


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摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


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そしてこちらが有名な三之堂

秀吉が本陣を置いた場所です。

右側の建物が大講堂、左奥に見えるのが食堂(じきどう)、写真左に屋根の先端が少しだけ見えているのが、常行堂です。

いずれも室町時代の再建で、国の重要文化財です。


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三木城攻めが膠着状態に入ると、官兵衛は秀吉に書写山まで一旦撤退するよう進言。

その後、ここを拠点に神吉城・志方城・魚住城・端谷城・高砂城などの別所方の支城を攻め落としながら、三木城を取り囲む付城網を築きます。

当時の大寺院というのは、ある種、城と同じくらいの防御力がありましたからね。


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食堂のなかには、当時、羽柴軍の家臣が書いたとされる「羽柴子一郎秀長」という落書が残っていました。

左側に写るアクリルでカバーされた柱がそれです。

写真を撮ったのですが、アクリルが反射して上手く撮れてませんでした。


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ここ、三之堂は、平成26年(2014年)のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』ロケ地となっています。

場面は当然、秀吉の播磨攻略時の拠点としてです。

また、平成15年(2003年)の『武蔵-MUSASHI-』でもロケ地になっていますし、あのトム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』の撮影も、ここで行われました。

絵になるロケーションなんでしょうね。

書寫山圓教寺については、他の稿でも紹介していますので、よければ。

  ↓↓↓

夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺 ~前編~」

夏休み中播磨路紀行2016 その5 「書寫山圓教寺 ~後編~」

さて、まだまだ播磨には三木合戦ゆかりの地がたくさんありますが、ここでまた、ひとまず休憩します。

また折を見て続きをやりますね。




「三木合戦ゆかりの地」シリーズの、他の稿はこちらから。
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by sakanoueno-kumo | 2016-12-09 17:22 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その45 ~兵主神社・太閤の腰掛け石~

兵庫県西脇市にある兵主神社を訪れました。

ここは、三木合戦の際に羽柴秀吉が、黒田官兵衛孝高に戦勝を祈願させたと伝わる神社です。


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現地説明板によると、兵主神社の祭神は大巳貴命ですが、兵主は中国『史記』に出てくる軍神、武神でもあることから、秀吉は黒田官兵衛に代参させ、奉納金とともに灯明田七反を添えて戦勝祈願を行ったと伝えられています。


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奉納金は、拝殿の建設費に充てられました。

そのとき建てられたのが、現在に残る茅葺入母屋造り長床式の拝殿です。


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天正19年(1591年)8月27日造立の棟札があるそうで、三木合戦が終わってから11年後に建てられたということがわかります。


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戦勝祈願の伝承が史実かどうかはわかりませんが、安土桃山時代の建築物ということは間違いなく、兵庫県の重要文化財に指定されています。


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兵主神社のある兵庫県西脇市黒田庄町は、黒田官兵衛生誕の地との伝承があります。

通説では、黒田官兵衛の家系は近江国の出自とされていますが、江戸時代の史料などに見る別の説では、官兵衛やその父・黒田職隆は、多可郡黒田村(現在の兵庫県西脇市黒田庄黒田)生まれ」とする説が多数あり、この辺りでは昔からそう信じられてきたそうです。

すぐ近くには、黒田氏9代の居城だったといわれる黒田城跡もあるのですが、三木合戦とは無関係なので、また別の機会に紹介します。


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近くにある極楽寺の境内には、「太閤の腰掛け石」と伝わる石があります。


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その伝承によれば、三木合戦の際に秀吉が大志野(現在の西脇市黒田庄町南部)に陣を布いたとき、この石に腰かけて采配を行ったとされています。


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これが、その「太閤の腰掛け石」。


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太閤伝承がなければ、何の変哲もない単なる石です。


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説明板です。
その横には小さな祠が祀られています。


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「その23」でも紹介しましたし、「山崎合戦」の稿(山崎合戦のまちを歩く。その2)でも紹介しましたが、秀吉が座ったと伝わる石や岩は各地にあります。

事実かどうかは定かではありませんが、座っただけで伝説が残るっていうのは、やはり、それだけ伝説的な人だったってことですね。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-08 20:55 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その40 ~阿形城跡~

兵庫県小野市にあったとされる「阿形城跡」を訪れました。

ここも、三木合戦の際に別所氏に従って戦下に加わった城と伝えられます。


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現在、城跡の遺構は本丸跡と思われる「陣山」と名付けられた丘陵のみ残されています。


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陣山の入口には、小さな説明板のみ設置されています。


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陣山の頂上には、結構な樹齢と思われる巨木が聳えます。

でも、往時を知るほどではないかな。


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説明板によると、阿形城が文献などに出てくるのは、天正年間(1573~1594年)だけだそうで、それ以前のことはまったく不明だそうです。

『播磨古城軍記』によれば、阿形城の城主であった油井土佐守勝利別所長治の幕下であり、三木合戦の際に三木城籠城に参加したため、ここ阿形城は羽柴秀吉軍によって攻め落とされたと伝わります。


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現在、陣山の上は、ご覧のとおりになっています。


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陣山の周りには水路が巡らされていて、なんとなく、かつての堀跡の名残なのかなあといった雰囲気でした。


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ここ阿形城は加古川万願寺川の合流点の西に位置し、標高35mの高台にあります。

城の規模は南北150m、東西70mほどだそうで、陸上競技場くらいの広さがあったようです。

地方の田舎豪族としては、結構な大きさですよね。

油井氏というのはよく知りませんが、当時は、このあたりで結構な力を持っていたのかもしれません。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-24 23:52 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その30 ~稚児ヶ墓山城跡~

前稿で紹介した丹生山城跡から西へ4kmほど離れたところに、「稚児ヶ墓山」という変わった名称の山があります。

標高596.4mのこの山には、三木合戦における悲しい伝説が残されています。


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別所長治らが籠る三木城に兵糧を輸送する拠点となっていた丹生山城は、天正7年(1579年)5月、羽柴秀吉によって攻め滅ぼされ、城は焼き払われ、城兵たちもことごとく処刑されました。

このとき一緒に焼き討ちにあった丹生山明要寺には、幼い侍童や稚児たちが大勢いました。

子どもたちは丹生山城の羽柴軍の戦闘がはじまると、一団で北東の尾根伝いに落ち延びようとしますが、5月22日、ついにこの地で羽柴軍に捕まり、全員虐殺されたと伝わります。

この地に住む人々はこれを哀れみ、「稚児ヶ墓」と呼ばれる墓をこの山上に作って弔いました。

以来、この山を「稚児ヶ墓山」と呼ぶようになったと伝えられます。


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登山道は丹生山から帝釈山という標高585.9mを経て稚児ヶ墓山へ向かう6時間コースもあるそうですが、登山は素人のわたしはそんな無茶をせず、丹生山を一旦下山して、車で稚児ヶ墓山の標高350mほどの地点まで移動し、そこから登山です。


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比高250mほどの道のりですが、道中は大きな岩がゴロゴロ転がった険しい道で、なかなかハードでした。

でも、たぶんここを稚児たちは必死に逃げたんでしょうね。


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30分ほど岩道を登ると、歩きやすい尾根道に出ます。


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そして山頂。

片道約45分の登山でした。

頂上には手書きの看板と、その横に消えかかった説明板が。


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説明板の上には「稚児ヶ墓山城址」と書かれたプレートが。

え???・・・ここ城跡なの?


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たしかに、山頂の周りは土塁で囲われたようなかたちになっています。

たぶん、城というよりのような場所だったのでしょうね。


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山頂の近くの見晴らしのいい場所に、「稚児墓山伝説遺跡」と記された木碑が建てられていました。

たぶん、ここに墓があったのでしょうね。


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木碑は近年建て替えられたであろう新しいものでした。

碑に記された説明文によると、稚児たちの亡骸を村人たちがこの地に葬り、その側に椿を植えて冥福を祈ったといいます。

その椿は長年枯れていましたが、平成元年(1989年)に植え替えられたそうです。


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素晴らしい眺望です。


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でも、ここで多くの幼い命が酷くも失われたんですね。

殺された子どもたちは、たぶん、この戦の意味さえ理解していなかったでしょう。

殺戮が当たり前の戦国の世でも、罪のない子どもたちが殺されることへの憤りは、当時もあったのでしょうね。

だから、このような伝説が残されているのでしょう。


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下山して西側から撮影した丹生山系です。

手前から稚児ヶ墓山、帝釈山、そして丹生山です。

かつて凄惨な戦場となった山々は、現在も長閑な田園地帯を見下ろしています。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-28 20:58 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その29 ~丹生山城跡~

約1年半ぶりの三木合戦シリーズ再開です。

今回は神戸市北区にある丹生山城跡を訪れました。

標高514mの丹生山山頂にあった丹生山城は、三木合戦の際には別所長治側に与し、兵糧補給ルートの拠点となっていた城です。


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写真正面の山が丹生山です。

1年半前の三木合戦ゆかりの地めぐりの際に、ここを訪れるかどうか迷ったのですが、標高514m、比高370mの約1時間の登山はさすがに躊躇し、パスしていました。

歴史は好きですが、登山は素人ですからね。


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ところが、やはり歴史オタクの悲しい性で、自身の住む神戸市内に城跡があると知りながら捨て置くに忍びず、意を決して登山に訪れました(今回ここを訪れるにあたって、わざわざリュックとトレッキングパンツを購入しました)。


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季節はが散りかけた4月中旬。

たぶん、ハイカーの人たちに言わせれば、最もいい季節なんでしょうが、素人のわたしには、じゅうぶんキツかったです。


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写真では伝わりづらいですが、結構な勾配です。


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道中、古い墓石群を見つけました。


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ひとつの墓石には「天保五年」と刻まれていますので、三木合戦とは関係ないようです。


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およそ2.5kmの山道をひたすら登ること約1時間強、ようやく城跡にたどり着きました。

現在は、何らかの建物跡と思われる石垣上に、「丹生山城跡 丹生山明要寺跡」と刻まれた石碑があるのみです。


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丹生山明要寺とは、6世紀に百済から渡来した童男行者という人物がこの地に建立した寺院で、平安時代末期には多くの僧兵と幾多の伽藍を擁し、一大勢力を誇りました。

この時代、大きな寺院では多くの僧兵をかかえ、時として合戦に参加することもありました。

ここ丹生山城は、武将が構える城ではなく、寺院が要塞化した僧兵たちの城でした。


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天正6年(1578年)に始まった三木合戦では、羽柴秀吉の包囲網を掻い潜って三木城に兵糧を輸送していたのが、ここ丹生山城を経由したルートでした。

城を守っていたのは、備中勢の中島左京、祢屋与七郎、日幡八郎左衛門、生石中務らが300騎と、近隣の野武士や農民ら500名あまりでした。


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これに対し羽柴秀吉は、天正7年(1579年)5月、籠城する近隣の農民の妻子を生け捕り、城内から内応させることを強要。

内部からあがった火により丹生山城は混乱に陥り、落城したそうです。

丹生山城が秀吉の手に落ちたことで、三木城の補給路は完全に絶たれます。


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本丸跡と思われる山頂には、現在、丹生神社があります。


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丹生神社境内からの眺望です。

見えているのは南側、三木城方面ではありません。

霞がかっていてわかりづらいですが、うっすら明石海峡大橋が見えます。


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ここ、丹生山城は、三木合戦より遡ること250年前の南北朝時代にも、戦乱に巻き込まれています。

その話は、また別の稿でふれてみたいと思います。


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下山は緩やかなハイキングコースをくだりました。

時間はかかりましたが、こっちの方が素人向けでしたね。


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麓のバス停横には、丹生神社の鳥居が。

その鳥居の中に映っているのが、丹生山です。


さて、次稿では、その丹生山城の戦いで命を落とした幼子たちの悲話が残る稚児ヶ墓山を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-10-27 20:19 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第31話「終焉」 ~秀吉の遺言状~

e0158128_20022019.jpg 朝鮮での戦が長引くなかの慶長3年(1598年)初夏、床に臥せりがちだった豊臣秀吉の体調はいよいよ悪化の途をたどります。さすがに死期を悟った秀吉は、五大老・五奉行の制度を定め、任命者から起請文を提出させるなど、自身の死後の体制固めを懸命に行いはじめます。今回のドラマの秀吉は痴呆がひどくなっているため、それを推し進めたのが石田三成だったという設定でしたね。実際に秀吉がボケていたかどうかは定かではありませんが、それにしても秀吉にとって気がかりなのは、ただただ、まだ6歳秀頼の前途のみでした。思い余った秀吉は、伏見城に徳川家康を呼び寄せ、自身の死後は秀吉の後見人になるよう懇願します。最も信用が置けない人物を秀頼の最も近くに置き、逆心を封じ込めようとの考えからでしょうが、その約束を家康が守ってくれる保証などどこにもありません。

ドラマで、家康や三成が寄ってたかって秀吉に書かせていた遺言状は、実際に現存するものです。

 「秀より事 なりたち候やうに 此かきつけのしゆ(衆)としてたのミ申し候 なに事も 此不かにはおもいのこす事なく候 かしく 八月五日 秀吉印」
 「いへやす(徳川家康) ちくせん(前田利家) てるもと(毛利輝元) かけかつ(上杉景勝) 秀いえ(宇喜多秀家) 万いる 返々秀より事 たのミ申し候 五人の志ゆ(衆)たのミ申し候 いさい五人物ニ申わたし候 なこりおしく候 以上」

 五大老に向けた秀吉の遺言状です。ドラマでは、いさい五人物ニ申わたし候」という部分と「以上」を、三成があとから書き加えさせてましたね。その解釈でいえば、最初の「五人の衆」五大老のことで、あとの「五人の物(者)」は、五奉行ということになります。そんな風に読み下したことはありませんでしたが、たしかに、そうとも取れます。現存する遺言状というアイテムを使って独自に解釈し、秀吉の死の局面に際しての政治を描くあたり、さすが三谷さん、秀逸です。


 多少コミカルに描いてはいましたが、それにしてもこの遺言状、天下人の最後のメッセージとしては、あまりにも無様で哀れな内容ですね。とにかく「秀頼のことをよろしく頼む」と、手を合わせるようにして五大老らに頼み続けている様子は、同じく子を持つ親としては少なからず共感できなくもありません。むろん、戦国時代の中を戦い抜いて天下人となった秀吉のことですから、主家である織田信長の子に対して自らのとった仕打ちを思えば、誓紙口約束など何の役にも立たないことはわかっていたでしょう。わかってはいても、そうするしかなかった・・・そこが、秀吉の最期の悲痛さです。

 この遺言状が書かれた約2週間後の慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉はその
劇的な生涯に幕を閉じます。享年62歳。
 その辞世の句は、

 つゆとをちつゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ
 (露と落ち 露と消へにし 我が身かな 浪速のことは 夢の又夢)


 実に見事な辞世ですよね。意訳するのは無粋かもしれませんが、「なにもかもが夢であった。今となってはな・・・」といったところでしょうか。日本史上最大の立身出世を遂げ、位人臣を極めた男が、最期に辿り着いた境地がこの歌だったというところに、豊臣秀吉という人物の魅力を感じ取ることができます。まるで、物語のような人生であったと・・・。しかし、一方で、ほとんど狂気といえる晩年の愚行も、上記の未練タラタラの悲痛な遺言状も、豊臣秀吉という人物の一面であることに違いありません。この二重人格ともいえるアンバランスさが、秀吉という人の人間臭さを表しているような気がします。


 秀吉の最期は、豪壮華麗な伏見城での臨終でした。数限りない武将を戦場で無念の死に追いやってきた男は、まことに平和で安らかな臨終を迎えられる立場に恵まれながら、人を信じられず、我が子の行く末を案じ、最期は狂乱状態であったともいわれます。志半ばで戦場に散った武将たちと、権力も昇りきれるところまで昇りつめた豊臣秀吉の、どちらが幸せな死に際であったか・・・。人の幸せのあり方について、あらためて考えさせられます。


 石田三成の家康暗殺計画は、小説やドラマなどではよく描かれますが、事実かどうかは定かではありません。司馬遼太郎『関ケ原』では、三成に家康暗殺を進言したのは側近の島左近で、三成がそれを承知しなかったため、左近が単身家康を暗殺しようとしますが、未遂に終わります。今回のドラマでは死に際のおびえた秀吉が三成に命じるという設定でしたね(あの夢枕に立った少年は万福丸でしょうか?)。まあ、それも考えられなくもありませんが、いずれにせよ、秀吉の死に際しての政局が、それほど緊迫した状況にあったことはたしかでしょうね。次回から、その政局が描かれます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-08-08 21:35 | 真田丸 | Trackback | Comments(4)