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阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その4 <小倉丸~椎の丸~下山道>

「その3」の続きです。

本丸を後にして、一宮城南側に向かいます。


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一宮城の縄張りは大きく北城南城に分かれていて、「その2」「その3」で紹介した才蔵丸、明神丸、本丸が北城、そして本稿で攻める曲輪が南城になります。


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誘導板にある水手丸、小倉丸、椎丸が、南城の曲輪です。


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しばらく歩くと、「投石用の石」と書かれた説明板と石がありました。

たしかに、投げやすそうな大きさの石ですが、これだけをもって「投石用」と断定できるのでしょうか?


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「曲輪跡」と書かれた立札があります。

北城南城の間にも、小さな曲輪がいくつかあります。


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堀切跡


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そしてまた曲輪跡を横切り、南西に向かいます。


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土橋のように見えます。


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「小倉丸」と書かれた誘導板が出てきました。

行ってみましょう。


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「土塁跡」と書かれた立札が見えます。


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土塁の上に登ってきました。


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小倉丸は本丸の南側を防御するように作られた細長い曲輪で、曲輪の西南は高さ2m土塁がめぐっています。

土塁の長さは内側で58mあるそうです。


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土塁の北西の突出した部分は、櫓台になっています。


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ここがその櫓台

現在、城跡の遺構をわかりやすくするために木を伐採している途中のようでした。


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小倉丸を降りて、さらに西へ向かいます。

上の写真は、小倉丸西側の空堀です。


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見事なV字型です。


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道中、「竪堀」やら「土塁」といった立札が随所に見られましたが、いずれも草木に埋もれていて、イマイチわかりづらかった。


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続いて、城跡最南西端にある椎丸にやってきました。


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椎丸は、それほど面積は広くありません。


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縄張り図によると、この椎丸の北側に水手丸があるのですが、その行き道が草木に埋もれてわかりませんでした。

なので、水手丸はスルーすることにしました。


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椎丸から東に下った谷底に、貯水池堤跡があります。

今は少ししか水が残っていませんが、往時は、長い籠城戦に耐えられるほどの水がここに確保されていたのでしょう。

上述した椎丸と水手丸は、この貯水池を守るための役割も果たしていたようです。


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『伊藤文章』、『森古伝記』、『太閤記』、『異本阿波志』などの古記録には、羽柴秀吉四国攻め「水の手」にからむ攻防戦が行われたとの記載があります。

羽柴秀長率いる寄手は、この貯水池を奪って城を落とそうとし、そうはさせまいとする長宗我部元親籠城軍と、ここで激しい攻防が繰り広げられたのかもしれません。


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貯水池から下ったところには、「陰滝」と呼ばれる滝の跡があります。

説明板によると、この岩壁と周囲の曲輪によって、貯水池が守られていたようです。


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さて、この陰滝を過ぎると、緩やかな下山道となり、攻城終了です。

登り始めてから約1時間半の攻城でした。

ちなみに、余談ですが、この日、本丸跡で地元の徳島新聞の記者さんから取材を受け、後日、その様子が新聞に載りました。

紙面を送っていただいたので、載せさせてもらいます。


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氏名は伏せさせていただきますことをご容赦ください。

記者さんによって、「古城愛好家」という肩書をいただきました(笑)。

名刺作ろうかなあ(笑)。


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最後に、続100名城のスタンプを載せます。

ここを訪れたのは平成31年(2019年)3月2日だったのですが、スタンプはそれ以前に押していました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-18 23:59 | 徳島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その3 <本丸>

「その2」の続きです。

一宮城本丸跡まで登ってきました。

眼前に姿を見せた本丸石垣の迫力に圧倒されます。


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一宮城本丸は標高約144.3mに位置し、ここだけ、総石垣造りとなっています。

石垣に沿っての本丸の大きさは、東北約36m、西北約23mの不等辺三角形で、石垣の高さは約5mあり、反りはほとんどありません。


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虎口は東側の1ヶ所だけです。


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とにかく本丸石垣の周囲を1周してみましょう。


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虎口石段横の石垣。

櫓台のようにも見えます。

虎口には櫓門があったのかもしれません。


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本丸東面から北面に向う細い犬走りのような道です。

鈍角にを設けて横矢を効かせています。


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虎口横の石垣と違って、このあたりは石垣が苔むしています。

たぶん、北東部分なので、陽があまり当たらないのでしょうね。


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振り返ってみると、犬走りの向こうに石垣が突き出しているのが見えます。

あそこが、櫓台と思われる石垣です。


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こちらは北面の石垣。

本当は北東出隅の石垣を写したかったのですが、通路が狭すぎて引きの写真が撮れませんでした。

写真左側がその出隅。

なんとなく、算木積みっぽい形状をしています。


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反対側から見た北面石垣。


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そして、こちらは本丸西面。

ここだけ、一部石垣が積まれていません。

崩れてしまったのでしょうか?


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その向かい側(西側)には、「釜床跡」と書かれた石碑と説明板がありました。

いわゆる炊事場ですね。

あるいは、本丸西側の石垣がない部分には、この釜床跡につながる搦手口があったのかもしれません。


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本丸南西の出隅石垣です。

なんとなく算木積みっぽい積み方です。


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1周してきました。

では、本丸上に登ってみましょう。


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本丸上です。


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本丸には天守台がないので、天守が建っていたかどうかは不明ですが、本丸の南側に礎石跡が見つかっているそうで、天守に相当する何らかの建築物が建っていた可能性は高いようです。


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天正13年(1585年)5月、一宮城は羽柴秀吉四国攻めの主戦場のひとつとなりました。

秀吉は弟の羽柴秀長6万の兵を与えて阿波国を攻めさせると、秀長はそのうち4万の兵でここ一宮城を包囲します。

対する長宗我部元親方の籠城兵は約1万

この兵力差のなか城方はよく守りましたが、同年7月下旬に元親が降伏し、開城となりました。


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その後、秀吉は蜂須賀家政に阿波国を与え、家政は一宮城を居城としました。

現在に残る石垣の遺構は、このときのものと考えられています。

本丸だけにしか石垣が積めなかったのは、予算の都合上だったのでしょうか?


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本丸からの北側眺望です。

下に見えるのが鮎喰川

その向こうの山が、標高197m辰ヶ山です。

あの山に羽柴秀長軍が陣を布いたといわれています。


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本丸の説明板です。

天正14年(1586年)7月、蜂須賀家政は新たに築いた徳島城に移り、一宮城は家臣の益田長行に守らせますが、その後、江戸幕府の一国一城令によって、寛永15年(1638年)に廃城となります。

このとき、石材の一部徳島城に運ばれ、修築に使われたと言われています。


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こちらは案内図です。

才蔵丸、明神丸、本丸北城

案内図で見る本丸より右上部分が南城になります。

「その4」では、南城を攻めます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-17 23:41 | 徳島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その4 <大手門~二ノ丸>

「その3」の続きです。

高取城三ノ丸大手門からスタートします。


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高取城には複数の登城ルートがあって、「その2」で紹介した壺阪口門からのルート、「その3」で紹介したニノ門からのルート、そして、この日は通行止めになっていて通れなかった吉野口門からの登城ルートの三方からのルートが、すべてここ三ノ丸の大手門につながる仕組みになっています。


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案内板です。


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明治20年頃に撮影されたという大手門から見る古写真と、CG再現された画像が紹介されていました。


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それにしても見事な石垣です。

もっとも、城門はここではなく、ここを更に曲がったところにあったそうです。


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ここまでの石垣は野面積みでしたが、ここからは打込み接ぎと野面積みが混在し始めます。


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ここまでの入口は喰違虎口でしたが、ここからは枡形虎口になっています。

ここを曲がったところに城門があったそうです。


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ここがその城門跡

正面にドドーンと高石垣が見えます。


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後ろを振り返った大手門。


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大手門を過ぎると、二ノ丸下段の空間に出ます。

正面に見える高石垣は、二ノ丸の十三間多門櫓台石垣

ど迫力です。


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二ノ丸下段です。


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二ノ丸下段から二ノ丸に登る十三間多門です。

城門が十三間あるという意味ではなく、十三間多門櫓に付随した城門という意味でしょうね。


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それにしても山城としては異例の巨大な城門です。


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石垣は打込み接ぎ、出隅は算木積みです。


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苔むした石垣がいいですね。


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載せたい写真がありすぎて、先に進めません。


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ここも枡形虎口です。


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おそらく、城門は天正17年(1589年)から豊臣秀長本多利久に命じて大改修させたときのものだと思います。


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二ノ丸側からみた三間多門。


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二ノ丸側からみた十三間多門櫓台石垣です。


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そして二ノ丸です。


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現在は芝生広場になっていますが、往時は建物があったのでしょう。


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そして二ノ丸東側に聳える石垣。

十五間多門櫓台石垣です。

1間=約1.8mと考えて、約27mということですね。


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この石垣の上に太鼓櫓新櫓がありました。


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日本三大山城の説明板です。


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こちらは高取城の説明板。


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十五間多門櫓台石垣の上に行ってみましょう。


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十五間多門跡です。


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十五間多門櫓台石垣の裏側(東側)です。


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こちらはその北隅にあたる太鼓櫓跡です。


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反対側の新櫓跡


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石垣の上に登ってみます。


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このスペースから見て、太鼓櫓と新櫓の間を結んでいたのは、多門櫓ではなくだけだったんじゃないでしょうか?


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石垣の上から二ノ丸広場を見下ろします。

ここは一段高くなっているので、二ノ丸上段といったところでしょうか?


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さてさて、今回も長くなっちゃったので、「その5」に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-22 00:45 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

有子山城跡と出石城跡登城記。 その3 ~有子山城本丸・千畳敷~

「その2」の続きです。

有子山城を登り始めて約1時間、ようやく本丸(主郭)までたどり着きました。

眼前に現れたのは、見事な石垣


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450年近く前の野面積みの石垣です。

よくこんなに綺麗に残っていましたね。


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出隅は第3郭で見られた鈍角シノギ積みとは違って、直角になっています。

でも、強度の高い算木積みの技法は見られません。

でも崩れずに残っていたんですね。


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本丸北側の石垣は、ネットで保護されていませんでした。

その前に、「犬走り」のような狭いスペースがあります。

その下は崖になっています。


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本丸に登る23段の石段です。

虎口は幅約5mあります。


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本丸です。

広い!!

東西42m、南北20mあります。


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前稿でもふれましたが、有子山城は但馬国守護の山名祐豊が築城した城です。

元来の山名氏の本拠は、ここから3kmほど北の此隅山城を居城としていましたが、永禄12年(1569年)の羽柴秀吉但馬攻めで落城し、その後、秀吉軍と和睦した山名祐豊が、天正2年(1574年)に標高321mの有子山山頂に有子山城を築いて本拠としました。

此隅山城は別名・子盗城とも言いますが、その「子盗」という名を山名祐豊が嫌って、次の城は「有子」城と名付けられたともいわれています。

しかし、祐豊の息子の山名堯熙のときに毛利氏方についたため、天正8年(1580年)の秀吉による第二次但馬征伐で再び攻撃を受け、落城しました。

その後、有子山城には秀吉の実弟・羽柴秀長が入り、そのとき、石垣の城に改修されます。

現在残る石垣の遺構は、秀長時代のものということになりますね。


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秀長時代の改修は、築城の名人として知られる藤堂高虎が関わっていたようです。

高虎の生涯を記した『高山公実録』に、「28歳、羽柴秀長の命により出石(有子山)に築城を命ぜられた」という記述があり、記録上、高虎が最初に手がけた石垣の城が、ここ有子山城だったのではないかと言われています。


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案内板が設置されています。


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心ない落書きが酷いです。


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本丸からの眺望です。


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雲が近い。


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麓をズームアップ。

出石の城下町のシンボル、辰鼓楼が見えます。

わたしの愛車も見えます(笑)。


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わたしの山城めぐりの必須アイテム(笑)。


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本丸南東を見下ろすと、大堀切があります。

幅28m、深さ12mあります。


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その向こう側には、千畳敷と呼ばれる有子山城最大の郭跡が見えます。

行ってみましょう。


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先ほどの大堀切の下です。

巨大なV字型になっています。

おそらく、往時はもっと深かったのでしょう。


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そして、千畳敷です。


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東西135m、南北50mもあり、但馬国の城郭では最大の郭だそうです。


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所々に建物があったとみられる礎石跡があります。


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庭園もあったとされているそうです。

この大きな岩は、その名残でしょうか?


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千畳敷から見た本丸です。


さて、これにて有子山城をすべて攻略しました。

「その4」では麓の出石城を散策します。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-12 01:03 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

有子山城跡と出石城跡登城記。 その2 ~有子山城二ノ丸・三ノ丸~

「その1」の続きです。

有子山城を登り始めて約40分、ようやく石垣の遺構までたどり着きました。


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写真は主郭から数えて6段目の第6郭の石垣です。


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こちらが縄張り図です。

有子山城は標高321mの山頂に主郭を置き、東西740m、南北約780mの大城郭です。


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手前の石垣が第6郭のもので、奥の上段に見える石垣が、第5郭の石垣です。

450年近く前の石垣ですが、綺麗に残っていますね。


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第6郭の上です。


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第6郭からの北側眺望。


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第6郭上から見た第5郭の石垣。

崩れないようにネットで保護されています。


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こちらは第4郭上です。

第4郭には石垣がありません。


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第4郭横の細い道を通って上の段に上がります。


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眼前に現れたのは、第3郭の見事な石垣。

思わず、「おお~!」と声が出ました。


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石垣の出隅が鈍角になっています。

この技法を「シノギ積み」と呼びます。

ネットが掛けられているのが、少し残念ですね。


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有子山城は天正2年(1574年)に但馬国守護の山名祐豊が築城した城です。

山名氏といえば、応仁の乱の西軍の総大将だった山名宗全が有名ですね。

祐豊は宗全から5代あとの当主でした。


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元来の山名氏の本拠は、ここから3kmほど北の此隅山城を居城としていましたが、永禄12年(1569年)の羽柴秀吉の但馬攻めで落城し、その後、秀吉軍と和睦した山名祐豊は、天正2年(1574年)に標高321mの有子山山頂に有子山城を築いて本拠とします。

しかし、祐豊の息子の山名堯熙のときに毛利氏方についたため、天正8年(1580年)の秀吉による第二次但馬征伐で再び攻撃を受け、落城しました。

その後、有子山城には秀吉の実弟・羽柴秀長が入り、そのとき、石垣の城に改修されます。

現在残る石垣の遺構は、秀長時代のものということになりますね。


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第3郭下が本丸千畳敷の分かれ道になっています。

ここは、まず本丸を目指します。


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第3郭石垣の上です。


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こちらは第2郭石垣です。

少し崩れかけているように見えますが、虎口が枡形に折れ曲がっているようにも見えます。


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第2郭からの眺望。


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雲が低い。


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本丸、二ノ丸、三ノ丸といった用語は、豊臣秀吉の時代から使われ始める言葉ですが、それでいえば、この第2郭から第6郭が二ノ丸から三ノ丸に相当すると思われます。

さて、いよいよ主郭(本丸)と言いたいところですが、長くなっちゃったので次稿に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-10 22:36 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第25話「離別」 ~豊臣秀長、鶴松の死、千利休の切腹~

e0158128_19071167.jpg小田原征伐を終えて天下統一を成し遂げた翌年の天正19年(1591年)、豊臣秀吉の身の回りを立て続けに不幸が襲います。1月には最も信頼していた実弟・豊臣秀長を亡くし、2月には、これまた側近中の側近だった千利休を自らの命によって切腹させるに至り、その半年後の8月には愛息・鶴松を病で失うという、秀吉にとっては厄年のような年となります。

 秀長が病没したのは1月22日。温厚篤実な人物だったと伝わる秀長は、秀吉の数少ない一族のナンバー2として、秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた時代から兄の片腕として働き、秀吉が天下人となってからは、から豊臣政権を支えました。そんな秀長を、秀吉は誰よりも信頼していたといい、まさに、「縁の下の力持ち」という言葉が相応しい人物だったといいます。その秀長を失ったことで、秀吉はブレーキが効かなくなった車のように暴走し始めます。その手始めが、千利休の切腹だった・・・というのが、これまでの一般的な描かれ方でした。

e0158128_19072829.jpg 秀吉が利休を切腹させたことは歴史上の事実ですが、その理由については定かではなく、これまで小説やドラマなどで描かれてきた設定も、すべて作家さんの想像の世界です。一般的には、朝鮮出兵に強硬に反対したため・・・とか、利休が安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしているという疑い・・・とか、紫野大徳寺の山門に置かれた利休等身大の休像が秀吉の逆鱗にふれた・・・といった描かれ方が多かったと思いますが、今回のドラマでは、小田原城攻めにおいて利休が豊臣軍、北条軍の双方に弾薬を売りつけていたことが露見するという設定でした。

「いくさは儲かりまっせ。」

 いわゆる「死の商人」ってやつですね。今も昔も、戦争を食い物にする営利団体がいる限り、戦いは世の中から消えません。今回、それを利休にやらせていたのは斬新でした。実際、堺の商家の出といわれる利休ですから、ない話ではありません。悟りを開いた高僧のようなキャラに描かれることの多い利休ですが、実は、それらの人物像というのは、すべて後世の虚像に過ぎません。今回のダーティー利休、あながち的外れでもないかもしれません。

また、利休を切腹に追いやったのは、利休をはじめ堺の商人の力を失墜させようという石田三成大谷吉継策謀という設定。これも秀逸でしたね。実際、利休の豊臣政権への影響力を、三成ら吏僚たちは苦々しく思っていたといいますから、これも、ない話ではないように思えます。それも、積極的に利休を追い込んだのは三成ではなく、吉継だったというのも面白かった。冷徹なキャラで描かれることの多い三成ですが、今回のドラマでは、加藤清正福島正則の誘いに応じて水垢離に付き合ったりと、ときおり人間味が見え隠れします。

e0158128_19074758.jpg そして同じ年の8月5日、秀吉と淀殿の愛息・鶴松が死去します。鶴松は生まれつき虚弱で床に伏すことが多かったといわれ、日本一権力を持つモンスターペアレントの秀吉は、天下の名医をかき集めて治療にあたらせ、全国の寺社に祈祷を命じますが、その甲斐むなしく、わずか2年2ヵ月の生涯を閉じます。このときの秀吉の落胆ぶりは傍目にも痛々しいもので、一説には、この悲しみを紛らわすために、無謀な朝鮮出兵に走ったともいわれます。実際、鶴松の死の直後すぐに肥前名護屋城を築き、着々と朝鮮出兵を始めとする外征に専念するようになっていきます。悲しさを紛らわすために無理矢理仕事に没頭する・・・。同じ男としてわかるような気がしますね。

 この時代、5人中3人は成人することなく死んだといわれますから、鶴松の夭逝は決して珍しい話ではありませんでしたが、鶴松の死後に始まった「文禄の役」が、この翌々年の秀頼の誕生から和議に向かったことを思えば、鶴松という一人の幼児の死が、外征と内政に与えた影響は決して小さくありません。鶴松の死は、豊臣家にとっての不幸であるとともに、日本の不幸だったといえるかもしれません。わずか2年2ヵ月しか生きていない鶴松自身が、歴史上に何かを残したということは当然ありませんが、彼が生まれたことによって歴史が大きく動いたことは間違いなく、日本史上に大きな存在感を残しました。人生というのは、つくづく長さじゃないんですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-27 19:09 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

大和郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

ひと通り城跡内を歩いたので、次は中堀の外を散策します。

まずは、鉄御門を出た南側にある「三の丸緑地」

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現在は、市民憩いの場となっています。

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三の丸緑地から道路を挟んで東側にある「柳御門跡」

ここも石垣は「野面積み」ですね。

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石垣と押しボタン信号のミスマッチです(笑)。

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大和郡山市役所前の「中堀跡」

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そこから更に東へ進むと、「外堀跡」「外堀緑地公園」として整備されています。

写真はその南門

かつて郡山城の外堀は、惣構として九条町大門、鍛冶町大門、高田町大門、柳町大門の4つの大門を通じて出入りをしていましたが、この南門は、柳町大門をイメージして再現されたものだそうです。

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その外堀公園に設置されていた城下町MAPです。

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外堀を普請したのは、豊臣秀長の死後、文禄4年(1595年)に20万石で入部した増田長盛でした。

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この頃には約1万人の家臣が城下に集中し、武家屋敷も多くなり、城下町では商工業が発達するなど、外堀で城下全体を囲む惣構の必要が生じていました。

そこで長盛は、秋篠川の付け替えや溜池をつないで、周囲が50町13間(約5.5km)の外堀を完成させます。

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外堀のほとんどは素掘りで、中堀や内堀のように石垣は積まれなかったようですが、掘削した土を堀の内側に積み上げて土塁を作り、防御壁としました。

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それらの説明板です。

赤いTシャツを着たわたしが映っています(笑)。

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城下町には、箱本十三町と書かれた説明板とMAPが各所に設置されていました。

天正13年(1585年)に入城した豊臣秀長は、城下町の繁栄のため、奈良や堺の商人たちを郡山に呼び寄せ、地租免除などの特権を与えて箱本制度という自治組織を作りました。

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城下町に復元された「火見櫓」です。

延宝8年(1680年)、郡山で大規模な火災があり、町屋670軒あまりが焼失しました。
貞享3年(1696年)、当時の藩主・
本多忠平が、この延宝の大火」を教訓として城下町の防火進めるために、堺町、本町、柳5丁目、今井町に火見櫓を建てました。

城下町を描いた町割図という絵図には堺町の火見櫓が描かれているそうです。

建物の屋上に四角い望楼を高く建てて、四方に窓を開けたもので、17町が交代で見張りを行っていたそうです。

さて、シリーズ6まで続いた郡山城シリーズですが、ひとまずこれで終わりとします。

この日は2015年8月8日の夏真っ盛りの猛暑日で、汗だくになって歩きまわりました。

郡山城は桜の名所だと聞きますから、今度は春に訪れてみたいですね。



追記
2018年4月6日より族・日本100名城スタンプラリーが始まりました。

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大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」

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by sakanoueno-kumo | 2016-05-26 23:12 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

大和郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

だいぶん前になりますが、奈良県は大和郡山市にある郡山城を訪れました。

「郡山城」という名称の城は全国に複数あって混同しがちなので、便宜上ここを大和郡山城と呼んだりしますが、正式名称は郡山城です。

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郡山城の築城は天正8年(1580年)、筒井順慶が筒井から郡山に移ったときに始められ、天正11年(1583年)には天守閣が完成。

その後、天正13年(1585年)8月に、豊臣秀吉の実弟・豊臣秀長が入城。

秀長は紀伊国、和泉国、大和国の3カ国百万石の太守・大納言として、城の拡張工事を行いました。

現在のこる石垣などの遺構は、秀長時代のものだそうです。

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城跡公園北東の角にある「桜御門跡」です。

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時代を感じさせる「野面積み」ですね。

「野面積み」とは、自然石をそのまま積み上げる手法で、加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていないので、隙間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点がありましたが、逆に隙間があるおかげで排水性が良く頑丈でした。

主に関ヶ原の戦い以前の16世紀の城に用いられた手法です。

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城跡の東の堀に沿って近鉄橿原線が走っていて、そこから堀を挟んで「東隅櫓」が見えます。

全国金魚すくい選手権大会があるようです(笑)。

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南東の角にある「鉄御門」から城跡公園内に入ります。

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こちらの石垣も同じく野面積みです。

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まずは内堀に沿って歩いてみました。

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鉄御門跡から西へ進んだところにある「表門跡」です。

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道は石畳に整備されており、車の通行も可能です。

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本丸南西にある「中仕切門跡」です。

枡形虎口となっています。

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そのすぐ西側にある「松蔭門跡」

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ここに「松蔭郭」という曲輪があったようです。

松蔭門の北側にある松蔭池に面する石垣です。

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この石垣は、「打込み矧ぎ」に見えますね。

「打込み矧ぎ」とは、表面に出る石の角や面をたたき、平たくして石の接合面の隙間を減らして積み上げる方法で、主に関ヶ原の戦い以後に用いられた手法です。

ここは、秀長時代のものではないのかもしれません。

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更に西へ進んで「西御門跡」

ここは奈良県立郡山高校城内学舎の校門にあたります。

郡山高校といえば、かつて甲子園の常連校だった高校ですね。

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さて、次回は門の中に入ります。



大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

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by sakanoueno-kumo | 2016-05-12 00:49 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」

但馬といえば、いま最も人気のスポットは、何と言っても竹田城跡ですよね。
いつの頃からか「日本のマチュピチュ」とか「天空の城」などと呼ばれて注目されはじめ、昨年はなんと来場者が50万人を突破したとか。
10年前は年間1万人ほどだったそうですから、ブームというのは恐ろしいものですね。
で、そういうわたしは、同じ兵庫県民でありながらまだ行ったことがなかったのですが、今回せっかく但馬まで来たので、ブームに乗っかることにしました。
ところが、この日は同じ兵庫県内で冠水被害が出るほどの大雨
寸前までどうしようか迷ったのですが、雨の場合の予定をまったく立てていなかったので、とにかく行ってみることに・・・。

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JR竹田駅と竹田城跡を結ぶシャトルバス「天空バス」です。
以前はマイカーで山頂近くまで登れたのですが、いまは交通費規制がかかって中腹まで。
このバスを利用すれば、歩く距離は最も短くてすみます。
といっても、この日は大雨、そのちょっとの距離でも歩くのは大変なほどで・・・。

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で、なんとか濡れながら城跡に辿り着いたわけですが、景色は濃霧に覆われてほとんど何も見えず、やはりこの天気での登山は無謀だったか・・・とガッカリしていたのですが、山頂についてすぐに雨がやみ、しばらくすると霧が晴れはじめて・・・。

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ついさっきまで数メートル先が霧で見えなかったのに、たった数分で外界まで見渡せるほどに回復しました。
ほとんど奇跡でしたね。

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標高約350mの山頂に築かれた竹田城は、室町時代の嘉吉3年(1443年)に但馬の守護大名で応仁の乱の西軍の総大将だった山名宗全によって築城され、太田垣光景が初代城主に任じられ、以後、太田垣氏が7代に渡って城主を務めました。
その間、但馬の要所であるがゆえ、たびたび標的となり戦火の舞台となりますが、天正5年(1577年)の羽柴秀吉による但馬攻めにおいて、秀吉の弟・羽柴秀長が陥落させて城主に納まります。

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このときの秀吉軍の但馬攻略の目的は、ひとつには中国の毛利氏に帰服する但馬諸将の掌握、そしてもうひとつは、竹田城主の管轄する生野銀山の確保だったと言われています。
この生野銀山から採れる豊富なが、のちの豊臣政権の財政を潤すことになります。
このとき銀山確保を最初に秀吉に進言したのは、ほかならぬ黒田官兵衛だったとか。
さもありなんですね。

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竹田城の石垣は、先日別稿で紹介した洲本城と同じ穴太積みで(参照:天空の城・洲本城 探訪記 その1)、出角部分は算木積みが用いられています。
穴太積みとは、大小の自然石を積み上げたもので、算木積みとは、石垣の出角部分において、長方体の石の長辺と短辺を交互に重ねて積んでいく技法です。
これにより、石垣の強度が増し、崩れにくくなるそうです。
現在残っている豪壮な石垣は、最期の城主となった赤松広秀が整備したものだと言われています。
その後、江戸時代に入って竹田城は廃城
平和な時代に入ると、城はの役目から政庁の役目へと代わり、そうなると、山城は不便ですからね。

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雲海です・・・・というのはウソで、ただの霧です(笑)。
でも、見ようによっては雲海に見えなくもなかったですよ。
雲海も霧も、どちらも水蒸気には違いなく、要は見る側の意識の持ちようで、これも自然の美だと思えば、幻想的な光景なわけで・・・。
無理がありますかね(笑)。

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夏草や兵どもが夢の跡・・・松尾芭蕉ですね。

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見学通路には黒いラバーが敷き詰められていました。
昨年、来場者が増えすぎてケガ人まで出たという報道がありましたが、滑り止めのための配慮でしょうか?
あるいは、来場者が増えすぎて、石垣の上の地表にあったが踏みつけられ、生えなくなってしまったと聞きますが、そのため、草の根で守られていた地表の土がむき出しになり、そのせいで水を多く含んだ土が膨張し、石垣が崩落の危機にさらされているとか。
その保護のための黒ラバーでしょうか?
世界遺産になった観光地もそうですが、ブームになるのも考えものですね。
かくいうわたしも、400年の歴史を踏み荒らしに来たひとりなんですが・・・。

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しばらくしたら、また霧が濃くなってきました。
バスのりばに戻ると、また激しい雨が。
ほんの30分ほどでしたが、なんとも絶妙のタイミングだったようです。
ラッキーでした。
でも、もう一回、今度は晴れた日に来たいですね。

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そんなこんなで、その3につづく。

雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」
雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」
雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」
雨の但馬路紀行 その4 「日本最古の時計台~辰鼓櫓~」
雨の但馬路紀行 その5 「近畿で最も古い芝居小屋~出石永楽館」
雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」
雨の但馬路紀行 その7 「出石そば打ち体験」

追記
2017年より日本100名城スタンプの収集をはじめました。

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by sakanoueno-kumo | 2014-08-23 00:33 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第24話「利休切腹」

 天正19年(1591年)1月22日、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が病没した。秀長は、秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた時代から兄の片腕として働き、秀吉が天下人となってからは、陰から豊臣政権を支えた。そんな秀長を、秀吉は誰よりも信頼していたという。まさに、「縁の下の力持ち」という言葉が相応しい人物だった。秀長は兄以上に千利休との親交も深く、「公儀のことは秀長、内々のことは宗易(利休)」という言葉からも伺えるように、豊臣政権下、豊臣秀長と千利休はまさに豊臣政権という車の両輪だった。特に秀長の場合、ときにはブレーキ役でもあっただろう。そんな秀長の死に伴って、豊臣政権の両輪補佐体制は崩壊、同時にブレーキも失った車は、暴走し始める。

 ドラマでは、秀長の死によって秀吉の愛児・鶴松の病が治ったという話になっていたが、史料によれば鶴松が病になったのは秀長の死の翌月、閏1月3日となっている。鶴松は生まれつき虚弱で、床に伏すことが多かったとか。ただ、このときの病状はよほど深刻だったようで、秀吉は寺社に祈祷を命じ、自らも紫野大徳寺へ参詣している。そのとき、ドラマで石田三成がいっていた、利休の等身大の休像を見つけた。木像は山門の上から見下ろすように置かれており、これに激怒した秀吉は、利休に蟄居を命じた。そして2月28日、秀吉の命により利休は切腹する。享年69歳。その首は、大徳寺山門から引き摺り下ろされて磔にされた木像に踏ませる形で晒されたと伝わる。

 利休が切腹の前日に詠んだといわれる辞世の句。
 人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛
 意味は・・・難しくて私にはわからない(苦笑)。

 豊臣秀吉が千利休を切腹させたことは歴史上の事実として、過去、多くの小説やドラマで描かれてきた。しかし、その理由については定かではなく、すべては作家独自の想像の世界である。というのも、利休という人物が注目され始めたのは意外にも最近のことで、昭和11年に海音寺潮五郎氏が直木賞を受賞した作品、『天正女合戦』の中で、初めて秀吉との関係が描かれたそうである。現在では、千利休=芸術界の巨人という認識は常識だが、海音寺氏が発掘する以前は、単なる茶坊主としか見られていなかったらしい。この『天正女合戦』の構想をさらに発展させた作品が、昭和15年に刊行された同氏の『茶道太閤記』という作品で、これは秀吉と利休の対立を中心に描かれた物語だそうだが、この作品の連載当時には、「国民的英雄の豊臣秀吉と一茶坊主の千利休を対等の立場で描くとは何事だ!」という批判が多く寄せられたらしい。「千利休英雄説」が定着するまでには、それなりの困難があったようである。

 海音寺氏によって描かれた秀吉と利休の対立の構図は、その後、今東光氏の『お吟さま』野上彌生子氏の『秀吉と利休』井上靖氏の『本覚坊遺文』など、多くの一流作家の作品に継承され、描かれてきた。その中でも、秀吉が利休に切腹を言い渡した理由については様々で、既述した大徳寺木像事件や、二人の茶道に対する考え方の違いからの確執・・・とか、利休が安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしているという疑い・・・とか、利休の政治介入を快く思っていなかった石田三成の陰謀・・・など、どの説にもそれなりの信憑性はあるが、どれも決定力に欠ける。のちの朝鮮出兵豊臣秀次を切腹させた秀吉の愚行からみて、利休の切腹が秀吉の狂気の狼煙のように描かれる場合が多いが、はたしてそうだったのだろうか。秀長の死から2ヵ月余りで、もうひとりの補佐役であったはずの利休を死罪に追いやるには、もっと重大な、死罪に値する理由があったのでは・・・と考えたりもする(たとえば、予てから秀吉に憤懣を抱いていた利休が、秀長が死んだことによって豊臣政権を見限り、諸大名を扇動して謀反を企てていた・・・とか)。利休の切腹は秀吉の狂気だったのか、はたまた、やむを得ない死罪だったのかは今となってはわからないが、いずれにしても、秀長と利休という両輪を短期間で失った秀吉は、孤独な独裁者となっていった。

 「甘いことしか言わん者より、耳に痛いことを言うてくれる者を、信じるんじゃぞ・・・」
 秀長が死に際にいった忠告は、秀吉には届かなかった。いや、届いていたけど、秀吉の関白としての意地が、それを許さなかったのかもしれない。人間、歳をとればとるほど、上にいけばいくほど、耳に痛いことをいってくれる者はいなくなる。それは、現代に生きる私たちとて同じである。利休の死を最も惜しんだのは、切腹を命じた秀吉自身だったのではないだろうか。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-30 01:18 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(8)