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幕末京都逍遥 その147 「伏見奉行所跡」

「その146」で紹介した御香宮神社から200mほど南下したところに、かつて伏見奉行所がありました。

現在、その跡地には石碑が建てられ、往時を思わせるが演出されています。


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慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が下されると、4日後の12月13日に会津藩の命を受けた新選組は、伏見方面の治安維持の名目で伏見奉行所へ駐屯することとなります。

そして16日には、近藤勇を隊長に総勢150名が伏見奉行所に入りました。


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ところが、その2日後に近藤勇は、伏見奉行所へ帰る途中に伏見街道の墨染で狙撃され、肩を撃たれて重傷を負ってしまいます。

その後、新選組の指揮は副長の土方歳三が執ることとなります。


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年が明けた慶応4年1月3日(1868年1月27日)に鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られると、伏見奉行所の兵は大手筋を挟んで目と鼻の先にある御香宮神社に陣を布く薩摩軍と激戦を交わします。

しかし、火力に歴然とした差があり、やがて伏見奉行所は炎上、土方率いる旧幕府軍は、撤退を余儀なくされます。

このときの戦いで、土方はもはや剣の時代が終わったことを悟ったといいます。


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維新後、伏見奉行所の跡地は陸軍の土地となり、工兵隊の基地になりました。

伏見奉行所の石碑の向かい側には、「伏見工兵第十六大隊跡」と刻まれた石碑があります。

基地は第二次世界大戦後に米軍に接収され、その後、米軍から返還されると、市営住宅が建てられ、現在は桃楼団地という団地街になっています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-11 01:29 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その109 「新選組不動堂村屯所跡~不動堂明王院」

西本願寺の屯所を出た(追い出された?)新選組は、西本願寺から500mほど南の不動堂村に移転します。

現在、リーガロイヤルホテル京都の敷地内には、その跡地を示す石碑と説明板があります。


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石碑には、新選組のシンボルである「誠」の文字と、「事あらばわれも都の村人となりてやすめん皇御心」という近藤勇の歌が刻まれています。


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慶応3年6月10日(1867年7月11日)、新選組はこれまでの働きが認められて、会津藩預かりから隊士全員が幕臣となり、局長の近藤は御目見得以上の格(三百俵旗本)となります。

文字通り、近藤は幕府代表者の一員となったわけですが、このときから4ヶ月後に大政奉還が宣言されて幕府がなくなるわけですから、後世から見れば、貧乏くじを引いたようなものでした。

しかし、当時の近藤は、そんなことは露ほども思わなかったことでしょう。

近藤勇の甥で新選組隊士だった宮川信吉の書簡によれば、その5日後の6月15日、新選組は新しい不動堂村屯所に入所しています。

移転に際し、土方歳三の指示で吉村貫一郎が西本願寺と交渉の末、建築費・諸経費を西本願寺が負担することとなったそうです。

まあ、西本願寺にすれば、金払うから出ていってくれってことだったのでしょうが。

ちなみに吉村貫一郎というと、浅田次郎の小説『壬生義士伝』の主人公ですね。


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説明板によると、屯所の広さは約1万㎡あったそうで、表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤、土方ら幹部の居間、平隊士の部屋、客間、馬屋、物見中間と小者の部屋、大風呂は30人が一度に入れるほどあったといわれ、大名屋敷と比べても遜色ない構えだったとあります。


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リーガロイヤルホテル京都から東へ200mほどのところにあるホテル「ハトヤ瑞鳳閣」の前にも、不動堂村屯所跡の石碑があります。


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石碑には「此付近 新撰組最後の洛中屋敷跡」と刻まれています。


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こちらの説明板によると、屯所の位置については、上述した宮川信吉の書簡に「七条通下ル」と記されていること、また、永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあることから、この付近であることは確実であるものの、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明だとしています。

また、価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません・・・とも。

まるで、詳細に建物構造や規模を記したリーガロイヤルホテル前の説明板を批判しているかのような記述ですね。


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リーガロイヤルホテルとハトヤ瑞鳳閣のちょうど中間あたりに、不動堂明王院という小さなお寺があり、その正面には、「誠」の文字と「新選組まぼろしの屯所」と書かれた提灯がかけられていました。


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この不動堂明王院が屯所にあてられたのではないか、という説もあるんだそうですが、でも、なんで「まぼろし」なんでしょうね。

この辺りに屯所があったことは史実ですから、べつに幻ではないんじゃないかと・・・。


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新選組が不動堂村に屯所を構えたのはわずか6ヶ月でしたが、その間に、大政奉還があり、その後、王政復古の大号令が発せられ、新選組は5年間過ごした洛中をあとにし、鳥羽・伏見の戦いに向かいます。

現在もこの辺り一帯の住所は「南不動堂町」といい、往時を偲ばせてくれます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-07 23:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その102 「壬生寺(壬生塚)」

前々稿で紹介した八木邸のすぐ南に壬生寺というお寺があるのですが、その境内に、新選組の隊士を祀る壬生塚があります。


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壬生寺は正暦2年(991年)、園城寺(三井寺)の僧・快賢が創建したと伝わります。

ご本尊に延命地蔵菩薩像(重要文化財)が安置されているほか、水掛け地蔵夜啼き地蔵など、多くのお地蔵様をおまつりしていることから、「お地蔵さんの寺」として知られています。


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ここが壬生塚の入口です。

参拝料は100円です。


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お堂を抜けると、池があり、その池の中州に壬生塚があります。

赤い橋を渡ると、何やら石碑が見えます。


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『あゝ新選組』の歌碑です。

歌うは昭和の大歌手・ミッチーこと三橋美智也さん。

・・・スミマセン、生まれてないので知りません。

ヒットしたんでしょうか?


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奥に誰かの胸像が見えます。


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これがその胸像です。

香取慎吾さん・・・じゃなかった、泣く子も黙る新選組局長の近藤勇です。


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前から思っていたのですが、サッカー日本代表ゴールキーパーの川島永嗣選手に似てませんか?


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胸像の横には近藤勇の遺髪塔があります。


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胸像のもう一方の横には、新選組ファンが書いた絵馬がずらり。


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こちらは、芹沢鴨平山五郎の墓。

新選組の内部抗争によって近藤一派に芹沢鴨が暗殺された話は有名ですが、そのとき一緒に殺された平山五郎は、あまり知られていません。

平山は芹沢と同じく水戸藩出身で、副長助勤を務めていました。


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芹沢と平山の墓の横には、隊士7名の合祀墓があります。

祀られているのは、阿比原栄三郎、田中伊織、野口健司、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門、葛山武八郎の7人。

あまり有名じゃない人ばかりですね。

このうち、奥沢、安藤、新田は池田屋事件で討死したといわれ、野口と葛山は規律違反切腹、阿比原と田中は詳細不明です。

多数の隊士が命を落としていったなかで、なぜ、この7人が合祀されているのか不明です。


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そして、こちらは勘定方の河合耆三郎の墓。

この人は、新選組を題材にした物語ではよく採り上げられる人物なので、有名ですね。

帳簿で不始末を起こして切腹させられたといわれますが、粛清に至る経緯は諸説あって定かではありません。


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こちらは慰霊塔


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そして、こちらは顕彰碑です。


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ここ壬生寺の境内では、新選組の兵法調練場に使われたといい、また、ここで隊士が壬生狂言を観賞したり、新選組が相撲興行を壬生寺で企画し、寺の放生池の魚やすっぼんを採って料理し、力士に振る舞ったという逸話も残っているそうです。

また、一番隊組長の沖田総司が、境内で子供たちを集めて遊んでいた、なんて話も。

新選組にとって、ここ壬生寺は憩いの庭のような場所だったのかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-26 23:12 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その100 「八木邸跡(新撰組壬生屯所跡)」

二条城から1kmほど南下した洛西の壬生地区にやってきました。

壬生といえば、やはり新選組ですね。

そこで最初に訪れたのは、新選組の最初の屯所となった壬生村の郷士・八木源之丞の屋敷跡です。


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文久3年(1863年)春、第14代将軍・徳川家茂の警護のために清河八郎率いる浪士組が上洛しますが、その宿舎のひとつとして使われたのがここ八木家の屋敷でした。

清河ら浪士組のほとんどは、在京20日余りで再び江戸に戻りますが、ここに分宿していた芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三ら十数人は、引き続き京都の警備のため残留します。

これが、のちに新選組となるんですね。


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入口には「新選組遺蹟」と刻まれた石碑があります。

側面には「昭和六年七月」とあります。


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その奥には、「新撰組屯所遺蹟」と刻まれた立派な石碑が。


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そして門の前には「誠」指籏が掲げられ、道中には説明板があります。


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ここから先は有料で、写真撮影はNGです。

見学料は1000円、抹茶付きです(笑)。


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新選組の前身、壬生浪士組の時代、彼らは近藤勇の一派芹沢鴨の一派に分かれていました。

そして彼らがここに居着いて半年ほどが過ぎた文久3年9月16日か18日(1863年10月28日か30日)、芹沢鴨が近藤一派によって粛清されます。

この現場となったのも、ここ八木邸でした。

刺客メンバーは諸説ありますが、土方歳三、沖田総司は確実に入っていたようです。

屋敷内には、そのときのものと伝わる刀傷が鴨居などに残っています。

写真で伝えられないのが残念。


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芹沢の死後、壬生浪士組は新選組と名を改め、池田屋事件以降は200名を超す集団へと成長し、慶応元年(1865年)夏に西本願寺に屯所を移しますが、それまで、ここが新選組の拠点でした。

まさに、新選組発祥の地といっていいでしょうね。

現在、屋敷は新選組ゆかりの建築として京都市指定有形文化財に指定されています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-24 23:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その99 「妙蓮寺(禁門の変時の刀傷)」

前稿で紹介した浄福寺から1kmほど北上したところにある妙蓮寺にも、幕末の刀傷が残されています。


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妙蓮寺は鎌倉時代の僧・日像によって創建された寺院で、全盛期には1km四方の境内に27ヶ院を有する大寺院でしたが、天明8年(1788年)の天明の大火災によってそのほとんどが焼失し、山門鐘楼を残すのみとなりました。

その後、寛政元年(1789)より復興して今日に至ります。


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鐘楼本堂です。


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本堂です。


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本堂前にある御会式櫻です。

ここを訪れたのは平成30年(2018年)3月17日でしたが、早咲きの桜が花を開いていました。


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そして、本堂奥の庫裏内の柱に、刀傷が残されています。


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こちらがその刀傷


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その伝承によると、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)の際、長州兵がここに逃げ込み、落ち武者の捜索に訪れた薩摩藩兵(一説には新選組)によって柱に刀痕が残されたといいます。


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また、別の説では、妙蓮寺は禁門の変後に薩摩藩の野戦病院となったそうで、その後、慶応2年(1866年)に坂本龍馬の仲介で薩長同盟が締結したことを知った新選組が、怒ってここ妙蓮寺に押しかけ、山門で押し問答となりますが、天皇ゆかりの菊の御門を奉じていたため、その怒りを柱に残したといわれてます。

方丈小玄関に残る刀傷は、近藤勇・土方歳三・沖田総司らがのことしたと言われているそうで・・・。


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前述の説はともかく、後述の説は、眉唾ものでしょうね。

当時、薩長同盟は極秘に行われたもので、新選組ごときが知り得たとは思えませんし、その薩長同盟自体、長州藩ほど薩摩藩は重要視していませんでした。

ましてや、仮に新選組が知り得たとしても、単なる野戦病院だったここに押しかける理由が見当たりません。

そんな疑問を妙蓮寺の事務の方に投げかけたところ、苦笑されていました(笑)。

おそらく、禁門の変時の刀傷という説のほうが正しいのではないでしょうか。

なんでも新選組や坂本龍馬に結びつけて観光客を呼び込むというのは、あまり感心できません。


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写真は庫裏内の庭園です。

「十六羅漢の石庭」と呼ばれます。

また、写真撮影は禁止ですが、奥書院の四間に現代絵画家・幸野楳渓筆の「四季の襖絵」があります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-22 19:40 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その37 「三条大橋擬宝珠の刀傷」

池田屋跡から西へ200mほどいったところにある三条大橋擬宝珠に、池田屋事件の際についた刀傷が残っていると知り、やってきました。


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鴨川に架かる橋は五条大橋や四条大橋などたくさんありますが、その中でも特に人通りが多い橋が三条大橋で、この日も多くの観光客や買い物客で賑わっていました。


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刀傷があるとされる擬宝珠は、西から2つめにあります。


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これがその刀傷

斜めに2本の傷があります。

まあ、刀傷として見ればそう見えますし、ただの傷といえばそうも見えます。

こういうものは、そう信じて見るしかないですね。


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事件の歳、池田屋に踏み込んだのは近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名で、他の新選組の隊士は外を固めていました。

この刀傷が誰の刀によってつけられたものかはわかりませんが、池田屋を脱出にて屋外で斬られた志士もいたので、おそらく、そのときの斬り合いでついた傷でしょうね。

まあ、本当に池田屋事件の傷ならば、ですが。

ちなみに、屋内に踏み込んだ沖田は戦闘中にに倒れて戦線から離脱し、藤堂は油断して鉢金を取ったところでを斬られ、血液が目に入って戦闘不能となり、戦線離脱していますので、おそらく2人の刀ではないでしょう。

たぶん、あまり有名どころの刀傷じゃなさそうですね。


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三条大橋は東海道五十三次の西の起点として、歴史にも多く登場する橋です。

また、三条大橋の下の三条河原は、かつては処刑場や処刑後の晒し首の場として知られたところですね。

有名なところでは、石川五右衛門釜茹でになったのもここで、豊臣秀次の一族の首や、石田三成の首もここ三条河原に晒されました。

そして幕末、慶応4年4月25日(1868年5月17日)には、関東の板橋で斬首となったあと、塩漬けにして京都まで運ばれた近藤勇の首もここに。

池田屋事件で名を馳せた近藤の首は、わずか4年足らずで200mほど先の三条河原に晒させることになったわけです。

薩長軍にしてみれば、わざわざ関東から運んでまでも、近藤の首を京都に晒すことに大きな政治的意味があったのでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-19 23:29 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その36 「池田屋跡」

木屋町通りと河原町通りの間の三条通り沿いに、「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑があります。

説明するまでもないと思いますが、「池田屋騒動」とは、元治元年6月5日(1864年7月8日)夜、在洛の長州、土州など諸藩の尊王攘夷派志士たちが謀議中に新撰組に急襲され、乱闘のすえ多くの志士が落命した事件です。

「池田屋事件」「池田屋の変」ともいいますね。

その舞台となった旅館・池田屋があったこの地には、現在、「池田屋」の名称を掲げた居酒屋が営業しています。


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尊攘派の志士たちが池田屋で密会しているという情報を得た新選組は、京都守護職および所司代に報告し、五ツ時(午後8時)に協力して襲撃することとしますが、守護職、所司代ともに部下の援軍がなかなか来ないので、四ツ時(午後10時)、新選組の単独行動で襲撃を決行しました。

このとき、池田屋の2階に集結していた浪士たちは、宮部鼎蔵吉田稔麿、望月亀弥太ら約30名。

これに対し、新選組は、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名のみで斬り込みました。


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不意をつかれた尊攘派は懸命に応戦し、旅館の内外は大混乱となります。

近藤勇は、その夜の様子を次のように記しています。

「かねて徒党の多勢を相手に火花を散らして一時余の間、戦闘に及び候処、永倉新八郎の刀は折れ、沖田総司刀の帽子折れ、藤堂平助の刀は刃切出でささらの如く、倅周平は槍をきり折られ、下拙刀は虎徹故にや無事に御座候、藤堂は鉢金を打ち落され候より深手を受け申し候」(徒党の多勢相手に火花を散らし、一時あまりの間、戦闘におよんだところ、永倉の刀は折れ、沖田の刀は帽子折れ、藤堂の刀は刃切れ、ささらのようで、倅の周平は鑓を切り折られ、下拙(自分)の刀は名刀虎徹であるからだろうか、無事であった。藤堂は鉢鉄を撃ち落とされたので、深手を受けた)
と、戦闘の激しさを仔細に伝えたうえで、
「実にこれまで度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は稀に覚え候へ共、今度の敵多勢とは申しながら孰れも万夫不当の勇士、誠にあやふき命を助かり申候」(じつにこれまで、たびたびの戦いをしてきたが、二合わせ戦った者はまれに覚えているほどであるが、今度の敵は多勢であるとはいえ、いずれも万夫の勇者で、まことに危ういところを助かった)
と、戦った尊攘派志士たちに対しての感想を綴っています。


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戦闘のあと、守護職・所司代配下の者など約3000人が駆けつけましたが、その時には多くの志士たちの息はなく、池田屋の女将までもが命を落としました。

幸運に命が残った者は捉えられ、わずかに桂小五郎(のちの木戸孝允)、渕上郁太郎らがからくも脱出します。

小五郎は一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、襲撃時に池田屋におらず難を逃れたと言われていますが、別の話では、小五郎はこのとき屋上に出て間一髪逃げ去ったという記録もあります。


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この池田屋事件の功績によって、新選組は幕府、朝廷から感状褒賞金を下賜され、その武名は一躍、天下に轟きました。

一方、尊攘派は、宮部鼎蔵をはじめ多くの逸材を失い、大打撃を受けます。

この事件によって明治維新が1年遅れたという人もいれば、逆に、この事件が尊攘派を刺激して、維新を早めたという人もいます。

いずれにせよ、幕末の歴史を大きく動かした事件であることは間違いないでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-18 23:05 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(6)  

八重の桜 第10話「池田屋事件」 ~池田屋の変~

 新選組が日本史のなかに大きく名を刻むきっかけとなったのが、元治元年(1864年)6月の「池田屋事件(池田屋の変)」といっていいでしょう。前年の「八月十八日の政変」以後も、尊攘派志士は京都・大坂に潜伏して、勢力の挽回をはかっていました。新選組や所司代・町奉行の配下の者は、きびしくその行動を取り締まっていましたが、ことに諸藩邸や旅館、料亭などの出入者に対して目を光らせていました。そして、かねてからマークしていた三条木屋町の武具商・桝屋喜右衛門を検挙し、家宅捜索を行いました。

 喜右衛門の本名は古高俊太郎、近江国栗太郡出身の尊攘志士でした。捕縛された俊太郎は新選組の手によって厳しい拷問にかけられ、結果、力尽きて自白してしまいます。その内容は、数十人が徒党して、風向きを考えた上で御所に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮朝彦親王を幽閉して京都守護職の松平容保ら佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうという恐るべきもので、しかも、すでに計画実行の志士が多数上洛、潜伏しており、近々市中で同志の集会があることも判明します。

 古高俊太郎捕縛の報を受けた尊攘志士たちは、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)をはじめ、肥後藩の宮部鼎蔵ら約20名が、旅館・池田屋に集合して善後策を協議します。この会合を知った新選組は、京都守護職および所司代に報告し、五ツ時(午後8時)に協力して襲撃することとしますが、守護職、所司代ともに部下の援軍がなかなか来ないので、四ツ時(午後10時)、新選組の単独行動で襲撃を決行しました。不意をつかれた尊攘派は懸命に応戦し、旅館の内外は大混乱。新選組局長・近藤勇は、その夜の様子を次のように記しています。

 「かねて徒党の多勢を相手に火花を散らして一時余の間、戦闘に及び候処、永倉新八郎の刀は折れ、沖田総司刀の帽子折れ、藤堂平助の刀は刃切出でささらの如く、倅周平は槍をきり折られ、下拙刀は虎徹故にや無事に御座候、藤堂は鉢金を打ち落され候より深手を受け申し候」
(徒党の多勢相手に火花を散らし、一時あまりの間、戦闘におよんだところ、永倉の刀は折れ、沖田の刀は帽子折れ、藤堂の刀は刃切れ、ささらのようで、倅の周平は鑓を切り折られ、下拙(自分)の刀は名刀虎徹であるからだろうか、無事であった。藤堂は鉢鉄を撃ち落とされたので、深手を受けた)

と、戦闘の激しさを仔細に伝えたうえで、

 「実にこれまで度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は稀に覚え候へ共、今度の敵多勢とは申しながら孰れも万夫不当の勇士、誠にあやふき命を助かり申候」
 (じつにこれまで、たびたびの戦いをしてきたが、二合わせ戦った者はまれに覚えているほどであるが、今度の敵は多勢であるとはいえ、いずれも万夫の勇者で、まことに危ういところを助かった)

と、戦った尊攘派志士たちに対しての感想を綴っています。

 戦闘のあと、守護職・所司代配下の者など約3000人もが駆けつけましたが、その時には多くの志士たちの息はなく、池田屋の女将までもが死にました。幸運に命が残った者は捉えられ、わずかに桂小五郎、渕上郁太郎らがからくも脱出します。小五郎は一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、襲撃時に池田屋におらず難を逃れたと言われていますが、別の話では、小五郎はこのとき屋上に出て間一髪逃げ去ったという記録もあります。芸者の幾松が、夜の暗闇にまぎれて二条大橋の下に握り飯を運んで、小五郎を助けたという有名な逸話も、このときの話とされています。いずれにせよ、このときもし小五郎が新選組とまともに戦っていたら、のちの維新三傑に名を連ねることもなかったでしょうし、明治維新における長州藩の立ち位置も違ったものになっていたかもしれません。

 一方、この事件で宮部鼎蔵をはじめ、尊攘派の多くの有能な人材が命を落としました。もし、彼らが明治の世まで生きていたら、新政府高官として大いに尽力したことでしょう。しかし、彼らの死がまったくの犬死だったかといえば、そんなことはなく、この事件をきっかけに尊攘派の反幕思想はより激しくなり、討幕の気運を一気に高めたことは想像に難しくありません。歴史の犠牲となった宮部鼎蔵と、歴史に生かされた桂小五郎。この紙一重の運命の違いも、歴史の面白いところですね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-03-12 15:40 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)