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引田ひなまつり逍遥。

前稿まで引田城の攻城記を起稿してきましたが、その続100名城スタンプがある讃州井筒屋敷を訪ねて来たところ、臨時駐車場が設けられていて観光客がいっぱい。

何かと思って歩いていると、こんなポスターが貼られていました。


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引田ひなまつり

ここを訪れたのは平成31年(2019年)3月2日。

ひなまつりの前日でした。


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この日、たまたま朝にテレビを見ていると、タレントのラッシャー板前さんがこの引田ひなまつりを生中継レポートしていたのですが、わたしがこの日訪れようとしていた引田城と、この引田ひなまつりの町が同じ場所だとは全く気付かず、見るともなしに観ていました。

で、来てみてビックリ。

これ、今朝テレビでやってたやつやん!・・・みたいな(笑)。


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で、せっかくなので、まつり会場を逍遥しました。


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引田では昔から女の子が誕生すると、初節句にこの地域独特の「引田雛」と呼ばれるひな飾りを親族や近所の人に披露する風習があったそうです。

雛人形は母親の実家が準備するのがしきたりだったそうで、豪華なものを各戸競うように披露しあうため経済的負担も大きく、周辺地域では、江戸期以前より「引田には嫁にやるな」といわれていたそうです。


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あまりに華美で家計の負担も大きく、昭和の終わり頃には自治会の申し合わせにより自粛となっていました。

それが、近年、町おこしの一環で数件の有志によって復活され、平成15年(2003年)から開催されて平成最後の今回で17回目を迎えたそうです。


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引田雛は内裏びなが御殿入った御殿雛と、雛壇の横に市松人形を飾るのが特徴だそうです。


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雛人形についてのウンチクはわたしにはわかりませんので、とにかく写真を掲載します。


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引田の町は江戸時代に醤油醸造のまちとして栄え、現在でもその当時の建物が現存しています。

いくつか主だったところを紹介しましょう。


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こちらは元禄5年(1692年)創業の讃州井筒屋敷

引田醤油の名を全国に広めた『引田御三家』のひとつで、現在は引田を代表する建物、歴史資料館として一般公開されています。

引田城の続100名城スタンプもここで押せます。


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この日は人が多すぎて、じっくり建物を撮影できませんでした。


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こちらは松村家の屋敷

江戸時代中期より村内魚の棚において「多島屋」の屋号で魚の卸商を営んでいた豪商だそうです。

建物は国の登録有形文化財に指定されています。


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こちらは泉家の屋敷

明治期より海産物の販売を営み、煮干製造も行っていたそうです。

こちらも建物は国の登録有形文化財に指定されています。


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こちらは山本家の屋敷

江戸時代後期から醤油醸造元を営んでいたそうです。


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こちらは長崎家の屋敷

江戸時代後期から廻船業を営んでいたそうです。


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また、通りの一角には「藤澤南岳誕生地」と刻まれた石碑と説明板がありました。

藤澤南岳は幕末から明治にかけての儒学者で、高松藩に仕え、幕末のギリギリの段階で佐幕派だった藩論を一夜にして勤王派へと転換させ、藩滅亡の危機を救った人物です。

明治以降は大阪の泊園書院を再興するなど、学匠としての地位を築きました。

大阪の「通天閣」名付け親でもあります。


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さて、偶然出会った引田ひなまつりでしたが、良いものを見せていただきました。

備忘録として、ここに紹介した次第です。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-25 23:46 | 香川の史跡・観光 | Comments(0)  

悲運の藤堂高吉を家祖とする名張藤堂家邸跡を訪ねて。

三重県名張市にある名張陣屋跡を訪れました。

現在残る名張陣屋跡は「名張藤堂家邸跡」として一般公開されています。


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名張藤堂家は、藤堂高虎の養子となった藤堂高吉にはじまります。


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こちらが入口です。


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説明板です。


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敷地内に入ります。


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名張藤堂家は寛永13年(1636年)からこの地に居を構えますが、当時の屋敷は宝永7年(1710年)の名張大火によって焼失したため、現存する建物はその後に再建されたものだそうです。

ただ、それも明治初年に大部分が失われたため、現在残る建物は、ほんの一部だけです。


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建物前の庭です。


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地面にかつての屋敷図面の石板が埋め込まれています。


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建物内に入ってみましょう。


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現存する建物は、「御西」と称された中奥、祝之間、茶室など日常生活に使用された奥向の一部だけだそうです。


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名張藤堂家の系図です。

初代の藤堂高吉はなかなか数奇な人生だった人で、元は織田信長の重臣・丹羽長秀の三男として生まれましたが、本能寺の変で信長死去の後、羽柴秀吉の所望により、実子がいなかった弟の羽柴秀長養子となります。

これは、天下を望む秀吉が、柴田勝家を討ち滅ぼすために丹羽長秀と縁を結ぶ目的だったといわれます。

この縁組で高吉は秀長の後継ぎなるはずでしたが、天下人となった秀吉は甥の秀保を立てたため、話はおじゃんになりました。

その後、高吉を家来と結婚させようとしますが、このとき秀長の家臣だった藤堂高虎が願い出て、高吉を養子に貰い受けました。

このとき、名を高吉としました。


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高虎は実子に恵まれなかったため、高吉を跡継ぎにするつもりでしたが、高虎48歳にして実子が生まれたため、その話はまたまたおじゃんに。

やむなく高吉は高虎の家臣となりますが、高虎は高吉を疎んじはじめ、参勤交代にも同伴しなかったといいます。

高吉は何も悪いことしてないのですが、悲運としか言いようがありません。


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高虎の死後は実子の藤堂高次の家臣として仕えるようになりますが、その高次の命によって高吉は伊勢国へ2万石の移封となり、その後、ここ名張に移封となりました。

その際、次男以下3人に5000石を分知させられ、1万5000石に減封となりました。

高次は高吉の存在を危険視したとされ(幕府に高吉を藤堂本家から独立した大名に取り立てようという動きがあったためといわれる)、名張移封も、高吉に対する高次の冷遇の一環であったといわれます。

まさに、たらい回し人生ですね。


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中奥の間にあったこの屏風絵は、「長徳」の落款が記されています。

名張藤堂家7代目の藤堂長徳の作品のようです。


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です。

便所も畳敷きなんですね。


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湯殿です。


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茶室「清閑楼」です。


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茶室から見える庭です。


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向こうに見えるのは、太鼓門


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東側の「祝之間」は、武具や書簡など名張藤堂家に伝わる品々の展示コーナーになっています。


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羽柴秀吉・丹羽長秀の書簡です。

ふたりとも高吉の人生を狂わせた人物ですね。


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こちらは秀吉の朱印状


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さて、建物の外へ出て、先ほど庭に見えた太鼓門を見に行ってみましょう。


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こちらが太鼓門です。


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名張藤堂家と藤堂藩本家の間の確執は高吉の死後も200年近く続きました。

享保19年(1734年)には第5代・藤堂長熙は藩祖・高吉の実家である丹羽氏を通して幕府に独立を働きかけますが、翌年にそれが本家の知るところとなり、本家と分家の一触即発の状態になりました。

最終的には重臣3名が主君のあずかり知らぬところと主張し、責任を被って切腹したため落着しましが、長熙は隠居を命じられ、藤堂長美が跡を継ぎました(享保騒動、名張騒動とも)。

以降、本家から2名の横目付が派遣され、徹底した監視下に置かれるようになります。

しかし、第8代当主の藤堂長教が本家の藩主・藤堂高嶷の娘と結婚すると、ようやく両家の関係が徐々に良好になっていったそうです。

現代でも、後継者争い相続争いが確執を生むといった話は珍しくありませんが、200年近い対立というのは、双方、しんどかったでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-15 20:27 | 三重の史跡・観光 | Comments(0)  

奥大和の宇陀松山商家町逍遥。 

「奥大和の宇陀松山城跡登城記。<後編>」宇陀松山城跡は制覇しましたが、下山して城下町を少し逍遥しました。

宇陀松山のまちは南北に伸びる松山通りメインストリートです。

その通りには、重要伝統的建造物群保存地区に選定された古いまちなみが今も残っています。


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松山通りです。


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上の写真は、現在、まちづくりセンター「千軒舎」として利用されている建物です。

明治初期の建築で、かつては「内藤修精堂」の屋号で薬屋を営み、昭和初期からは歯科医院を開業していたそうです。


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中はこんな感じ。

ここで、宇陀松山城の続日本100名城スタンプが押せます。

車もここに停めさせてもらえます。


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通りの反対側から見てみました。

ここから城跡に登るコースもあります。


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こちらは森岡家「紀州や」

大正末期の建物で、昭和初期に料理旅館を営んでいたそうで、旅館は昭和30年代にのれんをおろし、昭和40年代には診療所になっていたそうです。


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こちらは、森野旧薬園の建物。

現在は森野吉野葛本舗という社名で知られています。


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森野旧薬園は、現存するわが国最古の私設薬園だそうで、享保14年(1729年)、初代・森野藤助が幕府御薬草御用・植村佐平次薬草見習いとして出仕した功績により、幕府から下付された貴重な種苗をここで栽培したのが始まりだそうです。


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大正15年(1926年)に国の史跡に指定されています。


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建物の横には、昭和天皇がお越しになったことを示す石碑があります。


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こちらは黒川本家の建物。

なんと、築280年だそうです。

黒川本家は吉野葛の老舗で、創業は江戸初期の元和元年(1615年)、京都に住んでいた初代の黒川道安が、吉野から葛根を取り寄せて葛粉を作って朝廷に献上し、その後、この地に移り、葛作りをスタートさせました。

そして、大和松山藩主・織田伊豆守長頼より「当代随一」の誇り高い称号を与えられたそうです。


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明治に入ると宮内省御用達となり、昭和天皇もこちら黒川本家の葛湯ご愛飲されていたといいます。

昭和天皇が最後に口にされたのも、黒川本家の吉野本葛でつくった葛湯だったとか。

また、文豪・谷崎潤一郎が小説『吉野葛』の執筆にあたり、こちらに逗留していたというエピソードも。

まさに歴史の名店です。


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こちらは、山邊家住宅

天明5年(1785年)頃の建物だそうで、ってことは築230年

山邊家は萬治年間(1658~1661年)頃からこの地に居を構えていたと伝わり、かつては宇陀紙問屋の総元締めを務める「山邊屋」だったそうです。


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こちらは、森田屋「諸木野屋」

江戸時代後期の文化5年(1808年)頃の建物で、明治初年頃まで薬や雑貨を商っていました。


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そして、その斜め向かいにある立派な屋敷は、藤沢薬品工業株式会社(現アステラス製薬)の創設者・藤沢友吉の生家で、現在、宇陀歴史博物館「薬の館」として一般公開されています。


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見てください、この立派な看板。

銅板葺唐破風附看板です。


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建物は江戸時代末期のもので、薬問屋の細川家の屋敷でした。

細川家は文化3年(1806年)から薬商となり、天保7年(1835年)に人参五臓圓・天寿丸という腹薬を販売し、たいそう繁盛したそうです。

表の銅板葺唐破風附看板に書かれていた文字ですね。


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その細川家二代目の治助の次女・満津の長男・友吉が、明治15年(1882年)に藤沢家の養子となり、藤沢薬品工業株式会社(現アステラス製薬)を創設しました。


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館内には細川家の資料や藤沢薬品に関する資料が展示されています。


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とにかく目を引くのは、古い看板類

まあ、見てください。


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先述した内藤修精堂や森野旧薬園、森田屋「諸木野屋」、そしてこの細川家などを見るに、ここ宇陀松山のまちは薬商とともに繁栄したまちだったようですね。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-05 01:33 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その145 「伏見土佐藩邸跡」

前稿伏見長州藩邸跡前々稿伏見薩摩藩邸跡を見て回ったので、となれば、次は土佐藩邸跡に行かないわけにはいきません。


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土佐藩邸跡の石碑は、長州藩邸から300mほど東に建てられています。


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慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、土佐藩兵は警備についてはいましたが、前藩主山内容堂は、この戦いは薩摩・長州会津・桑名私闘と考え、戦いに参加しないように藩士たちに命じていました。

前年に薩摩藩と同盟を結んでいた土佐藩でしたが、土佐藩は薩長と少し事情が違っていました。

関ヶ原の戦いで徳川家に楯突いた島津家、毛利家と違い、山内家は関ヶ原の戦いの戦功で土佐国24万石を与えられた歴史を持つ徳川家恩顧の大名でした。

なので、容堂としては、できるだけ徳川家と敵対したくなかったんですね。


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しかし、藩大目付の板垣退助が、戦いが起こったときには薩摩藩に味方するように藩士たちに言い含めていたため、一部の兵が容堂の命令に背いて薩摩藩に加わり戦いました。

板垣はもとより武力倒幕論の持ち主で、薩長に遅れまいと水面下で動いていたんですね。

その甲斐あって、のちの明治政府では土佐藩が薩長土肥3番手の座に座ることとなります。

しかし、1、2番手と3番手の差は、あまりにも大きかったのですが。


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伏見薩摩藩邸跡の石碑には坂本龍馬の名が刻まれていましたが、こちらには石碑にも説明板にもまったくその名がありません。

寺田屋には頻繁に出入りしていた龍馬でしたが、ここ土佐藩邸には寄り付くことはほとんどなかったようです。

脱藩浪士という立場ですから、当然ですが。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-06 15:01 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その144 「伏見長州藩邸跡」

前稿伏見薩摩藩邸跡を紹介したので、続いて伏見長州藩邸跡を訪れないわけにはいきません。

薩摩藩邸跡より800mほど南下した寺田屋の近くに、長州屋敷がありました。


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現地説明板によると、長州藩邸がこの地に置かれたのは江戸時代中期ごろと考えられているそうです。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変(蛤御門の変)」の際、長州軍は嵯峨天龍寺山崎天王山、そして、ここ伏見長州藩邸の3ヶ所に陣を布き、進軍を開始しました。

嵯峨天龍寺に来島又兵衛が、山崎天王山には久坂玄瑞や久留米藩士の真木和泉が、そして、ここ伏見には家老の福原越後(元僴)が宿営していました。

変当日、福原越後率いる500の兵は、竹田街道から北上すべく進軍しましたが、途中で会津、桑名、大垣藩と遭遇して衝突。

しかし、多勢に無勢で敗走し、一度藩邸に戻ったうえで体制を整えようとするも、京橋から彦根藩の砲撃を受け、ここ伏見藩邸も焼失してしまいました。

結局、戦いは1日で決し、長州軍の大敗北で幕を閉じます。


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その後、福岡は帰国しますが、第一次長州征伐の戦後処理に際して、交渉に来た薩摩藩の西郷隆盛の要求によって、福原越後は他の二家老とともに切腹の沙汰を受けました。

享年50。


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伏見の藩邸を失った長州藩は、以後、鳥羽・伏見の戦いまで京都に足を踏み入れることができなくなります。

もっとも、水面下では他藩士に扮して多くの長州藩士が紛れ込んでいたようですけどね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-05 01:49 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その143 「伏見薩摩藩邸跡」

前稿で紹介した大国寺から西に100mほど歩いたところに、「薩摩島津伏見屋敷跡」と刻まれた石碑があります。

江戸時代、ここに伏見薩摩藩邸がありました。


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徳川幕府は第3代将軍徳川家光以後、約230年間、江戸にこもって京都にやってきませんでした。

そのため、原則として諸大名にも上洛を禁じました。

西国大名が参勤交代のため江戸と本国を往復するときも、京都ではなく伏見を通りました。

なので、西国諸藩は伏見に拠点となる藩邸を置いていたんですね。


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島津斉彬の養女として第13代将軍徳川家定に輿入れすることとなった篤姫も、薩摩から江戸にむかう途中の嘉永6年9月29日(1853年10月31日)、この屋敷に入ったと伝わります。

篤姫はここを拠点に、10月2日に洛中の近衛家へ、同4日に東福寺を訪問し、同5日に萬福寺を訪問し、同6日に伏見を発ちました。

篤姫は以後、一度も京都を訪れないので、この地は彼女の生涯たった1度の「京都観光」の宿舎だったわけですね。

石碑の側面には、「天璋院篤姫洛中洛外滞在時の宿泊地」と刻まれています。


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また、石碑の反対側の側面には「坂本龍馬 寺田屋脱出後 避難之地」と刻まれています。

「その138」で紹介した寺田屋において、慶応2年1月23日(1866年3月9日)に襲撃されて負傷した坂本龍馬は、「その141」で紹介した材木小屋に身を潜めたあと、長府藩士の三吉慎蔵やのちに妻となるお龍の通報によって助け出され、ここ薩摩藩邸に保護されました。

薩摩藩邸の石碑に土佐人の名が刻まれるというのも、珍しいですね。


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その後、薩摩藩邸は鳥羽・伏見の戦い時に会津藩兵らによって焼き払われました。

現在、その跡地は酒造会社の敷地になっています。


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by sakanoueno-kumo | 2018-10-04 00:09 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その125 「岩倉具視公旧蹟九兵衛宅址碑」

「その123」で紹介した「岩倉具視幽棲旧宅」から直線距離で1kmほど南東に、「岩倉具視公旧蹟九兵衛宅址」と刻まれた石碑があります。

九兵衛とは、岩倉具視の乳父山本九兵衛のことだそうです。


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乳母ならよく知っていますが、乳父ってあまり聞いたことがないですよね。

そもそも、なんて読むのでしょう?

ちちちち?(笑)

父は乳出ないし!(笑)

武家社会では、傅役といった父親代わりになって躾ける家臣がいましたが、公家社会の場合、乳父といったのでしょうか?


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岩倉具視は岩倉村に蟄居してからも、たびたび命を狙われる危険に晒されました。

そんなとき、ここ花園村の九兵衛宅に身を寄せて難を逃れたといいます。


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石碑は現在、民家の門の横に建っています。

なので、あまり引きの写真を撮るに憚られ、石碑のみのアップ写真を掲載します。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-05 23:45 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その123 「岩倉具視幽棲旧宅」

洛北の旧岩倉村地区やってきました。

この村には、幕末、都から追放された岩倉具視幽棲した屋敷がありました。


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現在、その屋敷は国の史跡に指定されています。


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門の前には、「岩倉具視幽棲宅」と刻まれた石碑があります。


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文政8年(1825年)に参議正三位・堀河康親の次男として生まれた具視は、天保9年(1838年)に公卿・岩倉具慶の養子になります。

安政元年(1854年)には孝明天皇(第121代天皇)の侍従となり、次第に朝廷内において台頭し、発言力を増してきました。

若き日の具視は攘夷派で、幕府の推し進める日米修好通商条約の調印に反対して「廷臣八十八卿列参事件」の中心人物となりますが、その後、幕府との調和の必要性を悟り、公武合体をすすめるため、孝明天皇の妹・和宮親子内親王の将軍家への降嫁を推進ます。

このとき具視は、将軍・徳川家茂から直筆の誓書を提出させることに成功し、孝明天皇から直々にその功労を労われました。

具視の推し進めた公武合体は、あくまで朝廷主導の公武合体であり、一貫して朝廷権威の高揚に努めていたのですが、ところが、尊皇攘夷派は具視を佐幕派の巨頭と見るようになり、尊攘派の圧力によって失脚に追い込まれます。


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文久2年(1862年)8月に蟄居処分となって朝廷を去った具視は、落飾して西賀茂の霊源寺や洛西の西芳寺に身を隠しますが、同年10月に長男の岩倉具綱がここ岩倉村に住居を用意してくれたので、移り住みました。

以降、洛中への帰参が許される慶応3年(1867年)11月まで、この地で5年間も蟄居生活を送ることとります。


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岩倉村に移り住んだ当初は、藤屋藤五郎廃屋を借りて住んでいましたが、その後、元治元年(1864)大工の藤吉の居宅(現在の附属屋)を購入し、主屋繋屋を増築して住居としたのが、この屋敷です。


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その主屋です。


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茅葺の質素な外観の建物で西側に玄関である式台を設け、玄関、6畳の次の間、床の間のある6畳の座敷と東西一列に部屋が並ぶ間取りで、南側に縁側を設けています。


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慶応3年(1867年)になると、土佐の坂本龍馬中岡慎太郎、薩摩の大久保利通など倒幕派の志士たちが頻繁に具視のもとへ訪れるようになりますが、彼らとの面会は、この主屋で行われていたと伝わります。


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障子は具視の孫である東伏見宮周子が御所から譲り受けたものだそうで、外側から見ると普通の障子ですが、内側から見ると、変わったデザインになっています。


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主屋は、その東伏見宮周子によって昭和7年(1932年)に「鄰雲軒」と名付けられました。


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主屋の玄関


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主屋の北側にある附属屋です。

具視がここに移り住んだ当初は、この附属屋だけだったそうです。


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附属屋の中。


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主屋と附属屋の間の中庭


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主屋西側の中門と正門


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その中門をくぐると、主屋南側のがあります。

庭の向こうに、何やら墓石のような石碑が見えます。


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岩倉村瘞髪碑(遺髪碑)だそうです。

具視の遺髪が埋葬されているそうです。


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碑文は具視の右腕だった井上毅によるものです。


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遺髪碑の北隣には、具視の子息・岩倉具定、岩倉具経の碑もあります。

碑文は、大久保利通の子息・大久保利武によるものです。


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遺髪碑の東側には、具視手植のものと伝わる松の巨木があります。


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最後に、岩倉具視の遺品類や明治維新関係文書などを展示・収蔵するために昭和3年(1928年)に建設された「対岳文庫」です。

「対岳」とは具視の雅号で、ここ岩倉村に対峙する雄大な比叡山を見て名付けたそうです。

岩倉村で幽棲すること5年、王政復古の大号令とともに、具視は再び中央政界に復帰するべくここ岩倉村をあとにします。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-31 16:30 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その87 「京都守護職上屋敷跡(京都府庁)」

京都府庁京都府警察本部のあるあたりに、かつて京都守護職上屋敷がありました。

現在、その敷地内には石碑が建てられています。


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上の写真は京都府庁の旧本館です。

明治37年(1904年)の建築で、国の重要文化財に指定されています。


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京都守護職として京に入った会津藩主・松平容保は、当初、「その83」で紹介した金戒光明寺に本陣を置きますが、御所から遠いということで、朝廷からの要請もあって御所から近いこの地に屋敷を置きました。

屋敷は市中に数カ所あったといいますが、ここはそのひとつです。

当時の屋敷の広さは、約3万坪ほどあったといいます。

「その81」で紹介した「京都守護職屋敷門」は、ここから移設されたものです。


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これが、敷地内にある「京都守護職屋敷跡」と刻まれた石碑です。

側面には「昭和七年十一月建之」と刻まれています。


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旧庁舎の建物内は見学できますが、シリーズとは関係ないので、また別の機会に。

その庁舎の中庭に、「容保桜」と呼ばれる大きな桜の木が植えられていました。


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説明看板によると、特に容保が植えたというわけではなく、単に、京都守護職屋敷跡ということに因んでそう名付けられたそうです。

実際に、この地にいたときの容保は、桜を鑑賞するような心のゆとりはなかったんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-04 23:20 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その45 「梅田雲浜邸跡」

京都市営地下鉄「烏丸御池駅」を地上に上がって100mほど北上したオフィス街の歩道に、「梅田雲浜邸址」と刻まれた石碑があります。

大正6年(1917年)に建てられたもののようです。


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「その12」の稿でも紹介しましたが、梅田雲浜は小浜藩出身の儒学者で、幕末初期の攘夷運動を牽引した思想家でした。

しかし、幕府大老・井伊直弼の進めた「安政の大獄」による逮捕者第1号となり、激しい拷問を受けたすえ、獄中死してしまいます。


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雲浜が幕府に捕えられたとき、この地にあった自宅にいました。

幕吏が「御上意」と叫んで屋敷内に踏み込もうとすると、雲浜は「少々御猶予を願いたい」と言い、着物を着替えて髪を結い直し、身なりを整えたといいます。

そして、を引き寄せて次の2首の歌を詠みました。


契りにし そのあらましも 今はただ おもひ絶えよと 秋風ぞ吹く

君が代を 思ふ心の 一筋に 吾身ありとも 思はざりけり


最初の歌には、身を殺して、できる限りのことを全てやり尽くし、後は全て天命に委ねるという清々しい気持ちが詠われています。


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幕吏は雲浜を駕籠で連行しようとしますが、雲浜は「俯仰天地に恥じることはない。」と言って駕籠を拒否し、縄付のまま堂々と奉行所まで闊歩したといいます。

さすがは、吉田松陰から「『靖献遺言』で固めた男」と呼ばれた人物といえるエピソードです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-02 00:04 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)