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緒方洪庵の適塾をたずねて。 <後編>

<前編>の続きです。

建物内はひととおり見学したので、建物の外を歩いてみましょう。


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説明板によると、表屋の建物は寛政4年(1792年)の北浜大火後まもなくの建築と考えられ、元は町筋に面する商家の形であったようですが、その後、弘化2年(1845年)に緒方洪庵が買い上げた際に若干の改造が行われたと見られています。


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建物の東側に、庭のような空間があります。


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入口の看板。

文字が消えて読めない(笑)。


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庭というか、公園ですね。


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近代的なビルに囲まれ、今も残る町家風のたたずまい。

不思議な空間ですね。


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第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)にこの建物は国に寄付されることになり、現在は大阪大学が所有、管理しています。

洪庵の子息や適塾門下生によって明治初期に設立された大阪仮病院大阪医学校が、やがて大阪帝国大学となり、現在の大阪大学医学部につながっているからだそうです。


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障子窓が開いているところが、前編で紹介した塾生大部屋です。


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続いて建物西側にやってきました。


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西側は広い公園になっていて、緒方洪庵の銅像が座しています。


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緒方洪庵は文化7年7月14日(1810年8月13日)、備中足守(岡山市足守)藩士・佐伯惟因(瀬左衛門)の三男として生まれました。

17歳のときに大坂に出て中天游の私塾「思々斎塾」に学び、21歳で江戸に出て坪井信道、宇田川玄真らに学ぶと、さらに26歳で長崎へ遊学して医学、蘭学を学び、29歳のときに大坂に帰って医業を開業しました。

このとき、同時に適塾を開きます。

同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚し、のち6男7女をもうけました。

その後、医師として種痘の普及や天然痘の予防などに尽力し、日本における西洋医学の基礎を築くとともに、教育者としては、福沢諭吉大村益次郎など幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く育てました。


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人柄は温厚篤実を絵に描いたような人物だったようで、福沢諭吉曰く「誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評しています。


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故・司馬遼太郎氏が小学校の国語教科書用に書いた『洪庵のたいまつ』の冒頭で、司馬氏は洪庵について次のように語っています。


世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。

ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。

緒方洪庵のことである。

この人は、江戸末期に生まれた。

医者であった。

かれは、名を求めず、利を求めなかった。

あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。

そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。

(『洪庵のたいまつ』より)


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また、司馬氏の小説『花神』では、こうも言っています。


なぜ洪庵が医者を志したかというと、その動機はかれの十二歳のとき、備中の地にコレラがすさまじい勢いで流行し、人がうそのようにころころと死んだ。

洪庵を可愛がってくれた西どなりの家族は、四日のうちに五人とも死んだ。

当時の漢方医術はこれをふせぐことも治療することにも無能だった。

洪庵はこの惨状をみてぜひ医者になってすくおうと志したという。

その動機が栄達志願ではなく、人間愛によるものであったという点、この当時の日本の精神風土から考えると、ちょっとめずらしい。

洪庵は無欲で、人に対しては底抜けにやさしい人柄だった。

適塾をひらいてからも、ついに門生の前で顔色を変えたり、怒ったりしたことがなく、門生に非があればじゅんじゅんとさとした。

「まことにたぐいまれなる高徳の君子」と、その門人のひとりの福沢諭吉が書いているように。

洪庵はうまれついての親切者で、「医師というものは、とびきりの親切者以外は、なるべきしごとではない」と、平素門人に語っていた。

(『花神』より)


司馬さんはよほど洪庵に惚れ込んでいたようですね。


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ここ適塾で学んだ門下生たちが、のちに医学、兵事、政治など各方面で活躍し、そしてそれが現在の私たちの生活につながっています。

まさに、洪庵のたいまつはつながっているんですね。

先述した司馬氏の『洪庵のたいまつ』の文末は、こう結んでいます。


洪庵は、自分の恩師たちから引き継いだたいまつの火を、よりいっそう大きくした人であった。

かれの偉大さは、自分の火を、弟子たちの一人一人に移し続けたことである。

弟子たちのたいまつの火は、後にそれぞれの分野であかあかとかがやいた。

やがてはその火の群が、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである。

後生のわたしたちは、洪庵に感謝しなければならない。

(『洪庵のたいまつ』より)


ここ適塾は、近代日本のたいまつ発祥の地といえるかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-15 07:53 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

緒方洪庵の適塾をたずねて。 <前編>

大阪市内のオフィス街のど真ん中に、緒方洪庵が開いた適塾(適々斎塾)の建物が残されています。

緒方洪庵は、幕末における洋楽研究の第一人者として仰がれた医師、蘭学者で、「日本の近代医学の祖」と呼ばれる人物です。

洪庵は、天保9年(1838年)から文久2年(1862年)までの25年間、大阪・船場で塾を開き、幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く育てました。


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この建物は、弘化2年(1845年)に洪庵が町家を買い受け、適塾を拡張したときのものです。


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間口は約12mしかありませんが、奥行きは約40mあり、敷地面積は464㎡あり、木造2階建の建面積は285㎡、延床面積は417㎡あります。


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正面には昭和16年(1941年)に建てられた石碑があります。


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入口横の説明板です。


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玄関を入ってすぐの土間に、平面図が書かれた行灯看板があります。


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それでは、建物の中を見てまわりましょう。


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1階は主に教室に使われた表屋と、洪庵とその家族の住まいとなっていた主屋に分かれます。

教室は2部屋あります。


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教室の奥には、中庭があります。

この中庭より奥が、洪庵の居住スペースとなります。


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書斎です。

六畳間です。


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手前が八畳の応接間で、奥が十畳半+床の間の客座敷です。


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客座敷です。

奥に庭が見えます。


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前栽(庭)です。


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こちらは、客座敷の隣にある家族部屋です。

七畳ありますが、洪庵は6男7女の子供がいました。

まさか、ここで全員寝てたわけではないですよね。


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そして台所


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ここで塾生たちの飯を炊いていたのでしょう。


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台所の天井です。

煤けていますね。

150年以上前の煤でしょうか?


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台所から2階へ上がる階段があります。

この急な角度、階段というより梯子のようです。

でも、昭和の時代も、古い家屋はみな、こんな急な階段でしたよね。


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2階へやってきました。

上ってすぐにあるのは、女中部屋です。


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そしてこの六畳間は、ヅーフ部屋と呼ばれる部屋です。

その名称の由来は、塾生たちが使用したヅーフ辞書(長崎出島のオランダ商館長ヅーフが作成した蘭和辞書)だそうです。

適塾の教育システムの中心は蘭書の会読だったといいますが、その予習のために塾生たちはこのヅーフ辞書を使ったそうですが、当時、極めて貴重だったこの辞書は適塾にも一冊しかなく、塾生はヅーフ辞書が置かれていたこの部屋につめかけて奪い合って使用したといいます。


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そして、その奥にある大広間が、塾生大部屋です。


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洪庵は医学者でしたが、適塾門下生からは、医学のみならず様々な方面で活躍する人物が出ました。

もとは医学者でありながら、やがて幕末の政治活動に身を捧げて死んでいった橋本左内や、同じく医学者から兵学者に転身して維新十傑の一人となった大村益次郎、維新後、慶応義塾大学を創設した福沢諭吉、同じく維新後、内務省の初代衛生局長となった長與專齋などがいました。


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また、戊辰戦争で新政府軍に抗い、あの五稜郭に立て籠った大鳥圭介高松凌雲も適塾門下生で、大鳥はのちに明治の外交で活躍し、高松は五稜郭の戦いで箱館病院を開院し、敵味方を問わずに傷病兵を助けるという我が国最初の赤十字博愛精神を実践した人物で、これがやがて日本赤十字を生むことになり、その初代総裁には、同じく適塾門下生だった佐野常民が就きました。

まさに、幕末維新の錚々たるメンバーがここから巣立ったんですね。


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この大部屋で、門下生たちは寝泊まりしていました。

塾生1人一畳が使えましたが、毎月、成績のいい者から好きな場所を選べたようです。

出入口付近はみんなに踏まれて最悪だったとか。

福沢諭吉なんかは、きっと常にいい場所を確保していたんでしょうね。

福沢諭吉は後年、適塾時代を振り返り、「およそ勉強ということについては、このうえにしようもないほど勉強した」と述懐しています。

その理由は、向上心よりも、場所取りだったかも(笑)。


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大部屋中央の柱には、塾生がつけたと伝わる刀傷が無数に残っています。

秀才ぞろいの適塾でしたが、やはり武士の若者たちですから、血の気の多いやつもたくさんいたんでしょうね。


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さて、ひととおり建物内を見て回りましたが、次回、建物の外を歩きます。

<後編>に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-13 23:27 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その9 <織田家長屋門・明石駅>

「その8」の続きです。

前回までで明石城内はすべて攻略しましたが、「その1」で紹介した中濠南西の西不明門(にしあけずもん)の南側に、古い屋敷門跡があります。


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この門は「織田家長屋門」といい、明石城築城当時から、歴代家老・重臣が住んでいた屋敷の門跡です。


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「織田家」「織田」は、あの織田信長の一族にあたる家系だそうで、代々明石藩家老を務めました。


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明石藩家老の織田家は、織田信長の叔父である犬山城主織田信康を祖とします。

信康は尾張統一を目指す甥の信長に領地を奪われ、信康の子・織田信清は信長に敵対して敗れますが、その子・津田(織田)信益は許されて信長に仕え、のちに豊臣秀吉に仕え、晩年は越前の結城秀康(徳川家康の次男)に仕えます。

信益の子・織田信勝は初代大野藩主の松平直良に仕え、その直良の子・松平直明が明石藩に移封となると、織田家も共に明石へ移り、以後、代々明石藩家老としてこの屋敷に居を構えていたそうです。


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長屋門は江戸時代から現存するもので、明石市の文化財に指定されています。


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もとは門の西側に棟割長屋4軒納屋2軒があったそうですが、昭和20年(1945年)の空襲で焼失し、門のみが残ったそうです。


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門に使用されている太鼓鋲、蝶番、飾り金具などは室町時代の様式で、明石城築城時に破城となった船上城の門を移築したと伝えられています。

明石城が今年築城400年なら、この長屋門も築400年ということになりますね。


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さて、これで明石城をすべて制覇しましたので、帰路につきました。

写真はJR明石駅のホーム上からの北側の眺望です。

手前に見えるのが中濠その向こうに、本丸、二ノ丸、東ノ丸の高石垣が東西に長く伸びています。

以前は、本丸の櫓はここから見えていましたが、石垣は樹木に隠れてほとんど見えませんでした。

最近、その木が伐採されて、石垣が露出して見えるようになったんですね。


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左が坤櫓、右が巽櫓です。


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坤櫓にズーム。


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巽櫓にズーム。


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そして、こちらは二ノ丸と東ノ丸の高石垣です。


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さて、これで帰路についた私でしたが、ここを訪れたのは令和元年(2019年)6月1日だったのですが、ちょうどこの日から築城400年事業の一環で、夜に本丸の櫓がライトアップされるということを知りました。

せっかくなので、夜も見てみようじゃないかと思いたち、この日の夜、再び明石を訪れることにしました。

あと1回、「その10」に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-05 23:29 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

引田ひなまつり逍遥。

前稿まで引田城の攻城記を起稿してきましたが、その続100名城スタンプがある讃州井筒屋敷を訪ねて来たところ、臨時駐車場が設けられていて観光客がいっぱい。

何かと思って歩いていると、こんなポスターが貼られていました。


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引田ひなまつり

ここを訪れたのは平成31年(2019年)3月2日。

ひなまつりの前日でした。


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この日、たまたま朝にテレビを見ていると、タレントのラッシャー板前さんがこの引田ひなまつりを生中継レポートしていたのですが、わたしがこの日訪れようとしていた引田城と、この引田ひなまつりの町が同じ場所だとは全く気付かず、見るともなしに観ていました。

で、来てみてビックリ。

これ、今朝テレビでやってたやつやん!・・・みたいな(笑)。


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で、せっかくなので、まつり会場を逍遥しました。


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引田では昔から女の子が誕生すると、初節句にこの地域独特の「引田雛」と呼ばれるひな飾りを親族や近所の人に披露する風習があったそうです。

雛人形は母親の実家が準備するのがしきたりだったそうで、豪華なものを各戸競うように披露しあうため経済的負担も大きく、周辺地域では、江戸期以前より「引田には嫁にやるな」といわれていたそうです。


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あまりに華美で家計の負担も大きく、昭和の終わり頃には自治会の申し合わせにより自粛となっていました。

それが、近年、町おこしの一環で数件の有志によって復活され、平成15年(2003年)から開催されて平成最後の今回で17回目を迎えたそうです。


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引田雛は内裏びなが御殿入った御殿雛と、雛壇の横に市松人形を飾るのが特徴だそうです。


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雛人形についてのウンチクはわたしにはわかりませんので、とにかく写真を掲載します。


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引田の町は江戸時代に醤油醸造のまちとして栄え、現在でもその当時の建物が現存しています。

いくつか主だったところを紹介しましょう。


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こちらは元禄5年(1692年)創業の讃州井筒屋敷

引田醤油の名を全国に広めた『引田御三家』のひとつで、現在は引田を代表する建物、歴史資料館として一般公開されています。

引田城の続100名城スタンプもここで押せます。


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この日は人が多すぎて、じっくり建物を撮影できませんでした。


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こちらは松村家の屋敷

江戸時代中期より村内魚の棚において「多島屋」の屋号で魚の卸商を営んでいた豪商だそうです。

建物は国の登録有形文化財に指定されています。


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こちらは泉家の屋敷

明治期より海産物の販売を営み、煮干製造も行っていたそうです。

こちらも建物は国の登録有形文化財に指定されています。


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こちらは山本家の屋敷

江戸時代後期から醤油醸造元を営んでいたそうです。


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こちらは長崎家の屋敷

江戸時代後期から廻船業を営んでいたそうです。


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また、通りの一角には「藤澤南岳誕生地」と刻まれた石碑と説明板がありました。

藤澤南岳は幕末から明治にかけての儒学者で、高松藩に仕え、幕末のギリギリの段階で佐幕派だった藩論を一夜にして勤王派へと転換させ、藩滅亡の危機を救った人物です。

明治以降は大阪の泊園書院を再興するなど、学匠としての地位を築きました。

大阪の「通天閣」名付け親でもあります。


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さて、偶然出会った引田ひなまつりでしたが、良いものを見せていただきました。

備忘録として、ここに紹介した次第です。




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by sakanoueno-kumo | 2019-07-25 23:46 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

悲運の藤堂高吉を家祖とする名張藤堂家邸跡を訪ねて。

三重県名張市にある名張陣屋跡を訪れました。

現在残る名張陣屋跡は「名張藤堂家邸跡」として一般公開されています。


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名張藤堂家は、藤堂高虎の養子となった藤堂高吉にはじまります。


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こちらが入口です。


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説明板です。


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敷地内に入ります。


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名張藤堂家は寛永13年(1636年)からこの地に居を構えますが、当時の屋敷は宝永7年(1710年)の名張大火によって焼失したため、現存する建物はその後に再建されたものだそうです。

ただ、それも明治初年に大部分が失われたため、現在残る建物は、ほんの一部だけです。


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建物前の庭です。


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地面にかつての屋敷図面の石板が埋め込まれています。


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建物内に入ってみましょう。


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現存する建物は、「御西」と称された中奥、祝之間、茶室など日常生活に使用された奥向の一部だけだそうです。


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名張藤堂家の系図です。

初代の藤堂高吉はなかなか数奇な人生だった人で、元は織田信長の重臣・丹羽長秀の三男として生まれましたが、本能寺の変で信長死去の後、羽柴秀吉の所望により、実子がいなかった弟の羽柴秀長養子となります。

これは、天下を望む秀吉が、柴田勝家を討ち滅ぼすために丹羽長秀と縁を結ぶ目的だったといわれます。

この縁組で高吉は秀長の後継ぎなるはずでしたが、天下人となった秀吉は甥の秀保を立てたため、話はおじゃんになりました。

その後、高吉を家来と結婚させようとしますが、このとき秀長の家臣だった藤堂高虎が願い出て、高吉を養子に貰い受けました。

このとき、名を高吉としました。


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高虎は実子に恵まれなかったため、高吉を跡継ぎにするつもりでしたが、高虎48歳にして実子が生まれたため、その話はまたまたおじゃんに。

やむなく高吉は高虎の家臣となりますが、高虎は高吉を疎んじはじめ、参勤交代にも同伴しなかったといいます。

高吉は何も悪いことしてないのですが、悲運としか言いようがありません。


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高虎の死後は実子の藤堂高次の家臣として仕えるようになりますが、その高次の命によって高吉は伊勢国へ2万石の移封となり、その後、ここ名張に移封となりました。

その際、次男以下3人に5000石を分知させられ、1万5000石に減封となりました。

高次は高吉の存在を危険視したとされ(幕府に高吉を藤堂本家から独立した大名に取り立てようという動きがあったためといわれる)、名張移封も、高吉に対する高次の冷遇の一環であったといわれます。

まさに、たらい回し人生ですね。


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中奥の間にあったこの屏風絵は、「長徳」の落款が記されています。

名張藤堂家7代目の藤堂長徳の作品のようです。


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です。

便所も畳敷きなんですね。


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湯殿です。


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茶室「清閑楼」です。


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茶室から見える庭です。


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向こうに見えるのは、太鼓門


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東側の「祝之間」は、武具や書簡など名張藤堂家に伝わる品々の展示コーナーになっています。


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羽柴秀吉・丹羽長秀の書簡です。

ふたりとも高吉の人生を狂わせた人物ですね。


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こちらは秀吉の朱印状


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さて、建物の外へ出て、先ほど庭に見えた太鼓門を見に行ってみましょう。


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こちらが太鼓門です。


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名張藤堂家と藤堂藩本家の間の確執は高吉の死後も200年近く続きました。

享保19年(1734年)には第5代・藤堂長熙は藩祖・高吉の実家である丹羽氏を通して幕府に独立を働きかけますが、翌年にそれが本家の知るところとなり、本家と分家の一触即発の状態になりました。

最終的には重臣3名が主君のあずかり知らぬところと主張し、責任を被って切腹したため落着しましが、長熙は隠居を命じられ、藤堂長美が跡を継ぎました(享保騒動、名張騒動とも)。

以降、本家から2名の横目付が派遣され、徹底した監視下に置かれるようになります。

しかし、第8代当主の藤堂長教が本家の藩主・藤堂高嶷の娘と結婚すると、ようやく両家の関係が徐々に良好になっていったそうです。

現代でも、後継者争い相続争いが確執を生むといった話は珍しくありませんが、200年近い対立というのは、双方、しんどかったでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-15 20:27 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

奥大和の宇陀松山商家町逍遥。 

「奥大和の宇陀松山城跡登城記。<後編>」宇陀松山城跡は制覇しましたが、下山して城下町を少し逍遥しました。

宇陀松山のまちは南北に伸びる松山通りメインストリートです。

その通りには、重要伝統的建造物群保存地区に選定された古いまちなみが今も残っています。


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松山通りです。


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上の写真は、現在、まちづくりセンター「千軒舎」として利用されている建物です。

明治初期の建築で、かつては「内藤修精堂」の屋号で薬屋を営み、昭和初期からは歯科医院を開業していたそうです。


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中はこんな感じ。

ここで、宇陀松山城の続日本100名城スタンプが押せます。

車もここに停めさせてもらえます。


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通りの反対側から見てみました。

ここから城跡に登るコースもあります。


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こちらは森岡家「紀州や」

大正末期の建物で、昭和初期に料理旅館を営んでいたそうで、旅館は昭和30年代にのれんをおろし、昭和40年代には診療所になっていたそうです。


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こちらは、森野旧薬園の建物。

現在は森野吉野葛本舗という社名で知られています。


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森野旧薬園は、現存するわが国最古の私設薬園だそうで、享保14年(1729年)、初代・森野藤助が幕府御薬草御用・植村佐平次薬草見習いとして出仕した功績により、幕府から下付された貴重な種苗をここで栽培したのが始まりだそうです。


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大正15年(1926年)に国の史跡に指定されています。


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建物の横には、昭和天皇がお越しになったことを示す石碑があります。


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こちらは黒川本家の建物。

なんと、築280年だそうです。

黒川本家は吉野葛の老舗で、創業は江戸初期の元和元年(1615年)、京都に住んでいた初代の黒川道安が、吉野から葛根を取り寄せて葛粉を作って朝廷に献上し、その後、この地に移り、葛作りをスタートさせました。

そして、大和松山藩主・織田伊豆守長頼より「当代随一」の誇り高い称号を与えられたそうです。


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明治に入ると宮内省御用達となり、昭和天皇もこちら黒川本家の葛湯ご愛飲されていたといいます。

昭和天皇が最後に口にされたのも、黒川本家の吉野本葛でつくった葛湯だったとか。

また、文豪・谷崎潤一郎が小説『吉野葛』の執筆にあたり、こちらに逗留していたというエピソードも。

まさに歴史の名店です。


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こちらは、山邊家住宅

天明5年(1785年)頃の建物だそうで、ってことは築230年

山邊家は萬治年間(1658~1661年)頃からこの地に居を構えていたと伝わり、かつては宇陀紙問屋の総元締めを務める「山邊屋」だったそうです。


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こちらは、森田屋「諸木野屋」

江戸時代後期の文化5年(1808年)頃の建物で、明治初年頃まで薬や雑貨を商っていました。


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そして、その斜め向かいにある立派な屋敷は、藤沢薬品工業株式会社(現アステラス製薬)の創設者・藤沢友吉の生家で、現在、宇陀歴史博物館「薬の館」として一般公開されています。


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見てください、この立派な看板。

銅板葺唐破風附看板です。


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建物は江戸時代末期のもので、薬問屋の細川家の屋敷でした。

細川家は文化3年(1806年)から薬商となり、天保7年(1835年)に人参五臓圓・天寿丸という腹薬を販売し、たいそう繁盛したそうです。

表の銅板葺唐破風附看板に書かれていた文字ですね。


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その細川家二代目の治助の次女・満津の長男・友吉が、明治15年(1882年)に藤沢家の養子となり、藤沢薬品工業株式会社(現アステラス製薬)を創設しました。


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館内には細川家の資料や藤沢薬品に関する資料が展示されています。


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とにかく目を引くのは、古い看板類

まあ、見てください。


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先述した内藤修精堂や森野旧薬園、森田屋「諸木野屋」、そしてこの細川家などを見るに、ここ宇陀松山のまちは薬商とともに繁栄したまちだったようですね。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-05 01:33 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その145 「伏見土佐藩邸跡」

前稿伏見長州藩邸跡前々稿伏見薩摩藩邸跡を見て回ったので、となれば、次は土佐藩邸跡に行かないわけにはいきません。


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土佐藩邸跡の石碑は、長州藩邸から300mほど東に建てられています。


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慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、土佐藩兵は警備についてはいましたが、前藩主山内容堂は、この戦いは薩摩・長州会津・桑名私闘と考え、戦いに参加しないように藩士たちに命じていました。

前年に薩摩藩と同盟を結んでいた土佐藩でしたが、土佐藩は薩長と少し事情が違っていました。

関ヶ原の戦いで徳川家に楯突いた島津家、毛利家と違い、山内家は関ヶ原の戦いの戦功で土佐国24万石を与えられた歴史を持つ徳川家恩顧の大名でした。

なので、容堂としては、できるだけ徳川家と敵対したくなかったんですね。


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しかし、藩大目付の板垣退助が、戦いが起こったときには薩摩藩に味方するように藩士たちに言い含めていたため、一部の兵が容堂の命令に背いて薩摩藩に加わり戦いました。

板垣はもとより武力倒幕論の持ち主で、薩長に遅れまいと水面下で動いていたんですね。

その甲斐あって、のちの明治政府では土佐藩が薩長土肥3番手の座に座ることとなります。

しかし、1、2番手と3番手の差は、あまりにも大きかったのですが。


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伏見薩摩藩邸跡の石碑には坂本龍馬の名が刻まれていましたが、こちらには石碑にも説明板にもまったくその名がありません。

寺田屋には頻繁に出入りしていた龍馬でしたが、ここ土佐藩邸には寄り付くことはほとんどなかったようです。

脱藩浪士という立場ですから、当然ですが。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-06 15:01 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その144 「伏見長州藩邸跡」

前稿伏見薩摩藩邸跡を紹介したので、続いて伏見長州藩邸跡を訪れないわけにはいきません。

薩摩藩邸跡より800mほど南下した寺田屋の近くに、長州屋敷がありました。


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現地説明板によると、長州藩邸がこの地に置かれたのは江戸時代中期ごろと考えられているそうです。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変(蛤御門の変)」の際、長州軍は嵯峨天龍寺山崎天王山、そして、ここ伏見長州藩邸の3ヶ所に陣を布き、進軍を開始しました。

嵯峨天龍寺に来島又兵衛が、山崎天王山には久坂玄瑞や久留米藩士の真木和泉が、そして、ここ伏見には家老の福原越後(元僴)が宿営していました。

変当日、福原越後率いる500の兵は、竹田街道から北上すべく進軍しましたが、途中で会津、桑名、大垣藩と遭遇して衝突。

しかし、多勢に無勢で敗走し、一度藩邸に戻ったうえで体制を整えようとするも、京橋から彦根藩の砲撃を受け、ここ伏見藩邸も焼失してしまいました。

結局、戦いは1日で決し、長州軍の大敗北で幕を閉じます。


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その後、福岡は帰国しますが、第一次長州征伐の戦後処理に際して、交渉に来た薩摩藩の西郷隆盛の要求によって、福原越後は他の二家老とともに切腹の沙汰を受けました。

享年50。


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伏見の藩邸を失った長州藩は、以後、鳥羽・伏見の戦いまで京都に足を踏み入れることができなくなります。

もっとも、水面下では他藩士に扮して多くの長州藩士が紛れ込んでいたようですけどね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-05 01:49 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その143 「伏見薩摩藩邸跡」

前稿で紹介した大国寺から西に100mほど歩いたところに、「薩摩島津伏見屋敷跡」と刻まれた石碑があります。

江戸時代、ここに伏見薩摩藩邸がありました。


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徳川幕府は第3代将軍徳川家光以後、約230年間、江戸にこもって京都にやってきませんでした。

そのため、原則として諸大名にも上洛を禁じました。

西国大名が参勤交代のため江戸と本国を往復するときも、京都ではなく伏見を通りました。

なので、西国諸藩は伏見に拠点となる藩邸を置いていたんですね。


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島津斉彬の養女として第13代将軍徳川家定に輿入れすることとなった篤姫も、薩摩から江戸にむかう途中の嘉永6年9月29日(1853年10月31日)、この屋敷に入ったと伝わります。

篤姫はここを拠点に、10月2日に洛中の近衛家へ、同4日に東福寺を訪問し、同5日に萬福寺を訪問し、同6日に伏見を発ちました。

篤姫は以後、一度も京都を訪れないので、この地は彼女の生涯たった1度の「京都観光」の宿舎だったわけですね。

石碑の側面には、「天璋院篤姫洛中洛外滞在時の宿泊地」と刻まれています。


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また、石碑の反対側の側面には「坂本龍馬 寺田屋脱出後 避難之地」と刻まれています。

「その138」で紹介した寺田屋において、慶応2年1月23日(1866年3月9日)に襲撃されて負傷した坂本龍馬は、「その141」で紹介した材木小屋に身を潜めたあと、長府藩士の三吉慎蔵やのちに妻となるお龍の通報によって助け出され、ここ薩摩藩邸に保護されました。

薩摩藩邸の石碑に土佐人の名が刻まれるというのも、珍しいですね。


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その後、薩摩藩邸は鳥羽・伏見の戦い時に会津藩兵らによって焼き払われました。

現在、その跡地は酒造会社の敷地になっています。


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by sakanoueno-kumo | 2018-10-04 00:09 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その125 「岩倉具視公旧蹟九兵衛宅址碑」

「その123」で紹介した「岩倉具視幽棲旧宅」から直線距離で1kmほど南東に、「岩倉具視公旧蹟九兵衛宅址」と刻まれた石碑があります。

九兵衛とは、岩倉具視の乳父山本九兵衛のことだそうです。


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乳母ならよく知っていますが、乳父ってあまり聞いたことがないですよね。

そもそも、なんて読むのでしょう?

ちちちち?(笑)

父は乳出ないし!(笑)

武家社会では、傅役といった父親代わりになって躾ける家臣がいましたが、公家社会の場合、乳父といったのでしょうか?


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岩倉具視は岩倉村に蟄居してからも、たびたび命を狙われる危険に晒されました。

そんなとき、ここ花園村の九兵衛宅に身を寄せて難を逃れたといいます。


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石碑は現在、民家の門の横に建っています。

なので、あまり引きの写真を撮るに憚られ、石碑のみのアップ写真を掲載します。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-05 23:45 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)