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いだてん~東京オリムピック噺~ 第25話「時代は変る」 ~第2部プロローグ~

さて、物語は第2部に入りましたね。スポットは陸上競技から水泳に移され、主人公も金栗四三から田畑政治に代わりました。わたしは、学生時代に自身も陸上部で長距離選手だったこともあり、金栗四三という名前は知っていましたが(といっても、箱根駅伝の創始者という程度ですが)、この田畑政治という人に関しては、まったく名前すら知りませんでした。大河ドラマの制作が発表されてからにわかに関連本を読みましたが、市販されていた本も圧倒的に金栗四三のものが多く、田畑政治のことが詳しく解説された本はあまりありませんでした。なので、ここから先は、主に感想文のようなレビューになるかと思いますが、よければお付き合いください。


e0158128_17574863.jpg 金栗より7歳年下の田畑は、明治31年(1898年)、静岡県浜松市の造り酒屋の次男として生まれました。大商家だった田畑家は、浜名湖口に浮かぶ弁天島別邸を持っていたそうで、ここで田畑は水泳を覚えました。浜名湖を有する浜松は、古来、水泳が盛んな町で、健康な子供は、一日中泳いで遊んでいるような環境だったそうです。また、田畑の祖父も父も若くして肺結核で亡くなっており、病弱な体を鍛えるという目的もあったとか。そんな幼少期を過ごし、やがて県立浜松中学(現・県立浜松北高)に進んだ田畑は、水泳部に入部します。当然のことながら、この時代にプールを完備した学校などなく、練習場所は天然の川や海でした。もっとも、この頃の水泳は、着順を争う「競泳」ではなく、神伝流水府流などの古流泳法を学び、いかに美しく長い距離を泳ぐことができるか、ということに重点が置かれていたそうです。幼いころから浜名湖口の潮流に慣れ親しんできた田畑は、その腕前は水泳部でも抜きん出ていたそうです。


 ところが、4年生のとき、慢性虫垂炎大腸カタルを併発する大病を患い、医者から水泳を続けることを禁じられてしまいます。普通なら、ここで意気消沈してしまうところですが、田畑少年は、自らの選手生命は断念したものの、「浜名湖の水泳を日本一にする」という目標を掲げ、後進の育成に力を注ぎます。具体的には、弁天島の海水浴場で練習する4つの中学校を束ねて「浜名湾遊泳協会」を創設し、当時、各学校でバラバラだった泳法を統一し、レベルの向上を図ります。15、6歳のときの話ですからね。田畑のリーダーとしてのポテンシャルの高さが窺えますね。


 学業優秀だった田畑は、やがて旧制第一高等学校、東京帝国大学に進学。その間も水泳に対する情熱は冷めることなく、夏休みには地元に帰り、後輩たちを熱血指導しました。そして大正11年(1922年)には、全国競泳大会で浜名湾遊泳協会を優勝に導きます。


 大正13年(1924年)、東京帝国大学を卒業した田畑は、朝日新聞社に入社。当時、帝国大学の卒業生のほとんどは高級官僚を目指し、民間企業に就職するとしても、三井三菱といった財閥系の大企業に就職するのが普通でした。新聞社の社会的地位は今ほど高くなく、帝大生は見向きもしなかったそうです。そういった意味でも、田畑は変わり者だったようですね。


 新聞社に入社してからも田畑は水泳に関わり続けました。そして、入社した年の10月には、大日本水上競技連盟理事に就任します。入社半年の新入社員の若造ですからね。当時、それほどスポーツ団体というものが重視されていなかったとはいえ、ありえない人選です。田畑は水泳会の代表として、大日本体育協会の会合にも頻繁に参加するようになり、嘉納治五郎らともやりあっています。帝大出身の秀才で弁も立ちますから、体協の猛者たちは、持て余し気味だったようです。また、朝日新聞社で政治部に所属していた田畑は、政友会の担当となり、鳩山一郎に目を掛けられ、当時の大蔵大臣、高橋是清からオリンピック出場のための補助金を取り付けることに成功しています。ドラマでも描かれていましたね。すごい行動力、交渉力、そして実行力です。こんな若者、いまはまずいないでしょうし、いたとしても、社会から弾かれるでしょうね。


 ちなみに、ドラマで描かれていた「光文事件」。あれは実際にあった話で、大正15年(1926年)12月25日の正天皇崩御直後、東京日日新聞(現在の毎日新聞)が号外を出して次の元号は『光文』と報じました。これに便乗して報知新聞、都新聞も号外を発表、読売新聞なども追随しましたが、その後、発表された元号は『昭和』。大きな誤報となりました。この誤報によって東京日日新聞の編集長が役職を解かれるという事態にまで発展しますが、一説には、当初は『光文』に決定していたものの、事前に漏洩したため、発表直前に『昭和』に変わったとも言われます。しかし、一方では、決定していた元号を直前で変えるなどありえないとする見方もあり、今となっては真相は藪のなかです。先日の『平成』から『令和』への改元のときも、様々な憶測が飛び交っていましたよね。しかし、結果はほとんど予想されていなかった『令和』という元号でした。やはり、国の威信にかけても、簡単に予想できたり事前に情報が漏れるような元号にはできないんでしょうね。


 あと、金栗四三の三度目の出場となった第8回パリオリンピックも少しだけ紹介されていましたね。当時34歳のベテランランナー金栗にとってはラストチャレンジでしたが、結果は酷暑のなか、32km地点での棄権となりました。しかし、ストックホルムのときのような挫折感はなく、レース後、引退を決意します。しかし、日本マラソン界のパイオニア・金栗四三のドラマは、まだまだ続きがあるんですね。それは、今後の物語に譲ることにします。



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by sakanoueno-kumo | 2019-07-01 17:58 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第21話「櫻の園」 ~女子体育と日本競泳のスタート~

 大正9年(1920年)夏の第7回アントワープオリンピック大会後、金栗四三はすぐに帰国せずに欧州をまわりました。といっても、ドラマのような傷心の一人旅ではなく、他の選手たちとともに欧州のスポーツ教育の視察旅行だったようです。金栗は第一次世界大戦敗戦国となったドイツを訪問し、4年前に来るはずだったスタジアムを見に行っています。そこで見たドイツ人のスポーツに向かう姿勢に心を動かされ、とくに、若い女性たちが熱心にスポーツに取り組む姿に驚いたようです。日本ではほとんど見られないことでした。しかし、世界では、明治33年(1900年)の第2回パリオリンピック大会から女子の参加が認められており、陸上競技においても女子選手の参加を認めようという動きが出始めていました。このままでは、また日本が世界から取り残される。そう思ったのでしょうね。金栗はこの後、女子体育の振興に力を注ぐことになります。


e0158128_19143806.jpg アントワープ大会の翌年の大正10年(1921年)1月より、金栗は女子師範学校に勤務するようになります。専門教科は社会科でしたが、実際には体育教師として赴任したようなものでした。「マラソンの金栗」といえば、今や日本中の有名人でしたから、そのオリンピック代表選手から直々に体育を教われる、これほど光栄なことはないように思いそうですが、当時の女学校の事情は違っていました。この時代の女学校というのは、基本的には花嫁修業の場。おしとやかな良妻賢母を育てることが最大の教育理念でした。そうした場にスポーツを持ち込むというのは、大きな抵抗があったであろうことは想像に難しくありません。「女がスポーツなんてやると、じゃじゃ馬になって嫁のもらい手がなくなる」、そういって最初はなかなか受け入れてもらえなかったようですね。既成概念を変えるというのは、簡単なことではありません。


 さて、物語はマラソンだけでなく水泳にもスポットが当たり始めましたね。日本はアントワープオリンピックに初めて内田正練選手と斎藤兼吉選手という二人の競泳選手を送り込みましたが、結果は惨敗。まったく歯が立たちませんでした。その理由は、体力的なものよりも、その泳法にありました。当時の日本人選手は、水府流抜き手神伝流という日本泳法でしたが、欧米諸国は、すでに最速泳法クロールが主流となっていたんですね。


 クロールはもともと南米先住民の泳法だったそうで、それが18世紀前半のイギリスに伝わり、とある選手がこの泳法を競泳大会で試したところ、圧倒的な速さでぶっちぎり優勝したといいます。しかし当初は、「しぶきをあげながら泳ぐのは野蛮だ」として、あまり普及しませんでした。当時は、欧米でも日本の古流と同じような平泳ぎ横泳ぎが主流だったようです。ところが、近代オリンピックが始まると、美しく優雅な泳法よりもスピードを求められるようになり、クロールが脚光を浴びるようになっていきました。しかし、日本はまだその競泳界の事情を知らなかったんですね。


 日本人初のオリンピック競泳は惨敗に終わりましたが、8年前の金栗らと同じく、世界を目にしたことは大きな収穫だったでしょう。このあと日本競泳界はクロールを取り入れ、飛躍的に向上していくこととなります。その立役者となるのが、このドラマのもうひとりの主人公、田畑政治です。



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by sakanoueno-kumo | 2019-06-03 19:58 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第20話「恋の片道切符」 ~アントワープオリンピック~

 第一次世界大戦が終結した翌々年の大正9年(1920年)夏、第7回アントワープオリンピック大会が開催されました。4年前のベルリン大会中止をはさんでいたため、ストックホルム大会以来8年ぶりの開催でした。8年前には金栗四三三島弥彦2人だけの出場だった日本選手でしたが、この8年間で日本国内のオリンピックに対する意識は大いに高まり、代表選手を選ぶ予選会は、札幌、仙台、東京、新潟、名古屋、大阪、松江、岡山、広島、福岡の全国10ヶ所第一次予選が行われ、そこに参加した選手の数は3600人を超えたといいます。ここから選ばれた198人が東京で開催された第二次予選に進み、その中から上位者がオリンピックの日本代表に選ばれました。


 マラソンの出場選手枠は4人。選ばれたのは、箱根駅伝で活躍した東京高等師範学校の茂木善作、早稲田大学の三浦弥平、そして北海道は小樽の中学生だった八島健三、そして、金栗四三でした。このとき金栗は30歳。マラソン選手としてのピークは過ぎた年齢といえましたが、第二次予選ではぶっちぎりの独走だったようで、この時点では、まだ、日本国内では金栗に勝てるランナーはいない、正真正銘の日本のエースだったんですね。


 日本選手は陸上選手のほか、競泳テニスなどを含む15名が参加。それも、全て国費での渡航となります。8年前のストックホルム大会は金栗と三島の2人だけの出場で、しかも渡航費は自費という冷遇だったことを思えば、国のスポーツに対する意識もこの8年間で大いに変わっていたようですね。もっとも、渡航費についていえば、そのときのお国の財布状況にも関係したでしょう。8年前のストックホルム大会のときは、日露戦争で使った莫大な戦費により日本は借金まみれで、緊縮財政により財布のひもが固かったんですね。日露戦争は、勝利とは多分に表面上のことで、ポーツマス条約において日本はロシアから賠償金はまったくとれず、財政はたちまち困窮を極めており、国内各地で政府に対する不満が爆発して、あちこちで暴動が起きているといった国内情勢でした。まだまだオリンピックの認知度が低かったこともあって、スポーツごときに国費を投じるというのは、財布の事情も、そして国民感情も許さなかったのでしょう。


 一方で、8年後のアントワープ大会時は、第一次世界大戦の特需で日本は一気に財政を立て直し、好景気の真っ只中でした。戦争期間中、ヨーロッパ諸国は大戦に手一杯でアジアに手が回らず、その間、アジアに対する輸出を日本が独り占めにし、たいそうボロ儲けをしたようです。そんな折のアントワープ大会でしたから、8年前とは全然背景が違ったんでしょうね。もっとも、このすぐ後に戦争バブルは弾け、やがて世界大恐慌に陥るのですが。


e0158128_19143806.jpg 満を持して挑んだマラソンでしたが、結果は金栗が2時間48分45秒16位、茂木は20位、八島は21位、そして三浦は24位に終わりました。日本選手15人中最も多くの4選手を派遣したマラソンの成績としては、物足りない結果だったといえるかもしれません。もっとも、8年前は途中棄権だったことを思えば、出場選手4人が全て完走できたことは、収穫だったかもしれませんね。この大会でのマラソン出場選手は48人で、うち13人が棄権していたといいますから。ドラマでは、失意の金栗でしたが、実際には、自身の年齢からいえば、ある程度予想していた結果だったかもしれません。ただ、改めて悔やまれるのは、「第16話」の稿でも述べたとおり、選手として最もピークだった時期を戦争によって棒に振ったことでしょうね。悔やんでも仕方がないことですが。


 あと、この大会での一番の収穫は、庭球(テニス)熊谷一弥選手がシングルスで銀メダル、ダブルスでも柏尾誠一郎選手と組んで銀メダルを獲得したことでした。これが日本人初のオリンピックメダル獲得で、ここから日本のメダリストの歴史は始まったわけですが、テニスだけでいえば、こののち100年近く日本人選手がメダルを獲ることはなく、96年後のリオデジャネイロオリンピックでの錦織圭選手の銅メダルまで待たねばなりません。日本人初のメダリストがテニスだったっていう歴史は、ちょっと意外ですよね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-05-27 17:44 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第19話「箱根駅伝」 ~箱根駅伝の始まり~

大正8年(1919年)夏には下関から東京までの1200kmを走破する耐久マラソンに挑み、同じ年の11月には日光から東京間の120kmを、学生たちの駅伝チームともに走るというイベントを成功させた金栗四三でしたが、翌年の2月、東京箱根間往復大学駅伝競走を企画、実施します。現在ではお正月の風物詩となった箱根駅伝の始まりです。


e0158128_19143806.jpg そもそもの着想は、大正8年(1919年)10月、金栗が埼玉県の小学校に審判として招かれたその帰路、同じく審判として同行していた明治大学学生の沢田英一と東京高等師範学校の後輩・野口源三郎とともに汽車のなかで陸上競技について語り合っていた際、今度はアメリカ横断マラソンに挑戦しようという話で盛り上がったといいます。沢田英一は、同じ明治大学の出口林次郎とともに、金栗が下関-東京間約1200kmの耐久マラソンに挑む1ヶ月ほど前に、札幌-東京間約830kmを20日間で走破した人物でした。また、野口源三郎は、大正9年(1920年)のアントワープオリンピック棒高跳びの選手として出場して12位になり、大正13年(1924年)のパリオリンピックでは日本選手団の監督を務めることになる人です。彼らが立てた計画は、サンフランシスコから中部農村地帯を横切ってニューヨークまで走るという壮大なもの。1人ではとても不可能だとしても、駅伝形式なら出来なくはないかもしれない。しかし、途中にはロッキー山脈という途方もない山岳地帯が行く手を阻みます。これを越さねばならないとなると、相当な鍛錬が必要だということで、その鍛錬を兼ねた前哨戦として着想したのが、箱根の山越え駅伝だったそうです。つまり、箱根駅伝は、アメリカ横断クイズ・・・じゃなかった、アメリカ横断駅伝のメンバーを選ぶ予選会だったんですね。


 金栗はさっそく報知新聞社に話を持ちかけてスポンサー協力を仰ぐとともに、東京都内の大学や専門学校、師範学校に参加を呼びかけました。しかし、当時は10人の長距離走者を揃えられる学校が少なく、結局、東京高等師範学校、早稲田大学、明治大学、慶應義塾大学4校のみの出場となります。ともあれ、このとき1校10人の選手で2日間かけて東京-箱根間を往復するという形式が決められました。


 大正9年(1920年)2月14日、スポンサーだった有楽町の報知新聞社前から4校の選手がスタートし、現在まで続く箱根駅伝が始まりました。そのとき審判長としてスタートの号砲を鳴らしたのは、他でもない金栗四三だったそうです。ドラマでもありましたが、当時は、「学生の本分は勉学にあり」という理由から、選手たちは午前中は通常どおり授業を受け、午後からのレースとなりました。そのため、途中で日没を迎えてしまい、往路最終ランナーである5区の選手たちは、地元の青年団たちが松明を掲げて伴走してくれるなかでのレースとなったそうです。


 結果は、往路は明治、東京高師、早稲田、慶應の順で、復路は先行する明治を終盤になって東京高師が激しく追い上げるというドラマチックな展開となり、ゴール間際で追いつき、最後は東京高師がわずか25秒差逆転優勝。時間は15時間5分16秒だったそうで、今より4時間以上も遅いタイムですが、まあ、これは当然でしょうね。何より、4校とも全選手がリタイアすることなく完走したことに意義があったでしょう。特に慶應は往路で10マイルも遅れたにもかかわらず、最後まで諦めずに走破したことで、金栗は「最後迄奮闘した男性的態度は、普く人士の以って模範とすべき」と評しています。このとき始まった箱根駅伝が、来年で100年を迎えるわけですから(第二次大戦中は中止されていたため、100回大会ではありませんが)、第1回大会を完走した4校の選手たちのタスキが、今なお繋がっているといえます。



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by sakanoueno-kumo | 2019-05-20 18:47 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第18話「愛の夢」 ~走る広告塔・金栗四三と女子体育の出発点~

 京都から東京間の駅伝イベント企画を成功させた金栗四三は、さらに長距離走の普及に力を尽くします。関東の大学から長距離選手たちを集めて、富士山を練習場として連日鍛錬を重ねました。大正2年(1913年)に時事通信社が主催した富士登山マラソン競争という大会があったそうですが、一度きりになっていたのを、大正6年(1917年)に第2回大会として金栗が復活させ、自身の教え子を全員出場させました。このとき優勝したのは、金栗の東京高等師範学校の後輩の秋葉祐介で、その他の上位もほとんどが金栗の教え子だったそうです。のちにこの大会は富士登山競走駅伝となって、昭和20年代の終わりまで続きました。


e0158128_19143806.jpg 大正8年(1919年)には、その後輩の秋葉祐介と一緒に下関から東京までの1200kmを走破する耐久マラソンにも挑みました。それも、7月22日から8月初旬にかけての1年で最も暑い時期を選んでのチャレンジでした。これは、金栗自身が暑さのためにリタイアしたストックホルムオリンピック苦い経験からきたものだったことは言うまでもないでしょう。2人は20日間に渡って毎日60kmを走り続けました。金栗は朝日新聞に宿舎などの協力を依頼し、2人の20日間の激走は紙面で毎日報道されました。その挑戦は日本中で大きな話題になり、通過する町では沿道に大勢の見物客が集まったそうです。そんな沿道の人達にわかるように、2人は胸に「金栗」「秋葉」の名札をつけて走りました。


 さらに、同じ年の11月には、日光から東京間の120kmを、自身が勤める獨協中学校の徒歩部員たちに10区間を駅伝形式で走らせ、自身は1人で走って競争するというイベントに挑戦します。生徒たちの駅伝チームは3チーム作り、また、東京高等師範学校の徒歩部にも5区間で参加してもらい、その4チーム対金栗1人というレース。「師弟対決」というこのフレーズにマスコミが食いつき、これがまた世間の大注目を浴びました。結果はさすがに金栗の負けでしたが、マラソン、駅伝の普及という意味での興業としては、大いに成果をあげたといえます。この時期の金栗は、まさに走る広告塔として自身の知名度を存分に生かしていたんですね。


e0158128_22045659.jpg 今回は女子体育にもスポットが当てられていましたね。イギリス留学帰りの二階堂トクヨはのちに日本女子体育大学の創設者となり、後世に「女子体育の母」と称される女性です。大正4年(1915年)に東京女子師範学校教授となり、第六臨時教員養成所教授を兼任していましたが、日本の女子体育の教育に不満を抱き、大正11年(1922年)、私財を投げ打って日本女子体育大学の前身となる「二階堂体操塾」を開きました。その門下生に、のちに日本人女性初のオリンピックメダリストとなる人見絹枝がいるのですが、ひょっとして、杉咲花さんが演じるシマのモデルは人見絹枝でしょうか? だとしたら、年代が少し違うようですが(人見絹枝は、この頃はまだ12~3歳)、あくまで架空の人物という設定で、シマという名前にしたんでしょうか? もうちょっと観てみないとわかりませんね。ドラマ中、シマが帯を解いて走り出した瞬間、ピストルのスタード音が鳴りましたが、あれは、女子体育のスタートという意味だったのでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-05-13 22:05 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第17話「いつも2人で」 ~駅伝の始まり~

 第一次世界大戦の長期化に伴う第6回ベルリンオリンピック中止によって目標を失った金栗四三。オリンピックの中止となれば、いつまでも嘉納治五郎の好意に甘えて研究生を続けているわけにはいかず、この年、鎌倉の師範学校で社会科の教師となり、その翌年の大正6年(1917年)4月には東京に戻り、独逸学協会学校で教鞭を執ります。そこで金栗は徒歩部の顧問となり、自身もトレーニングを積みながら後進の育成に励み、マラソンや陸上競技の普及に力を尽くしていくことになります。


e0158128_19143806.jpg 「日本初のオリンピック選手・金栗」の名は全国に知られており、金栗と一緒に走りたいと希望する生徒が次第に増え、金栗は徒歩部主催のマラソン大会を頻繁に行っていたそうですが、そんなとき、ある大きなイベントの企画が持ち上がります。金栗が独逸学協会学校の教師となった大正6年(1917年)は、東京奠都50周年という節目の年だったのですが、読売新聞社がこれを記念して京都から東京間を何人ものランナーでつないで走破するというイベントを企画します。長距離走といえば、その第一人者である金栗を抜きには考えられない。読売新聞社が金栗に協力を打診したところ、即答で快諾したそうです。客寄せパンダであれ何であれ、この企画を主導するのは自分しかいない、そう思ったのでしょうね。


 京都の三条大橋から東京の不忍池までの約516km23区間に区切り、1区間ごとにランナーたちがリレー形式で走る。それも、現在の箱根駅伝のように日没後の中断はなく、昼夜兼行で走りきろうというものでした。江戸時代、東海道五十三次宿場には馬や人足を配置した「駅」が整備され、火急を告げる使者は、ここで馬を乗り継ぎながら先を急ぎました。古来、このシステムは「伝馬制」「駅伝制」と言われており、古くは日本書紀にも記されています。これにちなんで、このレースは「駅伝」と名付けられました。その名付け親は、当時の大日本体育協会副会長で神宮皇學館館長の武田千代三郎だったそうです。題して、「東京奠都五十年奉祝、東海道五十三次駅伝競歩競争」


レースは関東チーム、関西チーム、中部チーム三つ巴競争という企画でしたが、関西は参加選手が揃わず、結局は関東チームと中部チームの一騎打ちのレースとなります。その2チームの内訳も、関東チームは第一高等学校、東京高等師範学校、早稲田大学からの参加だったのに対し、中部チームは愛知一中の生徒たちが中心の編成で、それでも足らず、OB教員、さらには52歳の前校長まで走ったといいます。それに対して関東は、鋭揃いだった上にアンカーが日本のエース・金栗でしたから、レースは1時間42分の大差をつけて関東チームが圧勝します。もともと力の差は歴然としていて勝負になるはずもなかったのですが、しかし、このとき、金栗の走りぶりを見ようと沿道いっぱいに人が溢れたといい、ゴール地点の不忍池の周辺には、万を超える観衆が集まったといいます。大歓声に迎えられてゴールした金栗。このとき、オリンピック中止の無念が少しばかり晴れたかもしれませんね。


 この企画は大評判となり、これをきっかけに「駅伝」なるスポーツが広く知られるようになり、一気に競技人口が増えていったといいます。大成功の企画だったといえるでしょうね。のちに日本発祥のスポーツとして世界共通語となる「駅伝“EKIDEN”」の始まりです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-05-06 17:39 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第15話「ああ結婚」 ~金栗四三の結婚~

 「しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。人笑わば笑え。これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。この重圧を全うすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」


e0158128_19143806.jpg ストックホルムで途中棄権した翌日の日記にこう記した金栗四三は、その誓いどおり、帰国するとすぐに4年後のオリンピックに向けてトレーニングを開始しました。日本人初のオリンピック選手として経験したことを未来に繋げねばならない。彼は自身の失敗を教訓に、まずは暑さを克服すること、そして欧州の硬い石畳や舗装された道路への対策など、様々な工夫を凝らして練習に励みます。そして大正3年(1914年)に東京高等師範学校(現・筑波大学)を卒業した彼は、当初、名古屋の愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高校)の教師に赴任することが内定していましたが、悩んだすえ、この話を断ったそうです。理由は、次のオリンピックに向けての練習に専念したいという思いからでした。彼の並々ならぬ覚悟のほどが窺えますね。そんな金栗の思いに対して、嘉納治五郎校長は東京高師の研究科に籍をおいて練習に励めるよう配慮します。金栗を日本初のオリンピック選手にしたのは嘉納ですから、最後まで支援しようという思いだったのでしょう。ドラマで、「プロフェッショナル」という言葉が出てきましたが、まさしく、日本初のプロスポーツ選手の誕生だったといえるかもしれません。


 同じ年の4月10日、金栗は地元、熊本県の池部家の養子となる話がまとまり、石貫村の医者の娘である春野スヤ結婚します。金栗は数え歳で24歳、スヤは23歳でした。ドラマではスヤは再婚という設定ですが、実際にもそうだったのかどうかは知りません。まあ、当時の女子の23歳といえば、行き遅れの年齢と言えるでしょうから、再婚は本当の話だったかもしれませんね。オリンピック選手との結婚と聞けば、現代の感覚でいえば華やかな縁談に思えますが、当時の感覚でいえば、変わり者と結婚するようなものだったかもしれません。スポーツ選手なんて職業は存在しなかった時代ですからね。当時の結婚適齢期の16、7歳の初婚の娘さんには、とても相手にはされなかったかもしれませんね。実際のところ、年増のバツイチが関の山だったんじゃないでしょうか。


 ちなみに、ドラマでは金栗とスヤは幼馴染の設定ですが、これも、本当の話かどうかはわかりません。たぶん、ドラマオリジナルの設定なんじゃないでしょうか。ちなみにちなみに、池部家の養子となった金栗でしたが、かれはその後も旧姓の「金栗」を名乗り続けます。日本初のオリンピック代表選手として彼の名はすでに全国に知れ渡っていましたからね。そのへんを考慮してのことだったのかもしれません。


 さて、晴れて妻帯者となった金栗でしたが、祝言から5日目には新妻を残して東京に旅立って行きました。次のオリンピックを目指して練習に励むためでしたが、それを可能にしてくれたのが、池部家の養母による支援でした。こののち、養母の幾江は東京の金栗に仕送りし続けます。当時、都会で働く息子は実家に仕送りをするのが当たり前でしたから、全く逆だったんですね。金栗は幾江とスヤに宛てて筆マメに便りを送っていますが、それは、仕事もせずに走ってばかりいることで、妻と養母に対しての引け目だったのかもしれません。


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 ちなみに余談ですが、オープニングのタイトルバックに現れたスヤさんの回転レシーブにはビックリしましたね。あと、スヤさんの冷水浴。あのシーンの瞬間視聴率は高かったんじゃないでしょうか(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2019-04-22 00:53 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第13話「復活」 ~消えた日本人選手とポルトガル選手の死~

日本初のオリンピック選手として第5回ストックホルムオリンピックマラソンに出場した金栗四三選手でしたが、その成績は途中棄権という残念な結果となりました。その原因は日射病だったといいます。現在の熱中症ですね。この日のストックホルムは陽のあたる場所で40度を超える酷暑だったそうで、68名の競技参加者中、ほぼ半数の33名がゴールできなかったといいますから、その過酷さが窺いしれます。金栗はスタートで出遅れて最後尾になったものの、その後、追い上げて17、18位あたりまで順位を上げていたといいますが、折返し地点を過ぎたあたりから急激な疲労に襲われ、頭がボーッとし始めていたようです。後年、金栗はこのように述懐しています。


 「途中でニ、三十人抜いて折返し点をまわり、これなら相当いけるぞと思ったのも束の間、脚が痛みだし汗が目に入り、十五マイルを過ぎるあたりから意識がぼんやりし始めて、途中で水を飲んだりかぶったりしたのがなおいけなかったか」(『日本スポーツ百年』日本体育協会編)


e0158128_19143806.jpg 水を飲んだりかぶったりしたのは間違いではなかったのでしょうが、それ以上に過酷な条件が重なったのでしょうね。彼は歩いたり走ったりを繰り返すようになり、とうとう26.7km地点でコースをはずれ、林のなかに消えてしまいました。そして、倒れていたところを地元住民のペトレ家の人々に助けられます。おそらく、意識朦朧状態でペトレ家の庭に迷い込んだのでしょう。ペトレ家の人々は彼を自宅ベッドで休ませ、介抱しました。彼が目を覚ましたのはだったとも、翌日の朝だったともいわれます。意識の戻った金栗は、競技場へは戻らずまっすぐ宿舎に帰りました。そのため、正式な棄権の届出が大会本部に提出されておらず、「日本人ランナーが消えた」として現地ではちょっとした騒ぎになったようです。以後、スウェーデンでは、金栗四三は「消えた日本人選手」として後世に名を残すことになります。


 レース翌日、明治45年(1912年)7月15日の金栗の日記には、このように記されています。


 「大敗後の朝を迎う。終生の遺憾のことで心うずく。余の一生の最も重大なる記念すべき日になりしに。しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。人笑わば笑え。これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。この重圧を全うすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」


 日の丸を背負って戦うことの重圧がひしひしと伝わってくる文章ですね。


e0158128_22521862.jpg この大会のマラソンでは、もうひとり、大きな話題となった選手がいました。それは、ドラマで金栗が足袋をプレゼントしていたポルトガルのフランシスコ・ラザロ選手。彼は金栗と同じく途中棄権してしまいますが、金栗と違うのは、その翌朝、担ぎ込まれた病院で死んでしまいます。21歳の若さでした。ラザロ選手は開会式で旗手を務めており、ポルトガル国民から絶大な期待が寄せられていた選手だったそうです。死因は現代でいう熱中症だったようですが、あとでわかったことですが、彼は暑さ対策として他の選手たちのように頭を何かで覆うようなことをしておらず、独自の対策として、身体中に油を塗って太陽光線から身を守ろうという方法をとっていたそうです。このため発汗が抑えられ、体温の調整がうまくいかなくなり、結果、死に至ったということだったようです。


 現代のわたしたちが聞けば、なんと愚かなことを、と思ってしまいますが、当時の彼らにとっては、いたって真面目に考えた対策だったんですね。まだスポーツ生理学なんてものは存在しなかった時代の話ですから。もっとも、わたしらが学生時代の昭和の終わり頃でも、まだ、「水を飲んだらかえってバテる」なんて間違った指導法が普通にまかり通っていましたからね。ラザロ選手のことも、決して笑えません。


 このラザロ選手の死に対し、スウェーデン国民は深く心を傷め、大会が済んだあとにオリンピック競技場で追悼の音楽会を開き、その売上をラザロ選手の家族に贈ったそうです。金栗を介抱したペトレ家の人々といい、ラザロ選手の死を悼んだたくさんの人々といい、当時のスウェーデン国民は、国あげての「お・も・て・な・し精神」だったのかもしれません。来年の東京オリンピックでも、見倣わないといけないですね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-04-02 21:04 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第12話「太陽がいっぱい」 ~金栗四三の五輪マラソン初挑戦~

 明治45年(1912年)7月14日、いよいよ金栗四三選手が出場する第5回ストックホルムオリンピックマラソンの日がやってきました。天候は快晴。ストックホルムは北欧スウェーデンの首都で、北緯60度に近い位置にあり(ちなみに日本の最北端の稚内でも北緯45度)、亜寒帯気候で7月の平均日最高気温は22度前後という過ごしやすい気候の都市ですが、数年に一度、熱波に襲われることがあり、それが、この年だったそうです。この日のストックホルムの気温は、陽の当たる場所では40度を超えていたといいますから、まさに、本話のタイトルどおり、雲ひとつない「太陽がいっぱい」の日でした。


 ドラマのとおり、この日、それまで床に伏していた大森兵蔵監督が、安仁子夫人の制止をふりきって、金栗選手と共にスタジアムに向かいました。先に行われた三島弥彦選手の短距離走で、自身の体調不良によって力になってやれなかったことが気になっていたのかもしれません。12時半、彼らはホテルを出てタクシーを探したものの拾えず、電車で行こうとするも、満員で乗れなかったようです。そこで、二人は競技場まで歩くことにしました。ドラマのように大森監督を背負って歩いたかどうかはわかりませんが、足手まといではあったでしょう。マラソンのレース前の金栗選手にとって、これは大きな体力の消耗になったでしょうね。


 そもそも、スタジアム近くに大会事務局が用意した選手宿舎があったのですが、日本選手団は、周囲が言葉の通じない外国人ばかりでは気づかれするだろうという理由でこれを利用せず、少し離れた繁華街のホテルを宿としていました。これも、になったんですね。


 なんとか間に合った金栗は、おそらく入念なアップをするゆとりもなく、スタート地点に立ちました。ときの心境をのちに金栗は、「スタートで私は中位、私より小柄な外国人も多くて見劣りは感じなかった。」と語っています。短距離走の三島弥彦選手は明らかな体格の違いに圧倒されたようでしたが、長距離はそれほどでもなかったようですね。


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ピストルの音で出場選手68人が一斉にスタート。マラソンはスタジアムを走って、外に出ていくことになっています。スタート地点では集団の中ほどにいた金栗でしたが、スタートしたとたん、外国人選手は猛スピードで飛び出し、たちまち金栗は最後尾になります。のちの金栗の回顧談です。


 「68人の選手が競技場の外に出たとき、私はビリだった。外国人はぐんぐんスピードを出す。あわてて無理にピッチを上げたのがわるかった」

 「スタートして外人は短距離を走るように走り、私は最後となり、実に面食らった。いわゆる調子がはじめから乱されていた」(『日本スポーツ百年』日本体育協会編)


 スタートでつまづいた金栗でしたが、その後、最初のハイスピードが仇となって失速してきた選手を徐々に抜き去り、少しずつ追い上げを見せます。しかし、次第に暑さによって体力を消耗し、目まいに襲われ始めました。後年、彼はこのように述懐しています。


 「途中で2、30人抜いて折り返し点をまわり、これなら相当いけるぞと思ったのも束の間、脚が痛みだし汗が目に入り、15マイルを過ぎるあたりから意識がぼんやりし始めて、途中で水をのんだりかぶったりしたのがなおいけなかったか」(『日本スポーツ百年』日本体育協会編)


 テレビ中継もラジオ中継もない時代ですが、選手たちの順位は、スタジアムで待つ観客にも逐一伝えられていたといいます。スタンドにいた嘉納治五郎団長をはじめ、大森監督ら関係者たちは、ドラマのようにさぞかし気をもんでいたことでしょうね。もっとも、大森監督がおとなしくベッドで寝ていてくれれば、レース前の体力の消耗はもう少し少なくてすんだでしょうが。


 レースを制したのは、暑さに慣れた南アフリカケネス・マッカーサー選手でした。何より、68名のマラソン競技参加者中、ほぼ半数の33名がゴールできなかったという結果が、このレースの過酷さを雄弁に語っているといえます。そして、その33名のなかに、金栗選手も入っていました。ところが、当初、その途中棄権者リストのなかに金栗の名前がなく、さりとてゴール地点にも現れず、忽然と姿を消してしまっていました。つまり、棄権ではなく失踪しちゃったんですね。その辺の経緯は来週に持ち越しのようでしたので、当ブログでも、ネタバレはやめておきます。つづきは来週にて。


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by sakanoueno-kumo | 2019-03-25 23:59 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第11話「百年の孤独」 ~開会式と三島弥彦選手の挑戦~

明治45年(1912年)7月6日、第5回ストックホルムオリンピック開会式が行われました。それは、現在のように大会初日ではなく、大会期間中で最も多くの選手が集まりやすい日に行われたようです。というのも、この頃のオリンピックの開催期間は現在のオリンピックのように半月ほどの日程ではなく、5月5日から7月27日までの約3か月半以上の長丁場だったそうです。当時の交通機関の移動手段などを考えれば、それぐらい必要だったのでしょうね。開会式というより、お披露目式といった趣旨の入場行進だったのでしょう。


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 日本の入場はイタリアの次でした。白い半袖半ズボンのユニフォームの胸には、日の丸が付いていて、三島弥彦選手は白いシューズ、金栗四三選手は黒い足袋での入場行進でした。三島選手が日の丸を掲げ、金栗選手がプラカードを持ちました。そこに記された国名は、JAPANではなくNIPPON。この表記にこだわったのが金栗選手だったかどうかはわかりませんが、たしかに、当時の日本人にとってJAPANなんて単語は、あまり馴染みはなかったでしょうね。そもそも、国名や地名は固有名詞なわけですから、東京はTOKYO、大阪はOSAKAであるように、日本はNIPPONであるべきなんですね。JAPANの語源は諸説ありますが、マルコ・ポーロ東方見聞録に登場する「黄金の国・ジパング (ZIPANG)から来たという説が有力となっています。そんな16世紀の西洋人がつけた呼称が世界公用語だと言われても、日本人としては納得いきませんよね。そう考えれば、日本人が日本人のことを「エキゾチック・ジャパン」なんて歌っちゃだめです(笑)。


 ちなみに、5つの大陸を表したという青、黄、黒、緑、赤の五輪マークは、この時点ではまだ存在せず、この2年後のパリでの会議でピエール・ド・クーベルタン男爵が初めて提案します。おそらく、このストックホルムオリンピックに日本や南アフリカが参加したことで、ようやくオリンピックで五大陸が輪でつながったという意味だったのでしょうね。


e0158128_21444997.jpg かくして日本人初のオリンピック選手2人の戦いが始まりますが、最初に世界と戦ったのは、短距離走の三島選手でした。入場行進当日の7月6日、三島は100m走の予選に出ますが、結果は11秒8で予選落ち。優勝したアメリカのラルフ・クレイグ選手のタイムが10秒8だったといいますから、1秒差の惨敗です。1秒といえば、およそ10m差ですからね。まったく歯が立たなかったといっていいでしょう。7月10日には200m走に挑戦した三島選手でしたが、ここでも最下位。その2日後の7月12日に行われた400m走では、エントリー選手5人のうち3人が棄権したため2人のレースとなり、予選2位以上が決勝進出という条件から三島は決勝進出の権利を得ますが、ここで三島は棄権しました。自分には決勝で走る力はないと悟ったのでしょうね。


「敵はタイムのみ。一緒に走る選手のことはライバルではなく、タイムという同じ敵に立ち向かう同志と思いたまえ」


 ドラマでプレッシャーに押しつぶされそうになっていた三島選手にかけた大森兵蔵監督の台詞ですが、いい言葉ですね。わたしは数年前まで少年野球の指導者を長くやらせてもらっていましたが、よく子供たちに言い聞かせていたのは、「他人と比べて上手い下手を気にするのではなく、昨日の自分より今日の自分が上手くなれるよう頑張れ!」という言葉でした。スポーツのみならずですが、いちばんの敵は自分自。自分との戦いに勝ってこそ、人は成長していくものだと思います。


 とはいえ、このときの三島選手の400mのタイムは56秒2。羽田での国内予選大会のときのタイムが59秒6だったことを思えば、昨日の自分より格段に速い記録を打ち立てているのですが、このとき優勝したアメリカのリードパス選手のタイムが48秒2だったといいますから、日本国内で無敵を誇った三島選手にして、世界の舞台ではまったく相手にならないどころか、初めから競技の土台にも立っていない状況だったといえそうです。


 「日本人に短距離走は無理です。100年掛かっても無理です。」


 ドラマ中、100m、200m、400m走の3種目を走り終えた三島選手が言った言葉ですが、いだてん紀行で紹介されていたように、三島から96年後に行われた2008年の北京オリンピックにおいて、塚原直貴、末続慎吾、高平慎士、朝原宣治K(4×100mリレー)日本人初のメダルを獲得しました(当初は銅メダルでしたが、のちにジャマイカの「金」はく奪のため、銀メダルに格上げ)。しかし、水を差すようですが、あれとて、アメリカ等の強豪国がバトンパスのミスや引き継ぎ違反で決勝に進めなかったことが日本にとってラッキーだったためで、本当の意味で世界に通用したとは言えないと思います。それで言うなら、2017年に桐生祥秀選手が日本人初の9秒台をマークした9秒98のタイム。これはとんでもなくスゴイことで、2019年3月の現時点で100m走9秒台の選は全世界で136人いますが、そのなかで非ネグロイド(黒人以外)の選手は8人しかいません。そこにようやく日本人選手が名を連ねた。三島選手のストックホルムから実に105年後のことで、まさしく三島選手の言葉どおり100年以上掛かったわけですが、それでも、桐生選手のタイムは世界順位でいえば106位で、非ネグロイド8人のなかでも7位です。ようやく世界と戦える入口に立ったという段階といっていいでしょうね。短距離走における日本人の挑戦は、まだまだ先は長そうです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-03-18 00:15 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(2)