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いだてん~東京オリムピック噺~ 第9話「さらばシベリア鉄道」 ~大陸横断の旅~

 日本初のオリンピック選手団一行(といっても、選手は金栗四三三島弥彦の2人、あと、同行する大森兵蔵監督とその夫人・安仁子の4人だけですが)、は明治45年(1912年)5月16日に神戸行きの急行列車で新橋駅を発ち、米原で敦賀行きの寝台列車に乗り換え、翌日の5月17日の朝に敦賀に着きました。途中の停車駅には彼らを見送る人たちが集結し、大変な騒ぎだったといいます。ドラマでは、現代で言うファンからサインをせがまれていましたが、実際にサインしたかどうかはわかりませんが、あんな感じの騒ぎだったんじゃないでしょうか。


 敦賀に着いた一行は、大阪商船の汽船「鳳山丸」に乗り込んで海路ウラジオストクに向かいます。そして、5月19日の朝、ウラジオストク到着。ここにも、日露戦争のあとに渡海して暮らしている日本人が約3千人いたといい、彼らをたいそう歓迎したそうです。ここからは陸路。多くの日本人に見送られながら、一行は汽車に乗って西へ向かいます。ここから12日間、シベリア鉄道での大陸横断の旅です。列車はローカル鈍行の二等寝台車でした。エコノミークラス症候群になりそうですね。


e0158128_20023595.jpg 5月20日、ハルビン到着。ドラマも回顧していましたが、このときより2年半ほど前の明治42年(1909年)10月26日、元老・伊藤博文がこの地で暗殺されました。伊藤は明治38年(1905年)11月の第二次日韓協約によって設置された韓国統監府初代統監に就任し、以降、実質的な朝鮮の統治権を掌握していました。伊藤はその間、皇帝退位させるなどかなり強引な手法で韓国内の統治に干渉し、統監の指導と承認がなければ、韓国はあらゆる政治行動をとってはいけないことにしていました。この頃から、現代まで続く韓国の反日感情は高まっていきます。伊藤は統監を3年余り続けて、殺される4ヶ月前にその職を辞めて日本に帰国していましたが、その後、韓国問題満州問題ロシアとの間で話し合う必要があるとして、ロシアの大蔵大臣ココフツォフと会談するためにハルビンを訪れ、そこで、兇弾に斃れます。


 暗殺者は安重根という韓国人で、代々学者の家柄に生まれた独立運動家でした。彼は捕まり、旅順の刑務所に入れられ、やがて処刑されます。そんな彼の銅像が、いまでもソウルの町に立っています。伊藤を殺したということで、その後、韓国では大英雄になっているそうですね。まあ、それだけ韓国の日本に対する恨みが根深いということなのでしょうが、とはいえ、彼がやったことは単なる人殺しで、伊藤を殺したからといって韓国の統治権が戻ってきたかというと、むしろ逆で、この事件がきかっけとなって翌年に日韓併合が成立しています。古今東西、暗殺で事態が好転したという歴史はほとんどありません。


 ちなみに、一瞬しか出てこなかった伊藤博文役の俳優さん、『西郷どん』でも伊藤役だった浜野謙太さんでしたね。なかなか、おつなキャスティングをしてくれます。


e0158128_19143806.jpg話をオリンピック選手団に戻して、金栗、三島の二人は、停車駅のプラットホームに降りて身体をほぐしたと日記にあります。車中で走るわけにはいかないし、身体を動かすこともままならない。アスリートの移動手段としては、最悪の条件ですね。この時代でも、アメリカの代表選手などは巨大な客船での移動で、船内には体育館のような施設もあったそうです。日本人選手一行とは大きな違いですね。金栗、三島両選手は、大きな駅で停車したときに体操などをして身体がなまらないようにするくらいのことしか出来ませんでした。


 また、食事に関しても、ドラマでは面白おかしく描いていましたが、実際にも大変だったようで、駅でパンや牛乳を買って食事にし、安仁子夫人が日本からもってきた缶詰を工夫しておかずにしていたといいます。これも、アスリートの体調管理という観点で言えば、劣悪な条件だったといえます。


 5月21日夜にイルクーツクに着き、ここでモスクワ行きに乗り換えて8日間、28日朝、モスクワに到着しました。そこで下車した一行は、クレムリン宮殿などを見学したそうです。翌29日、サンクト・ペテルブルグ(のちのレニングラード)到着。ここで、三島選手とは親戚にあたる本野一郎駐露大使に会い、日本料理を振る舞ってくれるなどの歓迎を受けたそうです。そして2日後の5月31日の夕刻、彼らはストックホルム行きのに乗りました。長い大陸横断の陸路のあと、今後はバルト海の船旅。そして6月2日、一行はようやくストックホルムに到着しました。東京の新橋駅を発ってから、実に17日目のことでした。



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by sakanoueno-kumo | 2019-03-04 20:06 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第8話「敵は幾万」 ~ストックホルムへ~

 かくして日本初のオリンピック選手に選ばれた金栗四三三島弥彦でしたが、問題はその旅費でした。当時、嘉納治五郎が会長を務める大日本体育協会は発足したばかりで、財政の余裕があるはずがありません。そこで嘉納は、国費による援助を文部省に求めますが、まだオリンピックという祭典の認知度が低かったこの時代、遊びのようなものに国費を使うなどあるまじきこととして門前払いでした。当時、日露戦争で使った莫大な戦費により日本は借金まみれで、緊縮財政により財布のひもが固かったんですね。日露戦争は、勝利とは多分に表面上のことで、ポーツマス条約において日本はロシアから賠償金はまったくとれず、財政はたちまち困窮を極めており、国内各地で政府に対する不満が爆発して暴動が起きていました。


e0158128_19143806.jpg そんな情勢のなか、日本初のオリンピック選手の渡航費、滞在費は、すべて自腹ということになります。その費用を試算してみると、およそ1800円から2000円ほどかかるといいます。当時、教師の初任給が18円から20円ほどだったといいますから、ほぼ10年分の収入に相当する金額です。今の価値でいえば、4000万円近い金額でしょうか。子爵の家柄の三島弥彦はともかく、かつては地元の名家だったとはいえ、いまは熊本の田舎で農業を営む金栗家にとっては、容易に出せる額ではありません。金栗は、一時は参加を辞退しようかとも考えていたといいますが、そんな彼の背中を押したのが、兄の応援だったといいます。ドラマで描かれていたとおり、兄は、「たとえ田畑を売ってでも渡航費を捻出するから、思いっきり走ってこい」と、弟の四三を励ましたそうです。昔の長兄って、弟妹のためなら身を削ってでも尽力を惜しまない人が多かったと聞きます。現代の希薄な兄弟関係とはぜんぜん違いますね。兄は弟妹を慈しみ、弟妹は兄を敬う。いつからなくなったんでしょうね、そういう兄弟の絆


 また、これもドラマで描かれていたとおり、学友や後援会など多くの人々からの寄付金も集まり、その金額は1500円ほどに達したといいます。「国威発揚」がスローガンだったこの時代。当時の人々にとっては、金栗と三島の渡航は、兵隊さんを戦地に送り出す心境だったのかもしれません。


e0158128_16513466.jpg 明治45年(1912年)5月15日、東京高等師範学校講堂において、大日本体育協会主催の歓送会が開かれました。このとき、金栗、三島両選手に、日の丸の大国旗が送られました。この日の丸を掲げて、ふたりはストックホルムの入場式を行進することになります。そして、翌日の5月16日、彼らはストックホルムに向けて旅立ちました。当時、今の赤煉瓦の東京駅はまだ建設中で、出発は新橋駅から。新橋駅には、金栗の学友たち百数十名が集まったそうです。三島は紺の洋服にカンカン帽という出で立ちで到着。同行する大森兵蔵監督と、その夫人・安仁子も揃って、駅前は大いに賑わったといいます。ドラマでは汽車に乗り遅れていた嘉納治五郎団長でしたが、実際には、当初から一行とは遅れて6月6日に出発し、アメリカを視察したのちにストックホルムに入る予定でした。金栗、三島両選手を乗せた汽車が動き出すと、学生たちは、今話のサブタイトルになっている軍歌『敵は幾万』を歌って見送ったといいます。そして万歳三唱。このときの2人の心境は、このように語ったと伝えられます。


 「日本運動界の全責任を帯びて出場することであれば、自分等は斃れて後止むの大決心で臨み、決して国体を辱めざることを期す」(『大日本体育協会史』大日本体育協会編)


 ドラマでは、女性記者に無理やりそう語らされていましたが、まさに国威発揚の時代。日の丸を背負う重圧は、現代の比ではなかったでしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2019-02-25 00:20 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第5話「雨ニモマケズ」 ~国内予選競技会~

e0158128_19143177.jpg 明治42年(1909年)にアジア人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員 となった嘉納治五郎は、明治44年(1911年)に自らが会長を務める大日本体育協会を立ち上げ、翌年に行われる予定の第5回ストックホルムオリンピックに日本人選手を初参加させるために動き始めます。協会の主要メンバーは、東京帝国大学(現・東京大学)や早稲田大学、慶応大学、明治大学、そして自身が校長を務める東京高等師範学校(現在の筑波大学)など、大学関係者で占められていました。この当時、スポーツなどに親しんでいた日本人は、高学歴の高校生や大学生くらいのもので、当然、参加選手の選考も学生が中心となります。協会はオリンピック参加競技を陸上競技一本に絞り、明治44年(1911年)11月18日、羽田競技場において国内予選競技会を開催しました。


 競技種目は、100m、200m、400m、800m、1500m、5000m、10000m、そしてマラソンがありました。あと、走り高跳び走り幅跳びなどもあったようです。ほぼ、現在の陸上競技の種目と同じですね。最終的にストックホルム五輪には短距離走とマラソンだけ参加することになりますが、はじめからそう決めていたわけではなかったようですね。


 e0158128_19143806.jpg当時、東京高等師範学校2年生だった金栗四三は、マラソンに挑戦しました。出場選手は全部で12名。その全員が、10里(約40km)を走るのははじめてのことでした。当時のマラソンはまだ距離が定まっておらず、だいたい40km前後というアバウトなものだったそうです。現在の42.195kmに定められるのは、大正13年(1924年)の第8回パリオリンピック以降のことです。いずれにせよ、当時の日本に40kmを超える距離を走った経験のある選手など一人もおらず、未知の領域でした。出場選手全員が初心者で、しかもわずか12人の中からオリンピック代表が選ばれたんですね。


 ドラマで描かれていたとおり、競技はのなか行われました。マラソンのコースは、羽田競技場から東海道を通り、東神奈川で折り返して競技場まで帰ってくるというもの。当時の道はまだほとんどが舗装されておらず、ぬかるみでは足を取られて滑りまくります。加えてドラマで描かれていたように、履物は足袋わらじ。そんな悪条件が重なり棄権者も出るなか、金栗は競技場近くでトップに立ち、あとは独走状態で優勝します。記録は2時間32分45秒。なんと、当時の世界記録を27分も上回る驚異的なタイムを打ち出します。これには関係者が挙って狂喜したようで、「金栗選手、世界記録を破る」と書かれた号外を出した新聞もあったそうです。


 ただ、冷静になって考えてみると、このタイムはどう見ても眉唾ものですよね。いくら40km前後というアバウトな距離だったとはいえ、27分というと、当時のスピードでも8kmぐらいは走れます。それほどの誤差は許容範囲ではなかったでしょう。しかも、2位、3位の選手のタイムも世界記録を上回っていました。雨で足元のぬかるむなか、足袋やわらじを履いて、しかも金栗は途中で足袋が擦り切れて半分以上を裸足で走っています。その条件下で世界記録を27分も更新するなど、普通に考えてもあり得ないですよね。そんな疑問は当時もあったようで、「距離の計算が間違っていたのではないか?」といった疑いも浮上していたようです。これについて、当時、嘉納治五郎がこう語っています。


 「里程の測定は、当然測定機をもって実地に測定するのが本当であるけれども、それにしてはあまりに金と日時がかかるので、京浜電気会社の中沢工学士に相談して、参謀本部の2万分の1の地図においてコンパスをもって精密に測量した。わたしもまず実際に25マイルあるものと信ずるほかない。ところで、かくのごとく3人までもが世界記録を破った理由は不明だが、日本人は戦争などでは驚くべき忍耐力を発揮するのは隠れもない事実で、それゆえに今日の成績はそれに類するものと見ればよかろう。」


 やっぱ、あやしいですね。おそらく、30kmぐらいしかなかったんじゃないでしょうか? それでも、この悪条件からすれば、遅くはありません。


e0158128_16513466.jpg 金栗とともに注目されたのは、短距離走でほぼ一人勝ちした三島弥彦でした。彼はもともと出場する予定ではなく、審判委員として来場していたのですが、元来スポーツ好きだったことからじっとしていられなくなり、飛び入り参加したところ、100m、400m、800mで優勝。200mが2位という華々しい結果でした。その記録は以下のとおり。


100m走 12秒0

400m走 59秒6

800m走 2分19秒2


当日は雨で足元が悪かったため普段より悪い記録だったといいますが、現代でいえば、中学生の陸上部レベルです。これなら頷けますね。トラックの計測は正確だったようです。


 かくして、日本初のオリンピック選手候補が決定しましたが、ことはそうスンナリとは運ばなかったようですね。続きは次週にて。


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by sakanoueno-kumo | 2019-02-04 16:54 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第4話「小便小僧」 ~長距離走の練習法~

e0158128_19143177.jpg 金栗四三が入学した東京高等師範学校(現在の筑波大学)は、スポーツの奨励に熱心な嘉納治五郎校長の方針により、春と秋の年2回、校内長距離走のイベントが催されていました。春には三里(約12km)、秋には六里(約24km)を全校生徒が走ります。ドラマでは描かれていませんでしたが、嘉納校長自身も、巻脚絆姿で学生と共に走ったと伝えられます。上位入賞者には校長からメダルが贈られたそうですが、入賞できなかった選手たちも、ゴール地点まで走りきれば、ビール食べ物が振る舞われ、教授も学生も入り混じって語り合える園遊会のような場が設けられていました。スポーツで汗を流し、そのあとは互いを労い合って親睦を深める。このわずか30数年前まで超髷を結ってを差した侍の時代だったことを思えば、嘉納校長の方針というのは、当時としては実に進歩的な考えだったといえるでしょう。まだ、「スポーツ」という言葉自体、一般にはほとんど浸透していない時代ですからね。


e0158128_19143806.jpg ドラマで、小便をしていてスタートに間に合わず、遅れてスタートしたため3位でゴールインした金栗でしたが、トイレを探して迷ったためにスタートが出遅れたというエピソードは実話のようです。もっとも、そのときは3位ではなく、25位でのゴールだったようです。といっても、全校生徒600人中の25位ですから、立派な成績ですけどね。3位入賞二度目の挑戦となった秋の大会のときでした。タイムは1時間46分20秒で、1位の選手と40秒差でのゴールでした。上位入賞者のほとんどが徒歩部(現在の陸上部)の上級生だったなかで、専門的な練習を積んでいない1年生の金栗の3位入賞は学校始まって以来のことだったようで、全生徒を驚かせました。おそらく、嘉納校長も、このとき始めて金栗の存在を知ったのではないでしょうか。


 2年生になって金栗は徒歩部に入部しました。2年生の春の大会では、もはや校内に金栗の敵はおらず、ぶっちぎりの優勝だったようです。その後も金栗は連続優勝を続け、記録も毎回更新していったといいます。この当時、日本人初のオリンピック出場に向けて準備を進めていた嘉納治五郎としては、この金栗の走りを見て、「あるいはこの男なら世界に通用するかもしれない」・・・そう思ったかもしれません。


 金栗2年生秋の明治44年(1911年)11月18日、嘉納治五郎が会長を務める大日本体育協会主催のオリンピック国内予選競技会が開催されることが発表され、金栗もこれに出場することが決まりました。距離は十里(約40km)。現在の42.195kmに定まるのは、もう少し後の時代のことで、当時のマラソンの距離は正確に定まっておらず、だいたい40km前後というアバウトなものだったそうです。オリンピックでは第1回大会からマラソン競技が行われていましたが、当時の日本に40kmを超える距離を走った経験のある選手など一人もおらず、未知の領域でした。


 40kmを走り抜くための力をつけるには、どのような練習をすればいいか。悩んだ金栗は、東京高師の卒業生ランナーの菅野新七という人物を訪問して練習法をたずねます。そこで聞いたアドバイスというのが、こうでした。


 「走るときに汗が出る。汗が出ると疲れるから、なるべく汗を出さないようにしろ。そのためには、なるべく水分を摂らず、服を着込んで練習し、汗抜き法をやれ。体内の水分を全部出してしまうと体が軽くなり、走りが楽になる」


 ドラマでは「油抜き」と言っていた手法です。「汗抜き法」とも言っていたようです。ひどいアドバイスですね。ところが、金栗はこのアドバイスを真剣に信じ、しばらくは水分を断って練習を続けました。しかし、効果はいっこうに出ないばかりか、体調を崩してしまってやめたようです。当時の日本のスポーツにおける知識のレベルというのは、その程度のものだったということですね。


 もっとも、練習中に水を飲むなという教えは、その後もずっとスポーツ指導のなかでは伝統的に引き継がれ、昭和の終わり頃まで続いていました。現在52歳のわたしは、高校時代陸上部だったのですが、わたしが高校生だった昭和50年代後半でも、「水を飲むと早くバテる」といわれて練習中の水分補給は厳禁でした。もっとも、先輩やコーチの目を盗んで、顔を洗うふりをして水道水をがぶ飲みしてましたけどね(笑)。ただ、これはわたしのような三流選手だけでなく、当時のトップアスリートでも同じだったようで、あの元マラソン選手の瀬古利彦さんも、早稲田大学の陸上部時代、夏場の練習中でも水を飲ませてもらえず、隠れて小川の水を飲んだというエピソードを後年語っておられました。箱根駅伝で優勝を狙おうというような名門校ですら、昭和の終わり頃までそんな間違った指導法だったようです。スポーツの大前提が根性論だった時代の話ですね。まあ、確かに根性は鍛えられたかもしれませんが。


 さて、次回はいよいよ第1話のエンディングで描かれていたオリンピック国内予選競技会が描かれるようです。


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by sakanoueno-kumo | 2019-01-28 16:21 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第3話「冒険世界」 ~東京高等師範学校入学~

e0158128_19143806.jpg 明治43年(1910年)4月、金栗四三東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学しました。同校はその名のとおり教師を育成する学校で、金栗の専攻は地理歴史でした。同校は創立以来、代々軍人が校長を務めてきていたそうで、そのため、学生を兵隊と同じように扱い、徹底した規律で縛るといった校風だったようです。鬼教官による軍隊さながらの体罰教育が当たり前のように行われ、寄宿舎では先輩たちによる私的な鉄拳制裁が日常茶飯事だったといいます。これについては、この時代のみならず、昭和の時代まで続いていましたし、平成の現代においても、スポーツの強豪校などでの体罰教育が問題になったりしていますが、その原点は、この時代に多くの軍人あがりが教育者となったことにあるようです。


 そんな同校の校風も、嘉納治五郎が校長に就任してからは、軍隊色を排除する改革が少しずつ行われ、金栗が入学したこの頃にはずいぶんとマシにはなっていたようです。海外渡航の経験が豊富な嘉納は、欧米の自由で個性を大切にする教育現場をよく知っており、個性を敵視するような規律一辺倒の軍隊式指導方針や、鉄拳制裁によって統制をとるやり方に疑問を持っていました。学校側からすれば、力で抑圧すれば学生を管理しやすい。しかし、それは恐怖で従順になっているだけで、それでは強く健全な精神を育めるとは思えない。嘉納はそう考えたようです。


e0158128_19143177.jpg 暴力を使わずとも生徒の心身を鍛える方法はある。嘉納は鉄拳制裁を禁じ、その代わりにスポーツを奨励しました。嘉納は授業の教科に体育を加え、柔道のコースを設けました。また、柔道部、剣道部をはじめ、撃剣部、弓技部、器械体操部、相撲部、ローンテニス部、フートボール部、ベースボール部、自転車部、ボート部、徒歩部、游泳部、卓球部、ラ式フートボール部などを設け、全生徒にいずれかの部活動に所属することを求め、放課後は体力の増強に務めるよう促しました。現在でも日本では小学校から大学まで体育の授業が行われていますが、これは、世界的に見ると珍しいそうですね。また、中学校以上で行われている部活動も日本特有のもので、このシステムを作ったのも嘉納であり、それを普及させたのは、嘉納が育てた東京高等師範学校の卒業生たちでした。現在、わたしたちが当たり前だと思っている学校の体育教育の淵源は、ここから始まったものだったんですね。


 話は変わって、ドラマ中、海軍兵学校の受験に失敗して軍人の夢が絶たれた金栗が教師を目指すという目標を掲げたとき、「乃木大将にはなれずとも、治五郎先生を目指そうとは見上げたやつだ!」と兄が讃えていましたが、この時代、軍人政治家の世界は相変わらず薩長閥の勢力で形成されていましたから、もし金栗が兵学校に合格していたとしても、軍人として出世するのは難しかったでしょう。当時、いわゆる幕末の官軍に属さなかった地方出身の秀才たちの多くが、比較的藩閥の影響が少なかった教育者の道を選びました。東京帝国大学(現在の東大)の歴代総長のほとんどは、旧賊軍や旗本出身の人ですからね。その意味では、金栗は兵学校に落ちて良かったといえたかもしれません。


 e0158128_17120770.jpgまた、金栗と一緒に上京した友人の美川秀信は、ドラマでは文学を志す若者という設定のようで、2人が郷里をあとにするとき、見送りにきた金栗の兄が、「将来の嘉納治五郎と夏目漱石だ!」と言って励ましていましたが、当時、文学の道を選んだ若者も、幕末に賊軍となった地方出身の秀才たちが多かったようです。夏目漱石も旧幕府旗本の家の生まれですし、漱石の友人だった正岡子規も、小説『坂の上の雲』で描かれているとおり、親藩の伊予松山藩の武家の生まれでした。また漱石のライバルだった森鴎外も、幕末に中立を保っていた津和野藩の藩医の家の出身でした。藩閥のコネに肖れない秀才たちの立身出世の道は険しかったようですが、そのおかげで、漱石や鴎外といった明治の文豪が生まれたともいえるかもしれません。


 この美川秀信という人物のことはよく知らないのですが、金栗と同郷の友人だったというのは実話のようですね。ただ、文学を志していたかどうかは定かではありません。調べてみると、金栗と共に上京したその年の夏休み、2人で揃って故郷に帰省し、その途中、2人は富士山の登山を試みましたが、準備が不十分だったため、7合目で断念したというエピソードが残されているそうです。ドラマでは、2人の帰省は描かれていましたが、富士山の登山のエピソードは描かれなかったですね。ドラマの美川はチャラ男キャラのようですから、富士山を登ろうといった気概ある青年だとキャラ崩壊になるからでしょうか。


 さて、次回はいよいよ金栗が長距離走に目覚めるようです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-01-21 17:19 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(4)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第2話「坊っちゃん」 ~金栗四三の生い立ち~

e0158128_19143806.jpg ドラマ前半の主人公である金栗四三は、は明治24年(1891年)8月20日、熊本県の春富村に生まれました。男4人、女4人の8人兄弟の7番目でした。「四三」という名は、父・金栗信彦43歳のときの子だったからと伝えられます。安直な命名ですが、この当時の名前なんて、一部のインテリ階級を除けば皆、似たような名付け方だったのでしょう。子供の名前に思いを託すなんて思想はなかったんですね。もちろん、キラキラネームもありません。四三の場合、読みも「シソウ」「シゾウ」のどちらか定かではなく、パスポートはSHIZOと記載されていたそうですが、本人のサインはShisoだったそうです。これも、その時代でもよくあることだったようですね。(実際、わたしの死んだ父も、名前の読み方が祖父と祖母で違っており、母も、どっちが正しいか知らないといっていました)。


 生家はもともと代々造り酒屋を営んでいましたが、父・信彦が病弱だったため、四三が生まれる数年前に廃業したいました。その遺伝からか、四三も幼い頃からひ弱で、よく病気をしたといいます。のちに日本初のオリンピック選手になるような片鱗は、どこにも見当たりませんでした。


 そんな四三にアスリートとしての要素が現れはじめたのは、高等小学校に進学してからのことだったといいます。当時、尋常小学校と呼ばれた義務教育は4年間で、その後、成績が優秀な子は4年間の高等小学校に進学しました。いまで言う小学5年生から中学2年生の時期ですね。四三の家は比較的裕福で、四三自身も成績優秀だったことから、高等小学校に進学したのですが、彼の村に高等小学校はなく、片道6km離れた大原村相谷にある玉名北高等小学校まで通わなければなりませんでした。この通学路を、四三は4年間、走って通ったといいます。この往復12kmの通学が、四三を日本代表のマラソン選手導いた下地だったといわれています。


 もっとも、このようなエピソードはよく耳にする話で、かの増田明美さんも、小学校の6年間に約3km近い通学路を毎日歩いていたことが、のちの増田選手を作ったといった話を聞いたことがあります。でも、四三の時代、同じような環境で通学していた子供はたくさんいたでしょうし、増田さんの時代でも、田舎に行けば珍しい話ではなかったでしょう。じゃあ、それらが皆、長距離選手としての要素を身に着けたかといえば、もちろんそんなことはありません。四三も増田明美さんも、おそらく元からアスリートとしての高いポテンシャルが備わっていたのでしょうね。


 明治37年(1904年)2月に日露戦争が勃発。その翌年に父の信彦が死にました。しかし、長兄の実次が学費を引き受けてくれて、四三は玉名中学校に進学しました。この当時の中学校は、いまの高校です。成績優秀だった四三は2年生に特待生となります。当時の中学校は5年制でしたが、成績次第では4年生から上級学校に進学できました。そこで、四三は海軍兵学校を受験します。日露戦争に勝利した直後のこの当時、軍人はエリートの憧れの職業だったということもありましたが、兄に学費を頼っていた四三は、国費で通える学校を選びたかったのでしょう。となると、それは軍人になるか教師になるかしかありませんでした。そこで四三は軍人になる道を選びますが、海兵といえば難関中の難関で、4年生で合格するのは至難のわざでした。玉名中学校では特待生だった四三でも、結果はあえなく不合格。結局、軍事になることは諦め、教師になるべく翌年に東京高等師範学校を受験して合格します。そこの校長を務めていたのが、四三の人生を変えることとなる嘉納治五郎だったんですね。もし、前年に海兵に合格していれば、四三が日本初のオリンピック選手になることはなかったでしょう。人の運命って、何が災いして何が幸いするかなんて、誰にもわからないものですね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-01-15 22:39 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第1話「夜明け前」 嘉納治五郎とIOC

e0158128_19143177.jpg 第1回は嘉納治五郎の話でしたね。講道館柔道の創始者であり、「近代柔道の父」として後世に名高い嘉納治五郎ですが、彼の功績は柔道だけにとどまらず、日本にスポーツを根付かせた「日本の体育の父」でもありました。旧制第五高等中学校(現・熊本大学)校長や学習院の教頭を務めた嘉納は、明治26年(1893年)より通算25年間ほど東京高等師範学校(現在の筑波大学)の校長を務め、教育者の育成に努めました。そこで嘉納は、学生の課外活動としての運動部をまとめる組織「運動会」を結成し、学生のスポーツ活動を奨励するとともに、体育指導者の育成に力を注ぎます。現在でも日本では小学校から大学まで体育の授業が行われていますが、これは、世界的に見ると珍しいそうですね。また、中学校以上で行われている部活動日本特有のもので、このシステムを作ったのも嘉納であり、それを普及させたのは、嘉納が育てた東京高等師範学校の卒業生たちでした。現在、わたしたちが当たり前だと思っている学校の体育教育の淵源は、嘉納治五郎から始まったものだったんですね。


e0158128_19143585.jpg そんな嘉納に国際オリンピック委員会(IOCから委員就任の打診があったのは、明治42年(1909年)のことでした。このときより13年前の明治29年(1896年)に第1回近代オリンピックアテネで開催され、その後、回を重ねるごとに世界的なスポーツの祭典としてオリンピックの認知度は高まっていましたが、まだ、この頃のオリンピックおよびスポーツの国際大会は、欧米諸国のみの参加で行われていました。近代オリンピックの開催を提唱したフランスのピエール・ド・クーベルタン男爵は、オリンピックを通じて世界中の民族が融和することを理想としており、そのために、欧米以外の国々にもオリンピックへの参加を求めていく構想を持っていました。そこで着目したのが、日本だったわけです。


 当時、日本はアジアでは数少ない独立国であり、日露戦争で大国ロシアに勝利したことで、欧米諸国から一目置かれるようになっていました。アジアで最初にオリンピック参加を求める国は日本しかないとクーベルタン男爵が考えて当然だったでしょうし、事実、この時代にアジアの国でそれが出来るとしたら、日本以外にはなかったでしょう。ただ、オリンピックに参加してもらうには、まず、その国に国内のオリンピック委員会を作ってもらわねばなりません。その任に相応しい人物は誰か・・・となったときに、白羽の矢を立てられたのが嘉納だったんですね。


 IOC委員就任を快諾した嘉納は、3年後の第5回ストックホルムオリンピックに日本人選手を送り込むための準備を開始します。まず相談したのは文部省でした。しかし、文部省は嘉納の申し入れにさっぱり興味を示さなかったといいます。まだ国民の体育というものがそれほど浸透していなかった時代、オリンピックに参加することの意義というものが、理解してもらえなかったんですね。そこで嘉納は、明治24年(1891年)に創設されていた社団法人日本体育会に話を持ち込みますが、ここも、その団体の目的が体育専門の教師を養成することとあって、趣旨の違いから協力を断られてしまいます。


e0158128_19143806.jpg ならば、従来の組織に頼るのはやめて、新たな団体を立ち上げるしかないと決断した嘉納は、大日本体育協会を設立して嘉納自身が初代会長を務めます。協会の主要メンバーは、東京帝国大学(現・東京大学)や早稲田大学、慶応大学、明治大学などの大学関係者で占められていました。この当時、スポーツなどに親しんでいた日本人は、高学歴の高校生や大学生くらいのもので、当然、参加選手の選考も学生が中心となります。協会はオリンピック参加競技を陸上競技一本に絞り、明治44年(1911年)11月18日、羽田競技場において国内予選競技会を開催しました。これが、ドラマの最後で描かれていた雨の中のマラソン大会です。この大会で、当時の世界記録(当時の距離は25マイル=40.225キロ)を27分も縮める2時間32分45秒という大記録で優勝したのが、この物語の前半の主人公・金栗四三でした。


 次週は金栗四三の少年期に遡るようですね。なので、この競技会も、もう一度詳しく描かれるでしょう。続きはそのときの稿に譲ります。



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by sakanoueno-kumo | 2019-01-07 19:16 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ キャスト&プロローグ

さて、今年の大河ドラマは、『いだてん~東京オリムピック噺~』ですね。主人公は日本人初のオリンピック選手となり、「日本のマラソンの父」と呼ばれた金栗四三と、昭和の東京オリンピック招致に尽力した田畑政治の2人がリレー方式で描かれます。物語の舞台は、日本が初めて夏季オリンピックに参加した明治45年(1912年)のストックホルムオリンピックから、となった東京オリンピック開催を決めた昭和11年(1936年)のベルリンオリンピックを挟んで、昭和39年(1964年)の東京オリンピック開催までの52年間。2020年の東京オリンピック開催に向けて、国民みんなで盛り上がっていきましょうって狙いなんでしょうね。


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 毎年、大河ドラマのレビューを毎週起稿してきた当ブログですが、今年の主人公2人についてはほとんど知識がありません。わたしは学生時代に陸上部で長距離選手だったこともあり、金栗四三に名前は少しだけ知っていましたが、箱根駅伝の創始者という程度の認識でしかなく、また、田畑政治に至っては、名前すら知りませんでした。なので、このようなブログをやっている手前、少しぐらい予備知識を持っておこうと関連本を数冊読みましたが、これが意外に面白かった。これは十分ドラマになると思いました。脚本はクドカンこと宮藤官九郎さんで、制作スタッフは連続テレビ小説『あまちゃん』の布陣で臨むそうですから、きっと、面白い作品になるんじゃないでしょうか。


 てなわけで、以下、現在発表になっているキャストです。


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金栗四三・・・・・・・中村勘九郎

田畑政治・・・・・・・阿部サダヲ

東京高師・大日本体育協会

嘉納治五郎・・・・・・・役所広司(金栗四三の恩師)

永井道明・・・・・・・杉本哲太(東京高等師範学校教授)

大森兵蔵・・・・・・・竹野内豊(ストックホルムオリンピック日本選手団監督)

大森安仁子・・・・・・・シャーロット・ケイト・フォックス(大森兵蔵の妻)

野口源三郎・・・・・・・永山絢斗(東京高等師範学校の後輩)

黒坂辛作・・・・・・・ピエール瀧(「足袋のハリマヤ」店主)

可児徳・・・・・・・古舘寛治(東京高等師範学校助教授)

田島錦治・・・・・・・ベンガル(京都帝国大学教授)

内田定槌・・・・・・・井上肇(外交官)

岸清一・・・・・・・岩松了(第2代大日本体育協会会長)

武田千代三郎・・・・・・・永島敏行(大日本体育協会副会長)

熊本の人々

春野スヤ・・・・・・・綾瀬はるか(金栗四三の妻)

池部幾江・・・・・・・大竹しのぶ(スヤの養母)

金栗実次・・・・・・・中村獅童(金栗四三の兄)

金栗信彦・・・・・・・田口トモロヲ(金栗四三の父親)

金栗シエ・・・・・・・宮崎美子(金栗四三の母親)

金栗スマ・・・・・・・大方斐紗子(金栗四三の祖母)

春野先生・・・・・・・佐戸井けん太(スヤの父親)

美川秀信・・・・・・・勝地涼(四三の盟友、東京高等師範学校の同級生)

池部重行・・・・・・・髙橋洋(幾江の息子)

三島家・天狗倶楽部

三島弥彦・・・・・・・生田斗真(金栗四三の盟友)

シマ・・・・・・・杉咲花(三島家に仕える女中)

三島弥太郎・・・・・・・小澤征悦(弥彦の長兄)

三島和歌子・・・・・・・白石加代子(弥太郎と弥彦の母親)

吉岡信敬・・・・・・・満島真之介(「天狗倶楽部」のメンバー)

中沢臨川・・・・・・・近藤公園(「天狗倶楽部」のメンバー。工学博士)

押川春浪・・・・・・・武井壮(作家。「天狗倶楽部」の創設者)

本庄・・・・・・・山本美月(記者)

孝蔵をとりまく人々

美濃部孝蔵・・・・・・・森山未來(若き日の古今亭志ん生)

橘家圓喬・・・・・・・松尾スズキ(落語家)

万朝・・・・・・・柄本時生(孝蔵(志ん生)の噺家仲間)

小梅・・・・・・・橋本愛(浅草の遊女)

清さん・・・・・・・峯田和伸(浅草の人力車夫)

1964東京五輪招致チーム

平沢和重・・・・・・・星野源(外交評論家、ジャーナリスト)

岩田幸彰・・・・・・・松坂桃李(日本オリンピック委員会常任委員)

東龍太郎・・・・・・・松重豊(東京都知事)

志ん生一家と弟子たち

古今亭志ん生・・・・・・・ビートたけし(落語家。本作のナビゲーター)

おりん・・・・・・・池波志乃(志ん生の妻)

美津子・・・・・・・小泉今日子(志ん生の長女)

五りん・・・・・・・神木隆之介(志ん生の弟子)

知恵・・・・・・・川栄李奈(五りんの恋人)

今松・・・・・・・荒川良々(古今亭志ん生の弟子)

その他

大隈重信・・・・・・・平泉成(政治家。早稲田大学創設者)

田畑うら・・・・・・・根岸季衣(田畑政治の母)

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中村勘九郎さんの金栗四三役は、写真を見る限りぴったりですね。マラソン選手役ということで、かなりハードな身体作りをされたと聞きます。そういえば、親子二代の大河ドラマ主演ですね。これって、緒形拳さんと緒方直人さん親子以来のことなんじゃないでしょうか? ましてや、中村父子の場合、お父さんも大河主演時は「中村勘九郎」を名乗っていましたから、同じ名前での親子二代主演なんて、史上初ですよね。まあ、歌舞伎役者さんならではといえますが、あるいは、遠い将来、中村勘九郎という名で親子三代大河主演なんてこともあり得るかもしれません。気が早い話ですが。


 田畑政治役の阿部サダヲさんは、田畑政治をよく知らないのでハマリ役なのかどうかわからないのですが、阿部さんはクドカン作品には欠かせない俳優さんですから、きっと、いい芝居を見せてくれるのでしょう。


日本の体育の父として名高い嘉納治五郎役は役所広司さんですね。わたしは、いつか嘉納治五郎を主人公にした大河ドラマが描かれるのではないかと思っていたのですが、こういうかたちで描かれるとは思っていませんでした。ある意味、主人公の二人より後世にその名が知られている偉人ですから、きっと、物語前半の重要な役割を担っているのでしょう。役所さんの嘉納治五郎、楽しみです。


 金栗の奥さん役は綾瀬はるかさんですね。綾瀬さんといえば、平成25年(2013年)の大河ドラマ『八重の桜』で主演されたことが記憶に新しいですが、こうして主役を演じられた経験のある役者さんが、今度は脇役で出て来られるのは嬉しい限りです。昔の俳優さんは、大河主演のあと脇役で出演される方はたくさんおられましたが、最近の主演俳優さんは、その後、脇役として出てこられるかたはほとんどいません(今世紀に入ってからで言えば、内野聖陽さんぐらいでしょうか)。西田敏行さんなんて、主役も脇役も何回やったかわからないくらいですからね。大河で主役を張れるほどのビッグネームが脇を固めてくれると、作品に安心感がでます。


 あと、ナレーションが五代目古今亭志ん生役のビートたけしさんだそうですね。これも面白い仕上がりになりそうですが、ただ、たけしさん、滑舌よくないからなあ・・・。ちゃんと聞き取れるだろうか。


 巷では、戦国ものでも幕末ものでもない今回の作品は面白くなさそうだから観ない、という声もチラホラ耳にしますが、私は逆に、予備知識がほとんどない分、純粋に楽しめるんじゃないかと思っています。戦乱政治だけが歴史ではない。オリンピックに捧げた2人の人物を通した、これも立派な日本史ですよね。「面白くなさそう」なんて先入観を持たずに、まずは観てみることなんじゃないでしょうか。


 ただ、今年は、当ブログで毎週レビューを起稿するのは無理だと思います。そもそも知識がありませんから。なので、たぶん、ときどき思いついたことがあったら更新するブログになりそうですが、よければ、また今年もお付き合いください。



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by sakanoueno-kumo | 2019-01-04 18:22 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(2)