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いだてん~東京オリムピック噺~ 第20話「恋の片道切符」 ~アントワープオリンピック~

 第一次世界大戦が終結した翌々年の大正9年(1920年)夏、第7回アントワープオリンピック大会が開催されました。4年前のベルリン大会中止をはさんでいたため、ストックホルム大会以来8年ぶりの開催でした。8年前には金栗四三三島弥彦2人だけの出場だった日本選手でしたが、この8年間で日本国内のオリンピックに対する意識は大いに高まり、代表選手を選ぶ予選会は、札幌、仙台、東京、新潟、名古屋、大阪、松江、岡山、広島、福岡の全国10ヶ所第一次予選が行われ、そこに参加した選手の数は3600人を超えたといいます。ここから選ばれた198人が東京で開催された第二次予選に進み、その中から上位者がオリンピックの日本代表に選ばれました。


 マラソンの出場選手枠は4人。選ばれたのは、箱根駅伝で活躍した東京高等師範学校の茂木善作、早稲田大学の三浦弥平、そして北海道は小樽の中学生だった八島健三、そして、金栗四三でした。このとき金栗は30歳。マラソン選手としてのピークは過ぎた年齢といえましたが、第二次予選ではぶっちぎりの独走だったようで、この時点では、まだ、日本国内では金栗に勝てるランナーはいない、正真正銘の日本のエースだったんですね。


 日本選手は陸上選手のほか、競泳テニスなどを含む15名が参加。それも、全て国費での渡航となります。8年前のストックホルム大会は金栗と三島の2人だけの出場で、しかも渡航費は自費という冷遇だったことを思えば、国のスポーツに対する意識もこの8年間で大いに変わっていたようですね。もっとも、渡航費についていえば、そのときのお国の財布状況にも関係したでしょう。8年前のストックホルム大会のときは、日露戦争で使った莫大な戦費により日本は借金まみれで、緊縮財政により財布のひもが固かったんですね。日露戦争は、勝利とは多分に表面上のことで、ポーツマス条約において日本はロシアから賠償金はまったくとれず、財政はたちまち困窮を極めており、国内各地で政府に対する不満が爆発して、あちこちで暴動が起きているといった国内情勢でした。まだまだオリンピックの認知度が低かったこともあって、スポーツごときに国費を投じるというのは、財布の事情も、そして国民感情も許さなかったのでしょう。


 一方で、8年後のアントワープ大会時は、第一次世界大戦の特需で日本は一気に財政を立て直し、好景気の真っ只中でした。戦争期間中、ヨーロッパ諸国は大戦に手一杯でアジアに手が回らず、その間、アジアに対する輸出を日本が独り占めにし、たいそうボロ儲けをしたようです。そんな折のアントワープ大会でしたから、8年前とは全然背景が違ったんでしょうね。もっとも、このすぐ後に戦争バブルは弾け、やがて世界大恐慌に陥るのですが。


e0158128_19143806.jpg 満を持して挑んだマラソンでしたが、結果は金栗が2時間48分45秒16位、茂木は20位、八島は21位、そして三浦は24位に終わりました。日本選手15人中最も多くの4選手を派遣したマラソンの成績としては、物足りない結果だったといえるかもしれません。もっとも、8年前は途中棄権だったことを思えば、出場選手4人が全て完走できたことは、収穫だったかもしれませんね。この大会でのマラソン出場選手は48人で、うち13人が棄権していたといいますから。ドラマでは、失意の金栗でしたが、実際には、自身の年齢からいえば、ある程度予想していた結果だったかもしれません。ただ、改めて悔やまれるのは、「第16話」の稿でも述べたとおり、選手として最もピークだった時期を戦争によって棒に振ったことでしょうね。悔やんでも仕方がないことですが。


 あと、この大会での一番の収穫は、庭球(テニス)熊谷一弥選手がシングルスで銀メダル、ダブルスでも柏尾誠一郎選手と組んで銀メダルを獲得したことでした。これが日本人初のオリンピックメダル獲得で、ここから日本のメダリストの歴史は始まったわけですが、テニスだけでいえば、こののち100年近く日本人選手がメダルを獲ることはなく、96年後のリオデジャネイロオリンピックでの錦織圭選手の銅メダルまで待たねばなりません。日本人初のメダリストがテニスだったっていう歴史は、ちょっと意外ですよね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-05-27 17:44 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)