人気ブログランキング |

タグ:長宗我部元親 ( 6 ) タグの人気記事

 

瀬戸内海を望む讃岐引田城。 その3 <東の丸~北二の丸~大手門~南二の丸>

「その2」のつづきです。

引田城最東端の引田鼻灯台から北西に向かいます。


e0158128_18262624.jpg


誘導板には「東の丸約70m」とあります。


e0158128_18275918.jpg


ここからまた登りになります。


e0158128_18280481.jpg


「東の丸」です。

往時には、ここに火薬を保管する煙硝蔵などの軍事施設があったと推定されています。


e0158128_18292866.jpg


東の丸から東側を見ると、前稿で紹介した引田鼻灯台が見えます。


e0158128_18293143.jpg


沖に浮かぶ小島は、右手前が通念島、左奥が松島


e0158128_18302983.jpg


東の丸は東から西に150mほど左ドッグレッグした曲輪です。

大きな石が散乱しているのは、石垣の名残でしょうか?


e0158128_18313045.jpg


東の丸から北西に向かいます。

途中、女郎島に向う誘導板がありました。

女郎島にまつわる伝説は前稿で紹介しましたが、この日は時間的制約があってパス。


e0158128_18322163.jpg


このあたりから、北二の丸に入ります。

縄張り図によると、このあたりに石垣があるはずなんですが・・・。


e0158128_18335846.jpg


あった!・・・・と思ったら、何やら養生シートで覆われています。

貼り紙には、「ここの石垣は崩れる危険があるので、シートで保護しています」とのこと。

残念。


e0158128_18340103.jpg


と、思いきや、もうひとつの貼り紙によると、ここを下ったところに高石垣があるとのこと。

行ってみましょう。


e0158128_18360285.jpg


ありました!

見事な野面積みの石垣です。


e0158128_18360537.jpg


その説明板。

高石垣の高さは5~6mあるそうです。


e0158128_18420439.jpg


石垣を見ながら、引田城の歴史についてお話しまししょう。

引田城の歴史は古く、その伝承によると、天智天皇6年(667年)、屋島築城に際して引田氏がここに築いたのが始まりとされています。

文献史料に引田城の記述が見られるのは、江戸時代編纂の軍記物語『南海通記』にある応仁年間(1467~69年)に寒川氏が領したというのが初見だそうです。

永正年間(1504~21年)ごろには寒川氏の属する四宮右近が城主となりますが、元亀2年(1571年)、三好長治に城を奪われ、その家臣の矢野氏が入城しています。


e0158128_18420937.jpg


京で本能寺の変が起きた2ヶ月後の天正10年(1582年)8月、四国統一を目指す長宗我部元親は、中富川の戦いで三好一族の十河存保を破り、さらに9月には存保の籠もる勝瑞城(参照:勝瑞城)も攻め落とし、阿波国をほぼ制圧しました。

このとき引田城を守っていたのは十河氏の一族でしたが、存保は讃岐虎丸城へ退却し、中央の羽柴秀吉援軍を求めました。

ところが、その頃秀吉は織田家の後継者争いの真っ只中で、多人数の援軍を送ることが出来ず、仙石秀久を援軍として派遣。

天正11年(1583年)4月に仙石秀久が海上から引田城に入ります。

しかし、長宗我部軍との圧倒的な兵力差はいかんともしがたく、撤退を余儀なくされました。


e0158128_18421431.jpg


以後、引田城は長宗我部氏の配下となりますが、しかし、その元親も、四国をほぼ平定した天正13年(1585年)、秀吉の四国攻めによって降伏し、元来の土佐一国の領有だけを許されるに至ります。


e0158128_18421701.jpg


そして引田城には再び仙石秀久が入城して大規模な改修が行われますが、続く九州平定戸次川の戦いで島津軍に大敗を喫し、逃亡した秀久は所領没収となります。

その後、城主は目まぐるしく代わり、天正15年(1587年)に讃岐一国約18万石を得た生駒親正が入城しますが、引田城の立地が領国の東端に位置するため、同年、聖通寺城に移ります。

その後は、生駒氏のとして機能していたようですが、元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となりました。


e0158128_18422157.jpg


石垣を堪能したので、そろそろ移動しましょう。

縄張り図によると、ここからさらに北西に進んだところに北曲輪があるのですが、特に遺構は残ってなさそうなので、スルーして南に向かいます。


e0158128_18442422.jpg


しばらく進むと、虎口跡と思しき場所に出ます。

縄張り図によると、ここが大手門跡のようです。

かつての大手道は、現在は登山道としては使用できません。


e0158128_18442772.jpg


石垣などの遺構は残っていませんが、大きな石が散乱しています。

これは、石垣の名残でしょうか?


e0158128_18455542.jpg


大手門の南は南二の丸が広がります。

この曲輪をさらに南に進むと、「その1」「その2」で紹介した本丸に繋がります。


e0158128_18455865.jpg


さて、城跡をぐるっと1周しました。

これで引田城の攻城を終わりますが、次稿では、城山を降りて引田の街を逍遥してみたいと思います。

最後に、続100名城のスタンプです。

上の石垣の写真がそのままスタンプになっていますね。


e0158128_18475876.jpg


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-07-24 21:23 | 香川の史跡・観光 | Comments(0)  

阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その4 <小倉丸~椎の丸~下山道>

「その3」の続きです。

本丸を後にして、一宮城南側に向かいます。


e0158128_16254668.jpg


一宮城の縄張りは大きく北城南城に分かれていて、「その2」「その3」で紹介した才蔵丸、明神丸、本丸が北城、そして本稿で攻める曲輪が南城になります。


e0158128_16270156.jpg


誘導板にある水手丸、小倉丸、椎丸が、南城の曲輪です。


e0158128_16274716.jpg


しばらく歩くと、「投石用の石」と書かれた説明板と石がありました。

たしかに、投げやすそうな大きさの石ですが、これだけをもって「投石用」と断定できるのでしょうか?


e0158128_16331328.jpg


「曲輪跡」と書かれた立札があります。

北城南城の間にも、小さな曲輪がいくつかあります。


e0158128_16344277.jpg


堀切跡


e0158128_16344551.jpg


そしてまた曲輪跡を横切り、南西に向かいます。


e0158128_16354309.jpg


土橋のように見えます。


e0158128_16363785.jpg


「小倉丸」と書かれた誘導板が出てきました。

行ってみましょう。


e0158128_16380075.jpg


「土塁跡」と書かれた立札が見えます。


e0158128_16375799.jpg


土塁の上に登ってきました。


e0158128_16410007.jpg


小倉丸は本丸の南側を防御するように作られた細長い曲輪で、曲輪の西南は高さ2m土塁がめぐっています。

土塁の長さは内側で58mあるそうです。


e0158128_16410395.jpg


土塁の北西の突出した部分は、櫓台になっています。


e0158128_16410773.jpg


ここがその櫓台

現在、城跡の遺構をわかりやすくするために木を伐採している途中のようでした。


e0158128_16424317.jpg


小倉丸を降りて、さらに西へ向かいます。

上の写真は、小倉丸西側の空堀です。


e0158128_16424812.jpg


見事なV字型です。


e0158128_16441712.jpg
e0158128_16442267.jpg


道中、「竪堀」やら「土塁」といった立札が随所に見られましたが、いずれも草木に埋もれていて、イマイチわかりづらかった。


e0158128_16464463.jpg


続いて、城跡最南西端にある椎丸にやってきました。


e0158128_16464783.jpg


椎丸は、それほど面積は広くありません。


e0158128_16464960.jpg


縄張り図によると、この椎丸の北側に水手丸があるのですが、その行き道が草木に埋もれてわかりませんでした。

なので、水手丸はスルーすることにしました。


e0158128_16481662.jpg


椎丸から東に下った谷底に、貯水池堤跡があります。

今は少ししか水が残っていませんが、往時は、長い籠城戦に耐えられるほどの水がここに確保されていたのでしょう。

上述した椎丸と水手丸は、この貯水池を守るための役割も果たしていたようです。


e0158128_16521382.jpg


『伊藤文章』、『森古伝記』、『太閤記』、『異本阿波志』などの古記録には、羽柴秀吉四国攻め「水の手」にからむ攻防戦が行われたとの記載があります。

羽柴秀長率いる寄手は、この貯水池を奪って城を落とそうとし、そうはさせまいとする長宗我部元親籠城軍と、ここで激しい攻防が繰り広げられたのかもしれません。


e0158128_16511343.jpg


貯水池から下ったところには、「陰滝」と呼ばれる滝の跡があります。

説明板によると、この岩壁と周囲の曲輪によって、貯水池が守られていたようです。


e0158128_16511697.jpg


さて、この陰滝を過ぎると、緩やかな下山道となり、攻城終了です。

登り始めてから約1時間半の攻城でした。

ちなみに、余談ですが、この日、本丸跡で地元の徳島新聞の記者さんから取材を受け、後日、その様子が新聞に載りました。

紙面を送っていただいたので、載せさせてもらいます。


e0158128_16545838.jpg


氏名は伏せさせていただきますことをご容赦ください。

記者さんによって、「古城愛好家」という肩書をいただきました(笑)。

名刺作ろうかなあ(笑)。


e0158128_16551108.jpg


最後に、続100名城のスタンプを載せます。

ここを訪れたのは平成31年(2019年)3月2日だったのですが、スタンプはそれ以前に押していました。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-07-18 23:59 | 徳島の史跡・観光 | Comments(2)  

阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その3 <本丸>

「その2」の続きです。

一宮城本丸跡まで登ってきました。

眼前に姿を見せた本丸石垣の迫力に圧倒されます。


e0158128_15563255.jpg


一宮城本丸は標高約144.3mに位置し、ここだけ、総石垣造りとなっています。

石垣に沿っての本丸の大きさは、東北約36m、西北約23mの不等辺三角形で、石垣の高さは約5mあり、反りはほとんどありません。


e0158128_15595343.jpg


虎口は東側の1ヶ所だけです。


e0158128_15595640.jpg


とにかく本丸石垣の周囲を1周してみましょう。


e0158128_16004210.jpg


虎口石段横の石垣。

櫓台のようにも見えます。

虎口には櫓門があったのかもしれません。


e0158128_16031481.jpg


本丸東面から北面に向う細い犬走りのような道です。

鈍角にを設けて横矢を効かせています。


e0158128_16031752.jpg


虎口横の石垣と違って、このあたりは石垣が苔むしています。

たぶん、北東部分なので、陽があまり当たらないのでしょうね。


e0158128_16040675.jpg


振り返ってみると、犬走りの向こうに石垣が突き出しているのが見えます。

あそこが、櫓台と思われる石垣です。


e0158128_16050335.jpg


こちらは北面の石垣。

本当は北東出隅の石垣を写したかったのですが、通路が狭すぎて引きの写真が撮れませんでした。

写真左側がその出隅。

なんとなく、算木積みっぽい形状をしています。


e0158128_16055114.jpg


反対側から見た北面石垣。


e0158128_16063596.jpg


そして、こちらは本丸西面。

ここだけ、一部石垣が積まれていません。

崩れてしまったのでしょうか?


e0158128_16074130.jpg


その向かい側(西側)には、「釜床跡」と書かれた石碑と説明板がありました。

いわゆる炊事場ですね。

あるいは、本丸西側の石垣がない部分には、この釜床跡につながる搦手口があったのかもしれません。


e0158128_16083836.jpg


本丸南西の出隅石垣です。

なんとなく算木積みっぽい積み方です。


e0158128_16134267.jpg


1周してきました。

では、本丸上に登ってみましょう。


e0158128_16165854.jpg


本丸上です。


e0158128_16170193.jpg


本丸には天守台がないので、天守が建っていたかどうかは不明ですが、本丸の南側に礎石跡が見つかっているそうで、天守に相当する何らかの建築物が建っていた可能性は高いようです。


e0158128_16170439.jpg


天正13年(1585年)5月、一宮城は羽柴秀吉四国攻めの主戦場のひとつとなりました。

秀吉は弟の羽柴秀長6万の兵を与えて阿波国を攻めさせると、秀長はそのうち4万の兵でここ一宮城を包囲します。

対する長宗我部元親方の籠城兵は約1万

この兵力差のなか城方はよく守りましたが、同年7月下旬に元親が降伏し、開城となりました。


e0158128_16170783.jpg


その後、秀吉は蜂須賀家政に阿波国を与え、家政は一宮城を居城としました。

現在に残る石垣の遺構は、このときのものと考えられています。

本丸だけにしか石垣が積めなかったのは、予算の都合上だったのでしょうか?


e0158128_16194626.jpg


本丸からの北側眺望です。

下に見えるのが鮎喰川

その向こうの山が、標高197m辰ヶ山です。

あの山に羽柴秀長軍が陣を布いたといわれています。


e0158128_16221955.jpg


本丸の説明板です。

天正14年(1586年)7月、蜂須賀家政は新たに築いた徳島城に移り、一宮城は家臣の益田長行に守らせますが、その後、江戸幕府の一国一城令によって、寛永15年(1638年)に廃城となります。

このとき、石材の一部徳島城に運ばれ、修築に使われたと言われています。


e0158128_16222289.jpg


こちらは案内図です。

才蔵丸、明神丸、本丸北城

案内図で見る本丸より右上部分が南城になります。

「その4」では、南城を攻めます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-07-17 23:41 | 徳島の史跡・観光 | Comments(0)  

阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その2 <才蔵丸~明神丸>

「その1」の続きです。

一宮城の縄張りは大きく北城南城に分かれていますが、その北城の東側にある才蔵丸明神丸を分断する大堀切が下の写真です。


e0158128_15153967.jpg


見事なV字です。

この左側が才蔵丸、右側が明神丸です。


e0158128_15165916.jpg


その説明板。


e0158128_15174360.jpg


反対側からみた堀切です。


e0158128_15195128.jpg


堀切の南側に、才蔵丸に登る虎口があります。


e0158128_15193618.jpg


入口に立つ石碑は「才蔵丸」ではなく「財蔵丸」と刻まれています。


e0158128_15224143.jpg


才蔵丸跡です。


e0158128_15224496.jpg


広い。


e0158128_15224700.jpg


才蔵丸は一宮神社横の登城口から最初に到達する主要曲輪で、後世の呼び方でいえば三の丸にあたると考えられます。

曲輪の形態は自然地形に沿って不整形で東西に細長く、曲輪内は平坦ではなく東方向にやや傾斜しています。

標高は129.2m


e0158128_15225242.jpg


才蔵丸からの西側の眺望です。

正面奥の山が、徳島市街を望む眉山です。


e0158128_15243583.jpg


さて、才蔵丸を出て西に進みます。

右は明神丸、左は竪堀となっています。


e0158128_15243945.jpg


そして門跡

5段ほどの石段跡があります。


e0158128_15252924.jpg


石段を上がると、右が明神丸、左が本丸となっています。

まずは明神丸に向かいます。


e0158128_15271131.jpg


明神丸虎口前の石碑。


e0158128_15271421.jpg


そして、明神丸周辺の案内図です。

「その1」の最後に紹介したのが「湧水」と書かれたところ。

そこを上がって、本稿の最初に紹介したのが才蔵丸で、堀底を通って門跡を抜け、右に折れて明神丸に向かっています。


e0158128_15280370.jpg


明神丸の虎口です。


e0158128_15302966.jpg


明神丸跡です。

明神丸の標高は140.9mだそうで、本丸との高低差は3.4mしかなく、後世の呼び方でいえばニの丸にあたると考えられています。


e0158128_15303284.jpg


南北朝時代、一宮城主の一宮(小笠原)長宗は南朝方に属していましたが、長宗の死後、息子の一宮成宗が北朝方の細川頼之との戦いに敗れたため、以後、一宮氏は北朝方に下り、細川氏の配下となります。

しかし、戦国時代に入って細川氏を追い落とした三好氏が阿波国の実験を握ると、姻戚関係を結ぶなどして三好氏に従うことになり、一宮成祐の時代には三好家臣団のなかでも重要な地位となっていました。

しかし、三好長治との間に不和が生じ、天正5年(1577年)の荒田野の戦いでは三好軍と敵対し、長治を討ったものの、孤立無援となって長宗我部元親の軍門に下ります。

天正10年(1582年)には長宗我部元親の配下として中富川の戦いの参戦し、元親の阿波国平定に貢献しますが、戦いが終わると、元親は一宮成祐が三好康長と通じていたとの理由をつけて殺害し、一宮氏を滅ぼします。

一宮城を手に入れた長宗我部氏は、南城に江村親俊、北城には谷忠澄を置いて城を守らせました。


e0158128_15320946.jpg


明神丸からの北西の眺望です。

はるか遠くに見える平野が徳島市街です。

中央右側の山が眉山


e0158128_15335697.jpg


景色を堪能したのち、明神丸を出て本丸に向かいます。


e0158128_15340049.jpg


本丸と明神丸の間は、長さ64m、幅13mの帯曲輪となっています。


e0158128_15352477.jpg


そして帯曲輪を抜けると、ドドーンと本丸の石垣が現れます。

これはスゴイ!

じっくり見たいので、続きは「その3」にて。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-07-13 17:54 | 徳島の史跡・観光 | Comments(2)  

阿波国最大の山城、一宮城攻城記。 その1 <登山口~湧水>

先日の稿で紹介した勝瑞城跡から直線距離で12kmほど南西にある一宮城跡を訪れました。

ここも、勝瑞城跡と同じく平成29年(2017年)4月6日に日本城郭協会から発表された続日本100名城に選定された城です。

徳島県下ではこの2ヶ所が選ばれました。


e0158128_14295786.jpg


一宮城は徳島市の南西部、鮎喰川右岸にある東竜王山系の尾根先端にある標高144.3mの山頂にあります。

登山口は、一宮神社と四国八十八箇所霊場の第十三番にあたる大日寺の近くにあります。

上の写真は徳島県道21号神山鮎喰線沿いにある石碑です。


e0158128_14322711.jpg


その横にある説明看板。

一宮城の歴史は古く、延元3年/暦応元年(1338年)に阿波国守護の小笠原長房の孫の小笠原長宗が、一宮宗成を滅ぼしてこの地に築城したのがはじまりとされ、以後、小笠原氏は「一宮」の姓を使うようになり、天正7年(1579年)に長宗我部元親が侵攻するまで、240余年の長きに渡って一宮氏が代々居城としてきました。


e0158128_14363322.jpg


県道から30mほど歩いたところに、登山口があります。


e0158128_14391896.jpg
e0158128_14392113.jpg
e0158128_14392467.jpg


登山口にも、説明板や石碑が設置されています。

続日本100名城スタンプも、ここで押せます。


e0158128_14403947.jpg


登り始めてしばらくは石段が整備されています。


e0158128_14404368.jpg


何か看板が見えてきました。


e0158128_14414771.jpg


「神宮寺跡」と刻まれた石碑の横に「経筒出土地」と書かれた説明板があります。

それによると、明治40年(1907年)に12世紀頃のものと推定される高さ33cm、口径12cmほどの銅製の経筒が出土したそうです。


e0158128_14424256.jpg


さらに進みます。


e0158128_14444096.jpg


「竪堀」と書かれた立札があります。


e0158128_14444579.jpg


たしかに竪堀のように見えますが、草木に埋もれてイマイチ形状がつかめません。


e0158128_14465703.jpg
e0158128_14470842.jpg


竪堀の前が分かれ道になっていて、本丸とは反対側の北側に尾根伝いに進むと、出丸跡のような場所に出ます。


e0158128_14471222.jpg


説明板には「倉庫跡」と書かれています。

一宮城には2ヶ所の倉庫跡が確認されているそうで、そのうちの1ヶ所がここ。

穀類や武器などを保管していた場所と考えられ、炭化麦が出土したそうです。


e0158128_14475750.jpg


倉庫跡からの北東眺望。

徳島市街方面です。


e0158128_14491759.jpg


倉庫跡を後にして本丸を目指します。

道脇には、石垣跡のような遺構が見られます。

石垣にしては、少し石が小さいようにも思えますが。


e0158128_14501517.jpg


その石垣の上は、曲輪跡のようです。


e0158128_14530383.jpg


曲輪跡です。


e0158128_14530626.jpg


曲輪跡はけっこう広く、2段構造になっています。


e0158128_14530929.jpg


段になっているのがわかるでしょうか?


e0158128_14531355.jpg


下の段から見た曲輪跡です。


e0158128_14542239.jpg


曲輪跡を出て、本丸に向かいます。

本丸まで残り300m


e0158128_14554504.jpg
e0158128_14554908.jpg


手前の誘導板には、「倉庫跡・新正邸跡、天満谷越え」と書かれていましたが、どう見ても進むべき道がなく、険しそうなのでスルーしました。


e0158128_14564393.jpg


突き当りには、「湧水」と書かれた説明板が設置されています。


e0158128_14585507.jpg


一宮城には湧水が所々にあったそうで、飲料水を確保できたことで、長期の籠城が可能な城として長く使用されたのでしょう。


e0158128_14585803.jpg


さて、ここを登れば本格的な城跡の遺構が始まるのですが、長くなっちゃったので、「その2」に続きます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-07-12 00:07 | 徳島の史跡・観光 | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第15話「猿の正体」

 「小牧・長久手の戦い」で予想外の敗北を喫したものの、その後、巧みな政治手腕によって結果的に徳川家康を臣従させた羽柴秀吉は、翌、天正13年(1585年)3月には「紀州攻め」に成功し、そして同年6月には「四国攻め」を開始した。この「四国攻め」とは、同年3月に四国統一を成し遂げていた長宗我部元親との戦いのこと。天下統一を目指す秀吉は、重要な航路と考える瀬戸内海を完全に掌握するためには、四国全土を領地にしていた長宗我部氏は目障りな存在、そこで四国出兵を考えるようになったという。当初は、秀吉・元親とも交渉による和解を模索していたといわれるが、領土配分を巡る対立を解消できず、交渉は決裂した。

 この戦いに、秀吉は参戦していない。一般には病気だったといわれているが、越中の佐々成政が不穏な動きを見せていたためとの説もある。その真意はわからないが、秀吉が大坂城に残ったため、弟の羽柴秀長を総大将とし、甥の羽柴秀次を副将としての出陣だった。羽柴軍10万に対して長宗我部軍4万。圧倒的な兵力差によって秀吉軍は優位に戦いを進め、讃岐、伊予、阿波と、次々に要地を失い孤立化した長宗我部元親は、やむなく8月に降伏した。この戦役で、「小牧・長久手の戦い」「紀州攻め」と、自軍に大きな損害を与えて秀吉から叱責を受けていた秀次も、数々の戦功をあげたという。ドラマのように、秀次を独り立ちさせるための“仮病”だったかどうかはわからないが、秀次を羽柴家の跡取りと考えていた秀吉は、さぞや胸を撫でおろしたことだろう。

 秀次を独り立ちさせるにはどうすればいいかと、江に尋ねた秀吉。もちろん、この話はドラマのオリジナルだが、秀吉は家臣たちの意見をよく聞き、尊重したという。このあたりが、信長とはまったく違うリーダーシップだった。こんな話がある。秀吉は、軍議を開くにあたって、必ず家臣たちに意見させたという。しかし、秀吉の中では既に答えはあった。しかし、自分の考えを言わず、家臣たちに考えさせる。そして一人ずつ意見させ、誰かが自分と同じ考えを述べると、「なるほど、よう申した。考えも及ばなんだ名案じゃ。この件、そちに任す。励め。」と激励する。そう言われた家臣は、気分が悪いはずがない。自分の意見が採用されたという喜びと、自分が任されたという責任感で、飲まず食わず働き、120%の力を発揮したという。

 いかにも「人たらし」といわれた秀吉らしいエピソードだが、これはなかなか出来ることではない。私たちの社会を見渡してみると、明敏な頭脳を持っていればいる者ほど、往々にして人の意見を聞かないものである。自分の中に答えがあるのだから、人の意見を聞く必要がない。どうせ的外れな意見しかないと、端から聞く耳を持たないか、仮に自分と同じ考えを述べる者がいたとしても、「そんなことはお前に言われなくともわかっている!」となってしまう場合がほとんどだろう。いってみれば、織田信長がそうだった。おそらく同時代において、彼ほどの頭脳を持った人物は他にいなかったであろうことを思えば、信長にとって信ずるのは自分だけ、自分以外の人間の意見を聞く必要がなかった。故に、信長にとって家臣は道具でしかなかった。自分の頭脳を生かすための道具であればよかったのである。しかし、心を持った人間は、道具ではなかった。それが、「本能寺の変」を招いたといえる。

 秀吉は信長ほどの天才ではなかった・・・と思う。秀吉がやったことは、信長がやろうとしていたことの延長線上で、より具体化したに過ぎない。しかし、秀吉が信長に勝っていた才能・・・それが、“人使い”だった。彼は持ち前の明るさで人々を魅了し、ときには人を操るため馬鹿にもなった。武家の嫡男として生まれた信長と、卑賤の身から成り上がった秀吉の生い立ちの違いといえばそれまでだが、秀吉には、天性の「人の上に立つ者の資質」があったからこそ、成り上がったのだと私は思う。後年、独裁者となった晩年の秀吉は、その資質をどこかで失ってしまうが、それまでの秀吉は紛れもなく「人使いの天才」だった。

 「猿は大嘘つきです。でも、その大嘘の中に“まこと”があるのです。その“まこと”に、人は心を動かされてしまうのです。」
 「人たらし」と異名をとる羽柴秀吉。しかし、八方美人的な上辺だけの「人たらし」では、人は心からは動かされない。彼は、良きにせよ悪しきにせよ、相手に自分を曝け出せた人物だったのではないかと思う。近年、ダーティーに描かれることが多い秀吉で、たしかに彼の政治力というのは、調略や懐柔など寝技的な手法が目立ち、いってみれば現代の小沢一郎のようなものだが、なぜか後世に人気の高い秀吉。その理由は、彼の持つ“陽気”なイメージに他ならない。作家・司馬遼太郎氏は、小説「新史太閤記」の中で秀吉の人気の高さについてこう述べている。
 「陰気な舞手は、たとえ巧みに舞ってもひとびとはその巧みさよりもその欠点に目がゆく。逆に陽気な舞手ならば、少々下手に舞っても、観衆はその陽気にまどわされ、つい欠点に目がゆかず、長所にのみ目がゆく。」
 人間社会において、“陽気”さは最大の武器かもしれない。小沢さんには・・・どうやらそこが、最も欠けているようである。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2011-04-25 03:00 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(7)