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幕末京都逍遥 その111 「天満屋事件跡(中井庄五郎殉難地)」

前稿で紹介した本光寺から油小路通を400mほど北上したところに、「勤王之士 贈従五位 中井正五郎殉難之地」と刻まれた石碑があります。

ここは、幕末、天満屋という旅籠があった場所で、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、ここで世に言う「天満屋事件」が起きます。


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慶応3年11月15日(1867年12月9日)、四条河原町の近江屋において坂本龍馬中岡慎太郎が暗殺されますが、龍馬の死を知った海援隊士たちが最初に疑ったのが、紀州藩士による「いろは丸事件」報復でした。

「いろは丸事件」とは、龍馬が暗殺される約半年前の慶応3年(1867年)4月23日に起きた龍馬率いる海援隊の汽船・いろは丸と紀州藩の大型汽船・明光丸が瀬戸内海讃岐沖で衝突する事件ですが、このとき龍馬は紀州藩との談判で一歩も引かず、金塊武器弾薬などの積荷分、8万3,526両198文の損害賠償を要求し(江戸時代後期の1両は現在の価値に換算すると3万円から5万円で、約25億円~42億円に相当します)、その後、後藤象二郎の協力も得て龍馬はこの日本最初の海難審判全面勝利します(平成に入ってからの海底のいろは丸の潜水調査では、龍馬の主張した武器類は見つかりませんでした)。

その後、紀州藩からの減額交渉があり、紀州藩が海援隊に賠償金7万両を支払うことで決着を見るのですが、その7万両が土佐商会(土佐藩が経営する長崎の商社で、この当時、海援隊を管理していた)に支払われたのが11月7日。

しかし、その8日後に龍馬は凶刃に倒れます。

海援隊士の陸奥陽之助(宗光)は、実行犯を新選組、そしてその黒幕を紀州藩公用人の三浦休太郎(安)と決めつけました。

三浦は紀州藩の京都における周旋方(諸藩との外交交渉係)で、在京諸藩の幕府擁護論のリーダー的存在であり、「いろは丸事件」の談判では、紀州藩代表として龍馬と直接交渉した人物でした。

陸奥たちが三浦を疑ったのは無理もなかったでしょう。


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龍馬が暗殺された約3週間後の12月7日夜、陸奥ら海援隊・陸援隊士16名が、三浦が泊まっていた天満屋を襲撃します。

しかし、身の危険を察知していた三浦は、会津藩を通して新選組に警護を依頼しており、襲撃当日は、新選組隊士らと酒宴の最中でした。

そのため、狭い天満屋は双方入り乱れた大乱闘となり、三浦の家臣2名、新撰組隊士1名、襲撃者側に1名死者が出ましたが、三浦本人は、顔に軽いけがをしただけでした。

その襲撃側の死者1名というのが、石碑に刻まれた中井正五郎という人物です。


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十津川郷士の中井正五郎は、生前の龍馬が若造の自分を軽んじることなく時論を語ってくれたことに感激し、心酔して龍馬信奉者となった人物でした。

そして陸奥の天満屋襲撃の計画を知るとこれに加わり、一番乗りで討ち入って奮戦し、討死したといわれます。

ただ、幕末史的にはそれほど有名でもなければ重要な人物でもありません。

事件の主役はあくまで三浦と海援隊であり、三浦側にも死者がでています。

なのに、中井は龍馬の仇討ち(といっても冤罪の可能性が大ですが)で果敢に戦って討死したというだけで従五位の官位を送られて石碑に名が刻まれたわけです。

いまなら「天満屋事件跡」と刻むでしょう。

明治政府の偏った歴史観が伺える石碑です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-10 00:43 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その23 「坂本龍馬寓居之跡(酢屋)」

坂本龍馬中岡慎太郎が襲撃された近江屋跡の石碑から北へ300mほど上って東に入ったところに、「坂本龍馬寓居之趾」と刻まれた石碑があります。

ここは酢屋嘉兵衛という享保6年(1721年)から現在まで290年続く材木商で、今なお営業されています。


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慶応3年(1867)6月、龍馬は「船中八策」を発案したとされる長崎からの船旅後、ここ酢屋に身を寄せたと伝わります。

以後、同年10月まで龍馬はここを定宿とし、ここを拠点に大政奉還に向けて策を練り、政治活動に奔走しました。


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6月24日には、故郷の乙女姉に宛てた手紙のなかで、ここ酢屋に投宿している旨を伝えています。

記録では、10月にここから暗殺された近江屋に移ったとされていますが、10月13日の大政奉還が成立したとする後藤象二郎からの報せは、あるいはここ酢屋で受け取ったかもしれません。


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龍馬は、酢屋の家の人たちから「才谷さん」と呼ばれ、2階の表西側の部屋で寝泊まりしていたそうです。

当時、龍馬は2階の出格子から向かいの舟入に向けてピストルの試し撃ちをしていたというエピソードも残っています。

そんな派手なことやってるから、居場所をすぐにつきとめられるんですよね。

現在、その2階には龍馬の部屋が再現されて「ギャラリー龍馬」となっていますが、撮影禁止だったため、写真で紹介することはできません。


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龍馬はここに滞在期間、この家を海援隊京都本部とし、陸奥陽之助(宗光)長岡謙吉などの隊士たちが、ここ酢屋に投宿していました。

龍馬が暗殺された直後、陸奥らは龍馬暗殺の黒幕「いろは丸事件」で恨みを買った紀州藩だと思い込み、その仇討ちとして紀州藩士三浦休太郎を襲撃した「天満屋事件」を起こしますが、その打ち合わせが行われたもの、ここ酢屋の2階だったといいます。

維新後、陸奥はこの家を訪れるたびに、当時を偲んで感慨にむせんだと言われています。


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龍馬の死から66年経った昭和8年(1933年)8代目酢屋嘉兵衛が店改築工事を行った際に、屋根裏の梁の上から「海援隊日記」「異国船渡来日記」などが発見されました。

海援隊日記には、龍馬が暗殺された慶応3年11月15日(1867年12月9日)から慎太郎が死去した17日までの記録が記され、また、龍馬暗殺の犯人に関する情報集めに隊士たちが奔走する様子が細かく書かれており、後世の貴重な史料となっています。

このとき91歳で存命だった元陸援隊副隊長田中光顕伯爵は、この日誌を「涙痕帳」と名付けました。

田中光顕は、龍馬たちが襲撃されたとき、その現場に駆けつけて重傷の慎太郎から経緯を聞いた人です。


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2階の部屋はギャラリーとしてきれいに改装されていましたが、天井を見上げると、だけは当時のままでした。

その梁を見ながら、龍馬もこの部屋に寝転び、あの梁を見ながら新政府案を練ったのかもしれないと思い、テンションが上っちゃいました。

写真で伝えられないのが残念。



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by sakanoueno-kumo | 2018-03-30 00:55 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その3

今回は、紀州藩士報復説について考えます。

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坂本龍馬が暗殺される約半年前の慶応3年(1867年)4月23日、龍馬率いる海援隊の汽船いろは丸と、紀州藩大型汽船・明光丸が瀬戸内海讃岐沖で衝突する事件が発生しますが(いろは丸事件)、このとき龍馬は紀州藩との談判で一歩も引かず、金塊武器弾薬などの積荷分、8万3,526両198文損害賠償を要求し(江戸時代後期の1両は現在の価値に換算すると3万円から5万円で、約25億円~42億円に相当します)、その後、後藤の協力も得て龍馬はこの日本最初の海難審判に全面勝利します(平成に入ってからの海底のいろは丸の潜水調査では、龍馬の主張した武器類は見つからなかったのですが、その話はまた別の機会に)。

その後、紀州藩からの減額交渉があり、紀州藩が海援隊に賠償金7万両を支払うことで決着を見るのですが、その7万両が土佐商会(土佐藩が経営する長崎の商社で、この当時、海援隊を管理していた)に支払われたのが11月7日。

しかし、その8日後に龍馬は凶刃に倒れます。


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龍馬の死を知った海援隊士たちが最初に疑ったのが、紀州藩士による「いろは丸事件」の報復でした。

海援隊士・陸奥陽之助(宗光)は、実行犯を新選組、そしてその黒幕を紀州藩公用人の三浦休太郎(安)と決めつけます。

三浦は紀州藩の京都における周旋方(諸藩との外交交渉係)で、在京諸藩の幕府擁護論のリーダー的存在であり、「いろは丸事件」の談判では、紀州藩代表として龍馬と直接交渉した人物でした。

陸奥たちが三浦を疑ったのは無理もなかったでしょう。


龍馬が暗殺された約3週間後の12月7日夜、陸奥陽之助ら海援隊・陸援隊士16名が、三浦が泊まっていた京都の油小路花屋町下ルにある「天満屋」を襲撃します。

しかし、身の危険を察知していた三浦は、会津藩を通して新選組に警護を依頼しており、襲撃当日は、新選組隊士らと酒宴の最中でした。

そのため、狭い天満屋は双方入り乱れた大乱闘となり、三浦の家臣2名、新撰組隊士1名、襲撃者側に1名の死者が出ましたが、三浦本人は、顔に軽いけがをしただけでした。

世にいう「天満屋事件」です。


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この紀州藩士報復説は、もっともわかりやすい動機といえ、陸奥らが真っ先に疑ったのは当然だったかもしれません。

しかし、この説に関しては、それを裏付ける証拠はまったくなく、現在ではこの説を推す歴史家はあまりいません。

よくよく考えてみると、三浦が龍馬を殺して恨みを晴らしたという推論は、ちょっと短絡的すぎる気がしますね。

「いろは丸事件」の談判は、事故発生当初は海援隊と紀州藩汽船・明光丸の間で行われていましたが、途中から、龍馬は土佐藩家老の後藤象二郎を引きずり出し、土佐藩vs紀州藩政治的な談判に持ち込みました。

そしてその談判に紀州藩は全面敗訴したわけで、その賠償金も支払ったあとでした。

もし、ここで三浦が龍馬を殺したとなれば、藩間の政治問題に発展します。

そんなリスクを負ってまで恨みを晴らすなど、あまりにも稚拙な行動といっていいでしょう。

藩の外交を任されるほどの人物だった三浦が、そんな軽挙に至ったとは考えづらいですね。

もし、龍馬を殺すなら、談判の最中だったんじゃないでしょうか?

談判が終わり、賠償金も支払ったあとに龍馬を殺しても、紀州藩は何の得も得られません。

動機としては単純明快でわかりやすい紀州藩士報復説ですが、信憑性は薄いですね。


維新後、三浦は諱であるを名乗り、大蔵省官吏、元老院議官、貴族院議員を経て、第13代東京府知事を務めたあと、明治43年(1910年)、81歳まで長寿します。

それだけ明治政府に貢献しながら、後世に、坂本龍馬を殺した(かもしれない)人物として名が知られているのは、少々気の毒な気がしますね。

次回に続きます。








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by sakanoueno-kumo | 2017-11-18 09:28 | 歴史考察 | Comments(2)  

JIN -仁-(完結編) 第9話

何の根拠もないけれど、俺は信じようとしていた。
自分は龍馬さんを救うためにここに来たのだと。
龍馬さんが・・・坂本龍馬が死なない歴史をつくるために、ここにやって来たのだと。
ただ、ひたすらに信じようとしていた。


 坂本龍馬中岡慎太郎暗殺された慶応3年(1867年)11月15日の京都は、朝から雨が降っていたはずだが、ドラマでは晴れていたようだった。仁先生が歴史に関わったことで、天気まで変わってしまったのか?・・・なんて無粋なツッコミはやめて(笑)、歴史の修正力に立ち向うべく龍馬暗殺を阻止しに京に訪れた南方仁先生たち。暗殺予定日になってようやく龍馬と会うことができた仁は、即刻、京を離れることを忠告、居場所を四条・近江屋から伏見・寺田屋に移した。寺田屋に移っても史実どおり軍鶏鍋を食す龍馬。これも、歴史の修正力なのだろうか(笑)。日付が変わって16日となり、ホッと胸を撫で下ろす仁だったが、本当に歴史の修正力というものがはたらくならば、1話の佐久間象山などの例をみても、日付や場所を変えたからといって免れられるものではない。案の定、史実と違ったストーリーで、龍馬も慎太郎も刃に倒れた。

 龍馬暗殺当日の詳細については、昨年の大河ドラマ『龍馬伝』の稿(参照:龍馬伝 第48話(最終回)「龍の魂」)で紹介しているので、そちらを一読ください。また、龍馬暗殺の実行犯および黒幕の諸説についても、以前の稿(参照:坂本龍馬の命日に再考する、龍馬と中岡慎太郎の暗殺犯の諸説。)をよければ・・・。

 それにしても、仁先生は坂本龍馬と一緒に中岡慎太郎も暗殺されるという史実を知らなさそうだ(可哀想な慎太郎・・・笑)。ていうか、中岡慎太郎という人物自体、知らないのでは?・・・と思ったり。まあ、仁先生が歴史オンチだという設定が、この物語の面白さだとは思うが・・・。

 大政奉還後に龍馬が作った新政府人事案に、大政奉還の立役者たる龍馬の名前が記されていないことを不審に思った西郷隆盛が、そのことを龍馬に尋ねると、龍馬は役人をやらずに「世界の海援隊」をやる旨、返答したというエピソード。この話は、司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』をはじめ、多くの物語で描かれてきた逸話で、龍馬の魅力を語るに欠かせないエピソードといっていいだろう。ただ、この逸話については、歴史家の間でも実話か否かの様々な論争があるようだ。というのも、この「新官制擬定書」といわれる新政府の人事案の史料は全部で5種類存在し、その中に龍馬の名が記載されているものと記載されていないものがあり、否定派の主張では、龍馬の名が記載されていないものは後世に作られたもので、龍馬には新政府に入る意志があったという。専門家ではない私にはその真偽はわからないが、龍馬ファンの私としては、この「世界の海援隊」説を信じたい。私の思う龍馬ならば、きっと、そう言ったんじゃないかと・・・。

 この西郷との会見に同席していたといわれる、海援隊出身で、のちの明治政府で「カミソリ大臣」として辣腕をふるった外務大臣・陸奥宗光は、このときの龍馬について後年こう語っている。

 「龍馬あらば、今の薩長人などは青菜に塩。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言へり。此の時、龍馬は西郷より一層大人物のやうに思はれき。」

 このときの龍馬は、西郷よりも一層大人物に思えた・・・と。この談話も陸奥の虚言だといわれれば、反論する材料を私は持ちあわせていないが、明治政府で薩長閥に後塵を拝していた土佐派が、龍馬の虚像を作って政治利用しようとした例とは違い(参照:坂本龍馬の人物像についての考察)、伊藤博文に重用されて外務大臣にまで栄達した陸奥が、龍馬を過大評価して政治利用する理由はどこにもないように思う。さらに陸奥は、このようにも語っている。

 「坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その識見、議論の高き、その他人を遊説、感得するの能に富める、同時の人、能く彼の右に出るものあらざりき。後藤伯がその得意の地にありながらその旧敵坂本を求めたるは、もとより彼が常人に卓越したる所以にして坂本と相見たる彼は、さらに坂本の勧誘力に動かされて、まず国内を統一和合して、而して薩長の間に均勢を制せざるべからざるの必要を覚りぬ。
・・・中略・・・
薩長二藩の間を連合せしめ土佐を以て之に加わり、三角同盟を作らんとしたるは坂本の策略にして彼は維新史中の魯粛よりも更に多くの事を為さんとしたるもの也。彼の魯粛は情実、行がかり個人的思想を打破して呉蜀の二帝を同盟せしめたるに止まる、坂本に至りては、一方に於て薩長土の間に蟠りたる恩怨を融解せしめて、幕府に対抗する一大勢力を起こさんとすると同時に直ちに幕府の内閣につき、平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、幕府をして諸候を率いて朝廷に朝し、事実において太政大臣たらしめ、名において緒候を平等の臣族たらしめ、もって無血の革命を遂げんと企てぬ。彼、もとより土佐藩の一浪士のみ」


 めったに人を褒めなかったといわれる陸奥宗光にして、最大級の賛辞である。たしかに、現在私たちが抱いている魅力的な龍馬像というのは、後世に色付けされた部分も多々あるとは思うが、全てを虚像だといってしまうのは、少々、穿ち過ぎではないだろうか。メッキであれば、研究が進むにつれ剥がれるものである。

 さて、ドラマはいよいよ最終章へ。来週、再来週と2話を残すのみとなった。刃に倒れた龍馬を、仁は救うことができるのだろうか・・・。とすれば、龍馬が死なない歴史というのは、どう展開されていくのか・・・。仁がタイムスリップした理由は・・・。あの胎児の真相は・・・。原作を知っている人は、どうか教えないでください(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-14 00:39 | その他ドラマ | Comments(0)  

坂本龍馬、勝海舟ゆかりの地 in 神戸 その2

 前稿の坂本龍馬、勝海舟ゆかりの地 in 神戸 その1で紹介した「神戸海軍操練所跡」から北西へ約10kmの場所に、勝海舟直筆の「海軍営之碑」がある。神戸に訪れたことのある方はご存知かと思うが、あの夜空に浮かぶ神戸市章の電飾で有名な「市章山」の麓にある「諏訪山公園」内の高台に、神戸市街を見下ろすようにその碑は建っている。

 神戸市章の電飾で有名な市章山。
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 この「海軍営之碑」は、勝海舟が14代将軍・徳川家茂の神戸来訪を記念して元治元年(1864年)に作り、神戸海軍操練所敷地内に設置しようとしたものの、志半ばで操練所は閉鎖となり、完成していた高さ2mもあるこの碑は、海舟の友人であった神戸の豪商・生島四郎太夫に預けられ、海舟の意向から一時は生島の邸宅内に埋められていたらしい。その後半世紀が経ち、大正4年(1915年)に土中から掘り起こされ、この地に移設されたそうだ。

 碑の建つ場所へは車では行けず、結構ハードな山道を登らなければならない。山道を歩くこと15分。金星台という高台の一角に、低木や草に隠れるように建っている。

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 身長125cmの我が娘をスケールに大きさを比較。

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 説明書きの看板などがないため、詳しくはわからないが、おそらく右の大きい方の石碑が海舟が撰文したといわれる石碑で、左の石碑はこの「諏訪山公園」に移設する際に作られたものだと思われる。右の碑文の部分が黒い御影石になっているのは、おそらく風雨にさらされ読みにくくなったため、近年補修されたものと思われるが、ここだけ妙に新しく違和感を覚えた。歴史的価値も下がったように思えて、なんちゅう余計なことを・・・と思ったのは私だけじゃないのではないだろうか。

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 何せ漢字ばっかなので読解出来ないが、確かに「坂本龍馬」という文字は見つけた。
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 石碑のある高台から望む、神戸市街の景色。
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 こんな山の上までは行ってられない・・・という人には、前稿の「神戸海軍操練所跡」の近くに「みなと公園」というところがあり、そこにこの石碑のレプリカがある。

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 こちらの碑は、昭和48年(1973年)に建てられたもので、レプリカの碑と並んで、操練所の塾生出身で後に第4代兵庫県知事になった陸奥宗光(後、外務大臣)の顕彰碑がある。

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 レプリカ碑の裏には「海軍操練所の生徒で神戸に忘れられない人」として、4人の名前が刻まれている。
 塾長=勝海舟(海軍奉行)
 塾頭=坂本龍馬 (海援隊長)
     伊藤俊輔(博文=初代兵庫県知事・初代内閣総理大臣)
     陸奥陽之助(宗光=兵庫県第四代知事・第二次伊藤内閣外務大臣)


 はて?・・・伊藤博文と神戸海軍操練所は何の関係もないと思うが・・・?
 伊東祐亨(後の海軍大将)なら操練所の出身だけど、伊藤と伊東の間違い・・・なんてことはないよなぁ。レプリカとはいえ、まさか石碑で・・・。

 次回は海舟が関わったとされる砲台跡を紹介します。

坂本龍馬、勝海舟ゆかりの地 in 神戸 その1
坂本龍馬、勝海舟ゆかりの地 in 神戸 その2
坂本龍馬、勝海舟ゆかりの地 in 神戸 その3
坂本龍馬、勝海舟ゆかりの地 in 神戸 その4


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by sakanoueno-kumo | 2010-06-17 00:43 | 神戸の史跡・観光 | Comments(0)