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花燃ゆ 第16話「最後の食卓」 ~松蔭の江戸送り~

 吉田松陰の一度目の野山獄収監は、黒船密航未遂という国禁を犯した罪に対する服役でしたが、二度目の野山獄収監は、まだ何も罪を犯しておらず、いわば、これから犯すかもしれない罪を未然に防ぐためのものでした。これまでも、松蔭という過激な天才に対して、寛大な処置をとってきた長州藩でしたが、この時も、危険な言動を繰り返す松蔭に、罪を犯させないための処置であったといえます。それほど、長州藩は松蔭を守ろうとしていたんですね。このときの藩当局の立場を、司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では、次のように表しています。

 「藩庁は、松蔭の狂気を議論でしずめる自信がなかった。やむなく松蔭の身柄をふたたび野山獄に入れ、社会から隔離し、その自由をうばうことによってかれの暴発をふせごうとした。藩庁の要人である周布政之助らの好意であった。それ以外に藩庁としては、長州藩のほこるべきこの予言者の生命をまもるすべがない、と、藩庁にいる松蔭のファンたちは思ったのである。」

 しかし、その甲斐もなく、松蔭が収監されてから4ヵ月ほどが過ぎた安政6年(1859年)4月、松蔭を江戸に送るよう長州藩に幕命がくだります。こうなると、さすがの藩当局も幕府に逆らうわけにはいかず、松蔭の護送を決定します。そうすると、今度は、藩の立場として違う心配が出てくるんですね。またまた『世に棲む日日』から引用しますと、

 「この時期、長州藩は、松蔭という存在のためにおびえきっていた。幕府が、松蔭を訊問する、この訊問から糸がほぐれ出て、藩そのものに大事がおよびもしないかというお家大事の心配を、たとえば周布政之助という、いわばはねっかえりの進歩派官僚さえもった。」

 吉田松陰という人物に振り回されっぱなしですね。しかし、ただの危険人物であれば、これまでに藩として極刑に処する機会はあったわけで、でも、やらなかったことを思えば、やはり藩としては、松蔭という天才児をなんとか守りたいという思いがあったのでしょう。親の心子知らずですね。

花燃ゆ 第16話「最後の食卓」 ~松蔭の江戸送り~_e0158128_2044579.jpg 江戸送りが決まった松蔭との別れを惜しん描かれた肖像画が、後世の私たちに松蔭の姿を印象づけた有名な絵です。これを描いた松浦亀太郎は、武士でも足軽でもない魚屋の子で、ドラマでは温厚で地味な存在に描かれていますが、実際にはなかなかの切れ者だったようで、かつての松蔭と同じく、渡米を企てて失敗したという武勇伝の持ち主です。また、亀太郎は自宅蟄居中の松蔭に、京の情勢などを伝える情報源でもありました。そんな亀太郎を松蔭は愛し、「松洞」という号を与え、「才あり、気あり、一奇男子なり」と、高く評価しています。

 松蔭の生涯唯一のラブロマンスの相手(とされる)、高須久子との別れのシーンがありましたね。通説によると、江戸に護送される直前、久子は餞別がわりに手作りの汗拭きを松蔭に贈ったといいます。これに対して松蔭は、
 「箱根山 越すとき汗の 出でやせん 気の思ひを ふき清めてん」
という和歌と、
 「一声を いかで忘れん 郭公(ほととぎす)」
という俳句を、久子に贈りました。この種の歌を意訳するのは無粋というものですが、「あなたのその声を、どうして忘れられようか・・・」といったところでしょうか? この、気持ちをそのまま詠んだといえる句を聞けば、やはり、松蔭と久子のあいだには、特別な感情があったと思ってしまいますね。

 そして、安政6年(1859年)5月25日、松蔭の護送行列は萩を出立します。家族や門下生たちは、松蔭に厳しい処分が下るであろうことを予想して大いに悲しみ、どうすれば助けることができるか思いをめぐらせますが、そんな周囲の心配をよそに、当の松蔭本人は生に対して特に執着しておらず、むしろ、江戸での取り調べにおいて自身の考えを主張し、幕政に一石を投じるチャンスと考えていた様子すらうかがえます。ここでまた、司馬さんの言葉を引用します。

 「その楽天性は、もはや滑稽どころか、悲痛をもとおりこしてしまっている。」

 いうまでもなく、これを最後に松蔭は、二度と故郷の地を踏むことはありませんでした。


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-20 20:49 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第7話「放たれる寅」 ~松蔭の獄中生活~

 野山獄に在獄中の吉田松陰が、仲間の囚人たちに「孟子」を講義したという話は有名ですよね。この講義は、松蔭が収監されてから約半年が過ぎた安政2年(1855年)4月13日からはじめられ、松蔭が出獄する同年12月15日まで、合計34回行われたといいます。はじめの頃は松蔭が一方的に講義していましたが、いつの頃からか囚人たちが輪読するようになり、やがて講義はディスカッション形式で行われるようになったとか。のちの松下村塾のスタイルは、ここから始まっていたようです。

 講義は昼夜に渡って行われました。士分の収監される上牢といっても、牢獄である以上、行燈などの照明設備は整っておらず、夜間は講義などできる条件ではなかったのですが、松蔭の人となりに感服した獄屋番の福川犀之助が、藩当局に掛けあって許可を得たといいます。のちに犀之助は、弟の高橋藤之進とともに松蔭に弟子入りします。

 この「孟子」の講義は、松蔭の出獄後も蟄居していた杉家で続けられ、翌年の安政3年(1856年)6月13日に全編を終了。その講義録を「講孟箚記(こうもうさつき)」としてまとめ、のちに題名を「講孟余話」と改め、松蔭の主著となります。ここに説かれている孟子解釈には、松陰の国家観人生観が明確に示されており、のちの松下村塾での教育原点となります。

 ドラマに出てきた「福堂策」は、残酷中の松蔭が記した牢獄改革案で、その考えは、懲罰刑主義ではなく教育刑主義でした。囚人に教育を施し、更生させて世に送り出す実りの場としたい。獄を幸福の殿堂にしようという提案です。いかにも性善説を唱える孟子をベースとした松蔭らしい考えですが、自身が囚人の身でありながら、獄の改革案を講じるなど、なんとも楽天的な頭の構造ですよね。まずは自分の心配をしろ!と(笑)。そんな松蔭について、作家・司馬遼太郎氏は小説『世に棲む日日』のなかで、次のように述べています。

 松陰は、どうも快活すぎる。
 これは天性のもので、かれの思想でも主義でもなく、それがうまれつきだけにこの若者を自暴自棄にすることはいかなる悪魔でも不可能かもしれない。かれはどういう環境におちこんでしまっても、早速そこを自分のもっとも棲みやすい環境にしてしまう点、こういう凄みかたを才能であるとすれば、この人物は稀有の天才であったといえる。


 どうしようもなくポジティブシンキングだったようですね。松蔭はB型?(笑)

 松蔭の在獄期間は1年2ヵ月に及びましたが、その間、「孟子」の講義だけをしていたわけではなく、自身の学問も怠らず、おびただしい読書量だったことも有名ですね。その量、実に554冊だったとか。1日1冊では追いつきません。また、獄中の著書においても、先述した「福堂策」をはじめ、「二十一回猛士説」「士規七則」「回顧録」「寃魂慰草」「野山獄文稿」「野山獄雑著」「賞月雅草」「獄中俳諧」「清国威豊乱記」「書物目録」「抄制度通」など、たいへんな量にのぼります。いつ眠ってたんでしょうね。

 安政2年(1855年)12月15日、松蔭に出獄命令が下され、在宅での蟄居となります。獄を去る日、野山獄の囚人仲間たちは、松蔭のために送別句会を催しました。そのとき高須久子の詠んだ句が、ふたりが心を通わせたのではないかという憶測をよんでいます。

 「鴫(しぎ)立つて あと淋しさの 夜明けかな」

 「あなたがここを出て行くと、わたしは淋しい夜明けを迎えることになります。」てな感じでしょうか? まあ、この句をもってして恋愛感情があったかどうかをよみとるのは難しいですが、後年、松蔭が江戸に護送される際に詠んだ和歌とあわせて、ふたりのあいだにプラトニックラブがあったんじゃないかと考えられています。松蔭の生涯で唯一の浮いた話なんですが、どういうわけか、ドラマの句会では久子の句は描きませんでしたよね。なんでやらなかったのでしょう? このシーンのために久子をフィーチャーしていたと思っていたのですが・・・。

 出獄した松蔭は、仲間たちも出獄させてもらえるよう盛んに運動し、やがて8割がたの囚人を釈放させます。野山獄での出会いは、松蔭にとっても、他の囚人たちにとっても、大きな財産になったようです。



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by sakanoueno-kumo | 2015-02-16 21:37 | 花燃ゆ | Trackback(2) | Comments(0)  

花燃ゆ 第6話「女囚の秘密」 ~野山獄の囚人たち~

 吉田松陰が入獄した野山獄というのは、士分の者のみが収容される「上牢」で、3畳ほどの独房が12室あったそうです。6室ずつの並びが2列向かいあい、その間には細い庭があって、囚人どうしの交流も自由でした。しかし、ほとんどの者が刑期の決まっていない無期懲役刑で、孤独感と虚無感に堪えるのが苦しみでした。そんな獄中が、松蔭が入獄したのをきかっけに、囚人どうしの交流が深まり、獄とは思えぬほど活気づいたといいます。

 囚人のなかで最長老は大深虎之丞という老人で、獄中生活50年という終身刑の人物。続いて古いのは、弘中勝之進の17年、岡田一廸の14年で、在獄10年以下では、吉田善作、河野数馬、志道又三郎、井上喜左衛門、栗屋与七などがいました。なかでも、在獄8年の吉田善作は寺子屋の教師を務めていたこともあり、俳句に長けた人物だったそうで、松蔭は獄中、善作から俳句の手ほどきを受けたそうです。

 こののち最も松蔭と深く関わることになる富永有隣は、ドラマでは獄の長老のような存在ですが、実はまだ在獄2年ほどしか経っておらず、歳も松蔭より9歳上なだけで、このとき30歳代半ばでした。どうみても、じいさんにしか見えませんでしたね。有隣は、かつては藩校明倫館の秀才と言われた男で、13歳で藩世子(藩主嫡男)に講じるほどの優秀さだったといいます。このあたりのエピソードは、松蔭と似たような神童ぶりだったようですが、その後は松蔭とまったく違っていて、根っからのひねくれものだった有隣は、人望がまったくありませんでした。自分以外は皆、馬鹿だと見下し、常に人を侮蔑する接し方しか出来なかった彼は、同僚からも親族からも憎まれ、親類一同が藩に頼み込んで牢につながれた人物でした。人間社会から隔離せねばならないほどのひねくれ者だったということですね。

 ところが、そんな性格のねじ曲がった有隣のことを、松蔭は敬愛しました。とくに、有隣の書の上手さを尊敬し、獄中、有隣から書を学びます。やがて松蔭以外の囚人も有隣から書を学ぶようになり、皆が自然に「富永先生」とよぶようになったとか。娑婆では嫌われ者だった彼が、松蔭との出会いによって、「先生」と呼ばれる存在になったわけです。松蔭は、人の長所だけを見て伸ばすことができる、天性の教育者だったのかもしれませんね。のちに有隣は歳下の松蔭のことを「尊師」と呼ぶようになり、出獄後は、松蔭の経営する松下村塾講師として招かれ、松蔭の死後は、ふたたび罪人になったりしながら、明治33年(1900年)、80歳まで長寿します。まさに、憎まれっ子世にはばかる、ですね。

 で、もうひとりの囚人が、本話の主役である女囚・高須久子です。彼女は、高須市之助という長州藩士の妻でしたが、夫がふたりの娘を残して病没したため、30歳前で未亡人になりました。その後、長女に婿養子を迎えて家を継がせると、詩歌三味線どにのめり込むようになり、その交友関係のなかで、不義密通を疑われます。不義密通とは、いまで言う「不倫」ですね。未亡人なんだから不倫じゃない・・・というのは現代の考え方で、当時は、家と家との結びつきが結婚でしたから、未亡人のことを後家と言い(いまでも言うかな?)、夫に先立たれた後、家を守る責任がありました。久子の行いを問題視した親族は、協議のすえ、藩に頼んで野山獄に入牢させたといいます。有隣の場合と同じですね。この頃の士分社会では、このような委託刑というようなことがあったそうで、その場合、食費などの経費は、親族持ちだったそうです。

 この久子が、松蔭が生涯で唯一、心を通わせたのではないか・・・とされている女性です。松蔭が入獄したこの頃、久子は35、6歳で、松蔭からすればひと回りほど年上の女性だったのですが、よほどの美人だったのでしょうか。そんなふたりのエピソードについては、本話では描かれなかったので、次話の稿にゆずることにします。


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by sakanoueno-kumo | 2015-02-09 22:10 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(2)